『ワンネスには2種類ある。注意されたし。』パート1

https://ameblo.jp/tomel31/entry-12071608858.html 【『ワンネスには2種類ある。注意されたし。』パート1】 より

みなさん、こんにちは。

秋になりました。いつのまにかセミの声はなくなり、替わってコオロギの声が聞こえています。連日35度を超えたあの酷暑も過ぎ去ればもう懐かしい。毎年こんなことを繰り返す度に、目の前の状況の如何に関わらず、人はいつでも楽しめる余地があるのだなぁと思わされます。故事曰く「人生いたる所に青山あり」。では今月のお題に入ることにしましょう。

今月のお題は・・・

『ワンネスには2種類ある、注意されたし』

いまネットを中心に「悟り系」のブームが来ているようです。「非二元(ノンデュアリティ)」とか「ワンネス」という言葉が頻繁に聞かれるようになりました。これは大変好ましい状況であると思っています。このような「知識」が広がり、それに伴う「体験談(見性体験)」や「見解」が頻繁にシェアされることで、一昔前までは特殊な修行を経た人達しか垣間見れなかった世界が、そのハードルが下がってごく普通の庶民の手にも届くものになりつつあります。歴史の主人公はどこまでも「庶民」であると私は信じています。もちろんそれ以前に主人公は「わたし」ですけどね。

スターピープル誌の55号では「これからの潮流、ノンデュアリティ(非二元)」と題して5月に特集を組んでいます。ブログの紹介記事を抜粋すると・・・

http://starpeople.jp/hensyu-bu/20150508/3589#more-3589

「これからの潮流、ノンデュアリティ」

日本ではまだまだ「引き寄せの法則」や願望実現系のスピリチュアルが盛んですが、今、ヨーロッパやアメリカで、ノンデュアリティ(非二元)が盛んなようです。

これからは日本でもノンデュアリティが主流になるかもしれません。

・・・だそうです。いい感じですね。ポスト2013年、キテルなぁと思います。そしてここからがようやくヌーソロジーの出番になるというわけです。ホントに冗談ではなくここからがヌーソロジーの本領発揮です。ということで、本日はワンネス(あるいはノンデュアリティ)についての「注意点」について少し見ていきたいと思います。

・・・少々まどろっこしいので、ここからいつものように文体をチェンジ、ドライブモードで行かせて頂きます。

◆前回の復習を少し

前回「人間の霊的解放について」では、人間の意識進化の歴史を「空間認識の次元対称性」として見るヌーソロジーのユニークな視点を紹介した。その文脈の中において時代はこれから「五次元対称性時代」に突入していくのだが、実際に我々の現状はその一つ手前「四次元対称性」を獲得できず、さらにその手前の「三次元対称性時代」に留まっていると指摘した。人間の精神が社会を作り、社会は人間の精神に影響を及ぼす。精神構造と社会構造は同型対応していると見ている。いやそれで間違いない。

改めてざっと概観すると

①二次元対称性時代:水平空間対称性・地球平板・天動説→差別・階級主義

②三次元対称性時代:上下空間対称性・地球球体・地動説→基本的人権・民主主義

③四次元対称性時代:内外空間対称性・地球内在・人動説→霊的人権・霊主主義 ←いまココ

④五次元対称性時代:自他空間対称性・双対宇宙論・神が神を見る日

(※これらはヌーソロジーにインスパイアされた「自分教」独自の表現によるまとめである。)

「四次元対称世時代」における「地球内在」とは、いままで外側の世界だとみていた地球が自分の「内側」つまり「主観領域」に存在していたということ。このことを物質的に表現してるのがいわゆる「地球空洞説」とか「地底文明」とかいうもの。これは真実の情報を「物質的枠組み」で「解釈」したものであり、ヌーソロジー的には「人間型ゲシュタルト」と言って旧時代の思考の名残りと見る。つまりファンタジー。ファンタジーで楽しむのも良いけどそれでは意識進化の妨げになる(・・お前に言われたくないわという声が聞こえてきそうだが・・・)。

