鬼死骸伝説

http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/n/onishigai.htm 【鬼死骸伝説】より

 当地には鬼の死骸に関する伝説があります

 安永風土記(江戸時代の記録。抜粋)

  鬼死骸村

一 村名に付き由来 往古吾勝郷と申唱候処田村将軍夷賊御退治賊主大武丸死骸此所に相埋候以来村名に罷成候由申伝候事

※現代語簡訳 昔は吾勝郷(あかつごう)という所でしたが、田村将軍が蝦夷(えぞ)退治にお出でになった折り、退治した「大武丸」という首領の死骸をここに埋めたので、それ以来、村名となったと伝えられている

 鬼死骸村には、鬼にまつわる名所等が残されています

 所在については鬼死骸八幡神社及び鹿島神社の交通案内図を参照して下さい

鬼石

 田村将軍が大武丸の一党をここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石

 左手上方に鹿島神社の赤い鳥居の柱が見えています

 土手と電線はJR東北本線

 所在は、鹿島神社手前の的場踏切の真南、田の中

 石の窪みは、田村将軍の乗馬の蹄の痕とも、鉄棒の痕ともいう

 すぐ近くには、まだ数個の大石が転がっている

 鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部とも、死んだ鬼の化したものともいう。

 周辺には同様の石が多かったと伝わるが、名石の鬼石とあばら石の二つを残して多くは石材として利用されてしまったという

あばら石

 ここには4つの大石があり、兜石(かぶといし。男・女の2つ)、肋岩(あばらいし)、 背骨石といわれている

 近年まで名称看板があったが、朽ちて草むらに沈んでいます

 所在は、鬼石から約150m県道を国道4号方向に南下し、東南方向の枝道に入り約80mの路傍

鬼石井

 死骸に載せるために鬼石を取ったときに、そこから湧いたという清水。干魃の時でも水が絶えず、希代の冷水といわれた。的場(まとば。地名)清水ともいう

 現代では利用されることも少なく荒れてしまっているのが残念です

 すぐそばには、明治9年と同14年の奥羽御巡幸の際にこの場所で御小休みされたことを示す『明治天皇小次遺跡』碑が建立されています

 所在は、前掲的場踏切を渡り北上約50m。『明治天皇小次遺跡』碑が目印

 鬼石井(的場清水)のすぐ下流は、近年の道路改良工事で道路下に埋没してしまいました

 これを惜しみ南側隣家では井戸を整備しました。写真奥の屋根の掛かっているのが的場清水の水脈の井戸です

 写真手前の池の噴水は、同様に名水と伝わる金魚清水を引いてきたものです

鬼牙石

 鹿島神社に奉納されていたが、中世末期に城主小岩伊賀守が所持、城主没落後は子孫絶え、大正5年に三上氏(鬼死骸八幡神社別当)が引き受ける

 通称「天狗の爪」ともいう

鬼手

 鬼の手が跳んで落ちた所。手骸(てがら)が何時しか手柄となったという。宮城県片馬合手柄沢

鬼首

 鬼の首が跳んで落ちた所に温泉が湧いたという。宮城県鳴子町の鬼首(おにこうべ)温泉

人首

 大武丸の子の人首丸(ひとかべまる)は奥州市江刺区に追われて討たれた。この地は人首村と称し、現在も人首の地名が残っている

豊吉の墓

 以上が古代の鬼とすれば、こちらは近世の鬼かもしれません

 蘭医学が興隆し始めた頃、東北地方で最初の腑分け(ふわけ。人体解剖)が行われました

 罪人として処刑された豊吉の死骸が提供され、その後ここに埋葬されました

 墓のそばの看板には一関市指定有形文化財であることと、その意義について解説されています

 墓のすぐ前は国道でたくさんの車が通過しています


https://kahoku.news/articles/20210207khn000021.html 【ここは「鬼死骸」の停留所 岩手・一関 蝦夷の伝説、村名に残る】 より

 「ここはかつて鬼死骸(おにしがい)村という怖い名前でした」。岩手県一関市真柴地区の住民組織が、明治時代まであった「鬼死骸村」というおどろおどろしい地名を活用した地域おこしに取り組んでいる。

 旧鬼死骸村の象徴だった鹿島神社が、パワースポット「岩手の六芒星(ろくぼうせい)」を構成する寺社の一角として昨年夏に一躍注目を浴びた。それを機に、観光誘客の環境整備を図るのが狙いだ。

