https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200309-466804.php 【【金沢~山中温泉】<塚も動け我泣声は秋の風/今日よりや書付消さん笠の露>】 より
芭蕉が8泊し、曽良との別れの地ともなった山中温泉の山中座前の広場。観光客が手を浸しているのは芭蕉の句にちなんだ「足湯 笠の露」の手水台。周辺には公衆浴場として運営される「菊の湯」もある=石川県加賀市山中温泉
「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅も、越後路を抜け、秋の訪れとともに終幕の気配が漂い始める。越中(富山県)、加賀(石川県)を行く、およそ足かけ26日間の紀行文を彩るのは「別れ」である。
1689(元禄2)年7月13日(陽暦8月27日)、市振(いちぶり)(新潟県糸魚川市)をたった松尾芭蕉と河合曽良は、目と鼻の先の境川を越え越中に入った。ここで芭蕉は、久々に歌枕の句を詠む。〈わせの香(か)や分入(わけいる)右は有磯海(ありそうみ)〉早稲(わせ)の香の中を分け入って行くと、右手には有磯海(大伴家持が詠んだ歌枕。越中の海辺をいう)が見渡される、の意。富山湾を望む那古の浦(富山県射水市)の初秋は、越後の荒海とは打って変わって穏やかだ。
ただ「ほそ道」での越中の描写はここまで。歌枕、擔籠(たご)の藤浪(氷見市)の魅力を語りながら結局は行かず、加賀の国に入る―と続く。曽良の「日記」によると、酷暑で「翁(おきな)、気色不勝(すぐれず)」先を急いだらしい。
感情ほとばしる
木曽義仲と平家軍の古戦場、倶利伽羅(くりから)峠を越え加賀に入った芭蕉たちは7月15日、加賀百万石の城下町、金沢に到着した。仙台以来の大都会である。実力派の俳人が多く、芭蕉も酒田をたつ際「加賀の府まで百三十里と聞(きく)」と期待をまじえ記している。
金沢は昔も今も大都市だ。町並みにも人々の言葉にも京都の面影が宿る古都である。2月上旬の金沢駅は、真冬にもかかわらず観光客でごったがえしていた。それでもカフェの主人は「新型コロナの影響で、外国人客は例年より少ない」と言った。
芭蕉も、この都会の華やいだ雰囲気を俳諧仲間と楽しもうと思っていただろう。しかし待っていたのは悲報だった。「日記」によると、宿屋で芭蕉たちは早速、地元の俳人、竹雀(宮竹屋喜左衛門)と一笑(小杉新七)に到着を知らせるが、やって来たのは竹雀と牧童(立花彦三郎)で、一笑の姿はなかった。一笑は前年12月に亡くなったという。芭蕉より8歳若い35歳だった。
一笑は、芭蕉門下の江左尚白が編んだ俳諧集「孤松」(1687年)に194句が入集されるなど注目の実力者だった(田口恵子著「おくのほそ道を歩く 石川・福井」)。芭蕉と会ったことはなかったが、文通をしており、当然、芭蕉は初対面を心待ちにしていただろう。
1週間後、一笑の兄が主催する追善句会が、小杉家の菩提寺(ぼだいじ)、願念寺(金沢市野町)で開かれた。芭蕉がこの時詠んだ句が〈塚も動け我泣(わがなく)声は秋の風〉貴方(あなた)を悼んで泣く私の声は、秋風とともに呼び掛ける。塚よ、せめてこの声に応じて動いてくれ、の意。感情がほとばしる絶唱である。
2月の願念寺に観光客の姿はなかった。近くの妙立寺(別名忍者寺)が若者でにぎわうのとは対照的だ。ただ、このわびしさも芭蕉好みだろう。「塚も動け―」の後、芭蕉は次の句を置いた。〈あかと日は難面(つれなく)もあきの風〉太陽はなお赤く明るい日差しを投げ掛けても、風はたしかに秋らしさを感じさせる、の意。
一人先を急いだ
金沢で9泊、次いで小松で3泊した後、芭蕉たちは7月27日、山中温泉(加賀市)に着いた。ここでは、旅の終わりより早く、大きな別れがやってきた。江戸以来の同行者、曽良が腹の病気のため、ここで別れ親戚のいる長島(三重県桑名市長島町)へ赴くという。二人の別れは〈行々(ゆきゆき)てたふれ伏(ふす)とも萩の原(曽良)〉どこまでも行って倒れ伏すことになろうとも、そこが萩の原ならば本望だ、の意、〈今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露(芭蕉)〉一人になる今日からは、露を置く笠に「同行二人」とある書き付けも消すことになるのだなあ、の意―の2句で劇的に語られる。旅が人生なら、長年連れ添った夫婦の死別の場面である。
しかしである、「病気というのは疑わしい」と「山中温泉 芭蕉の館」の平井義一館長は言い、芭蕉の「演出」に苦笑する。
