Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「瞑想について」
瞑想についてクリシュナムルティはこんなことを言っていました。
『「瞑想には色々な流派が、メソッド、システムがあります。なかには「自分の足の親指の動きを見よ。それを見よ、ひたすら見守るのだ」と言うシステムもあります。
また、ある姿勢で座り、規則的に呼吸をするか、気づきを練習することを提唱するシステムもあります。これらはすべて全く機械的なものです。
別のメソッドはあなたに特定の言葉を与え、それを唱え続けるなら何らかの並外れた変容体験をもつだろうと教えます。これは純然たるナンセンスです。それは一種の自己催眠です。アーメンだのオームだのコカ・コーラだのと際限もなく復唱することによって、あなたは明らかにある特定の体験はもつでしょう。繰り返しによって精神は静まるからです。それはインドで何千年も実践されてきたよく知られた現象で、マントラ・ヨーガと呼ばれています。
繰り返しによってあなたは精神を温和に、柔和になるよう仕向けることはできます。しかしそれは依然として取るに足りない、安っぽく卑小な精神なのです。庭で拾った棒切れをマントルピースに飾って、毎日花を供える方がまだマシなくらいです。 一ヶ月もたてば、あなたはそれを崇拝するようになっており、その前に花を供えないことは罪になるでしょう。』(クリシュナムルティ/概知からの自由)
マントラ瞑想よりもそこらへんに落ちている棒切れのほうがまだマシだなんてクリシュナムルティはずいぶんと辛辣ですね。
集中的瞑想は眠りをもたらし、夢を見て気持ちが良くなる麻酔のような鎮痛効果があるというわけです。
麻酔は切れるとまた痛くなってしまいます。
努力して瞑想をしている状態はマインドの次元なのです。
こう言いたくなるクリシュナムルティの気持ちもわからないわけではないです。
クリシュナムルティは子供の頃から神智学協会の礼拝儀式にうんざりするほどつきあわされ、高次元のマスターからの啓示、秘儀参入を何回も経験しているからです。
クリシュナムルティが「意図的な努力や訓練、または宗教団体や何かの組織に属することによって覚醒を引き起こすことはできない」と言った背景には秘儀を通過した高位のマスターであるはずの神智学協会の幹部たちが俗物で凡庸なままだったことにあります。
あらゆる秘教的教え、ランクつけされた何段階もの秘儀参入のイニシエーション、そのシステムは どこにも導かなかったことをクリシュナムルティは目撃したのです。
マインドフル瞑想の広告を読むと悩みや不安な心をなくしたり、集中力をつけたり、潜在能力を増大させてビジネスに役立つとかかれているので、瞑想によってある特定の意識状態を得たり、到達すると考えている人は多いと思います。
瞑想はあらゆる思考と感情に気づいていることなので、今ここからはなれて結果や成功を求めるのは瞑想ではないことになります。
瞑想ではなく妄想になってしまいますね。
思考を止めようとしたり鎮めようとしたりすることも瞑想ではないということに気がつかなくてはならないでしょう。
努力して得るのは瞑想ではないのです。
思考を止めようとすること自体が思考なので、結果を期待して、未来を考え、判断し想像して努力することは思考の世界にいることになってしまいます。
思考の世界は自我なのでクリシュナムルティに言わせると「依然として取るに足りない、安っぽく卑小な精神」なのです。
瞑想のメソッドのほとんどが集中を要求します。
思考が常に頭の中で動いているので、集中への努力そのものが思考の網を広げその網に自分が絡まってしまうのです。
やっかいなのは絶え間の無い思考がいつも自己の中心にいますから、努力して集中しているのは思考が投影された自我だということに気がつけないということにあります。
思考という蜘蛛の巣に引っかかっているわけです。
思考を観察できた。思考を支配した。思考をコントロールできた。
できたと思っている観察者もまた思考だということに気がつかなくてはなりません。
これは得する損する。あれは良い。悪い。と言っている観察者がいる時は観察されるものと観察者に分離しています。
思考が作り上げた観察者がいるうちは葛藤がやむことがありません。
瞑想を訓練していくと一時的に心を制御できるようになります。しかし瞑想をやめると元に戻ってしまうのです。意識の集中はマインドを強化してしまいます。
そんな瞑想を何十年もやっているとかえってエゴが育って強固な自我の壁を構築してしまうことがあります。
クリシュナムルティの言葉の理解だと思考を停止しようと努力しないで思考を止めなくてなりません。
