https://72469241.at.webry.info/201311/article_3.html 【能生白山神社】 より
弁天岩の駐車場から国道8号を潜って登った所にある神社が「能生白山神社」
起源ははっきりしませんが、当初は奴奈川神社と呼ばれ、能生川と支流の島後川を遡った大澤岳の山頂にあったと伝わっています。
祭神は奴奈川姫命(ぬなががわひめのみこと)、伊佐奈岐命(いざなぎのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)となっています。ちなみに大己貴は大国主の別名です。元は奴奈川姫と大国主を祀っていたようです。
マリンドームの記事で書きましたが、元々はこの辺りは奴奈川姫の勢力圏であり、その中でも島後川の流域には奴奈川姫の生誕から生活を過ごしたと云われた産所があり本拠地とされています。
大澤岳から連なる山稜に神道山という山があるのですが、日本海から能生川を遡った大国主は、この山を越えて奴奈川姫に求婚に行ったとされています。
話は変わりますが、現在、神道山は「神道山公園」として整備されていますが、ここには北陸最長の石段があります。その段数1088段。なかなかというより、とんでもなくハードな石段です。能生にはあまり馴染のない僕ですが10年程前に登りましたが、もう息切れしてしまいました。。
神道山はカタクリの自生地として有名で、4月中旬から5月にかけて石段の側にはカタクリの可憐な花が多く観られます。また山頂からの眺望も日本海が観られる美しい風景です。
僕が登った当時は山頂に平和の鐘があるだけでしたが、今は休憩所兼飲食処もあるようです。足腰に自信があって、花が好きな人にはお奨めスポットです。
話は戻って能生白山神社です。白山神社と云えば、白山開山の泰澄上人が登場します。
泰澄がここに訪れた際に仏像を奉納・白山権現と称したしたあたりから白山神社の始まりと云われています。
元々、白山神社と云えば菊理媛(白山比咩神)ですが、越後ではこの菊理媛を奴奈川姫として祭神にしている所をよく見かけます。能生白山神社も明治末期までは菊理媛を祭神としていましたが、現在は奴奈川姫を祭神としています。ただ、古くからの文献では祭神は菊理媛ですが、奴奈川神社として呼ばれていたようです。
平安後期の白山比咩神社の記述に、ノウ・エチゴの白山末社の記述があり、この頃には白山神社となっていたようです。このことから菊理媛=奴奈川姫という説も存在します。
能登石動山の天平寺にも関連が深く、国重文として残る本殿は室町期に能登守護の畠山氏によって寄進されたもので、同時期に鋳直した梵鐘にも能登の鋳物師と大工の名が刻まれていたそうです。伊須流岐比古神社 (いするぎひこ)の記事で書きましたが、本来、石動権現は男神で、白山権現は女神で、イザナギ・イザナミに例えられますから、大国主と奴奈川姫の関係としてみることもできるかも。夫婦の関係とみて戴けると良いと思います。
能生白山神社に伝わる伝統舞楽が行われる春季祭礼は、古来は同日朝に石動山で行われ、昼から能生で行われていたと云われます。現在は石動天平寺で記述した通り、能登石動山は廃寺となっており、この貴重な祭礼は国の無形文化財として能生でのみ行われています。獅子舞や舞楽は興味深いものです。映像でしか見たことがないので、一度は直に観たいものです。
能生白山神社の参道を登ると、神社会館前に芭蕉の句が入った石碑があります。
曙や 霧にうつまく かねの聲
元々、高田・五智を出た芭蕉の予定では、名立に泊まる予定でしたが、上越からの案内状が手違いで届いておらず宿泊が出来ず、更に足を延ばしてこの能生までその日の旅程を伸ばしています。その距離は40キロ以上ですから到着は夜更けになってしまったようです。
能生での宿泊先は玉屋という仕出し料理屋でしたが、現在の玉屋は旅館として営業していて、芭蕉ゆかりの人気旅館の一つです。白山神社の正門からまっすぐ降りてすぐ左手にあります。
芭蕉の詠んだ「かねの聲」は先に書いた白山神社の梵鐘「汐路の鐘」のことになります。
この鐘は奥州への逃避行の途中、源義経が寄進したものという伝承があります。不思議な鐘と云われ、高潮や津波など海の潮が満ちると自然に鳴る鐘として知られていたようです。
本殿が焼失した室町期に損傷しましたが、前記のように能登(穴水)で鋳直され、その後江戸期に積雪で損傷し柏崎で鋳直され大切にされてきましたが、現在は明治の廃仏毀釈で大きな損傷が残り宝物館に置かれています。芭蕉が訪れた際は、能登での鋳直し後のものですが、実際に音を聞いたわけでなく話を聞いてこの俳句を作ったようです。
この石碑は汐路の鐘の由来を認めた物で、岡本五右衛門憲孝(俳号・姫山)が文政5年(1850年)に建立したものです。文は高田藩士によるものだそうです。
文面をそのまま引用すると、