続く「人動説」というのは、「天動説→地動説ときたら次は人動説でしょう」ということで私自身が1990年代から思考して来た内容。当時より大体の見当はついていて、素粒子物理学者が語る「人間原理宇宙論」が近い方向性とみている。つまり「宇宙の中心は人間である」ということ。詳しくはまたの機会に。

人間の意識がこの四次元対称性まで来て、ようやく「霊的基本的人権」とでも言うべきものが獲得されると前回のブログに書いた。ここから得られた「霊的平等」という意識により、あらゆる種類の「霊的ヒエラルキー」を終焉に導くことができる。大きな声では言えないが・・・様々な宗教団体の解散、人間型宗教の終焉となるだろう。このような状況を「霊主主義」と言っている。これが「人間の霊的解放」だ。ここで言う「霊」という言葉の意味は深い。この「霊」は個人的なものに限定されない。これがまさしく「ワンネス」「ノンデュアリティ」であるが、ヌーソロジーの文脈では「非人称の主体」とも言う。

以上、「四次元対称性時代」をざっと見てみた。このあとに「五次元対称性時代」が来るのだが・・・これは「自他空間の対称性」、そして究極の状態である。おそらく「歴史」というものは事実上ここで終了するのだろう。ここが歴史のゴールであり、そしてそれは新たなる出発点でもある。つまり歴史の「折り返し地点」に我々はいま差し掛かっているのである。それをヌーソロジーでは「交替化」と呼ぶ。自己と他者の役割が交替するのである。これは実に壮大なる宇宙観だ。「自分教」においてこれから追求していくテーマであるが、その内容を「自分教」流にサラッとご紹介すると・・・いままで「神」の役割をしてきたのは「あなた」であった、そして「わたし」は人間の歴史を通じて「あなた」の創造を追体験し、それを「調整」してきた(調整期)・・・今度は「わたし」が「神」となり(覚醒期)、「あなた」と交替して、「あなた」を創造していく・・・という物語である。「あなた」に救済された「わたし」が、今度は「あなた」を救済していくのである・・・。壮大なる「自己」と「他者」のエネルギーの流動により宇宙は発展していく。これが双対性宇宙。「双対性宇宙論」において「創造論」と「進化論」は真の融合を果たす・・・・・。

おっと、勇み足で「五次元対称性」まで進んでしまったがおそらくチンプンカンプン、トンデモだったろう。まだまだ現時点で必要なのは「四次元対称性の獲得」である。いまの我々の水準は「四次元対称性を垣間見た」というレベルで、その「対称性を獲得」までは至ってないと見ている。ここでようやく本日のお題に繋がりそうである。「ワンネス」や「ノンデュアリティ(非二元)」(ここでは同じ言葉「ワンネス」として取り扱う)・・・ここで言われている「ワンネス」は「四次元対称性を垣間見た状態」と言える。どういうことか説明しよう・・・。

◆ワンネスにご用心

ふー、ようやく本題にたどり着いた。「ワンネス」あるいは「非二元」。人間を苦しめてきた根本原因が「二元性」にあることを見抜き、それを超克していく。悟りを志すものにとっては「悟り」や「覚醒」と「ワンネス」「非二元」は同じ意味だ。「二元性」は思考の中にだけ存在し、それは幻想である。実存はそれを超えたものである。要するに人間を苦しめているのは思考なのだ。思考を手放す。しかしそれは容易ではない。そこで瞑想や修行が必要になる。体を使った修行で自身を追い込み、思考が彷徨わないようにする方法もあるだろう。

それとは逆に「思考の力」をもって「思考をやり尽くす」方法もある。ひたすら観る、あるがままを観る・・・「凝視」・・・私にこの偉大なる示唆を与えてくれたのはクリシュナムルティだった。20代の頃、悩みに悩んで死にそうになっていた当時の私に道を示してくれたクリシュナムルティの「凝視」・・・彼の「自我の終焉」という一冊の本が狂気に飲み込まれんとする一人の男の命を救ってくれた・・・。