では、どうすればよいのかと言っても、あなたを導く教師や救い主はいないし、方法はないと明言するクルシュナムルティの言葉の前では途方に暮れてしまうでしょう。
瞑想の要点を絞れば共通項は見守ることです。
瞑想法は心が静かになることを求めます。心が静まったとき気づきが起きます。
結局、思考が静まった状態を何回か経験していく中で気づきが何であるか腑に落ちればいいのです。
森を散歩して鳥の声を聞いてる時、水面に映る月を眺めている時
暗闇の中で赤々と燃える炎を見ている時、恋人の瞳を黙って見つめている時
日だまりであそぶ子供達を見ている時、ただ見守っている気づきだけがあります。
そこには 沈黙があり 愛があり 光があり 永遠なるものが在ります。
そもそもの始まりが終りであって時間と距離はなく 登り行く途上自体が頂上で
出発点が到達点なのです。
https://www.osho.com/ja/meditation/meditation-tool-kit/questions-about-meditation/is-creativity-somehow-related-with-meditation 【About Meditation?創造性は瞑想と何らかのかたちで関係しているのですか?】 より
芸術は二つの部分に分けられる。芸術の99パーセントは主観芸術だ。わずか1パーセントのみが客観芸術だ。その99パーセントの主観芸術は瞑想とは何の関係もない。わずか1パーセントの客観芸術だけが瞑想をベースにしている。
主観芸術とは、あなたが自分の主観性をキャンバスに、あなたの夢を、あなたの想像を、あなたのファンタジーを注ぎ込んでいるという意味だ。それはあなたの心理の投映だ。同じことが、詩に、音楽に、創造性のあらゆる次元に起こる。あなたは、自分の絵画を見ることになる人のことは気にしない。その人がそれを見た時に、その人に何が起こるのかは気にしない。あなたの芸術は単なる嘔吐の一種でしかない。それはあなたを助けるだろう。ちょうど嘔吐することが助けとなるように。吐き気を取り除き、あなたをより綺麗にし、あなたをより健康に感じさせてくれる。しかしあなたは、自分が吐いたものを見ることになる人に何が起こることになるのかは考えなかった。その人は気持ち悪くなるだろう。その人は気分が悪く感じ始めるかもしれない。
ピカソの絵を見てみるがいい。彼は偉大な画家だ。しかしただの主観芸術家でしかない。彼の絵を見ると、あなたは気分が悪く、目眩がして、あなたのマインドの中で何かが凶暴になるのを感じ始めるだろう。あなたはピカソの絵を長く見続けることはできない。あなたは逃げたくなる。なぜなら、その絵が静かな存在から来ていないからだ。それは混沌からやって来ている。悪夢の副産物だ。しかし芸術の99パーセントはそうしたカテゴリーに含まれる。
客観芸術はまったくその逆だ。その人は吐き出すものを一切もっていない。彼はまったき空(くう)、絶対的にクリーンだ。この静寂から、この空(くう)から立ち昇るのは、愛、慈悲だ。そして、この静寂から立ち昇るのは、創造性への可能性だ。この静寂、この愛、この慈悲——これらが瞑想の質だ。
瞑想はあなたを自身の中心へと運んでくれる。そしてあなたの中心は、あなたの中心なだけでははい。それは存在全体の中心だ。その周辺においてのみ、私たちは異なる。私たちがその中心へと向かい始めるにつれて、私たちはひとつになる。私たちは永遠の一部、言葉を超えた、エクスタシーという計り知れないほど眩い体験だ。あなたがそうであれる何かだ。......しかし、それを表現するのはとても難しい。ところが、それを分かち合いたいという大きな欲求があなたの内に湧き上がる。なぜなら、あなたの周りの他の人々すべてが、正にそうした体験を求めてもがいているからだ。そして、あなたはそれを手にしている。あなたはその道を知っている。
そして、こうした人々は彼ら自身の内側以外のあらゆるところを探索している。自身こそがその場所なのに! あなたは彼らの耳に向かって叫びたい。あなたは彼らを揺すって、こう告げたい。「目を開けてごらん! どこへ行くんだ? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身から遠ざかるんだよ。家に戻っておいで、そして、できるだけあなた自身の内側深くにおいで。」
この分かち合いたいという欲求が創造性になる。誰かは踊ることができる。かつて神秘家たちがいた——例えば、ジャラルッディン・ルーミー。彼の教えは言葉の中にはなかった。彼の教えは踊りの中にあった。彼は踊る。彼の弟子たちは彼のそばに座っている、すると彼は弟子たちに告げる「誰であれ、私に加わりたい者は加わることができる。それは感覚の問題だ。もしあなたがそう感じなければ、それはあなた次第だ。あなたはただ座って見ていれば良い。」
