Facebook寺島 義治さん投稿記事
「マインドフルネスの害」について、やっと西洋も気がついたらしい。
一種の瞑想に効果があるとして流行しているけど、その「害」に言及する人は皆無だった。
マインドフルネスには明らかに害があって、
・不安・抑うつ症状・精神の不調・妄想・解離症・離人症・恐怖
といった副作用で1ヶ月以上日常生活に重大な影響を受けた人が、およそ10%の確率で発生していることが40年間の調査で明らかになったそうである。
しかし「ではどうすれば副作用を防げるか」については、この調査ではまだ言及できていない。
いっぽう禅の世界では、副作用の存在と、その予防方法については、すでに明確に示されていた。座禅の副作用は「魔境」というそうだ。
まさにこれらと同じ症状が出ると、少なくとも千年前から知られていた。
この「魔境」を防ぐ方法はシンプルで1.目的を持たず、効果を求めない。2.姿勢と呼吸を正しくする。3.掃除を徹底し、清潔で静寂な環境で行う。
いわゆる「マインドフルネス」の非常に恐ろしいところは、これらをほぼ全部無視したことだと思う。
禅から「方法」は抽出したくせに、これら「対策」は抽出しなかったんだ。
むしろ最も重要とされている「1.目的を持たず、効果を求めない」の真逆を提唱しているところがある。
仕事や勉強のため、健康のため、ああなりたい、こうなりたいという「目的」を推奨し、「効果」を売り文句にしてしまった。
そして「2」についても、「姿勢は気にしなくていいです、リラックスが大事です」と言う。
「3」についても、「トイレや電車の中でもいいですよ」と言う人がいる。
つまり「やっちゃいけない」ことを、むしろ「全部やれ」と言っている。
確かに、目的や効果への期待を持たずに何かを行うというのは、意味のわかならいところはある。だから禅では「ただ、すわれ(只管打坐)」といって、断捨離つまり、欲を断ち、捨て、離れることを「目的」とした。
ああなりたい、こうなりたいという、欲そのものから遠ざかることを主目的に据えることで「1」の対策をしたのである。
そして2,3については、張り倒しながらでも厳しく指導した。
ボクもマインドフルネスをやってみたけど、パニック障害が逆に悪化した。
でも禅の「1・2・3」を厳守してやってみたら、症状が劇的に改善した。「効果のあるものには、かならず害悪がある」東洋では「あたりまえ」とされていたことが、西洋ではまだ理解ができないようである。「目的を捨てるから、目的は達成される」
この一見矛盾した事実を認められない人間は、そもそも「座禅をしてはいけない」のだそうである。
https://gigazine.net/.../20240810-mindfulness-negative.../
Facebookトイビト投稿記事
――坐禅をはじめとする禅の修行は「悟りを得るためにやるもの」というのが一般的な理解だと思います。でも日本曹洞宗の開祖である道元は修証一等(しゅしょういっとう)、つまり修行に励むことと悟りを得ることは一...