「思考する人」と「思考」、「体験する人」と「体験」というこの生存における根本的な二元性とその幻想性、ギャップ、それを乗り越えようとすることで起きるますますの悲劇・・・ただ見つめることでそれらが「同じ一つのものの両側面である」ことを知るという・・・その時、それは「起きた」のである・・・とまあ、実際にクリシュナムルティにインスパイアされ、自分自身を「凝視」していく中で「非二元」「ワンネス」とでも言うべき体験をたくさんさせて頂いた。まっ白になって思考がなくなり「完全に解放」されたこともあった。「全ての意味が分かる」という「ゾーン」に数時間突入したこともあった。名前も住所も「落ち」て一切から解放された私の目に映る風景はどんなものでも光り輝いていた。ニルヴァーナ・・・だけどその後は・・・「喉元過ぎれば熱さを忘れる」みたいなもので、タダのとっちゃんボーヤに戻りますた(爆)。

よく言えば禅の悟りを解説するあの「十牛図」9番・10番・・・真っ白の8番のあとにやってくるごく普通の牧歌的な風景・・・確かにそんな感じでホントにごく普通の生活を迷うことなく楽しんでいたのだが・・・やはり満足できなかった。そこには二つの理由があったように思う。一つは何よりもその構造を発見し、それを知的に整理したいという衝動。量子力学という現代知性がもうそこまでリーチをかけてきている・・・今ならその知性とダイレクトに結合できるかも知れない。知性が納得する新しい宇宙論が誕生すれば人類全体の構造的シフトに成功するかも知れない・・・小乗的な満足(個の救済)は得たとしても大乗的な課題(全体の救済)が残ったままだ。この思いはずっと消えなかった。

あともう一つは・・・「ワンネス」体験というのものには薬物中毒的なある種の反動があるということ。大きな喜びという刺激を受けたら同じ大きさのネガティブにたたき落とされる。もちろんこういう峠を越えた人は分かると思うが、もう落ち込んでも落ち込まないし、悩んでも悩まない。そんな状況で何の問題もないのだが、時々そのような状況から逸脱して道を外す人々が見られた。ニヒリズムとでも言うか・・・まさしく虚無の力だ。これについてはおいおいこのブログで検証していくし、このブログの中心テーマの一つである。歯に衣着せずに言えば、今日のワンネスブームの中には、私から観ればいまにも虚無に飲み込まれそうな人達が散見されるのだ。ここは今日のテーマの伏線になっている。「ワンネス」は取り扱いを間違うと「虚無」の力に飲み込まれるということ。そのことの構造も解明したかった。

◆ワンネスには2種類ある

ワンネスには2種類ある。それはヌーソロジーの構造論ですっきりと説明できる。いわゆる「等化」と「中和」の違いである。ヌーソロジーには基本動力となるエンジンが搭載されている。それは4サイクル・四気筒エンジンだ。①負荷→②反映→③等化→④中和の4サイクル。最後に4つが1つになって5番目で①に戻るからペンターブシステムともいう(ペンタは「5」の意味)。

ペンターブシステム

最初の①負荷と②反映の関係。これを「対化」と呼び、この相対の関係がまさに「二元性」である。それで次の③「等化」で統合されるのだから、これが非二元・ワンネスということになるのだが、ヌーソロジーはそう単純ではない。それだと「正反合」の弁証法と同じである。弁証法では①正→②反→③合と進む。一見すると3サイクルだが、③合があらたな①正となるので、実はコレ、2サイクル。弁証法は「2サイクルエンジン」なのである。西洋的な思考とか、今までの哲学や宗教などはみな「2サイクルエンジン」を搭載していると思って頂いて結構。オートバイみたいなものですな(走らなければこける・・・これ結構深い比喩カモ)。さらに言えば人間の思考自体が「2サイクルエンジン」なのである。善悪・美醜・貧富・進退・・・根本的な価値の本質にそれは顕れている。価値とは原動力、つまりエンジンだから。そして「2サイクルエンジン」とは「思考の二元性」というものを言い換えたのと同じ。何人もそこから免れない。そして先に触れたように「思考の二元性」こそが苦痛の原因。だからワンネスブームなんだよね・・・。

