地に端座する

https://ameblo.jp/kasama930/entry-12209080107.html 【獨歩丹霄(たんしょうにどっぽす)】より

夕焼け空の下をひとりで歩いていく。

「臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心、やり方、ペースの維持を最優先させたいという本能的志向が強いこと」が、一部の人たちに共通して見られる心理的・行動的な特性という。

この一部の人たちを『自閉症スペクトラム』というそうな。

専門的なことは別にしても、一部ではなく、一般的な人たちのことではないかと思ったりしている。私は一部なのか、それとも一般的なのか、はなはだ疑問だが、「生きづらさ」を感じていないとすればウソになるだろう。

仕事は人間関係でする、異論はないが果たして現実的だろうか。

今日、人と向き合ったのは何分だったか、人を目の前にして話をしたのは誰と誰か、以前より比べて少なくなったのではない、環境がそれらを余儀なくしているとしたら、問題はすべて自分にあるといっていい。パソコンは人ではなく、人と人とのやり取りを効率化して、その効率化によりもっと人は人に近づけというツールのはずだった。逆に人を回避することを効率化と称するようになった。

「最高の人間関係は、自分の苦しみや悲しみは、できるだけ静かに自分で耐え,何も言わない。人の悲しみと苦労を無言のうちに、深く愛することができる人間同士が、つき合うことである。」(曽野綾子)

君看双眼色(きみみよそうがんのいろ) 不語似無憂(かたらざればうれいなきにたり)

不語、語っていないのではない。不語という語りをしている。

沈黙しているのではない、沈黙という不語を語っているのである。

『憂い』

むかしの人の詩にありました 君看よ双眼のいろ 語らざれば憂い無きに似たり

憂いがないのではありません 悲しみがないのでもありません 語らないだけなんです

語れないほどふかい憂いだからです 語れないほど重い悲しみだからです

人にいくら説明したって 全くわかってもらえないから 語ることをやめて

じっと こらえているんです

文字にもことばにも 到底 表せない ふかい 憂いを おもい かなしみを こころの底ふかく ずっしり しずめて じっと黙っているから まなこが澄んでくるのです

澄んだ目の底にある ふかい憂いのわかる人間になろう 重いかなしみの見える眼を持とう

君看よ双眼のいろ 語らざれば憂い無きに似たり 語らざれば憂い 無きに似たり

【みつを】

夕焼けは、昼と夜の時間のあわいにある。

人もまた、人と人のあわいにある。

https://shuchi.php.co.jp/article/1535 【「心身脱落」「只管打座」ー道元のたどりついた悟りとは】より

ひろさちや(宗教評論家)

『正法眼蔵』は、日本における曹洞宗の開祖・道元の主著。生涯を掛けて全100巻の著となる構想だったが、54歳で示寂し、未完の大著となった。

同著は、哲学的で難解といわれているが、たとえば道元思想のキイ・ワード「身心脱落」について、訳者であるひろさちや氏は「角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖が消滅したのではないのです。ただ角砂糖という状態――それが<俺が、俺が……>といった自我意識です――でなくなっただけです。

砂糖は湯の中に溶け込んでいるように、自己は悟りの世界に溶け込んでいるのです。身心脱落とはそういうことです。」と、わかりやすく解説を加える。

※本稿は、『新訳 正法眼蔵』(PHP研究所)の内容を、一部抜粋・編集したものです。

道元の開悟

『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は道元の主著です。そして未完の大著です。

彼は、自分のライフ・ワークとして、全百巻の『正法眼蔵』を制作するつもりでいました。建長5年(1353)に道元が執筆した「八大人覚」の巻の奥書に、その構想が明かされています。だが、その構想は残念ながら実現しません。なぜなら、彼はその年の8月に、54歳で示寂しているからです。

彼の死によって、『正法眼蔵』はどうなったのでしょうか? しかし、それを語る前に、われわれは道元の生涯を瞥見しておきましょう。

道元は、正治2年(1200)1月、京都の貴族の名門に生まれました。近年は異説も出されていますが、従来の説によるなら、父は内大臣久我通観、母は関白太政大臣藤原基房の娘伊子で、彼は3歳にして父を、8歳にして母を失いました。

たぶんそのことも理由になるのでしょう、道元は14歳で比叡山に上り、出家しました。貴族すなわち政治の世界から、宗教の世界へと身を転じたのです。

だが、比叡山に入ってすぐに、彼は1つの疑問に逢着します。

仏教においては、「人間はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏である」と教えているはずだ。それなのに、われわれはなぜ仏になるための修行をせねばならないのか?

