https://ameblo.jp/benihoppe-2012/entry-11786140062.html 【糸魚川石物語94 奥の細道糸魚川編】 より
松尾芭蕉が奥の細道を行脚したのは17世紀後半の話です。途中北陸方面の糸魚川にも立ち寄られていて俳句が残っています。
1,689年7月11日芭蕉はお供の曾良と直江津方面から能生に入り玉やに泊まります。
能生白山神社では「汐路の鐘」についての句があります。
「曙や霧にうつまく鐘の声」
この汐路の鐘は潮が満ちてくると、人の手を借りずに一里四方に鳴り響いていたとの伝説があります。
この鐘の歴史をたどると金のかかった鐘なんだと思います。
なんでも、源平時代源義経一行が奥州平泉に落ち延びる際に当地に立ち寄り、お供の常陸坊海尊の追銘があったと言われています。能生太平寺の梵鐘で義経一行が祈願しています。この時すでに1,187年頃の話です。
明応6年1,497年に火災で焼損します。1,449年に能登穴水で鋳直します。
1,680年には大雪で破損し元文元年1740年柏崎で鋳直します。
文政5年1,882年汐路の鐘の碑が建立されました。
明治元年の廃仏毀釈の際には坂から転がし落とされ破損してしまいました。
明治16年1,883年に鐘売却、大正15年1,926年山岸愛氏より寄進され白山社に戻る。
現在は白山神社の宝物館に飾られています。
奥に破損した汐路の鐘がみえます。
これから見ると芭蕉の来た時代には壊れた鐘だったのかなと思います。ですから鐘の音は聞いていないのではないかと想像します。
芭蕉は糸魚川を発ち、親不知も無事通過し市振宿では桔梗屋という宿に泊まります。ここでは「ひとつ家に遊女も寝たり萩と月」という有名な句が残っています。
桔梗屋の跡
この句は近くの長円寺境内に相馬御風の筆で石碑があります。
近くには海道の松があり昔を偲ばせます
http://utau.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/14-0407.html 【(474) 奥の細道 第14回その二】 より
難所 倶利伽羅峠を越えて 2012年 11月6日~8日
行程 2日 11/7 赤倉温泉ー玉屋跡・・・・白山神社ーー親不知ーー市振・…街道の松・…弘法の井戸・…長円寺・…桔梗屋・…ー関所跡ー境一里塚ー滑川・檪原神社・…徳城寺・・・・水橋神社ーー高岡・ホテルニューオータニ高岡 泊
十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下刻、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不届。直ニ能生へ通、暮テ着。玉屋五良兵衛方ニ宿。月晴。
新暦8月25日漸く晴れたので高田を発ち五智国分寺と居多(こた)神社を参拝し名立へ向かったが、能生(のう)まで足を延ばして玉屋に泊まった。芭蕉はここで「曙や 霧にうつまく かねの声」の句を詠んでいるが、それは「汐路の鐘」の由来を聞いてのことであろう。玉屋は今でも旅館を営んでいるので、わざわざ見に行った。写真は白山神社で中々趣がある。本殿は重要文化財に指定されている。越後に流された親鸞が上陸したと伝えられる能生海岸の近くにあった。ここ居多ヶ浜には浄土真宗発祥の地と書かれた碑もあった。信徒としては浅草のお寺さんに確かめねばならない。親鸞は一時期五智国分寺に寄寓していたらしい。そして7年間越後で生活している。境内には親鸞堂、旅姿の親鸞の石像があった。越後には一の宮が三社あって、居多神社も越後一の宮だが弥彦神社に比べると随分と小さい。
十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午の刻、糸魚川ニ着。荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。申の中刻、市振ニ着、宿。
新暦8月26日朝 能生を立ち親不知の難所に向かったが、糸魚川の早川の河原で芭蕉が足を滑らして着物を濡らしてしまう。やむなく暫く河原で干し、乾くのを待ったらしい。炎天下での日向ぼっこでは敵わない。本文にある「北國一の難所を越えて」、夕方5時頃市振に着いた。私達はバスで整備された国道を走るのだから楽なものだが、断崖の中腹に設けられた展望台から眺めると、先人の苦労が偲ばれる。そこは飛騨山脈の北側が日本海に没するところで、断崖下の狭い砂浜を、打ち寄せる波の合い間をぬって通り抜けていたという。
「今から800年前の源平盛衰の昔、越後の五百刈村に移り住んだ、池大納言平頼盛の後を追って、この地を通りかかった夫人が、ふところの愛児を波にさらわれ、悲しみのあまりこの歌を詠みました。『親しらず 子はこの浦の波まくら 越後の磯の あわときえゆく』この歌が地名の由来と言われる親不知・子不知は古来から・・・・」と案内板にあった。平頼盛は清盛の異母弟である。旧道まで降りる道があって皆さん方は見に行った。300~400メートルの断崖を降りたら登らねばならい。私は親不知記念広場などゆっくり見物しながらお帰りを待った。
市振にはすぐについた。部落の入口に高い松が植えられてあり「街道の松」として説明板が立っていた。往時は北國街道を旅する人を迎え、また見送ったのであろうが、今では新たな国道もでき、また鉄道も開通して、記念樹として残されている と糸魚川市教育委員会の説明だった。何となく往年の宿場の感じが残っているところが面白い。芭蕉達はこの宿場の桔梗屋に泊まった。そして二人の遊女との出会いが本文に登場する。「北國一の難所を越えて、疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて西の方に、若き女の声二人ばかりと聞ゆ。」
「奥の細道」全文の中で最も艶っぽい部分である。本文は「哀れさ しばらくやまざりけらし。一家(ひとつや)に 遊女もねたり萩と月 曽良にかたれば、書きとどめ侍る。」 と市振の稿を結んでいるが曽良日記には一言も書かれていないのが面白い。桔梗屋跡に句碑があり、糸魚川市の解説板にこう書かれてあった。
芭蕉句碑 「奥の細道」の芭蕉は、元禄二年七月十二日この市振の宿に泊り、妙趣に香る句を詠んだ。この句碑は、郷土の文豪相馬御風の書により、大正十四年建立されたものである。一つ家に 遊女も寝たり 萩と月.。 早稲田大学校歌の作詞者がこの地で生まれたと初めて知った。
十三日 市振立。虹立。新暦8月27日、市振を発った芭蕉は境川にさしかかる。越後と越中の国境の川で、今でも新潟県と富山県を分けている。いといよ「加賀入り」である。10日に及ぶ越後の旅であった。前田家の境関所があり、陸上を警備する岡番所と海上のための浜番所が置かれていた。日本一厳しい関所といわれ、幕末でも60名もの人員が配備されていたという。芭蕉は無事通過し、「黒部四十八ヶ瀬」といわれる沢山の川を渡って滑川まで40キロを歩き、午後4時頃に着いている。翌日も約10里の道を高岡まで歩いた。この日も快晴で暑さの厳しい日であった。流石の芭蕉も疲れたようだ。曽良の日記に「高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色勝れず。暑極テ甚。不快同然。」とある。私達は徳城寺に寄り「早稲の香や 分け入る右は ありそ海」の句碑を見て、あたりが暗くなってからホテル・ニューオオタニ高岡に着いた。
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