さて、ヌーソロジーは4サイクル。うん、全然違うね。①と②の対化までは同じだ。これが「二元性」の本質。そこから③等化と④中和が出てくる。定義上の解説をすれば、③等化で①と②が統合され、④中和で再び分裂する、あるいは元に戻る、初期化されるなどと言う。③等化で得た「ワンネス」が④でもう一度「二元性」に逆戻りする・・・まあ表面的にはそんな感じ。「統合と分裂」だから「創造と破壊」か・・・桜はすぐ散る潔さが美しい・・・生と死、出会いと別れ・・・確かに「創造と破壊」は宇宙の本質だなぁ、創造神ブラフマーと破壊神シヴァ・・・。初歩的にはそんな理解でいいと思う。

そして③等化と④中和、つまり「統合と分裂」が今度は「対化」となり次の⑤進化に進む。この⑤は次の段階の①対化となり、またその②反映が出てきて③等化→④中和と進んでいく。これが「4サイクルエンジン」。

それで③等化と④中和とは何ぞやと。「統合と分裂」「創造と破壊」・・・これはまだ表面的な理解。4サイクルエンジンの力はそんなもんじゃない。これが本当に分かれば「脳の構造変化」を起こす。間違いなくそれは起きる。脳神経回路が新しいシステムを採用するのである。新しいOSを導入することで、潜在的なハードのスイッチが入るのである。もともと脳神経や細胞・DNAが持っていた潜在力を引き出すということ。このような「新しい脳」をヌーソロジーでは「変換人型ゲシュタルト」と言うのである。

さて③等化と④中和・・・実は人間にとってこれは二つとも「ワンネス」に見えるのである。ここで今日のお題に無事接続できた!この構造を何とか解説できれば今日のミッションは終了だ。もう少し頑張ろう。

◆等化と中和、メビウスの帯で

抽象的な思考を進める時には「アナロジー」という方法をよく使う。アナロジーとは「未知の状況の問題解決において、既知の類似した状況を利用する認知活動」(世界大百科事典)。早い話が比喩や例え。聖書におけるイエスの説法にはなぜ例え話が多いのか・・・。釈尊もしかり。「アナロジー」のセンスがそのまま「頭の良さ」に繋がる。抽象能力である。これは言霊の類推でも見られる。「似てるものは同じ」という考え方。言霊学においては響きが同じものには密接な繋がりがあるとする。それで同じ音のものをどんどん繋げていく。実はこの時、脳機能的には凄い活性化をしている。だが行き過ぎると「おやじギャグ」になってしまうので注意が必要だ。

さて等化と中和の構造的なアナロジーはいろいろある。レクチャーでは何種類も紹介しているが、今日のお題にもっとも直結するものとして「メビウスの帯」を取り上げる。

メビウスの帯・・・帯を一回ひねって,一方の端の表と他方の端の裏をはり合わせたときにできる輪。この帯がつくる面は裏表の区別がつけられず(単側面),また左まわりと右まわりの区別がつけられない(向きのつけられない面)という性質をもつ。(大辞林)

メビウス

帯を一カ所切り、それをねじって、表面と裏面をつなげてしまう。するとできた帯は表=裏となり、やがて裏=表となっていつの間にか元に戻ってしまう。帯を2周すると元に戻る。戻ってきたときにようやく事の重大性に気づく・・・「どこまでが表でどこまでが裏なんだ!」と。「表裏消失!」・・・メビウスの帯を一言で言えばそうなる。「表裏消失=無・ゼロ」である。上の定義では「向きのつけられない」と表現されている。