そのような疑問です。

彼はこの疑問を比叡山の学僧たちにぶつけますが、誰も満足な答えを与えてくれません。そこで彼は比叡山を下りて、諸方の寺々に師を訪ねて歩きます。それでも求める答えが得られないので、ついに彼は宋に渡ります。貞応2年(1223)、道元が24歳のときでした。

けれども、宋においても、なかなかこれといった師に出会えかった。道元は諦めかけて日本に帰ろうとしますが、そのとき、天童山に新たに如浄禅師が人住されたことを聞き、天童山を再訪します。

じつは道元は、中国に来て最初に天童山に行ったのですが、そのときは良師に巡り合えなかったのです。

如浄禅師に会った道元は、〈この人こそ、自分が求めていた師である〉と直感し、如浄の下で参禅し、豁然大悟しました。宝慶元年(1225)、彼が26歳のときでした。

ただし、宝慶元年は中国の元号です。道元が大悟するきっかけは、大勢の憎が早暁坐禅をしているとき、1人の雲水が居眠りをしていたのを如浄が、「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管に打睡していん恁麼(いんも)を為すに堪えんや」と叱ったことでした。

何のために坐禅をするかといえは、身心脱落のためだ。それを、おまえはひたすら(只管)居眠りばかりしている。そういうことで、どうなるというのだ!? そういう意味の叱声です。そして如浄は、その僧に警策を加えました。

その瞬間、道元は悟りを得たのです。自分に向かって言われたのではない言葉、他の雲水を叱るために如浄禅師が発した言葉が触媒になって、道元に悟りが開けたのてす。

おもしろいといえばおもしろい、皮肉といえばすごい皮肉ですよね。

「身心脱落」

ともあれ、道元が悟りを開いたきっかけは、彼が聞いた、-身心脱落-という言葉てす。そして、まちがいなくこの言葉が、道元思想のキイ・ワードになります。ある意味で、この言葉さえ分かれば、道元の思想が理解できるのです。

では、「身心脱落」とは、どういうことでしょうか……?

これは、簡単にいえば、-あらゆる自我意識を捨ててしまうことだ-と思えばいいでしょう。われわれはみんな、〈俺が、俺が……〉といった意識を持っています。〈わたしは立派な人間だ〉〈わたしは品行方正である〉と思うのが自我意識です。

一方で、〈わたしなんて、つまらない人間です〉というのだって自我意識。自我意識があるから、自分と他人をくらべて、優越感を抱いたり、劣等感にさいなまれたりします。

そういう自我意識を全部捨ててしまえ!というのが「身心脱落」です。もちろん、意識ばかりでなしに、自分の肉体だって捨ててしまうのです。

わたしは、自我意識というものを角砂糖に譬えます。わたしというのは角砂糖です。そして他人も角砂糖。わたしと他人との接触は、角砂糖どうしのぶつかり合いです。

それで角砂糖が傷つき、ボロボロに崩れます。修復不可能なまでに崩れることもありますが、普段は崩れた角砂糖をなんとか修復して、それて「自我」を保っているのてす。

道元の身心脱落は、そんな修復なんかせず、角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか、というアドヴァイスです。

湯の中というのは、悟りの世界です。

わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが身心脱落てす。そうすれば、わたしたちには迷いもなくなり、苦しみもなくなります。

いや、そういう言い方はおかしい。迷いがなくなり、苦しみがなくなるのではなしに、わたしたちは大きな悟りの世界の中でしっかりと迷い、どっぷりと苦しめばいいのです。

迷いや苦しみをなくそうとするから、かえってわたしたちは迷いに迷い、苦しみに苦しむのです。そんな馬鹿なことを考えず、迷っているときはただ迷う、苦しいときはただ苦しむ。それこそが身心脱落にほかなりません。

けれども身心脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖が消滅したのではないのです。

ただ角砂糖という状態-それが〈俺が、俺が……〉といった自我意識です-でなくなったたけです。砂糖は湯の中に溶け込んでいるように、自己は悟りの世界に溶け込んでいるのです。身心脱落とはそういうことです。

