やまがた橋物語

https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=1 【京田川編[1]◆宮野浦橋(酒田)】より

宮野浦橋(酒田)の写真 高くそびえる主塔が特徴的な宮野浦橋。現在は歩行者、自転車専用の橋として親しまれている=酒田市

 河口に程近い位置に「宮野浦橋」(長さ126.5メートル)はある。橋の中心部に高くそびえる主塔と白い外観が特徴で、主塔より斜めに張り渡した斜材で主桁(しゅげた)をつるす構造になっている。

 現在の橋は2代目。京田川の幅が広がることに伴う架け替えで、1999年に完成した。歩行、自転車専用で、京田川と最上川に挟まれた中州に渡るために使われている。

 初代は1953(昭和28)年に造られた。近くに住む佐藤紀己雄さん(66)によると、それ以前も中州に渡るための小さな木橋があったが、雪解けや梅雨の時季になると、ひんぱんに流されていたという。当時、一帯の水深はひざ下くらい。「ロープにつかまって渡ったこともあった」と佐藤さんは振り返る。まだ京田川河口の水がきれいで、地元の子どもたちがアユやコイ、イトヨといった魚を捕まえて遊ぶ時代だった。

 中州には当時、最上川を渡るための舟の発着場があった。最上川以南の川南地区に住む人たちは宮野浦橋を通って京田川を渡り、そこから渡し舟に乗って酒田市街地に通勤したり、海産、農産物を売りに出ていた。川南地区と酒田の中心部を結ぶ上で大きな役割を果たしていたのが宮野浦橋だった。

 “お隣”の出羽大橋が72年に開通したことで渡し舟の運航は終了、宮野浦橋を往来する人の数は減った。それでも佐藤さんは「往時を懐かしむ周辺の住民にこの橋が親しまれていることに変わりはない」と語った。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=2 【京田川編[2]◆出羽大橋(酒田)】より

出羽大橋(酒田)の写真 開通が市民の悲願だった出羽大橋。完成とともに最上川を往来する渡し舟の姿が消えた=酒田市

 最上川以南の川南地区と酒田市街地を結ぶ橋として、開通が市民の悲願だった「出羽大橋」。1972(昭和47)年、両羽橋と並ぶこの大きな橋が庄内地方に誕生した一方で、最上川を渡るための一つの交通手段が姿を消した。

 “選挙橋”。川南地区の住民によると、出羽大橋は着工前、そうやゆされることがあったという。国政選挙のたびに国会議員が建設を約束するが、いつまで待っても橋の工事が実現しないことからそんな名が付いた。出羽大橋が開通する前は、酒田の中心部と川南地区を行き来するには最上川上流の両羽橋を迂回(うかい)するか、渡し舟に乗るしかなかった。酒田市によると、現在の宮野浦地区と酒田港を結んだ渡し舟は平安時代からあったという。

 発着場があった宮野浦地区に住む阿部芳蔵さん(73)と佐藤紀己雄さん(66)によると、開通前の発着場は、最上川以南で取れた野菜や海産物を市中心部に売りに行く女性や、通勤客でにぎわっていた。一方で、風の強い日や最上川が増水している日はすぐに運休となり、不便だった。

 72年6月17日の開通式。「川南の人たちにとってこれ以上の喜びはなかった」。阿部さんは振り返る。「写真でみる酒田市史」には、大勢の市民が完成を喜ぶ当時の様子が掲載されている。渡し舟の最後の運航も同日行われ、市民を支えてきた大事な“足”は惜しまれつつ約千年の歴史に幕を下ろした。

 通勤のため渡し舟を使っていた佐藤さんには忘れられない光景がある。日本海に沈む真っ赤な夕日。「舟の上からあの夕日を見られなくなったのは少し寂しかったな」と当時を懐かしんだ。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=3 【京田川編[3]◆新広田橋(酒田)】 より

新広田橋(酒田)の写真 酒田大火と同じ年に完成した新広田橋。開通直後から重要な役割を果たした=酒田市

 鶴岡市や三川町方面から酒田市街地に向けて国道7号を行くと渡るのが「新広田橋」(長さ104メートル)で、酒田大火が発生した1976(昭和51)年10月に開通した。最上川に架かる新両羽橋へとつながり、人と物の交流に果たす役割は大きい。

 73年の着工当時、近くに広田と呼ばれる集落があった。国道7号と47号が接続する現在の広田インターチェンジ付近だ。住民たちは両羽橋や初代広田橋の工事のたびに移住を要請され、その時も集落を離れることを拒む家が10軒ほどあったという。