ねじったことで表・裏という二元性が消失してしまった!この状況がまさしく「等化」である。二元性の統合であり、ワンネスということだ。ではこれに対する「中和」とはどのような状況か。半田広宣氏のブログが出自だが、この場合、「中和」とはメビウスの「ねじれが見えていない状況」のことを言う。確かにメビウスの帯の場合、そのねじれは三次元空間上で生じている。帯自体は二次元の面だ。面の世界にいる限り、この帯はどこまでも表裏をもった面であり続ける。これが「中和」の状況。それに対して「等化」は「ねじれが見えている状況」だから、一つ上次元から見ていることになる。二次元の帯に対して三次元の空間ということだ。

メビウス解説

◆メビウスに見る二つのワンネス

今日のお題は「ワンネスには2種類ある」である。ねじれが見える「等化」がワンネスであることは分かった。ではもう一つの「中和」がワンネスとはどういうことだろうか。

結論から言おう(私にしては珍しいが)。それは「表裏一体」である。それが「中和」の状況が示す「ワンネス」。それに対する「等化」側の「ワンネス」とは言わば「表裏消失」のことである。この違いを深く考察することが本日の真意。メビウスの奥義とは「表裏消失」である。

「表裏一体」は2サイクルエンジンでも可能だ。それに対して「表裏消失」は2サイクルエンジンでは不可能。それは4サイクルエンジンで始めて可能となる。メビウス自体が4サイクルエンジンなのである。表-裏、裏-表。このねじれの関係がたすき掛けのような構造を造る。キアスム(交差配列)とも言う。4つで1つの仕組み、これを「四値論理」と言う。「四値論理」は4サイクルエンジンの別名と言ってよい。

「四値論理」の一番分かりやすい例が「向かい合う自己と他者」である。私とあなたが向かい合うとき、「私と私から見たあなた」という2者の関係がある。だがそれだけではない。その裏側にもう一つの関係性がある。それが「あなたとあなたから見た私」である。この4つのポジション、「四値論理」の関係性は普段は見過ごしがちである。というか、これが見えないのが人間の性(人間型ゲシュタルト・2サイクルエンジン)だからだ。変換人型ゲシュタルトは4サイクルエンジン、この四値論理がデフォルトで実装されている。

そしてこの「四値論理」がまさしく「メビウスの帯」に他ならないということはご理解頂けるであろうか。メビウスの帯においては「表=裏、裏=表」という四値論理の関係、つまり「ねじれ」が見えた時に「表裏消失」となる。

まとめると、

○「等化」は「表裏消失」、ねじれが見えている、つまり一つ上次元からの視点であり。ねじれとは「表=裏、裏=表」つまり四値論理・4サイクルエンジン。「表裏消失=無」という意味での「ワンネス」。

○「中和」とは「表裏一体」、ねじれが見えていない状況。面に張り付いた次元であり、全体が一つの帯であると見ている。これがねじれが見えていない状況での「ワンネス」。2サイクルエンジンのまま、「表裏一体」としての「ひとつ=ワンネス」を見たという状況。

何とか「ワンネスには2種類ある」ということの構造までこぎ着けたが、まだまだ現実例に落とし込めていない。さらに長くなりそうだから次回パート2に分けることにする。

構造までは言えたが、さらにその機能とか作用の違いまでを語りたい。そこまで知って、初めてこの知性は使える、ということになる。以下、問題定義の段階だけで中途半端な終わり方になることを先にお詫びしておく。さらに深い解説は次回のお楽しみで。

◆最後に問題定義:「中和」のワンネスは危ない?

「中和」のワンネスは危うい。少し説明しよう。・・・彼は「表裏一体」は理解しているのである。見たことがあるのである。表と裏が別々のものではなく「同じ一つのものの両側面」というのを喝破したのである。一瞬垣間見た。だから彼は「私は一瞬、目が開きました」と言う。「そして自分たちが盲人であったことが分かったのです」と。「見えたのは一瞬であり、いまはその体験を語るだけですが、それは経験とも言うことができません。なぜならそこには「経験する人」もいないからです。少なくとも一瞬見たので、どちらに行けば良いかは分かります。自分たちが盲人であったことを知っています。だから私の話を聞いてみて下さい。明るい光の世界へご案内します。これからどこに行けばよいかお伝えしましょう」と言うのである。聖書には「盲人が盲人を導くな」って書いてあったけど・・・。そしてその人について行ってみる。後は言わずもがなである。次第に矛盾が噴出してくる。だがトランス主導権を取られた人々はみんな黙り込む。黙り込むどころかその彼を擁護する側に回る・・・。