だとすれば、道元が悟りを開いた-といった表現はちょっとよくない。道元は身心脱落して、悟りの世界に溶け込んだのです。道元の悟りというものがそういうものだということを、読者は忘れないでください。

仏が修行をしておられる

そして、ここのところに、若き日に道元が抱いた疑問に対する解答があります。

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません。

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

わたしたちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でもこれぐらいのことはしてもいいだろう……と思ってしまいます。それは自分を甘やかしているのです。

その背後には、自分は仏ではなしに凡夫なんだという気持ちがあります。しかし、自分が仏だと自覚すればどうでしょうか? もちろん、仏といっても、悟りの世界に飛び込んだばかりの新参の仏、赤ん坊の仏です。

しかし、仏だという自覚があれば、〈自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない〉と考えて、悪から遠ざかることができます。それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

道元はそういう結論に達したのです。

そして彼は、その結論を、-修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修-

と表現しました。修行と悟り(証)が一つであって別のものではない。“本証”とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが"妙修"です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、-仏らしく生きるため-

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

ですから、坐禅が、禅堂に坐ることだけをいうのであれば、道元はそんなものは必要ないと言うでしょう。道元にとっては、行住坐臥(歩き・止まり・坐り・臥す)のすべてが坐禅でなければならないのです。

日常生活そのものが坐禅です。食べるのも坐禅。眠るのも坐禅。いわば仏が食事をし、仏が眠るのが坐禅です。そのことを道元は、

-只管打坐(あるいは祇管打坐とも表記されます)-

と呼んでいます。"只管""祇管"とは宋代の口語で、「ひたすらに」といった意味。ただひたすらに坐り抜く、眠り抜き、歩き抜く、その姿こそが仏なのです。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しておられるのです。道元がたどり着いた結論はそのようなものでした。

Facebook田中 宏明さん投稿記事

もう15年も前インドのバラナシのガートと呼ばれる場所で僕は毎日人が火葬されるのを眺めていました

その光景を見ているとなぜか心の奥が癒されるのを感じていたからです

毎日、毎日死体が運びこまれて 毎日、毎日 人が焼かれて灰に なって行きます

インドの火葬は 日本のようなガスではなく 原始的な薪で それ専門の火葬職人の ような人がいます

毎日火葬を見ていると人間には燃えにくい箇所が二つあるのに気づきました それは、頭部と膀胱です 職人さんは その箇所を木の棒で強く 突いて砕きます

膀胱を突くと 内部の水分が 水蒸気になって 立ち上がります

頭部に至っては 頭蓋骨を砕いて 脳みそを取り出します 一度その脳みそを足が折れた仔山羊と野良犬が取り合いをしているのを見た時は ここは本当に現実世界なのだろうかと

感じたのを覚えています^ ^

そんなふうに毎日ただ人が焼かれて灰になるのを見ているうちに気づくと自分の中にあった様々なわだかまりやこだわりがいつのまにか消えていることに気づきました

こんなに自分が空っぽになっているのはとても久しぶりで 本当に強い風が吹けば

飛べるんじゃないかと 思うほど 自分の存在が 軽くなっているように 感じました

そんなある夜 僕はガートの近くで プジャ(祈りの儀式)で 焚かれていた火に 惹かれて

ただ一心にその火を見つめていました

しばらく経ったころ 後ろから「エイッ」という声が聞こえました

振り返るとめっちゃするどい目つきのサドゥが僕を手招きしていました

「怖そうな人やなぁ」と思いながら恐る恐る彼の近くにいくと 彼はヒンディー語で 何か僕に言っています さっぱり分からないまま聴いていると 突然自分の首にかかっていた一粒の菩提樹の実がついたネックレスを僕にかけてくれました