 下部工の工事は酒田市の建設会社「丸高」が担当した。OBで工事の作業所長だった小山寿之さん(72)=同市黒森=は「騒音や振動で迷惑をかける、と住民に説明することから毎日の作業が始まった」と話す。近い家は現場から50メートルほどしか離れておらず「ガラス窓にひびが入った」「台所の棚から食器が落ちてきた」と苦情が絶えなかった。小山さんは「つらかったが、橋を通して地域に貢献したかった」と懐かしむ。

 小山さんらによれば、渡り初めが76年11月2日に予定されていた。だが、10月29日に酒田大火が発生。市中心部を焼く未曾有の災害に市民はそれどころではなくなった。一方で、この橋は大火の被災者向けの支援物資を市内に運び入れたり、火災で大量に出たがれきを運び出したりと、開通直後から重要な役割を果たすことになった。

 「渡り初めが行われなかったのは残念だったが、開通は絶好のタイミングだったのかもしれない」。小山さんは静かに振り返った。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=4 【京田川編[4]◆山田橋(酒田)】より

山田橋(酒田)の写真 酒田市広栄町と庄内町西野にまたがる山田橋。山形県の「山」と京田川の「田」を取り、この名が付いた

 酒田市広栄町と庄内町西野にまたがる「山田橋」は長さ134メートル、幅6.5メートルのコンクリート橋。京田川の増水による水害に悩まされてきた周囲の住民が開通を待ち望んでいた橋だ。

 地元住民によると、1935(昭和10)年に現在よりも約250メートル上流に、初代の木橋が完成した。佐賀恵(さがえ)橋と呼ばれていたが、44年に大雨の洪水で流失。この時、橋の西側、酒田市広野の上中村集落も浸水し、この土地に長く住む黒田俊子さん(80)は「屋根の上に避難した」と振り返った。

 2代目も木造で、増水時は危険で渡れないことが多かった。大雨が降ると山田橋の東側に位置する板戸、門田両地区の住民は国道7号に出られなくなり、「陸の孤島」と呼ばれることも。コンクリート橋の開通は悲願だった。

 水害に悩まされない現在の橋が完成したのは昭和も終わりに近づいた82年。渡り初めの日、俊子さんはまだ小さかった孫を連れて出掛けた。各集落の人たちが橋を埋め尽くすように歩き、開通を喜ぶ笑顔であふれていた。

 名前の由来がシンプルで面白い。山形県の「山」と京田川の「田」を取って山田橋。工事を発注した県が名付けた。俊子さんの夫で、元酒田市議として橋の建設に奔走した弘さん(85)は「当時、多くの橋が開通していたが、後世に残るから名前をめぐってもめることが多かった。だから誰もが納得できるよう、あえて簡素な名前にしたのではないか」と笑った。

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【京田川編[5]◆亀井橋(酒田)】より

亀井橋(酒田)の写真 歩行者用の橋もある亀井橋。広野小の児童が登下校に使う=酒田市広野

 酒田市広野に「亀井橋」(長さ約100メートル、幅6メートル)は架かる。県道浜中余目線上にあり、現在は車両用、歩行者用の2本が並ぶ。かつて川によって分断されていた周辺集落の住民をつなぐ橋として、欠かせない役割を果たしている。

 橋の東側、大渕(おおぶち)集落で郷土史を研究する伊藤三郎さん(87)によると、江戸時代から昭和のはじめにかけて、大渕は広野の中心として栄えた。1751(宝暦元)年、相次ぐ水害を軽減するため、庄内藩酒井家が京田川の掘削を行い、周辺の川幅は拡大した。ただ、川の位置や流れが変わり、集落は分断された。

 「広野村沿革誌」によれば、初代の木造橋は1879(明治12)年に完成。橋の架設によって分断されていた集落の往来は増え、大渕は再びにぎわうようになった。しかし、堤防が低かったため水害が絶えず、人家や農作物に与える被害は甚大だった。

 昭和30年代初頭、広野16集落の住民は永久橋の架設を目指し期成同盟を結成した。地道な要望活動が実り、2代目に当たる現在の橋(車両用)は1964(昭和39)年、開通した。

 橋の西側に広野小がある。交通量の増加に伴い、登下校する子どもたちの安全を確保するため歩行者用の橋が85年に架けられ、現在の姿となった。

 名前の由来は諸説ある。広野地区に伝わる言い伝えでは、初代の橋の架設作業中、京田川で大きな亀が発見されたことからこの名前が付いた-とされるが、決め手はない。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=6 【京田川編[6]◆落合橋(庄内・三川)】より