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E4%BF%AE%E8%A1%8C%E3%81%A8%E6%82%9F%E3%82%8A 【1. 修行と悟り】
――坐禅をはじめとする禅の修行は「悟りを得るためにやるもの」というのが一般的な理解だと思います。でも日本曹洞宗の開祖である道元は修証一等(しゅしょういっとう)、つまり修行に励むことと悟りを得ることは一つだと言っていますね。私は修行と呼べるようなことは何もしていませんが、目的論というか、○○のために××をやるという考え方にずっと違和感があったので、この言葉を知った時にはふっと胸のつかえがとれたような気がしました。
未来(いつか)に「うまいエサ」を置き、現在(いま)はそれをモチベーションにして一生懸命に頑張る。未来に悟りを得るために、現在の修行があるという理解はまさにその一典型なんですけど、こういうマインドセットには大きな問題があります。それは仏道の立場ではないと道元禅師は見ているわけです。ただ、こういうことを言うと、じゃあ悟りなんてないんですねとか、悟りは無用なんですねといった受け取り方をされることがあるんですが、そうではなく、重要なのはこういう修行と悟りを二つの別なものだとする考え方を乗り越えることなんです。別に悟りそのものを否定しているのではありません。悟りと言っても、その理解が根本的に違っているんですよ。
僕が長く暮らしたアメリカの人たちは必ずと言っていいほど、坐禅をしたらどうなるんですかとか、坐禅と引き換えに何が得られるんですかという風にまず結果とか効果を聞いてきます。ごく自然にそう考えるようになっているです。もちろん、かれらほどあけすけではないにせよ、こういう手段と結果の関係でものごとを考えるマインドセットは日本人にも共通しています。普通に暮らしていたら自然とそう考えるようになっていると言えます。ではなぜそうなるのかというと、社会全体がそういう考えで動いているから、それが常識だからです。
なぜ頑張って勉強するのかといったら、いい学校に入るため。なんでいい学校に入るのかといったらいい会社に入るため。なんでいい会社に入るのかといったら裕福になって幸せになるため。……そういう考え方自体に多くの人は疑問を抱かないし、そうした考え方を問題視すること自体が、まるでタブーに触れることであるかのように思われている節もあります。未来にいいものが手に入ることが保証されていなければ、意味も感じられず面白くもない勉強や「ブルシットジョブ」に自分の時間とエネルギーをつぎ込み、精神をすり減らす根拠も意味もなくなってしまうからでしょう。
でも、当たり前の話ですけど、いい大学を出て一流企業に入ったからといって、必ず幸せになれるわけじゃないですよね。そこには何の保証も裏付けもありませんよね。ものごとはそう単純にこちらの思い通りには進みませんから。でも、それを信じているのなら、それは「まじないにかかっている」ということになります。いわば、すっかり「まじなわれちゃってる」、変な言い方ですけど。
――まじない、ですか?
これを持っていたら、必ずこういういいことが起こるということを根拠なく信じているのは「おまじない」みたいなものでしょ。当人にとっては極めて特別な意味を持つものなんでしょうが、でも、おまじないの根拠になっている物ってたいてい、第三者から見るとただの紙切れとかネックレスだったり、単なる壺だったりするじゃないですか。禅が強調しているのはそういうものにごまかされない、つまりまじなわれない人間になることだと僕は思っています。そこにすごく健全なものを感じるんです。
道元禅師は「当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず」と言っています。眼は横に、鼻は真っ直ぐ縦についているという、当たり前のことを当たり前に認得して人に瞞(だま)されることがない、ということです。もちろん、他者だけではなく自分自身に瞞されないことも大事です。要するに、まじないの効かない人間であることです。
宗教って、多くの場合、まじない的じゃないですか。今こういうことをしたら来世でいいことがありますよとか、今は確かに苦しいかもしれないけど、それは未来でいいことが起こるための試練なのだから耐えなさいとか、こういうのはやっぱりまじない的ですよ。でも、禅が立脚するのは未来とか来世の「いつか」ではなく、常に「今ここの自己」です。禅は「今ここ」と「いつかどこか」という二本立ての「二世界モデル」の宗教ではありません。いわば、「今ここに立つ」という「一世界モデル」の宗教です。そこが僕には魅力的なんです。だから多くの人にとっては、禅は宗教ではないように見えてしまうんでしょうね。「修証一等」というのは、まじないにうっかり引っかからないように、くれぐれもまじなわれないようにという用心の言葉だという風に僕は思っています。
――なるほど、面白いです。
幸せへの道はない
1995年にベトナム人禅僧ティク・ナット・ハン師がお弟子さんたちと来日されたとき、縁があって通訳をさせていただきました。20日間のツアーが終わってお別れするとき色紙に書いてくれた言葉があります。There is no way to happiness. Happiness is the Way.。このhappinessのところにはpeace(平安)を入れてもいいし、awakening(覚り)とかnirvana(涅槃)でもいいと思うんですけど、これはまさに修証一等と同じ立場です。この言葉は「幸せに至る道などない。幸せであることが道なのだ」という意味です。道が手段で幸福がその結果という関係にはなっていないんです。
ティク・ナット・ハン師からもらった色紙
普通、僕らは幸せに至る道があると思っていて、その道の果てに幸せが待っていると期待しています。今はまだその道が見つかっていない、あるいはその道の途上にいるから幸せじゃないんだけど、その道を歩き続ければいつかその道の果てで幸せに出会えるはずだ。そう信じて、これこそ間違いないという道を必死に探したり、やっと見つけた道の上で先を急いで懸命に歩きます。でもこれってさっき言った「まじない」的じゃないですか?