そのするどい目つきのまま少し笑うと「行け!」といった感じで首を横にふりました

僕はなんだか よくわからないまま でもサドゥからネックレスがもらえたことがなんだか嬉しくて不思議に満たされた気持ちになっていました

それからしばらくしてグルジー(師匠)にプリーの海岸ではじめて出会った時 突然彼は

近づいて来て こう言いました「わたしと旅に出なさい」僕が面食らって驚いていると

「それがその印だ」と言って僕のシャツの下に隠れていた菩提樹の実を指差したのです

僕は混乱した頭のまま「なぜこれを つけているのが わかったのですか?」と聞きました

するとグルジーは「印は光っている だからわかる」とだけ答えました

そして、僕はこの なんともわからない インド人と突然旅に出ることになったのでした^ ^

とまぁ長い前振りになりましたがなぜこんな話しをしたかというと

僕にも最近その印がわかるようになって来たからなんです

それは菩提樹の実といった象徴的なものではなくてその人の空っぽさなんです^ ^

僕が火葬を眺めていることによってなぜか空っぽになってしまったように

あらゆる苦難や葛藤の末に自分自身が希薄になってしまった人がいます

思いつくあらゆる手をやり尽くしても何も人生が好転しなかった時人は一種のゆだねの境地の

中にいます

絶望が人を強制的に空っぽにするわけですそしてそれが印となって感じるのです

僕が本当に全身全霊を込めて人に向かって関わろうと思うのはその印がある人だけです

むしろ、それ以外の人に何かを話してもまだまだ「自分」いっぱい詰まっているので

話しても何も伝わることはないんです

だからやはりそれはまだ機が熟していないのです

苦しみの中にいることは本当に辛いことですがそれは世界に溢れる愛を受け入れる準備が

整っているという印でもあります 何よりも僕自身がそうだったからよくわかります^ ^

そしてその開きかかった扉が閉じないように いつも、真実に 触れていることが

大切だと思っています^ ^

一つだけ 確信を持って言えるのは 扉に気づいた人は 必ず開きます😊

例えどんなに ゆっくりに感じても 必ずハートの 扉は開きます^ ^

だから今日も 自分自身のハートを 感じてあげてください

頭の中の声に 引っ張られそうに なったら 意識を ハートに戻して あげてください

その扉から 漏れ出る光こそが あなたの 本質そのもの なのですから😊

では皆さまも素敵な一日を🌈ワハハ🌈らぶ💓


https://zenken.agu.ac.jp/tuesday/experience/h11.html 【参禅会体験記 平成11年】より

本研究所では、毎月第2火曜日午後4時30分から火曜参禅会を開催しています。

本学の教職員や学生ばかりでなく、学外の方や外国の方も参禅に来られます。経験の有無にかかわらず、関心のある方は、お気軽に禅研究所までお尋ねください。

以下に、参禅会員の体験記を紹介します。

伊東 徳義  禅と生活

 本学院の開放溝座の聴講生として3年を過ごしました。開講式の日に禅堂を案内していただき、参禅会員にしていただきました。立派な禅堂、そのまわりの枯山水、森の深さ、野鳥がわたり、風がわたる幽境の道場、始めて禅堂に坐した感動を今も忘れることなく続けさせていただいております。その間、所長先生をはじめ研究所の皆様の優しい御指導をいただき、幸せなことでございます。また立派な会員の方々ともお会いできました。中には私にとってまたとない尊敬すべき方もみえました。

 道元禅師の坐禅は「只管打坐」。禅門の師と弟子の問答はありません。禅師は悟りや意義を求道する為でなく、無条件に坐禅に打ち込む姿こそ、そのまま仏であると説かれています。また、それまで汚れが多く成仏できないと言われていた女性も、「修行と成仏において全く平等であり、坐禅弁道すれば大導師にもなることができる」と説かれています。この事は身分、学歴、年令、国籍を問わず、自由に坐禅に打ち込めることを示しています。

 「ただ阿弥陀仏にすがり、念仏だけで極楽往生できる」と説く浄土真宗に対して、道元禅師は宗教の根源を菩提樹の下で悟りを開かれたお釈迦さまの冥想体験そのものに求められたからでしょう。曹洞宗寺院では御本尊として釈迦如来、観音菩薩等、いろいろまつられています。道元禅師は坐禅こそ信仰であり、日常生活のすべてが坐禅の延長であるから正しい生活をしなさいとおっしゃっているのです。「只管打坐」のみです。