落合橋(庄内・三川)の写真 わずかな距離に本落合橋(手前)と落合橋(後方)が架かる。2本とも周辺集落の住民の暮らしを支えている

 庄内町落合と三川町押切新田を結ぶ「落合橋」は主要地方道余目加茂線に架かる。長さ54メートル、幅13.6メートル。2代目に当たり、1977(昭和52)年に開通した。初代の橋ができたのは27年。当時、県内では珍しい鉄筋コンクリート製の永久橋だった。

 地元住民によると、27年以前から京田川をまたぐ木造橋が通っていた。国道7号、47号がまだ形もない時代で、酒田や余目と、鶴岡や三川を結ぶ要の道だった。

 落合集落に長年住む農業遠田長治さん(82)によれば、1881(明治14)年、明治天皇が庄内地方を訪れ、この木造橋で京田川を渡った。大正時代にはサーカス団の象が川を渡ったこともあったという。遠田さんは「人の往来が多い道ゆえ、早い時期に(初代の)永久橋が架かった」と語る。

 現在の落合橋から70メートル上流に小さな橋がある。わずかな距離に橋が2本架かるのには理由がある。

 現在の橋の着工が持ち上がった際、落合、押切新田両集落の住民から旧橋を残してほしいという要望が上がった。落合の住民は押切新田に多くの耕作地を持ち、押切新田の住民は落合に田んぼを所有。新しい橋は県道の改修に伴い70メートル下流に架設されることが決まっており、迂回(うかい)を余儀なくされる。生活道路として旧橋を残してほしい-と住民は主張した。

 県は住民の声に応じ、旧橋を残した。初代永久橋の幅を狭めた橋は80年に完成し、本落合橋と名付けられた。近くの農業斎藤禎さん(57)は「二つの橋がなかったら住民は不便を強いられたはず」と2本の橋の意味を話した。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=7 【京田川編[7]◆生長橋(庄内・鶴岡)】より

生長橋(庄内・鶴岡)の写真 庄内町と鶴岡市藤島地域を結ぶ生長橋。かつては危険な木造橋として周辺集落の住民を悩ませた

 水害や吹雪、穴だらけの道…。厳しい自然災害や木造橋の老朽化に長く苦しめられてきた庄内町生三(いくさん)の住民にとって、完成が待ち望まれた永久橋がある。生三と鶴岡市長沼を結び、県道東沼長沼余目線に架かる「生長(いくなが)橋(長さ53.6メートル、幅7メートル)」。1975(昭和50)年に開通した。生三、長沼双方の地名が名前の由来となっている。

 現在の橋が架かる前は危険な木造橋として生三の住民を悩ませた。川面すれすれに架けられた板を丸太で支えるだけの橋。昭和20年代初頭、木が朽ちたことで橋の表面にいくつもの穴が開き、農耕用の牛や馬、自転車は危なくて渡れなかったという。

 44年、一帯を豪雨が襲った。当時、生三に住んでいた男性(81)は「京田川が増水して橋が浮き上がる感じだった。流されなかったのが不思議なくらい」と振り返る。その後も橋の補修工事は幾度となく行われたが、大雨の時などは使えない時代が続いた。

 「冬の間は交通が遮断されて大変だった」と語るのは生三に住む藤原五朗さん(62)美恵子さん(61)夫妻。戦後、集落の中を県道が通ったが、細く、便の悪い道だった。吹雪の日は通行が危険で隣の集落にも行けない。危険な木造橋と不便な県道。2人は「現在の橋が開通するまで陸の孤島となることもよくあった」と苦笑いする。

 今、橋を渡るための苦労はほとんどなくなった。庄内町の中心部と鶴岡市を結ぶ橋として交通量も多い。五朗さん、美恵子さんは語る。「今は安心して渡れる。それが何よりだよ」


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=8 【京田川編[8]◆十文字橋(庄内・鶴岡)】より

十文字橋(庄内・鶴岡)の写真 2代目となる現在の十文字橋。初代の橋は中学生の汽車通学のために架けられた=鶴岡市長沼

 鶴岡市長沼と庄内町大野をつなぐ十文字橋(長さ75メートル)は新庄市方面から海水浴や空港に向かう人が多く利用し、交通の要衝となっている。

 主要地方道庄内空港立川線の橋で、道路を挟み十文字地区の集落は二つに分かれている。「藤島地名風土記」(青山崇著)によると、先代の十文字橋は1963(昭和38)年12月に完成した。この年の3月、集落内にある長沼中(65年、藤島中と統合)が火災で全焼し、生徒たちは近くの藤島中へ汽車通学し授業を受けることになった。近くの西袋駅(旧余目町)には迂回(うかい)して行くしかなかったため、旧藤島町が庄内農業高近くにあった木造の藤島橋を移転し、集落の名前から十文字橋と名付けた。中学生だけでなく、駅の利用者にとって便利な交通路となった。

