https://ameblo.jp/tomel31/entry-12107512071.html 【ビバ・デュアリティ!(二元性・万歳!)・・・パート2】 より
みなさん、こんにちは。とうしんです。
やっぱし一ヶ月ぶりの更新となってしまいますた・・・。
年末はいろいろと忙しくなるもので、現実的なことに関わり始めると「思索モード」が阻害されてしまうんですよね~。内在と外在では周波数帯域が全く違うということがはっきり分かります。自称「内在研究家」のワタシですが、現実的作業に周波数が合ってる時は内在の「繊細な領域」がとっても分かりづらくなります。でもお陰様でどちらのモードも楽しめる「不動のワタシ」がいますので、いつもくつろいではおりますが-。
言い訳はさておき、前回の続きを始めることにしましょう・・・。
前回の趣旨をざっくり言うと・・・いま流行の「ノンデュアリティ(非二元)」に対して「ビバ・デュアリティ(万歳、二元性!)」、つまり「本当の二元性」というものがあるんですよと。「ビバ・デュアリティ」については、ヌーソロジーの提唱者・半田広宣さんが先日ツィッターで「リアル・デュアリティ」とつぶやいておられましたので、「リアル・デュアリティ(真の二元性)」とも表現させて頂きます。
さて、ワタシの主旨は単なる「ノンデュアリティ批判」ではありません。むしろその逆で、
①ノンデュアリティの凄さ、その破壊力・実用性、その意義と価値を充分に押さえた上で、
②ノンデュアリティの危険性、それも深刻というか致命的なヤバさもしっかりと踏まえて、さらに
③その先がある、その先はどうなっているのか、そこへどのようにして向かっていくのか・・・
ということを露わにして行きたいワケですな。
いつものペースだと③の結論までいつたどり着けるか分からないので、今日は③からざっくりとダイジェストで見ていくことにしましょう。また恐ろしい長文になるのを避けたいですから(汗)。
◆まずは、③「ノンデュアリティ」のその先とは?
もう既に何度か出てきていますが、その先にあるものとはずばり「リアル・デュアリティ」です。「本当の二元性」。宇宙の本質はダイナミックな「二元性」であるということです。それは「自己と他者」のことであり、「双対性」という言い方がより正確です。そして「双対」とは四値論理、このブログでいう「4サイクルエンジン」になります。これが変換人型ゲシュタルトの論理。人間がこの論理に生きるようになるだけで「内側の争い」は消滅し、周囲に調和と平和を創り出す人になることでしょう。聖書にある「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(ルカ5章9節)ですね。そのまんま。
ちなみに一般的に言う「二元性」とは「一者の価値観」ですからね。「振り子」のことです。二元性とは実は既に「一元性」なんですよ。「表裏一体」とか「善悪」とか「正負の法則」とか。「正負の法則」って言う西洋から来た「メソッド」とかがありますけど、あれってメチャクチャ苦しいですよ。実践した人なら分かると思います。凄く気分が重たくなります。ここでいう二元性、表裏とか正負というのは、実は「一つの価値観」に裏打ちされています。これがくせ者でして、この一つの価値観、つまり「一者」が背後に回って隠れています。そしてこの「一者」は末端で正負や善悪にゆれる者のエネルギーを吸い取ってるワケです。ですから「一者」からすれば、善に振れようが悪に振れようが実はどちらでもいいんですね。どちらに振れても「一者」という「振り子の主人」には「利益」をもたらします。これがピラミッド構造であり、「全てを見通す目」が示していることです。
二元性振り子