芭蕉にはこの時、金沢から弟子の北枝(立花源四郎)が同行していた。また芭蕉は、弟子の加賀藩士、生駒万子に会うため8月5日、小松へ戻ることになった。この時点で曽良は、芭蕉と別れ西へたった。つまり「芭蕉にお供ができたこともあり、曽良は一人先を急いだ。病気ならとどまるはず」と平井館長。「では、なぜ曽良は急いだのか」と問うと、館長は「なじみのある西国に近づいた開放感。それに曽良には隠密説もあります」と笑った。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/oku/oku8Hokuriku.html 【金沢】 より
卯うの花山はなやま・くりからが谷をこえて、 金沢かなざわは七月中なかの五日也なり。 爰ここに大坂おおさかよりかよふ商人何処かしょと云者有いうものあり。 それが旅宿をともにす。 一笑いっしょうと云ものは、 此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人しるひとも侍はべりしに、 去年こぞの冬、 早世そうせいしたりとて、其兄そのあに追善ついぜんを催もよおすに、
塚も動け 我泣わがなく声は 秋の風
ある草庵そうあんにいざなはれて
秋涼し 手毎てごとにむけや 瓜うり茄子なすび
7月15日に金沢入りし、たまたま金沢に来ていた知り合いの大阪の商人 何処と宿を共にしたが、 会いたいと思っていた一笑はすでに亡くなっていた。それでも、各所を訪れたり、俳句の会などで、金沢での滞在を楽しんでいる。
「曾良日記」より
(注) この頃から曾良の病が悪化していった様子が、 以下のようにつづられている。
・十五日 高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。 クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。京や吉兵衞ニ宿カリ、・・・
・十六日 川原町、宮竹ヤ喜左衞門方ヘ移ル。
・十七日 翁、源意庵へ遊。予、病気故、不随行。
・廿一日 高徹ニ逢、薬ヲ乞。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。
・廿二日 亦、薬請。此日、一笑追善會、・・・各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。 暮過、各ニ先達テ帰。
・廿三日 翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。 予、病気故、不行。
北陸路北陸路から美濃へのルート :
7月15日に金沢入りしてから約10日間を金沢で過ごした後、 日本海沿岸の北陸路を南下する。小松、加賀、福井などを経て、敦賀に到る。 この間、各所の神社仏閣に詣でたり、俳句の会に参加したりしながら、旅を続けている。
しかし、曾良は病気の悪化のため、金沢あたりから芭蕉と行動を共にできなくなっている。 そのため、山中温泉で芭蕉と別れ、一足先に伊勢長島に向けて出立している。
病気とはいえ曾良が芭蕉と別行動をとったことに対して、謎であるという説もある。
山中温泉から伊勢長島まではまだ距離もあり、厳しい地帯も通らなければならない。 一方、別れた場所はきしくも山中のいで湯である。もし本当に具合が悪ければ、 このいで湯につかってゆっくり静養するのが最も良いとする説である。
もちろん、伊勢長島藩はかって曾良が仕えたところであり、親戚もいることから、先を急いだのかもしれない。 なお、後に曾良は幕府の巡見使という職につき、特に九州地方の巡見にあたったことが記録に残っている。 そのようなことも相まって、曾良は幕府のお庭番であったといううわさが立つのも無理からぬことと言える。 ちなみに、芭蕉も伊賀上野生まれであることから、幕府のお庭番であったという説もある。
卯の花山 : 富山県小矢部市の歌枕。
くりからが谷 : 富山県小矢部市の倶利伽羅峠のこと。 石川県との県境開に位置する。芭蕉はこの峠を越えて金沢に入っている。
金沢での逗留日数 :
金沢は仙台と共に奥の細道のルートの中で最も大きな城下町である。
曾良日記によれば、芭蕉は7月15日に到着してから24日に出立するまでの約10日間を金沢で過ごしている。 これは、那須黒羽の14日間、尾花沢での11日間、羽黒山の10日間と共に長い滞在日数である。
俳諧の道で知り合いの大阪の商人何処がたまたま金沢に来ていたが、 芭蕉は一笑に会いたかったようである。一笑は、金沢では名の知れた俳人であり、 共に語り、共に俳句を作るのを楽しみにしていた。 しかし、一笑はすでに亡くなっており、芭蕉は落胆したに違いない。 もし一笑が存命であったならば、芭蕉は金沢にもっと長く滞在したかもしれない。
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