「酒田三十六人衆」

http://sakata-cci.or.jp/tankentai/shiryou/tokunikou.html  【酒田市勢要覧「出羽の京(みやこ)、酒田」】より

  自由な商人の町酒田から 賑わいのまちへ 鍵はすべての産業にあり

湊町酒田の創始、そして繁栄の歴史を築いた

「自衛自治」の精神。三十六人衆の志は、酒田のまちに賑わいをもたらすカギとなるものです。

① 徳尼公と三十六人衆

とくにこう/さんじゅうろくにんしゅう

徳尼公は遺臣三十六人を連れて諸国を漂流、秋田から羽黒山のふもとの立谷沢に移り、その後酒田に居を構えた。中央西町の「泉流寺」の徳尼公廟に徳尼公像を安置、境内には三十六人衆の碑がある。

 酒田のはじまりを語る時、開祖として語り継がれているのが、徳尼公と三十六人衆です。

 徳尼公は、藤原秀衡の妹(もしくは後室)といわれた人物で、三十六人衆はその遺臣たち。文治5(1189)年、源頼朝の武力が奥州に及んで、3代100年栄華を誇った平泉藤原氏が没落。平泉を追われた徳尼公は、秋田から庄内に落ち延び、最上川南岸の袖の浦(現宮野浦)に尼庵「泉流庵」を結ぶと、三十六人衆の勤仕のもと、酒田で生涯を過ごしました。

 建保5(1217)年に徳尼公が没した後、三十六人衆の遺臣は袖の浦で船問屋を営み、地侍として町政にあたりました。袖の浦は「向酒田」といわれた河口の船着場で、出羽国府の湊としても栄え、平安時代から京都との往来があったといわれています。しかし、洪水の被害を受けやすかったことから、三十六人衆は川北の「当酒田」へ拠点を移すことに。移転後は「町組」という自治組織を作り、砂原を開拓して街並みと町割りを整えました。また、廻船業に便利なように最上川河口沿いに街を広げ、船着場や倉庫は川岸へ配置しました。これが酒田のまちの骨格となっています。

 酒田の発祥にはこうした伝説がありますが、実際の三十六人衆は、湊に集まった各地の武士や商人であるともいわれています。彼らは水上交通の要地に住んで物資の運送などをした「問丸」という業者で、やがて独自に船荷の仲介や輸送も行うようになったことから、酒田の経済活動とまちづくりが進んだという説もあります。

 諸説ある三十六人衆ですが、「自衛」の伝説と「自由自治」の精神で、町政の中心として幕末まで活躍しました。こうして酒田のまちには、確かな産業と経済の基盤が築かれたのです。   


http://hekisui.o.oo7.jp/36ninshuu.htm 【「酒田三十六人衆」の由来】より

平安末期の平泉政権奥州藤原清衡が平泉と京都を結ぶ玄関口として「酒田湊」を開き利用していた。

当時上方や朝鮮半島からもたらされた仏教美術品が廻船で酒田湊に運び、最上川を小舟で上り、本合海(現在の新庄市本合海)で一旦陸揚げし、牛馬の背に乗せて陸路を平泉に向かったという。当時の交易品の運搬は大半が太平洋ルートでなく、陸路でもなく日本海ルートを使っていた。

頼朝の奥州征伐で滅ぼされた藤原秀衡の妹(徳の前)もしくは後室(徳尼公)を守り36人の遺臣が落ち延びた。秋田市久保田でその姫が乗ってきた白馬が死に、其の地に草庵を作り祭った(草庵の跡に現在の白馬寺が出来たと云うが、現在の白馬寺は1500年頃に出来た寺で其の寺には伝承や古文書などは伝わっていないと云う。)と云い、暫く其の地に滞在した。その後一行は南下して、東田川郡立川町立谷沢の羽黒山(藤原秀衡が鎮守府将軍に任ぜられた時、田川太郎を奉行に命じ羽黒山神社の本社の大修理を行っていたからか?羽黒山中の荒沢寺に徳尼公の木造が伝わり、羽黒三山神社の斎館に徳尼公の位牌が伝わっている。)の麓付近に3年程住んだ後、酒田湊(当時向かい酒田=酒田市袖浦地区飯盛山付近)に逃れたという。そこに徳尼公が小さな草庵(泉流庵と云い、其の跡地に泉流寺が出来た。)を結び、90歳で亡く(1217年4月15日)なったと云う。