「ヌーソロジー~自分教」の文脈ではこれを「偽りの神」と言ったりします。実際に「正負の法則」とか「表裏一体」「二元性消滅」を唱えるメソッドに触れると最初は解放感があったりすると思います。ファーストインパクトはあるでしょう。それから実践論に入っていくわけですが、そこから苦しみが始まるワケです。「その指導者が言ってるようになりたいけどなれない」という「慢性負け組症候群」のような状態になります。いやらしい言い方をしましたが、普通に「師匠と弟子の関係」にはそういうい側面もありますので、ここまでは受け取り側の問題と言えます。各自自己責任の範疇です。しかし、その主催者の意図が不純である場合(意識的でなければ無意識的にも)、ここに問題が生じます。慢性負け組の弟子達がその師匠の養分になるのです。ワタシはこの状況に対して「スピリチュアル・ヘルス(by自分教)」という概念を導入したいと思います。このような状況に陥った「師匠と弟子」は双方とも「スピリチュアル・ヘルス」的に言えば病気です。「win-win」の関係じゃなくて「win-lose」、これはスピリチュアル・ヘルス的には「lose-lose」(双方病気)状態。「win-win」しかスピリチュアル・ヘルスとは言えません。
少し話がそれましたが、普通に「この世は二元性」という場合、実はその背後に見えない「一つの価値観」があるということがポイントです。つまり「二元性云々」といった議論自体がすでに「一元性」「ワンネス」なのです。「この世はすべて二元性です」はワンネス主義の合言葉です。ですがそこに巧妙にエゴというか「一者の価値観」が背後に隠れるのです。ぶっちゃけて言えば、「ワンネスであるか、ワンネスでないか」という新たなる二元性の出現です。「その言い方、ワンネスぽくな~い」って具合に。いい感じに混乱してきましたねっ!(爆)「ワンネスは良い、だから努めてワンネスになろう」とする価値観のことです。これが新たな苦しみの原因になるという本末転倒が始まります。「一つの価値観」が「振り子」という「二元性反復」を作りだしていることに気づけません。末端はその「二元性反復」の中に投げ込まれて、主催者(一つの価値観の体現者)にエネルギーを吸い取られるのです。陰謀論でお馴染みの「ワンワールドオーダー」という世界秩序も人間を永遠にこの振り子の中に閉じ込めようとするものです。
ざっくり言いましたが、およそほとんどの宗教、自己啓発やスピリチュアルで起こっている日常はこのような状況の繰り返しです。間違いありません。でなければ過去のどこかであらわれた「教え」によってとっくに全てが解決していなければなりません(しかし実際はいまの世界の状況が物語っています)。
そんな悲惨な状況の中で、最終兵器、一撃必殺のヒーローの如く登場してきたのが新しい潮流、「ノンデュアリティ」なのです!・・・おっと、うまい具合に①に接続してきました。
◆ということで、①ノンデュアリティの破壊力、その意義と価値ッッ!
※ノンデュアリティは一撃必殺のヒーローか?
一撃必殺のヒーロー「ワンパンマン」というおバカなマンガがあります。最近のマンガです。WEBマンガというオタクな世界(自主ブログ)から派生しましたが、今はアニメ放映までされています。凄いですね、WEB上のオタクな個人作家が短期間でテレビアニメにまでなる時代。ホントにマンガみたいな時代ですね、今という時代は。
ワンパンマン
マンガ、それも格闘ヒーロー系なので好き嫌いもあるでしょうから、この話題への深入りは避けますが、このワンパンマン、読んでいて最高にスカッとします。とにかくめちゃくちゃ強いワケです、この主人公。容姿は冴えない普通以下の三枚目なワケですが、どんなに強い、恐ろしい敵・怪人があらわれても原則一撃で終了します。「ワンパンチ」で終了、だから「ワンパンマン」。本人曰く、僅か3年の修行でそうなったらしいのですが、とにかく桁外れに強くて、普通の物語のような勿体ぶった展開はありません。ワンパンチ・一撃で終了します。宇宙一強そうな敵があらわれても大体一発で終了。圧倒的なのですね。絶対的な力、神の力が宿っているとも言われています。
ここに「ノンデュアリティの破壊力」に似たようなものを感じます。ノンデュアリティも一撃必殺です。「私はいない」の一撃で全てを終わらせるのです。・・・さきほどはワンネスを例に「一者の価値観による呪縛」を説明しました。そしてそれは「偽りの神」であると。実はこの「偽りの神」は「自我」と同盟を結んでいます。双方が補い合う関係なんですね。ですから「自我」が消滅すれば「偽りの神」も消滅します。そこで「私はいない」、つまり「無我論」としてのノンデュアリティの一撃です!