こういう立場で道を歩いているとどういうことになるでしょうか? あの人は自分とは違う道を行っているようだけど、もしかしたらあっちの道の方が正しいんじゃないだろうか。この道で本当にいいんだろうか。この道はあとどれくらい続いているんだろう。自分に道の果てまで行ける能力があるんだろうか。それだけの時間が残されているんだろうか。もっと早く歩かないと間に合わないんじゃないか……。こういう不安がいつもつきまとうことになります。
また、こういう人にとっては、道の途中で出会うものはぜんぶ邪魔ものに見えます。歩みをスローダウンさせ、目的地への到着を遅らせるものになるからです。道の果てにゴールのテープがあって、それを切らないと幸せをゲットできないのだと考えていたら、一刻も早くテープを切りたいと思うのが人情ですよね。そういうマインドセットの人にとって、ちょっとおしゃべりしましょうよとか、一緒に食事しませんかとか、ここに面白いものがあるから寄り道しませんかと言ってくる奴は邪魔者でしかありません。「うるさい!邪魔だ。あっちへ行け」ってなりますよね。
それに、ちょっと立ち止まって周りの風景を楽しむような余裕は持てませんね。道端の風景が目に入らないんですよ、先を急いでいるから。昔は、鈍行列車というのがあって窓から外を眺めていたら、ああ、山が色づいてきたなとか、お百姓さんが稲刈りしているなとか景色がよく見えたんですけど、今の新幹線だと速すぎてよく見えないし、最短ルートを通るためにトンネルがやたら多いので、車窓からの眺めを楽しむどころではありません。そういうのがway to happinessの世界じゃないですかね。
でも、ティク・ナット・ハン師は道というのはそういうものではない、wayとhappinessの二つが別々にあるのではないのだと言っています。道元禅師も修と証を両段に分けて、二つの別なものとして見るのは仏道の立場ではないと言っています(「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり」)から、道元禅師は曹洞宗の系譜に属し、ティク・ナット・ハン師は臨済宗の系譜に属する方ですけど、そこは共通しているんですよ。
じゃあどうなっているのかというと、happiness is the way 、幸福が道になっている、幸せと道は一つだというわけです。ティク・ナット・ハン師のこの言葉のおかげで、自分は「修証一等」を看板にしている曹洞宗の僧侶であるにもかかわらず、「涅槃への道がある」というマインドセットのままで、「ちからをもいれ、こころをもついやして」修行をしていたことに気づかされました。道元禅師の「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」という言葉を文字としては知ってはいましたが、実際はそれと反対のことをずっとやっていたわけです。とにかく少しでも早く、何か確かなものを得なければと前のめりになり、肩に力がガチガチに入っていました。
ティク・ナット・ハン師が私のありようを見て、こういう言葉を色紙に書いてくれたのかどうかはわかりませんが、当時の私にはまさにぴったりのアドバイスになってくれました。ほんとうにありがたく思っています。
――幸福が道になっているというのは、もう少しわかりやすく言うとどういうことですか。
幸福は道の果てに待っているのではなく、道を歩いている今の行為の中にすでにあるということだと思います。その上を私が歩くからそれが道になる、歩くという行為がその時そこに道を作り出しているというのが禅の見方です。歩くことと道が別々にあるのではありません。その歩き続ける行為そのものが幸福なのであって、幸福というはるか先のゴールに到達するために歩いているのではないのです。想像上の幸福ではなく、今の一歩の歩みがリアルな幸福に触れることになっている、幸福の証(あかし)になっている、そういう道こそ本当の道なのだというのです。だから、歩みが止まることはありません。歩みが止まったら道も止まります。
