https://www.web-nihongo.com/wn/back_no/bk_yakusenai_2007/11_070201.html 【みちのく - 大塚ひかり「訳せない、訳したくない古典のことば」】
【第11回】 みちのく
みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにし我ならなくに”
『小倉百人一首』に採られて名高い河原左大臣源融(みなもとのとおる)の歌である。
「みちのくのしのぶもじずりのように、身も心もよじれて乱れている。誰のために?私のせいではない、ほかならぬあなたのせいで」の意だが、問題は“みちのくのしのぶもじずり”。これは「乱れ」の序詞となっていて、“しのぶもじずり”が何を指すのかは古来、諸説あって不明だが、ねじれ模様の衣のことだと思えばいい。
じゃあ“みちのく”は?
みちのくは、辞書を引くと「陸前(宮城県・岩手県)・陸中(岩手県・秋田県)・陸奥(青森県・岩手県)・磐城(福島県・宮城県)・岩代(福島県)の奥州五国の古称。出羽(山形県・秋田県)を加えた奥羽、今の東北地方を漠然とさしていうこともある」(日本国語大辞典)とある。
これを現代の地名で訳していたら長ったらしいことこの上ないし、じゃあ「東北地方」とか「奥羽地方」で済まされるかというと、それでは“みちのく”の雰囲気をとうてい伝えきれはしない。
古い地名というのはどれも特有のイメージを背負っているものだが、“みちのく”はとりわけそのイメージが、ことばと切り離せないほど濃く強く一体化している。
“みちのく”に関する記述が文献に最初に出てくるのは『日本書紀』の景行天皇の条で、天皇の皇子の日本武尊が戦わずして“陸奥国”の蝦夷を平定したという。その後、斉明天皇の時(659年)、阿倍比羅夫がやはり陸奥の蝦夷を討ったといい、「陸奥」の語と共に「道奥」という語も出てきていて、この「道の奥」というのが“みちのく”の語源ともいわれている。
さらに『続日本紀』の元明天皇の条には「出羽国」設置の記事(712年)があり、聖武天皇の時代(724年)になってもまだ蝦夷平定の記事などがあることから見ても、東北地方がなかなか朝廷の支配下に置かれないでいた事情が見えてくる。
それは平安時代が過ぎても似たようなもので、だからこそ源頼朝に追われ義経も奥州に逃げたのであり、鎌倉時代の滅亡時にも奥州地方には守護も設置されていないのだ。 長らく中央勢力の及ばぬ唯一の場所、それがみちのくであり、その意味でみちのくはまさしく異国なのである。
異国には異国情緒が漂う。
王朝物語ではみちのくは“みちのくに”と記されることが多く、みちのく特産の“みちのくに紙”と呼ばれる雑用向きの厚ぼったい紙もしばしば出てくる。
というと色気のない紙のようにも思われようが、白くて清らかな“みちのくに紙”にほそーいほそーい筆で書いた手紙は“心ゆくもの”・・・気持ちのいいもの・・・と清少納言はいい(『枕草子』)、光源氏は紫の上を思いやる手紙をあえて色恋を感じさせない“みちのくに紙”で書き送って紫の上を感動させている(『源氏物語』賢木巻)。
清潔感に満ちた白い“みちのくに紙”は「未知の国」にも通じる語感も手伝って王朝人の想像力をかきたてたのではないか。
『源氏物語』より五十年から二十年くらい前にできた『大和物語』には、
“みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか”
という歌もあって、みちのくには鬼がいたと考えられていたことがうかがえる。 また、同じ『大和物語』には、大納言の姫君に身分違いの恋をした内舎人(うどねり)が、姫君をさらって馬に乗せ、“陸奥(みち)の国へ、夜ともいはず、昼ともいはず、逃げて”行ったと、ある。そして安積山(あさかやま)に小屋を作って姫を住まわせ、里に出て食べ物などを調達していたが、ある日、男が三、四日留守にしている時、山のたまり水にうつる我が身の衰えを見た姫君は絶望して死んでしまう。姫君は妊娠中で、こんな歌を残していた。
“あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかな”
・・・安積山の姿まで見える山の水。そんな浅い心であなたを思っていたわけではないの・・・。
帰って来てこの歌を見た男は、思いつめて、姫君の傍らに伏せって死んでしまったという。
“陸奥の国”でなければ成り立たない物語であろう。
都の人はみちのくには「何か」があると夢想する。そこでは叶えられない愛も叶うのではないか、身をよじるような激しい思いも存分に発散できるのではないかと。
そういえば冒頭の歌を詠んだ源融は、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とも伝えられ、その邸宅の河原院には、みちのくの塩竈の形を作って、海水を汲み寄せて塩を焼かせたりなどの面白いことを色々していた(『宇治拾遺物語』)。
彼がこんなにもみちのくにこだわったのは、陸奥・出羽の按察使(あぜち)に任命されたからだが、実際には赴任していないらしい。が、それにしては、というか、だからこそなのか、みちのくへの思いはつのったようで、とうとう難波から毎月三十石の海水を運ばせて塩作りをするという凝った趣向を披露して、評判になっていた。
嵯峨天皇の皇子であり、都びとの代表のような源融が、みちのくの風物を再現しているというのは、なにか欧米の億万長者が極東の日本の風俗を邸宅に取り入れているようでもあり、そこにはるかなる未知の国に当時の貴族が抱いていたロマンティシズムのようなものが感じられる。
そうしたもろもろを背負う“みちのく”はやはり“みちのく”のままでいてほしいのである(そういえば演歌の「みちのくひとり旅」なんてのもみちのくのイメージを活用した歌ではある)。
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