徳尼公の秘仏 徳 尼 公 三十六人衆の碑

その後36人の遺臣達は地侍となり、やがて廻船問屋を営む様になり酒田湊の発展に尽くした。徳尼公はその後、曹洞宗洞永山泉流寺(後向かい酒田より現在の酒田市中央西町に移転した)に祭られ、今も命日には当地の三十六人衆の後裔達が集まり、徳尼祭りが行われている。

その泉流寺の古文書に寄れば、1492年当時三十六人衆が存在しており、地侍兼商人としてその中の代表3名が町の世話役となり町の自治権を持ちを与えられており、名字帯刀は元より、合戦の際は戦場へも出たという。

しかし、三十六人衆と云う数は36歌仙、36峰、36計などの語呂合わせか(?)とも考えられる。其の当時でも全員の出自が、平泉から落ち延びてきたという家来かどうかは、はなはだ疑わしい。江戸初期の酒井家に提出した36人衆の出自を求められた記録によればその殆どが度重なる自然災害で家の記録が紛失で分からないとしている。現在三十六人衆の中で平泉からの遺臣の家で残っているのはせいぜい粕谷姓位(酒田市史)と見られている。

たびたびの酒田大火、大地震、最上川の大洪水に家運の栄枯盛衰等が加わり、家柄の決め手となる多くの古文書類が焼失、紛失しており断定は中々困難であると云われている。

酒田湊は最上川の上流部から、そして庄内の各地から紅花、米などが集まり西回り航路で上方へと送られて来た。そして上方からは木綿やお茶などの貴重品が送られてきた。特に木綿などは、最上川を上り内陸の新庄、山形はもちろん遠く仙台までも運ばれた。

江戸中期の航路 現在の鐙屋家 鐙屋家の帳場

酒田湊の商人は巨利の富を蓄積し、其の繁栄振りは秋田湊、新潟湊などをおさえて日本海側随一と云われ、井原西鶴の「日本永代蔵」に日本海側の代表として36人衆の一人「鐙屋」(アブミヤ=鶴岡出身?元の姓を池田と云い最上義光に「鐙屋」の姓を賜った)の繁盛振りが書いてある。

日本永代蔵 日本永代蔵 左が本町の通り

江戸期に入り、酒田36人衆も栄枯盛衰で没落する者、新たに栄える者が出て権利が生じ、36人衆合議の上で認められれば株で売買される様なった。酒井家の入部後も酒田の町は三つに分けられ、二つは酒井家の亀ヶ崎城代の支配する所であったが、残りのひとつ「酒田町組」だけは三十六人衆(酒井家からも引続き地侍として認められ苗字、帯刀を許されていた。)の自治下(三十六人衆は本町に店舗を構える事が決まりであった)に置かれていた。変則的な二重支配構造であった。

1632年に4代目酒田町奉行に就任した水野市兵衛なる者が町人が名字帯刀はおかしいと剥奪しようとして、藩に訴えたことがあったが、藩ではこれを認めず面目丸潰れとなり職を辞したという事件があった。しかし、1668年の幕府の平素の町人の帯刀を禁ずるとした布令および飼馬の特権の剥奪の布令には従わざるを得なくなり、それ以後はだんだん力(自治権)をを弱めていった。やがて幕府の方針で最後は奉行所の中に組み入れられる様になって行ったが、それでも経済的な負担、城米の輸送、城主の公私の御用品調達などと引き換えに、三十六人衆の合議制によるある程度の自治権を保有していたようだ。余談ではあるが、「酒田町組」が幕末の戊辰戦争の際に秋田との県境の吹浦口を守り戦っている。

酒田三十六人衆の姓がすべて出てくる文書は奉行所に提出したものが最初である。1680年頃には相当の入れ替わりがあったと見られる。36人衆の姓などから判断し、その出自を見ると地元庄内、内陸の他平泉、象潟、秋田、青森、伊勢、若狭、加賀、近江、美濃、越後、越前、越中、越後、佐渡、、鹿児島、甲斐、三河、能登、筑前、播磨、讃岐、大阪、丹波、駿河、相馬(福島)、泉等各地からの出身者等の者がおり、湊を通しての交流が広くあったからと考えられる。自分の持船が難破すれば、一晩で身代を失くする者もあったし、如何に豪商であっても、三十六人衆を一時辞して金の工面に大阪あたりまで出かけた者も少なからずいたと云う。江戸時代の廻船問屋は、儲けも大きかったが、儲けの大きい商売程リスクが伴うのは、今日でも変わらない。

其の点、江戸時代の本間家(日本一の大地主)は儲けたお金を土地に変えることが家訓となっており、江戸、明治、大正、昭和を乗り切って来た。戦後の農地解放の時、農地は無くなったものの、宅地が残っていなかったら復興はせず、没落していただろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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