 長沼郷土史研究会員で近くに住む深井嘉市さん(79)は「子どもたちが毎朝、橋を渡って駅に向かっていたので、地域では通学橋とも呼ばれていた」と昔を振り返る。

 現在の橋は87年に建設。それと同時期に橋付近の道路を拡張し、主要地方道となった。渡り初め式には地域住民が参加。3世代の夫婦が同居している家庭が代表として橋を渡り、完成を祝った。

 20年ほど前から子どもたちはバス通学になり、通学橋と呼ばれていたころに比べると人通りは少なくなったが、一方で、道路拡張によって交通量は非常に多くなった。夏には湯野浜などに向かう車がたくさん通るという。深井さんは「中学生たちは汽車の時間に間に合うよう橋の上を走っていた。その姿が毎朝の風景だったんだ」と昔の情景を懐かしんだ。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=9 【京田川編[9]◆西袋橋(鶴岡)】より

西袋橋(鶴岡)の写真 雲の間から日が差し始める朝の西袋橋。近くにはJR羽越本線の鉄橋があり、普通列車が走って行った

 主要地方道余目温海線の西袋橋(長さ58.4メートル)は庄内町西袋と鶴岡市長沼を結び、JR羽越本線の鉄橋と並行して架けられている。歴史は古く、江戸時代は松山藩主が宗家の荘内藩を行き来する重要な橋だった。だが一方で、かつては暴れ川だった京田川の水害で幾たびも流失の危険にさらされてきた。

 郷土史「西袋の歴史と民俗」によると、庄内で最も古い「正保絵図」(1644年)に西袋橋の記載があり、この時代は舟の上に板を渡した浮橋だったという。本格的な板橋ができたのはこれより少し後代で、元禄年間には橋の流失を防ぐため橋守が置かれ、橋のたもとに「橋之脇」の集落ができたとされる。

 西袋橋がコンクリート永久橋となったのは1929(昭和4)年。西袋自治会長の成沢孝雄さん(64)は「子どものころ、橋の上でけんかごまをした」と話す。昭和20年代後半はたまに木炭バスが走るぐらいで、今のように車が通る心配はなかった。橋は子どもたちの格好の遊び場だった。

 2代目の永久橋は72年、県道改修に伴い旧橋の下流約100メートルに架設。88年、京田川の堤防工事に合わせて現在の橋が造られた。西袋橋の架け替え工事で移転対象となり、2度も転居を経験した奥泉照子さん(69)=庄内町西袋=は橋が見える場所でたばこ屋を営む。もともとは対岸の旧藤島町の出身。「この辺は土地が低く、川がはんらんすると道路が冠水して湖になった。小学校のころ、祖父の川舟で学校に通った」と振り返る。

 66年の豪雨の際は住民が鉄橋に上り、避難したことも。奥泉さんは「今は洪水の心配もなく、穏やかに暮らせる。何とか商売を続けていければいい」と語った。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=10 【京田川編[10]◆吉方橋(庄内・鶴岡)】より

吉方橋(庄内・鶴岡)の写真 庄内町吉方と鶴岡市小中島をつなぐ吉方橋

 庄内地方で戦後最大の水害とされる1971(昭和46)年7月の大洪水。豪雨で京田川がはんらんし、川沿いの集落は甚大な被害を受けた。庄内町吉方と鶴岡市小中島を結ぶ「吉方橋」の周辺も例外ではなかったが、木造橋に代わる永久橋が直前の同年3月に完成、復興に貢献した。

 県庄内総合支庁河川砂防課によると、71年の洪水で庄内地方は1904戸が被災、被害総額は当時の金額で約6億3千万円に上った。農作物の被害は4億円超。田園と畑地が広がる吉方橋の周辺も水に浸されたという。

 橋の北東に位置する吉方集落の農家は当時から京田川の対岸に田畑を持っていた。洪水の半年前まで木造橋を渡って往来していた近くの渡部俊さん(82)は語る。「もし木の橋のままだったら洪水で流失してしまい、対岸に渡るのに苦労を強いられただろう。復興にはさらに多くの時間を要したと思う」。同集落の渡部平三郎さん(81)はかつての木造橋を「欄干につかまりながら歩かないと渡れないほど不安定だった」と振り返る。