 家の庭に2本の楠があります。1年中、青い葉をつけていますが、初夏には古い葉をすべて落とします。そして瑞々しい若葉を一斉につけます。しかし、大樹は年中青く、一瞬たりとも裸になることはありません。時の流れ、自然の営み、社会の動きの中で、私は私の坐禅の芽を育てたい。恵みに感謝して。

武藤 明範  坐禅するご縁をいただいて

 鈴木教授に無理なお願いをして、大学院の演習科目である『永平広録』を受講させていただき、道元禅師の宗旨を参究し始めていた私に、ある1つの衝撃があった。「若(も)し同牀(どうしょう)に眠らずんば、争(いか)んぞ被底(ひてい)の穿つことを知らん」(『永平広録』巻2・171)という語に出会った時のことである。

 この語は、もし同じ僧堂で寝起きを共にして、坐禅弁道しなければ、どうして坐蒲(蒲団)に穴があいてしまう程の坐り切りという、つまり仏法の真理をどうして知ることがあろうか、という意味である。この一句に出会った時、私の怠惰な心は激しく鞭打たれたのである。それは、禅を参究するならば、只管打坐であり、直に須(すべから)く正身端坐を先と為すべし、と強く問い掛けられているように感じたからである。

 その時から、火曜参禅会に参加させていただいている。臍下丹田に虚空の気を充実させて坐禅をしていると、普段自分が頭の中で何か物事を考えて、それに従って自我的自己・わがままいっぱいの自己で生きていることに気付かされ、深く反省させられる。かつて内山興正老師が、「坐禅は、最高の文化である。人間そのものを高める文化である。一鍬ずつ深く深く耕していくからである。坐禅を通じて本当の自己が見えてくる」と述べられていたが、その意味が少し分かるような気がする。

 それは、この世にいただいた私といういのちが、精一杯生きる限りのいのちを挙げて「道窮(きわま)りなし」と、坐禅弁道して真の自己に生きることだと思う。仏教が「自覚の宗教」と言われるゆえんは、こういったところにあるのではないだろうか。まだ「被底の穿つ」程の参禅はしていない私であるが、坐禅をさせていただくご縁をいただいたことに深く感謝の意を表すと同時に、今後とも参究させていただくつもりである。ご指導の程を乞い願う次第である。

三宅 桂子 禅に救いを求めて

 生物学教室では、歯学部実習に様々な小動物を扱つています。学問の為とはいえ解剖でメスを入れる時、毎回、心の呵責に苛まれます。一期一会の命をくまなく観察し、学問に生かす事が供養にもなると肝に銘じていますが、時には不注意から、その命が粗略に扱われる事も起こります。職務とはいえ、かけがえのない命を奪う事には変わりありません。日増しに悶々とした気持が深まっていた矢先、姉の不治の病の知らせを受け、その気持は、一層深まってきました。

 そんな時、十数年前体験した坐禅の記憶が蘇りました。静寂の中で時折り聞こえる小鳥の囀りに耳を傾けながらの坐禅でしたが、満ち足りた事を思い出し、早速禅研を訪れました。居合わせた先生に、命は動物のみでなく、森羅万象に至る迄あり、人はその命を食して生きているのだと癒していただき、また「無心になり、坐禅をくむ事で全てが救われる」と論していただきました。

 参禅会へ参加して、2回目に不思議な現象を覚えました。二(ちゅう)目の止静に入り、雑念を振り払おうとして腹式呼吸をゆっくり大きく数えながら反復していた時、急に体の力が抜けて爽快な気分になれたのです。登山の時経験した、山頂から下界を眺めた時のあの気分の様に。雄大な自然に比べれば、下界の悩み、苦しみ等は、たわい無く些細な事だと。眼下に見える無数の点の動きをみて、また、人の命も宇宙から見れば点程の短い人生なのかと。この様に、その時思った様々の事が脳裏をよぎり、下界では味わえないあの幸せな気分に再びひたる事が出来ました。

 私を支え続けてくれた姉は、一点の人生を人より少しばかり早く旅立って行きました。共に生を受け、昭和から平成と、長い時を過ごしてきましたのに、姉との思い出は昨日の様に思われてなりません。時間というのは極端に短縮されるのでしょうか。最近では“時”に限りを感じます。限りあるこの点の人生を、禅のお導きで精一杯生きていけたらと考えています。今後共、よろしく御指導の程お願い申し上げます。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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