芭蕉の慟哭「塚も動け我泣声は秋の風」

https://blog.ebipop.com/2015/07/autumn-basyo7.html 【芭蕉の慟哭「塚も動け我泣声は秋の風」】より

塚も動け我泣声(わがなくこゑ)は秋の風

松尾芭蕉

唐突だが、「秋の風」とは台風のことかな、と思ったりしている。

早世した弟子の墓の前で、芭蕉が慟哭する。

その泣き声は、秋の強い風音にかき消されてしまう。

台風のような強風が、ビュービュー吹いて、木々の幹を揺らしている。

墓地を囲む太くて大きな木が、ギシギシ音を立てる。

芭蕉は、風の音を自身の泣き声として、句を読む者に聞かせている。

この句で、そういう主人公を登場させている。

読者は、激しい芭蕉の「我泣声(わがなくこゑ)」が立ち木を揺らしている情景(劇)を脳裏に描く。

空は暗く、墓地の周囲の木が音をたてて揺れる。

芭蕉は、友人の死に対して空が慟哭しているような風景を描いているのだ。

暗雲とした悲しみの風景に、句の読者は取り込まれる。

その読者(客席)に向かってか、虚空に向かってか、芭蕉が発する。

「塚も動け」と。

私たち読者も、その台詞に反応し、暗黙のうちに復唱する。

「塚も動け」。

死んでいった者の悲しみの嘆きを、生きているものが復唱する。

「塚も動け」とは死者の嘆きを代弁した芭蕉の言葉。

「塚も動け」という上句には、若い友人の死に対する否定の念が強く込められている。

その言葉を私たちに復唱させることで、芭蕉は自身の悲しみを普遍化しようとしている。

死者に対する、永遠の悲しみの台詞として芭蕉が発したのだ。

私たちがそれを復唱することで、私たちの脳裏に「小杉一笑」という俳人の生と死が蘇る。

小杉一笑は加賀の国金沢の茶商で、俳人。

晩年は蕉門(松尾芭蕉の一門)に属したという。

芭蕉は、「奥の細道(おくのほそ道)」の旅の途中、金沢で一笑に会うのを楽しみにしていたらしい。

金沢入りした芭蕉は、一笑の死を知って、深い悲しみにとらわれる。

「塚も動け我泣声は秋の風」は小杉一笑の追善句会で芭蕉が詠んだ悲嘆の句。

芭蕉は、現実に死んでいった者を、芭蕉が描く「劇」のなかで、蘇らせようとしている。

旅に生きる詩人は、やがて「旅に死す」ことを悟っている。

だが芭蕉は、旅の「劇」のなかで永遠に生き続ける。

芭蕉の句は、その「劇」の台詞。

芭蕉は、自身よりも早く亡くなった若い一笑を、現実の死から、芭蕉の「劇」のなかへ蘇らせようとしているのだ。


https://blog.goo.ne.jp/basama2009/e/d7201165ece0855cd60a3bd0f8139d29 【芭蕉慟哭の句碑を訪ねて】より

 「金沢への旅を計画している」と、夫が友人に電話のついでに知らせた時「僕も行きたいけれど、もう体が思うように動かないので諦めている旅が、金沢市の芭蕉の句碑を廻る旅だ。白川の関方面には行ったのだが、金沢には行けずに居る」と言いました。

 私達は既に何回目かの金沢で、取り立てて何処を見てくるか、未だ決めてなかったので、「では君の代わりに芭蕉の句碑を廻って、写真を撮って来てあげよう」と夫が言い、病気の友人に代わっての旅を実践することになりました。

 句碑巡りは、かつて山頭火の句碑が並ぶ、山口県防府市の毛利墓所周辺での経験しかありません。でもこれは大内文化の貴重な建造物である、美しい瑠璃光寺や毛利家の大邸宅や宝物殿、毛利本宅などを廻ったりした、「ついでの寄り道」であり、わざわざ「芭蕉の句碑」と絞って廻るというような旅をした事はありません。