 現在の橋(長さ51.8メートル、幅5.5メートル)は91年に開通。一帯では当時、県が京田川の拡幅や掘削、堤防の改修といった工事を行い、老朽化していた71年完成の橋の架け替えも実現した。

 冬の間、橋を渡る住民はほとんどいないが、田植えや種まきの時期になると地元の農家たちにとって欠かせない橋に変わる。俊さんと平三郎さんは「今の橋があるおかげで吉方の農家は作業がはかどる」と話す。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=11 【京田川編[11]◆小中島本小野方橋(庄内・鶴岡)】より

小中島本小野方橋(庄内・鶴岡)の写真 鶴岡市と庄内町をつなぐ小中島本小野方橋。名前をめぐり新聞や雑誌で取り上げられるほどの騒動が起きた

 遊佐町から鶴岡市までを縦断する通称「スーパー農道」の一部として1975(昭和50)年11月に完成した小中島本小野方橋(長さ54.3メートル、幅6.5メートル)。鶴岡市小中島と庄内町本小野方を結び、のどかな田園地帯に架かる。開通当初、橋の名称をめぐって騒動が起き、約4年間にわたり“名無しの橋”だった歴史がある。

 最初に付いた名前は小中島橋。旧藤島町側・小中島の地名から、県が名付けた。しかし渡り初めが終わってから、旧余目町が「橋が架かる前に両自治体で名称に関する話し合いがなかった」と県にクレームを付け、騒動が始まった。県は橋の名称が書かれたプレートを撤去。その後、両町の間で話し合いが持たれたがまとまらず、名前がない状態が続いた。一方で、小中島の若者5人は「小中島橋名称早期復帰同盟会」を組織、当初の名前の存続を訴える活動を展開していた。

 80年1月、橋が東田川郡のほぼ中央に位置するとの理由から県は「東田川橋」と名付けたが、直後に何者かがプレートを外すなど“ゴタゴタ続き”。同年3月、両町は苦肉の策として「小中島本小野方橋」の案を県に提出、ようやく今の名前に落ち着いた。地域住民によると、当時、日本一長い名前の橋としてマスコミに多く取り上げられたという。

 「当時は名前を取り戻そうと懸命だった。今ではいい思い出」と振り返るのは同盟会員だった石川勘一さん(62)。一方、本小野方の冨樫洋策さん(82)は「われわれは名称を気にせず、交通が便利になったことを喜んだよ」と話す。

 当時の騒ぎも今は昔。両集落をつなぐ橋として大切な役割を果たしている。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=12 【◆京田橋(庄内・鶴岡)】より

京田橋(庄内・鶴岡)の写真 国道345号バイパスに架かる京田橋。付近の集落はかつて、コメの集積地としてにぎわった

 庄内町京島と鶴岡市三和を結ぶ京田橋は2003年まで2本存在した。1本は国道345号のバイパス整備に伴い、1980(昭和55)年に架けられた新橋。もう1本は下流側にあった38年完成の旧橋。撤去された跡地は河川公園となり、古い親柱だけが残っている。

 現在の橋は長さ60メートル、幅15メートル。車がひっきりなしに行き来する。旧橋の近くはかつて「京田橋集落」と呼ばれ、大きな米倉庫や舟着き場があった。近隣の村々から馬そりや馬車で集められたコメは舟で酒田まで運ばれた。戦前までは商店や料理店などが立ち並び、にぎわいを見せていた。

 河川公園は2005年に三和地区の住民たちが整備した。あずまやを造り、記念碑も建立した。町内会長の冨樫達喜さん(62)は「当時の面影はなくなったが、ここに立派な橋があったことと、コメの集積地として栄えた集落の歴史を後世に伝えたかった」と話す。

 旧橋は地域住民にとって重要な生活橋だった一方、洪水の時には流木やごみが引っ掛かり、水害拡大の原因ともなっていた。だが、新しい橋ができても、取り壊さないでほしいという強い要望があった。元町内会長の冨樫義雄さん(78)は「三和の農家の人たちは庄内町側にも田んぼを所有している。農作業に行くのに、古い橋を渡る方が近くて便利だった」と語る。