何もこの彼が悪者なのではない。こうなるのは仕方がないのである。何故か?ねじれが見えていないから。2サイクルエンジンのままだからである。

先ほど今のワンネスの危うさを「虚無に飲み込まれる」と書いた。表裏一体を看破した段階では必ず元に戻る。表裏一体は瞬時の体験だから。だが元に戻るだけならまだ良い。至福を得た分だけ虚無に引きずりこまれる。その振幅が激しいのだ。一瞬でも至福を経験したものほどアブナイのである。至福を知っているが故に虚無に飲み込まれるのである。私はこの状況を何とかしたかった。

一口に「虚無に飲み込まれる」と言ってもいろんな状況がある。だが大別すれば「社会化」するか「孤立化」するかのどちらかだろう。「虚無」を抱えたまま社会化すれば、彼は他者からエネルギーを収奪する者となる。至福を知っているだけに彼の欲望は大きいから巻き込む力も強い。それが霊的な方面に顕れれば宗教指導者やスピリーダー、物質的な方面に顕れれば俗人以上の俗人となり自由奔放の生活となる。他方、孤立化していけば鬱状態となり、早く亡くなる人も多い。今まで高度な覚醒をした人が早死にするケースがよくあった。表裏一体を根源まで見切ってしまうと、もはや宇宙や存在そのものに価値を感じれなくなるのである。情動の停止というようなことが起きる。そして生きる希望を失う。そのような精神が肉体を脱ぎ捨てるのに時間はかからないようだ。そう、「表裏一体」では「極端な相対主義」に陥る危険性があるのである。

この「表裏一体」を見た状況が「四次元対称性を垣間見た」という段階。そして「表裏消失」してしまった状況が「四次元対称性の獲得」である。その為には2サイクルから4サイクルへバージョンアップしなければならない。バージョンアップしなければ「虚無」に陥る危険性があるのだ。「虚無」に陥るのは「脱線」であって、「表裏消失」とは全く違う。

さて「四次元対称性」とは「内外空間の対称性」であると前回説明した。内外空間の対称性・・・これこそが3次元空間自体のメビウス、つまり「メビウスの帯」よりもう一つ次元が上の「メビウス空間」のことなのである。内外の対称性とは3次元空間をねじるということ。つまり「内=外・外=内という関係」が見えること。3次元空間自体をねじるんだから、一つ上の次元、つまり四次元空間でなければそれはできない。メビウス空間・・・これが四次元対称性ということである。そしてこの状況を迎えることを「人間型ゲシュタルトの解体」というのである。

さてさていよいよここからが大事なところだ。ここまではまだ問題定義の段階。まだまだ等化と中和から見たワンネスの違い、そのメカニズムを充分に説明できていない。その根本的な違いを明らかにできていない。だから何なの?と言われてしまう。ちゃんとその構造的理由や機能の違いを説明できなければ単なる愚痴になってしまう・・・。

2種類のワンネス。等化側のそれが「表裏消失」、中和側が「表裏一体」。その両者の一体何が違うのか。

最後に次回の為に伏線だけ張っておく。その両者のさらに根本的な違いとは・・・

・等化側「表裏消失」は「差異(違い)が前提となったワンネス」であり、

・中和側「表裏一体」とは「同一性(同じ)が前提となったワンネス」である

ということである。

等化側は「違い」を追求していく。中和側は「同じ」を追求していく。ここが運命の分かれ道なのである。同じ「ワンネス」と言ってもこれじゃ全く逆方向じゃないか。そう、真逆である。次回詳しく話そう。本日はこれまで。長文失礼しますた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000