 出かけるに当たって金沢市にある芭蕉の句碑とその在所を調べて、道順を作りました。

 芭蕉は門人の曾良(そら)を伴って「奥の細道」の旅に出て、金沢で10日間を過ごしています。

 江戸を立ったのは元禄2年(1689)3月27日で、日光、松島、平泉、出羽、最上川、象潟(きさかた)など奥州路を訪ね、日本海沿いに南下。越後、越中を経て金沢に入ったのは、元禄2年7月15日(陽暦8月29日)でした。元禄2年と言えば1690年に当たり、今から326年前です。

 私達は最初に金沢市野町一丁目蛤坂の成学寺に行きました。ここには、蕉翁墳があります。肩に近い丈の薄茶色で苔むした蕉翁墳の背面に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と苔で判読困難でしたが、彫られていました。1755年(261年前)に建立された、金沢の芭蕉の句碑としては、一番古いものだそうです。

 門人の中でも、小杉一笑は、芭蕉がその才能を最も高く評価していた弟子です。芭蕉は、7月15日に高岡を出て、午後金沢城下に入りました。この夜は京屋吉兵衛の宿に宿泊し、ここで、一笑ら加賀の俳人達に逢う予定でした。ところが一笑は前年の霜月(11月6日)に死去していたのです。これを知った芭蕉は、烈しく慟哭したと言われています。

 芭蕉は一笑の追悼会で

 「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」

とその悲しみを詠みました。一笑塚の一つは、成学寺の塀際にあり、上部がやや丸く低い石に「一笑塚」と彫ってあって、塚の周りにはツワブキが植えられており、秋海棠のようなピンクの花も咲いていました。

 一笑を悼む芭蕉の句碑があるのは、忍者寺として有名な妙立寺脇の念願寺です。妙立寺の裏側に回り込むとそこが念願寺の山門です。

 山門脇に立つ石碑には「つかもうこけ我泣声は秋の風」と丈の高い細長い石に彫ってあり、右に「芭蕉翁来訪地」と、「小杉一笑墓所」と添えて彫ってあります。

 門を入るとこぢんまりとした境内には、上部がせり出していて中程を平らにした自然石に「一笑塚」と彫られていて、脇に小さい文字で「心から雪美しや西の雲」という一笑辞世の句が彫られています。

 芭蕉の「塚も動け」というような激しい慟哭の句と対照的に、一笑の辞世の句はあまりにもやさしい感じが滲み出ていて、胸を打つものがあります。死を予感した一笑の悟りにも似た心境を伺わせる句です。きっと心優しい門人だったのでしょう。

 このような有名な芭蕉の句や一笑塚のある念願寺より、人々は忍者寺の方に興味があるようで、忍者寺は順番待ちの人で溢れていましたが、残念ながら直ぐ後ろの念願寺には誰一人居らず、寂しく思いました。

 しかしその分静寂で、芭蕉や一笑にはふさわしくも思われましたし、隣にある小杉家の墓所にも手を合わせて来ました。しっかりとお参り出来て、良い想い出になりました。

 金沢には、この他に本長寺境内に「春もやや景色調ふ月と梅」があり、寺町五丁目の長久寺には、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」があります。

 また兼六園小立野口の山崎山には、「あかあかと日はつれなくも秋の風」が立てられています。広い兼六園ですが、ここまで登って来る人はそう多くはないようで、樹木のみが昼なお暗く茂っていました。真夏はきっと降るような蝉の声が聞こえ、夕方にはカナカナ蝉が鳴くであろうと思いつつ、霞が池の徽軫(ことじ)の灯籠を眺めたりして、帰路につきました。

 夫の友人に道順に写真を貼って、それぞれに詳しく説明した冊子を作成して、送りました。とても喜んで貰いましたが、私達もまた、思いがけずに良い経験が出来て、嬉しく又楽しい想い出になりました。

 その後友人が先立ち、時折よく電話を貰ったりメールを交換していた夫は、寂しそうです。芭蕉が回ったという奥の細道は、たいてい私達も形はちがいますが廻っています。

 松島は3.11の東北の大津波で一部被害があり、少し様子が変わったものの美しく残っています。ですが山形県の象潟(きさがた)は長い間にすっかり隆起していて、当時「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」と言われた名勝象潟は、田んぼの中の点々とした島々になってしまっていて、いかにも寂しく哀しそうでした。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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