 京田川集落は三和4区と呼ぶ。1996年、河川改修工事に伴い7戸が移転。うち5戸は今も4区内に住んでいる。区長の日向伸一さん(62)は橋の近くで商店を営んでいた。転居後、コンビニエンスストアに変えてからも、店のチラシにはあえて「京田橋」の地名を記載している。「この方が分かりやすいんだよ」。かつて繁栄を誇った地域への愛着が伝わってきた。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=13 【京田川編[13]◆藤立橋(庄内・鶴岡)】より

藤立橋(庄内・鶴岡)の写真 赤い欄干が特徴的な藤立橋。庄内町千本杉と鶴岡市楪、藤島関根を結ぶ

 「藤立橋」は鶴岡市楪(ゆずりは)、藤島関根と庄内町千本杉を結ぶ。橋の名前は旧藤島、立川両町の頭文字から付けられた。開通当初から二つの町の連絡道路としてその役割を果たしてきた。今の時期は赤い欄干が周りの雪景色に映える。

 1967(昭和42)年に完成。長さ36メートル、幅3メートルと車が擦れ違えないほど狭いが、朝夕に散歩したり、ジョギングしたりする人は多く、周辺集落の住民に親しまれている。

 郷土誌「関根部落のうつりかわり 近代への歩み」によると、昭和30年代までの京田川の改修工事は下流部(現在の酒田市広野周辺まで)で先行していた。藤立橋付近は川が大きく曲折していたため水の流れが悪く、川沿いの集落、田畑は大雨による浸水に苦しめられてきた。千本杉在住の石川欣一さん(78)は「集落が冠水すると、木の電柱をいかだのように組んで川に浮かべ、それに乗って移動していた人もいた」と苦笑いしながら懐かしむ。

 当時、下流の京田橋、上流の前野橋は既に開通していたが、藤立橋付近は木造橋すらなかった。住民は対岸に渡るため遠回りを強いられており、小さな橋でいいから架けてほしいという機運が少しずつ盛り上がっていったという。

 65年、県による川の改修工事が本格的に始まり、橋の架設も決定。川を挟んだ集落の住民同士が話し合いを持ち、現在の藤立橋の位置に橋を架けることになった。

 開通から40年以上が経過した。石川さんは「冬の間は除雪しないと車1台も通れないが、交通の便はずいぶんよくなった」と語り、「小さくて赤くて、周辺の住民にとってはかわいい橋だよ」と笑った。


https://www.yamagata-np.jp/bridge/bridge_detail.php?river=kyodengawa&num=14 【京田川編[14]◆前野橋(庄内・鶴岡)】 より

前野橋(庄内・鶴岡)の写真 鶴岡市藤島関根と庄内町三ケ沢をつなぐ前野橋。小ぶりだが周辺の住民に重宝されている

 小さくても周辺の住民に重宝される橋がある。鶴岡市藤島関根と庄内町三ケ沢をつなぐ「前野橋」。長さ21メートル、幅7メートルと“小ぶり”だが、300年以上続く川の両岸の交流を支え続けている。

 藤島町史上巻によると、橋の西側に位置する藤島関根、無音(よばらず)、楪(ゆずりは)は用水の乏しかった地域で、橋の東側、三ケ沢のせきから水をもらい受けて開田を進めた。それが元禄年間初頭の話。1690年代に当たる。旧藤島町の元教育長で藤島関根に住む加藤輝信さん(72)は「今の橋がある付近に樋のような筒状の物を渡し、水のやりとりがあったようだ」と話す。

 三ケ沢には複数のため池がある。近くの農業乙坂喜吉さん(69)によると、大正から昭和の初期にかけて、冬の間ため池にできた氷を売り買いする交流が対岸とあった。木造橋が架けられていたが安全とは言えず、住民たちは永久橋の建設を要望。初代のコンクリート橋が1939(昭和14)年、開通した。乙坂さんは「小さな橋だったが、若いころは前野橋を渡って集落のコメを藤島の倉庫に運んだ。鶴岡の中心部にも行きやすくなった」と懐かしむ。

 現在の橋は82年に完成した。地元建設会社の社員として工事に参加した藤島関根在住の伊藤信市さん(75)は「川底の掘削に苦労したが、老朽化した橋を架け替えたい思いで頑張った」と振り返る。

 藤島関根、無音、楪を含む東栄地区と三ケ沢地区の交流は現在も盛んだ。両地区の住民によるグラウンドゴルフ大会の開催は18回を数える。嫁や婿として対岸に移住する人も多い。京田川をまたぐ二つの地区をつなぐ架け橋は、今日も大切な役割を果たしている。

(以下略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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