ちょうどここに著名なノンデュアリティ・ティーチャーの一人である溝口あゆかさんの文章があります・・・
近年の欧米では、「エンライトメント」(悟り)を指す言葉として、「ノンデュアリティ(非二元)」が一般的に使われるようになってきました・・・・(中略)・・・・なぜノンデュアリティという言葉の方が好まれるようになったのか。それは、悟りや覚者の長い歴史を経るうちに、エンライトメントという言葉に多くの誤ったイメージがつくようになってしまったためです。たとえば、恍惚とした至福の状態や高次の宇宙意識に到達すること、または内なる仏陀やキリスト意識とつながるといったイメージ、または何日も地下にこもるといった苦行や難行、瞑想をし続けて即身仏となるなどといったイメージも多いでしょう。または、いわゆる”悟った人”を必要以上に神格化したり、グル扱いする現象もそれなりに起きます。そういった大げさなイメージを払拭するために、あえてドライな印象すらありますが、特にイメージのない「ノンデュアリティ」が使われるようになったのです。(スターピープル誌55号より)
ここではエンライトメント(悟り)という言葉に対して語られていますが、ワンネスも同じことです。ワンネスやエンライトメントという悟りを示す言葉に「多くの誤ったイメージ」がついてしまったと溝口さんは言っています。ワンネスは汚れてしまったのです。本日の「自分教」の文脈で説明すれば、その原因は隠れた一者の価値観、「ワンネスかワンネスでないか」「エンライトメントしてるか、してないか」であり、それは「偽りの神」であると同時に「自我」そのものだったワケです。ワンネスにも自我が侵入するのです。そこで「ノンデュアリティ」という一撃の登場です。「そもそも私はいないんじゃぁ~~~」というワンパンチを食らわすのです!
これ、冗談ではありません。「ノンデュアリティ」が真に伝えようとしていることはそういうことなのです。「悟る者などどこにもいない」「もともと個人はいない」という一撃。そして「探求の終わり」が訪れます。解放。
ティーチャーによって様々な表現方法があり、複数のティーチャーの言説を読み込み、自分に一番しっくりくるティーチャーを見出すことで、自分なりの「一撃・ワンパンチ」が出来るようになります。自分なりの「ワタシはいないんじゃぁ~~、おんどりゃぁ~~(^o^)」。これができるようになると、瞬時に落とせるようになります、自我を。それを繰り返していると次第に自我の無い世界、つまり無我の周波数が身についてきますから、もう「無敵」になっていきます(笑)。
ナホチャンマン
これにて一件落着~~~!ということで、めでたく探求は終わり、期せずして「いま・ここ」に生きれるようになって、平安な日々が訪れるようになります。メ・デ・タ・シ、メ・デ・タ・シ・・・ホントにそう?
キタ~、予定調和的に最後の②に接続してきました~。
◆ということで、②ノンデュアリティの危険性、致命的なヤバさについて
先ほどのマンガ、「ワンパンマン」にはもう一つ重要なポイントがあります。一撃必殺のヒーロー、圧倒無比な力を手にして、もう宇宙に敵はいなくなった主人公サイタマ・・・この神の力を得た彼は・・・実のところいつも「憂鬱」なのです。圧倒的な力を得た者の「空しさ」の中にいつもあるのです。もちろんマンガではそれが面白おかしくスパイスになっているのですが、これは「ノンデュアリティ」にも通じるものがありそうです。
※圧倒無比の「ノンデュアリティ」がもたらす「空しさ」
マンガまで登場してきた今回のブログ、イラストもアレで、もう品格もへったくれも無い状態です。いつもの論文的な格調高さは微塵もありません(爆)。崩れついでに、今日はある人物を紹介することにしましょう。
「精神世界のダークヒーロー」とでも言うべき人物がいます。日本人です。正直このブログではあまり取り上げたくはありませんでした。なぜって?・・・「よい子のみなさんはマネしないでね」としか言いようがありません。それぐらいの危険人物です。ですがワタシの中ではこの「ワンパンマン」の主人公にダブるものがあります。彼は僅か数年の修行(というか家で引きこもって寝ていただけ?)で突如「ある領域」に到達します。34歳の時。いわゆる「覚醒」「大悟見性」。それからこの人物は全国各地の禅寺や瞑想センターに定期的に文章を送りつけるようになります。どこぞのキ○ガイが送りつけてきた手紙・・・大抵はゴミ箱行きであったに違いありません。しかしその文章に目を通した数名の修行者達が、一人、また一人と戦慄を覚えるようになります。探し求めていた境地、到達した者が発する威厳とオーラ・・・やがてこの人物のもとに全てを捨てて全国から弟子が集うようになるのです。34歳で大悟を得て書いた彼の文章は、多くの 瞑想者や禅寺の座禅者たちに配布され、仏法、禅、瞑想修行、TAOの裏街道ではカリスマ的存在として認識されたといわれています・・・1993年頃のこと。