だから、道元禅師が言うように、修行は無窮なんです。窮まることなく無限に続いていく。その歩み続ける姿そのものが、そのままとりもなおさず悟りや証の表現、実現、証(あかし)になっているんです。まだここにはない成果をめざして歩くような道ではなく、今の一歩一歩の中にすでに成果が現れているような道です。だからそういう歩み(修)には先へ先へという焦りがありません。そして、修を通して出会うものすべてが証からのメッセージになっているのですから、大事なのはそれときちんと出合い、聞き取ることなのです。
大乗仏教は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」を説いて、生きとし生けるものはすべて仏になることができると説いています。しかし、道元禅師はこの言葉を、そういう可能性の話としてではなく、私たちはすでにして仏性の実現であり、だから仏としての修行をするのだというように現実性の話として受け取っています。修行によって悟りをひらいて仏になるのではなく、今ここで修行している人を仏と呼ぶのだというのが道元禅師の見方です。修行という行為と別に仏が存在しているのではありません。仏は名詞的に存在しているのではなく、「仏する」という動詞的ありかたをしているとも言えます。仏する、つまりそれが修行だということです。
――修行をやめた途端に仏ではなくなってしまう。だから、修行と悟りは一つだということなんですね。
多くの人は、悟りというと一回的で特別なブレイクスルー体験のようなものを想像すると思います。そういう経験自体はないわけではありませんが、それは禅で言う悟りではないと思います。アメリカにいたときに僕はよく、Satori is not a noun, it’s a verb.と言っていました。悟りは名詞ではなく動詞だと。だから、ポケットに入れて持ち歩くようなものではなく、常に今の行為を通して悟りを生成し続けていなければなりません。I got satori yesterday.と言うことはできなくて、常に現在進行形で今の具体的な行為として表し続けることしかできない。だからこそ、禅の指導者は「お前が悟ったと言うなら、その悟りをここに出して見せてみろ」と弟子に迫るわけです。
――行為としていつでも示せるものこそが悟りだと。
悟りは名詞ではなくて動詞だという言い方には実は元ネタがあって、God Is a Verbというユダヤ教神秘主義のカバラについての本のタイトルに触発されて、なるほど、道元禅師的にいうと悟りは名詞じゃなくて動詞にしなくちゃダメだなと思ったんです。Godは現在進行形の働きそのものなんだということですが、それは諸行無常というダイナミックな世界観を持つ仏教にもぴったりの言い方だと思います。
僕はあまり詳しくは知らないんですが、サンスクリットやパーリ語っていうのは動詞中心的な言語だそうです。英語をはじめとするラテン語系の言語は名詞と名詞の関係を重視するので、I am a boy.のように「私」という人称代名詞と「少年」という名詞同士を同じものとしてくっつけるので名詞中心の言語と言えます。そうではなくて、「少年している」っていうように動詞的に言う言い方があるらしいんです。つまり言語の背景にある世界観が相当違うわけです。
名詞中心か動詞中心か、その違いが、あらゆるものを原子のような最小構成単位に還元しその位置と運動によって世界を記述しようとする西洋と、世界を変化の相のもとに変化のままに見ようとする東洋の違いにもつながっているように思います。仏教は明らかに後者なので、悟りや涅槃も動詞的に捉えるべきなのですが、実際には名詞的なニュアンスで語られ、理解されているのは問題だと思います。
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%B1%B1 【2. もうひとつの登山】より
――悟りや涅槃は名詞ではなく動詞的に理解すべきだというお話ですけど、たとえば「境涯」なんかも、何かそこに到達することを目指す山の頂上のようなものをイメージしちゃいますよね。