むかしより能生にふしぎの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらず。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へざりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の満来らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の児までも自然と汐の満干を知り侍りしに、明応の頃焼亡せり。されどもその残銅をもつて今の鐘能登国中居浦鋳物師某鋳返しけるとぞ。猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも、誰ありてこれを知る人なし。 芭蕉 曙や霧にうつまくかねの聲
能生白山神社の社域は摂社の秋葉神社や花本大明神碑を含むとけっこう広いものがあります。
ちなみに「花本大明神」は松尾芭蕉の150回忌に朝廷から贈られた芭蕉の神号です。
この神社の顕彰碑は、元々は150回忌に作られたもので南梨平・才蔵山にあったそうですが、奥の細道300年の記念としてこの地に移されたものです。。ちなみにこの顕彰碑も岡本五右衛門が作ったものだそうです。
意外に知られていないのですが、芭蕉は死後、正式に神様になっているということです。
話がまた横道に逸れてしまいましたが、能生白山神社の社域は広く見えます。
茅葺きの拝殿の背後にそびえる尾山(権現山)は、本殿と共にご神体になるのですが、赤樫(アカガシ)が繁茂していることで知られます。この赤樫の群生は本州の北限となっていますが、この赤樫に生息するのがハルゼミで、能生ヒメハルゼミと呼ばれています。6~8月が最盛期で大合唱で鳴くそうです。この鳴き声は「残したい日本の音風景百選」にも選出されているそうです。
この尾山の白山神社社叢と能生ヒメハルゼミは共に国指定の天然記念物に指定されています。
東・西日本の分かれ目ということもあり、自然環境や地形に特殊な状況を持つ場所であり、北回り航路の要衝・重要な中継地、豊富な漁獲量の漁港としての役割など、能生は古くから重要視された場所で、幕府歴代将軍・家光から慶喜まで、50石寄進状が送られていました。その他にも徳川慶喜や御所からの扁額など権力者からの手厚い保護を受けたことが伺われます。
また、北前船や漁業の関係の舟絵馬が多く残されており、特に北前船に使用された「はがせ船」の舟絵馬は我が国唯一の物です。舟絵馬93点・船額4点は国指定の重要有形民俗文化財になっているそうです。
建物も重厚なものが多く存在します。また室町以降の社伝や記録書が詳しく残っており、建物や社宝の詳細が分かりやすくなっています。
拝殿・・・宝暦5年(1755年)造立。切り妻造りの茅葺き屋根。糸魚川市指定文化財。
重厚な茅葺き屋根の拝殿で白山神社の顔ともいえる存在です。棟方志向がスケッチしたことでも知られています。隣の御旅所は拝殿と共に建てられていたのですが、現在の建物は平成に入って再建されたものです。
本殿・・・永正11年(1515年)造立。三間社流造・杮葺き・向背一間。国指定重要文化財。
写真では解り難いかもしれませんが、通常本殿や拝殿は左右対称に造るものですが、この本殿は崖に沿って作られている為、左右が非対称の珍しい形になっています。
この建物は能登4・6代目国守・畠山義元が寄進したものと云われています。ただ義元は造立時の年に亡くなっているので、息子の義総が義元の名で寄進したのではないかと思われます。義元は一時機、守護の座を追われ越後上杉氏を頼っていた頃があり、その恩義と石動山とのつながりが寄進に繋がっているのだと思います。
崖横に側している為、落石などの破損で幾度かの修復を重ねながらも、造立当時の姿を今に伝えています。
昭和30年代の解体大修理の際の検証で、義元造立前の礎石と火災に遭った棟木をそのまま使っていたことが確認されています。
本殿は当然ながら、拝殿の裏側にあり通路も整備されていないため、拝殿だけで帰る人が多いようですが、造立当時は藁葺屋根だったようですが、柿葺きとなった現在も室町期の建物としては貴重な存在です。是非、見学することをお勧めします。
秋葉神社・・・元々は薬師堂として天保13年(1842年)に造立されたものですが、明治の廃仏毀釈で本尊は移されて秋葉神社となったものです。秋葉神社は愛宕神社と並ぶ火難安全の神社です。平成19年(2007年)の中越沖地震で損壊、翌年に再建されたものです。
恥ずかしながら、この神社の存在はよく知っていたんですが、訪れたのはこの時が初めて。。。こんなに立派とは思いもしませんでした。今度は春季祭礼の時に是非再訪したいものです。今回は写真を撮っていないんですが、宝物館もお奨めです。
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