しかし、あなたがジャラルッディン・ルーミーのような人が踊るのを見たら、あなたの中で眠っている何かが活き活きしてくる。あなた自身にもかかわらず、あなたは自分がその踊りに加わるのを目の当たりにする。あなたは、自分がそれに加わったことに気づく前に、既に踊っている。
この体験でさえ計り知れないほどの価値がある——つまり、あなたは磁石のように引き寄せられたということに。それはあなたのマインドの決断ではなかった。あなたは、同意するか・同意しないか、参加するか・参加しないかを秤にかけなかった。そうではなかった。ただ、ルーミーの踊りの美しさ、彼の広がるエネルギーがあなたを乗っ取ったのだ。あなたは触発されていた。この踊りは客観芸術だ。
そして、もしあなたが続けられたら——すると、ゆっくりとあなたはだんだんと恥ずかしいと感じなくなり、もっともっとできるようになる——ほどなく、あなたは世界全体を忘れる。ある瞬間が来る——踊り手が消え、踊りのみが残るという。
インドの彫像がある。あなたはただ静かに座って、それに瞑想しなければならない。それらの彫像をただ見てごらん。それらは瞑想家らによって作られた。ある手法によって、ある調和によって作られているので、ただその彫像を、その姿形を、その均整を、その美しさを見るだけで...... あらゆることがとても深く計算されていて、あなたの内側にも似た種類の状態をつくりだす。そして、ブッダやマハヴィーラの像と共に静かに座るだけで、あなたは奇妙な感覚に出くわす。それは、あなたが西洋の彫像のそばに座っても見出せないものだ。
西洋の彫刻はすべて性的だ。あなたはローマの彫刻を見る。美しい。しかし何かがあなたの中にセクシャルなものを産み出す。それはあなたのセックス・センターを打つ。それはあなたを高揚させない。東洋においては、状況がまったく異なる。彫像は彫られている。しかし、彫刻家が像を彫り始める前に、彼は瞑想を学ぶ。彼がフルートで遊び始める前に、彼は瞑想を学ぶ。彼が詩を書き始める前に、彼は瞑想を学ぶ。瞑想は、いかなる芸術にとっても必ず必要だ。そうすれば、その芸術は客観的になる。
すると、俳句——日本における小編の詩の一形式——の数行を読むだけで、たった三行、もしかしたら三語——もしあなたがそれを静かに読めば、あなたは驚くことだろう。それは、いかなるダイナマイトよりも、はるかに爆発的だ。それはただ、あなたの存在の中の扉を開け放つ。
私の家のそばにある池のほとりに私が持っている芭蕉の小さな俳句。私はそれが大好きだ。私はそれをそこに置きたかった。そうすれば、毎回、来ても行っても...... 芭蕉は、私が大好きな人のひとりだ。それに多くは含まれない:古池や...... 通常の詩ではない。とても絵画的だ。ちょっと思い浮かべてごらん:古池や 蛙飛びこむ...... その古池が見えるかのようだ! 蛙の、その飛びこむ音が聞こえるようだ:水の音。
そして、すべてが静かだ。古池がそこにある。蛙がそれに飛びこむ。その蛙が飛びこむ音が、以前にも増す静けさを生む。ただそれを読むだけで、あなたが読み進めるような、それ以外の詩とは違う——ひとつの詩から、また別の詩へと..... そうではない。あなたはただそれを読んで、静かに座る。それを視覚化する。目を閉じて。古池を見てごらん。蛙を見て。それが飛びこむのを見る。水のさざなみを見る。その音を聞く。そして、それに続く静寂を聞いてごらん。
これが客観芸術だ。
芭蕉は、とても瞑想的なムードの中でそれを書いたに違いない。古池のほとりに座って、蛙を見ながら。すると、その蛙が飛びこむ。そこで突然、芭蕉は、その音が静寂を深めるという奇跡に気づく。その静寂が、それ以前よりも増している。これが客観芸術だ。
あなたが創造者でない限り、あなたが本当の至福を見いだすことは絶対にないだろう。創造することによってのみ、あなたは宇宙の大きな創造性の一部となる。しかし、創造者となるには、瞑想が基本的に必要だ。それがなくとも、あなたは絵を描くことができる。しかし、その絵は燃やされなければならない。それは他人の目に晒されてはならない。それは良かった。それはあなたが荷を下ろす助けとなった。しかし、お願いだから、誰か他の人に荷を負わせないようにしてほしい。それをあなたの友人たちに披露してはいけない。彼らはあなたの敵ではない。
客観芸術は瞑想芸術だ。主観芸術はマインドの芸術だ。
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