境涯と言ってもガチっと固定した完成品みたいなものではなく、いつでも動いているというか揺らいでいるものだと思うんです。その揺らぎみたいなものがあるから成長していくわけです。境涯には成長していく方向性があるんですよ。ある一定の境涯が得られたとしてもそれは一時的なもので、通過点でしかない。成長というか深まりというか、とにかくそういうダイナミックな動性そのものを境涯とよんだ方がいいと思うんです。どこかに到達するために境涯を頑張って深めているのではなく、自ずと深まり続けるような境涯であることこそが大事です。その変化の方向性の正しさや精度、精密さこそが重要なのであって、もう動きようのない完璧な境涯にたどり着くかどうかなんて問題ではないんです。
先ほどのHappiness is the Way.というのは一歩一歩がすでにhappinessに触れているということなのですが、それで満足して立ち止まるのではなくて、歩き続けていくことでhappinessがどこまでも深まっていく、それが悦びになって次の新しい一歩が踏み出される、その連続が道になっていくということだと思います。
――一歩を踏み出した瞬間に、もう幸福に到達していると。
はい、一歩一歩が到達なんですけど、それで歩みは止まらないんです。むしろ、前へと押し出されていく。あるいは、前方から呼ばれて足を踏み出すといってもいいかもしれませんね。このことを僕は「登山」のメタファーで説明しています。
山には二つの登り方があります。ひとつは山頂に立つことが最優先で、その山を征服するために登るという「山頂到達型」の登山。これは多くの人が持っている登山のイメージではないですか? もうひとつは何型って言えばいいのかまだよくわからないので、いい言い方があれば教えてほしいんですけど、たとえば、今ここで富士山に登ろうと思ったら、たとえそこが東京の自宅であったとしても、もう登山は始まっていると考えるような登山の考え方です。富士山に向かう正しい方向性で一歩を踏み出したら、それがどこであっても、富士山の裾野がずーっとそこに延びて来ていて、その一歩でもうすでに富士山に触れているという理解なんです。
このタイプの登山では、途中で何かの事情があって頂上まで行けなくても別に登山の失敗にはなりません。頂上に立たないと登山は完結しないと思っている人からすれば、何を言ってんだということになるでしょうが、これはまったく別の考えに立ったもう一つの登山なんです。5合目で引き返しても、堂々と、富士山に登った、富士山に触れた、富士山を味わったと言ってもいい道理があるんです。悟りや涅槃もこれと同じで、正しくそれに向かって日々の生活を調えたら、悟りも涅槃ももうすでに自分の所にやって来ている。だから安心してその一歩を踏み出せばいい。そして、そのように安心して丁寧に歩き続ける。
頂上だけが富士山なのではなく、そこに至る路の傍に咲いている花々だとか、ふもとでやっているお茶屋さんだって、あるいは道でたまたま出会う人たちだって、富士山の立派な一部じゃないですか。そう考えると、富士山に登るということのビジョンはぜんぜん違ってきますよね。道もそれと同じように、幸福や悟りというゴールにたどり着くための手段と捉えるのか、幸福や悟りの一部であると考えるのかによって歩く光景がまったく違ってきます。
もしも修行や人生が最終の目的に向かって突き進むだけのものだとしたら、その目的を果たせずに終わったらすべてが無意味だったということになってしまいます。でも、修証一等やHappiness is the Way.のように考えるなら、正しい方向に向かって踏み出す一歩一歩にすでに幸福が感じられます。修行それ自体に証(さと)りの味わいとか香りが感じられるのです。道の途上でありつつ同時に幸せや幸福に触れていることになるんですよ。
――すごくよくわかります。私もそれと似たことを考えたことがあって、たとえば甲子園をめざして毎日練習をしていた高校球児が、県予選で敗退して、甲子園に行くことができなかった。じゃあ彼のその練習は無意味だったのかというと、絶対そんなことはない。物事をなんでも目的と手段の二項対立で考えること自体がよくないと思いますが、今あえてその図式に従うなら、日々の練習は甲子園に行くという目的のための手段なのではなく、実は練習こそが「目的」であり、甲子園はその「目的」を賦活するための「手段」だと言うこともできるんじゃないかと思うんです。