 住民組織は、鹿島神社前の県道260号沿いにある巨岩「鬼石」に昨年10月、歴史を紹介する案内板を設置。9世紀に蝦夷征伐に入った坂上田村麻呂が、討った大武丸(おおたけまる)の死骸を巨岩の下に埋めたのが鬼死骸村の由来と伝える。

 12月には、鬼石の数百メートル南側にある築約60年の旧路線バス鬼死骸停留所を模様替えした。看板を新しくしたほか、江戸時代に描かれた鬼死骸村絵図の木製テーブルや記念スタンプなどを配備して、レトロ感漂う休憩所に再生した。

 5年前に路線バスは廃止されたが、モニュメントとしてバス停も置いた。約20年前に吉村達也さんの小説「鬼死骸村の殺人」の舞台になったことから、熱心なミステリーファンの来訪も視野に入れる。

 アニメ映画「鬼滅の刃」の大ヒットなどで注目される「鬼」を切り口にする一方、地元には岩手、宮城県境エリアに伝説が残る大武丸の存在に注目してもらいたい思いもある。

 地域おこしのリーダー役を務める大倉秀章さん(72)は「中央視点の歴史観で鬼と扱われてきた大武丸も、地元からすれば蝦夷の勇者なんだと伝えたい」と語る。


https://sirotabi.com/8131/ 【人首城 アテルイの弟・大武丸の子である人首丸が籠城?】より

人首城(ひとかべ-じょう)は、岩手県奥州市江刺区米里字荒町にある山城で標高は210m、比高は50mほどになります。

別名は、臥牛城・人首要害とも言い、人首川を下って行くと岩谷堂城となります。

地名を人首と書きますと、なにやら恐ろしいような気も致しますが、ともあれ「ひとかべ」と読みます。

ひとくびではなくてホッと致しますが、人首丸伝説があります。

なんでも、平安時代の801年に坂上田村麻呂が蝦夷討伐に来た際に、阿弖流為(アテルイ)の弟・大武丸(悪路王の弟とも?)の子である人首丸(ひとかべまる)が、この地にて籠城したのに由来するようです。

まぁ、砦のように機能していたのでしょう。

15歳前後の美少年だったとされる人首丸は坂上田村麻呂の娘婿・田原兼光(田原阿波守兼光)に討たれ大森山に祀られたとあります。

戦国時代に入ると、葛西氏の重臣である岩谷堂城主・江刺重胤の2男が人首城に入って人首如清(安蘇修理、人首国重?)と称しました。

ちなみに、3男は浮牛城に入って、口内隆朝(口内帯刀)と名乗っています。

1590年、小田原攻めを行った豊臣秀吉は、奥州仕置で江刺氏の主家・葛西氏を所領没収にします。

そして、葛西大崎一揆と言う反乱を起こすわけですが、この時の葛西勢に、人首権太夫と言う武将の名があります。

人首城

ただし、大半の江刺氏の一族反乱には加わらなかったようで、宗家・江刺氏は岩谷堂城を退去し、人首城主の人首盛恒(人首平十郎盛恒)も城を明け渡しました。

まぁ、江刺氏じたいの動向がよくわかっていないので、その一族である人首氏も、当然不明瞭なところが多いです。

浅野長政の推挙で、江刺重恒は復活して陸奥・土沢城に入り、南部藩で1500石となりますが、この際に下記のように一族も南部信直に仕官が許されています。

人首平右衛門恒輝は浪人。

人首平十郎盛恒は100石。

人首甚太郎恒冨(人首盛恒の子)70石になるものちに没収。

人首平八郎恒茂(人首恒冨の2男)八戸城下に。

口内帯刀隆朝524石で和賀郡毒沢村・黒沢村に。

口内彦次郎重幹(口内帯刀の子)200石で三戸城下に住むも断絶

上記のように、許されておらず浪人した人首平右衛門恒輝は、反乱軍に加わった人首権太夫と同一人物だったのかも知れません。

ただし、岩谷堂城や上口内城は人首城は伊達政宗の領地となり、伊達藩21要害のひとつとして整備されました。

沼辺重仲(沼辺摂津守重仲)が1000石で人首城主になっています。

盛街道(県道8号)沿いに武家屋敷が並び、人首御番所も設けられたと言い、江戸時代には要害扱いとして徳川幕府に届けられたたろ、人首要害とも言います。

さて、人首城に訪問したのですが、狭い道をクルマで上がって行こうとしましたら、道路工事のようでした。

工事は行われていなかったようですが、道路は鉄板が敷かれており、かなり狭い状態であったため、レンタカーをキズつけては大変なことになりますので、今回は断念しました。

代わりに、遠景だけ撮影しています。



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