その人物の名は「無名庵EO」と言います。日本におけるノンデュアリティ界のレジェンドです。今日の「ノンデュアリティ産業」とでも言えるようなライトなものではなく、ストイックでヘヴィーな、「ノンデュアリティ」の極限を極めた者。いかなる事象も「無我」の一撃で終わらせる、圧倒無比の一撃必殺ヒーロー「ワンパンマン」に例えられる精神世界のダークヒーロー・・・。
EO
ダークヒーローというのは、この人物の文言があまりに強烈で、逆説的で、時に表現を憚るほど過激だからです。とても表街道には出せません。しかしながらこの人物の境地や思想には、悟りを目指す者達を魅了する力があったのです。それも圧倒的な力を。ある者はこのEOに「現代のブッダ」を見たのかも知れません。それぐらいの人物でした。
しかしながらEOは、大悟してから2年後の1994年、わずか36歳でこの世を去ります。何という夭逝でしょうか。物語はまだ始まったばかりだと言うのに・・・。そう、大悟した彼は「物語自体」を拒絶したのです。彼の表現を借りて言えば、細胞自体にまで潜むエゴが解体されてしまったので生きる意味や力を全て失ったのです・・・「虚無」・・・このブログで以前から指摘してきた「虚無」の一つのカタチがここに見られます。
圧倒的な強さを手に入れたが故の「空しさ」につきまとわれるワンパンマンの主人公サイタマ・・・この姿が圧倒的な悟り(無我、ノンデュアリティ)を手に入れた末の「虚無」に飲み込まれたEOとダブるのです。
にわかノンデュアリティでは想像だにできない、己の細胞自体をも解体してしまう程の「無我」・・・・。何もこれはEO氏だけに限ったことではありません。本当の無我、ノンデュアリティに直面した時には「恐ろしいほどの虚無」と対面させられることになります。他にもそのような事例がいくつか見られます。
もう一人、バーナデット・ロバーツという米国の女史がおられます(1931生まれ)。この方もまた極限のノンデュアリティに直面してしまうのですが、そこから命からがら脱出してきた方です。この方が興味深いのは敬虔なクリスチャンとして「ノンデュアリティ(非二元)」に突入したということです。普通、信仰者がこうはなりません。先ほども言いましたが、「神」と「自我」は同盟関係です。神(一神教)への信仰と自我の発達は実は同じプロセスです。「西洋文明の発達」がそれを物語っています。神を信仰している限り、実は自我が守られるのです。バーナデット
ですがバーナデット・ロバーツ女史は信仰の延長線上として「無我」に突入するのです。信仰者として最高の境地である「神との一体」「神と共にある生活」「神の花嫁」としての至福を長い間経験した後に突如としてそれは起こったといいます。ワンネス体験から自我の消滅、無我、そして虚無へと移行したというのです。信仰者が「無我」に陥るとどうなるのでしょうか。そうです・・・「無神論」になるのです。最高に神を信仰した結果、「神はいない」という結論を突きつけられるというのですよ!疑いから来る「神はいない」じゃないですよ。人生を捧げた信仰が最終的に突き返してきた「無神論」なのです。想像を絶する世界です。彼女は文字通り、死にかけます。その壮絶な体験を彼女は「自己喪失の体験」という本に記しています。
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おっと、もうこんなに長くなってしまいましたね。本日はざっくりダイジェスト版としてジャーナリスティックな記述に終始しました。いつものようなエキサイティングな「構造解明」はお届けできませんでしたが、それは次回に繋ぐことにしましょう。
ということでまとめに入りましょう。
「私はいない(無我)」の一撃が人類に光明をもたらすのか?長きに渡る人類の苦しみに終止符を打つことができるのであろうか。確かに「私はいない」には圧倒的な力がある。それは無敵である。ノンデュアリティに関心のある者は、この無敵さを実感するところまで習得してもらいたい。だがそれで全て一件落着なのだろうか。昨今のノンデュアリティ・ブームに対するカウンターとしての「反スピ」現象を見るに、どうも一件落着とはいかなさそうである。そしてストイックに非二元を追求した先駆者達が身をもって示してくれた「虚無」というプロセスの実態・・・。どうする、ノンデュアリティ?その先に道はあるのか?・・・なんて問えばおそらく「それはストーリーに過ぎません」と返されると思うけど・・・。
「ヌーソロジー~自分教」の文脈では、ようやくここに真打ち登場ということになる。ついに、本当の一撃必殺ヒーローが姿を現す!
「ノンデュアリティ」を乗り越えていく真のヒーロー・・・その名は『純粋持続』である!
純粋持続
『純粋持続』・・・ベルグソン哲学。そしてヌーソロジーで言う「奥行き」の世界。
次回はこの「純粋持続」の世界へ踏み込んで行きたいと思います。
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