そうです、そうです。そうやって反転させてみるのはとても面白いことですね。だから、甲子園は目的というよりはやっぱり方向性なんです。目的というのは「当て」なんですよ。当ては外れることがあるんです。何かを当てにするというのは、それに寄りかかることだから、外れたらずっこけてしまいます。でも、方向性は自分がそっちに向かって踏み出すということだから、当てにしているわけではありません。だから、外れることがないんです。
甲子園を目指して野球の練習をするという話の根本にあるのは、野球そのものが好きかどうか、練習それ自体が楽しいかどうかということです。毎日のきつい練習も楽しいし、本番でドキドキしながら相手と勝負するのも楽しい。その結果、試合に勝ったり負けたりすることがある。もちろん勝ちたいと思ってやるんだけど、勝敗は野球をするという旅の景色の一つとしてあるわけで、旅の主要なモチベーションではないんです。旅のモチベーションは、そういうこと全部をひっくるめて野球するのが楽しいってことです。ところが、それと違って、未来に当てをおいてそれを手に入れることをモチベーションにしていると、望んでいるものが得られないとやる気がなくなったり、意味がないと感じてしまう羽目に陥ります。
今やっていることそれ自体が楽しい、僕はそういう楽しさを「愉快」と言っています。勉強であれ、スポーツであれ、何事であれ、それを愉快にやっていくこと、それがとても大事だと思います。そういうのが「本気」ということでしょう。
ティク・ナット・ハン師にもうひとつ言われたことがあるんです。それは「Issho-san, smile! Practice should be enjoyable.」ということです。 僕はenjoyableを今言った意味での「愉快」と訳して、「修行は愉快なものであるべきだ」という日本語にして、今はそれをみんなにも伝えています。そのとき、ティク・ナット・ハン師は「ブッダという人は、いつも微笑んでいたはずです。彼は無一物の生活をしていましたが、地上で最も幸せな人でした。だからこそ、彼のまわりに人が集まってきたのです。いくら偉い人であっても苦虫を噛み潰したような、いつも機嫌が悪そうな人のまわりには誰も寄ってこないですよ。だからもっと微笑むことを大事にしなさい。」と語りかけてくれました。
ティク・ナット・ハン師の横で通訳をする一照さん
ティク・ナット・ハン師にこのことを言われたときの僕はまだ40代の前半で、それこそ修行の先を急いでいるところだったので、きっと硬い深刻そうな表情をしていたんでしょうね。あと、禅の修行僧がにっこりなんかしてちゃいけないだろうという思いもどこかにありました。
――禅僧というと、それこそ白隠の達磨の絵みたいな「しっぺい口」を思い浮かべちゃいますよね。
あれほどはっきりした「しっぺい口」にはなっていなかったでしょうけど、禅僧たるもの常に真剣な顔つきをしてなきゃって身構えていたんですね。まあ要するに、知らないうちに仮面をかぶっているような状態になっていた。それがティク・ナット・ハン師の前に立ったら、優しく「一照さん、スマイル!」と言われちゃったんです。それも無理やり笑うんじゃなくて、そういう取り繕った笑いではなく、体の内側から、腹の底から微笑みが湧いてくるような、そういう修行生活を送りなさいよというアドバイスをくれたのです。自分の修行のあり方というものを根本から見直さないといけなくなりました。A way to nirvanaというパラダイムからnirvana is the Wayというパラダイムにシフトする必要が出てきたわけです。
――いいですね! やっぱり流石ですね、ティク・ナット・ハンさん。
「なにがなんでも、いい学校に合格!」をめざす受験生みたいなマインドセットで修行していたのでは、どうやったって笑えないですよ。希望通りに合格した暁には笑えるかもしれませんが、実際の修行ではその「合格」がいつ、どんな形でやってくるかなんてあらかじめわからないんです。だから、いつかではなくいま微笑みが湧いてくるような修行ってどんなふうにするんだろうとマジで考えるようになりました。
0コメント