https://go-centraljapan.jp/route/samurai/spots/detail.html?id=64 【倶利伽羅峠の戦い】
倶利伽羅県定公園
越中国(現在の富山県)にある倶利伽羅峠は、寿永2(1183年)6月2日、源氏と平家が戦った「倶利伽羅峠の戦い」の舞台となった場所です。このとき、源氏方の木曾義仲は、敵の不意をつき、敵を包囲し、角に松明(たいまつ)をつけた牛を用いる「火牛の計」という戦法で勝利しました。
「倶利伽羅峠の戦い」は、源氏と平家の長きに渡る戦いのなかで、日本の歴史のターニングポイントの1つとなっています。
信濃国(現在の長野県)を拠点とする木曾(源)義仲は、平家打倒を目指して、越後国(現在の新潟県)を経て越中国へ進軍。対する平家は、義仲の進軍を阻止しようと、平維盛を総大将とする10万の軍勢を北陸道へ向かわせます。平家軍が倶利伽羅峠にさしかかると、越中国側のふもとに源氏の白旗が約30本掲げてあるのを目に入りました。平維盛は進軍を止め、倶利伽羅山中の猿ヶ馬場に本陣をおきます。
一方の義仲は、埴生八幡宮で戦勝祈願を行った後、平家の動きに合わせて、約5万の軍勢を7手に分けて配置し、夜を待ちました。そして夜中になると、400~500頭の牛の角に松明を付け、約5万の軍勢とともに、平家の陣へ突入しました。疲れ切っていた平家軍は、その奇襲に混乱し、多くの兵は何もできないまま、深い谷底へと突き落とされ、無事に山を下りて逃がれた者も、待ち受けていた義仲軍に討ち取られてしまいました。
倶利伽羅県定公園八重桜
また、こんな逸話も残されています。
混乱して逃げ場を失った平家軍の前に、30人の白装束姿の者が現れ、谷の方向に向かっていきました。これを見た平家軍は、逃げる道があるのかと思い、その谷の方向へ向っていきましたが、人や馬はことごとく、その谷底に落ち、深い谷は死体で埋め尽くされたと伝えられています。その谷は「地獄谷(じごくだに)」と呼ばれ、現在も地名として残っています。「白装束」は義仲が戦勝祈願した「埴生八幡宮」の八幡大菩薩のおかげと伝えられています。
「倶利伽羅峠の戦い」で、平家軍はほとんどの兵を失い、木曾義仲は大勝をおさめました。
倶利伽羅県定公園
倶利伽羅県定公園火牛の像
倶利伽羅県定公園は、約830年前に、源平合戦で木曽義仲が倶利伽羅峠で平家の総大将・平維盛(たいらのこれもり)と対戦した際、牛の角に松明をつけて平家の軍勢に放ち、勝利をおさめた古戦場としても歴史的にも有名な場所です。
春には約6000本の八重桜が咲き誇り、多くの花見客が訪れます。
平家との戦いの前に、木曽義仲が戦勝祈願した神社。倶利伽羅峠の東側に位置し、1300年余りの歴史を誇ります。倶利伽羅峠の戦い以降は、「勝ち運の神」として、佐々成政や加賀百万石の礎を築いた前田利家などの戦国時代の武将も篤く信仰しました。
境内には日本最大級の「源義仲騎馬像」もあります。宝物殿には、木曾義仲の戦勝祈願文や矢、矢じり、武田信玄の書状や鎧、豊臣秀吉の兜、佐々成政や加賀藩前田家の書状などが保管・展示されています。
http://www.2466-hachi.com/yomoyama_1309.htm 【火牛の計(北条早雲)】 より
●今月は、北条早雲こと伊勢新九郎長氏が、明応4年[1495]に、「火牛の計」で小田原を手にした月です。
●「火牛の計」とは、
牛の角に松明[たいまつ]を付けて走らせ、少ない軍勢を多く見せかける計です。
古代中国の話、
戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。紀元前の話です。
又、本国では、源平の頃、木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで、「火牛の計」を用い、平維盛の陣を奇襲し、大勝を治めました。
話がそれました、本題に戻ります。
●とにかく、早雲は、「火牛の計」を知っていて、これを使った。
この事だけを見ても、早雲は、相当な知識人だったのでしょう。
●火牛の計は、若く、たくましく、益々登り調子のイメージがしますが、早雲は、益々登り調子には、違い有りませんが、年齢が木曽義仲と違って若くはなく、なんと、このとき64歳でした。当時としては、かなりな老人だったと思います。
でも、彼は、55歳で結婚したのですから、気は若かったのでしょう。
●さて、当時は、鹿が増え過ぎると、畠を荒らす為、鹿狩りをしました。
そこで、早雲は、小田原の領主大森藤頼に、我国で鹿狩りをしたところ、鹿が箱根の山へ逃げ込んでしまった為、勢子[せこ]を箱根の山へ入れて、鹿を我国へ追い返したいが、許可を願いたい。」と申し出ました。
勢子はもちろん、早雲の家臣です。そして、芦ノ湖の湖畔に、密かに牛を集めました。
この牛の角に松明を付け、早雲軍の後詰の様に見せかけ、小田原城を一気に襲い、大森藤頼を追い出して、小田原を得ました。
●よその国を盗れば、大悪人ですが、早雲には、それ程の悪いイメージは無いです。
それは、幻になった旧体制[守護・地頭制]から民を開放し、安い税金で暮らしが成り立つよう、小田原に進出し、新しい体制を創ったからです。
又、早雲は、「おせっかい」と言われるくらいに、民の面倒を良く見ました。
小田原の地侍達も早雲に賛同し、喜んで、早雲を迎えました。
この時、戦国時代の幕が切って落とされました。
●早雲は、この後88歳まで長生きしました。北条家は代々この安い税率は替えませんでした。
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