https://gogo-miyagi.com/61 【多賀城跡の歴史を解説!古代東北を知ろう】 より
東北が蝦夷と呼ばれていた頃、宮城県は陸奥国と呼ばれる地域の一部でした。日本三景・松島の手前にあった「多賀城(たがじょう)」は、陸奥国の国府(行政都市)。蝦夷支配を目論む、当時の中央・大和政権にとって重要な施設でした。今回は多賀城の歴史をひも解きます。
「多賀城跡(たがじょうあと)」がある多賀城市は、仙台からJR東北本線で約22分。日本三景で有名な松島との中間地点にあります。
奈良県の「平城京」、福岡県の「太宰府」とともに”日本三大史跡”に数えられている、国の特別史跡です。
現在は“跡地”となっていますが、奈良・平安時代には大和政権による東北支配の重要拠点として行政や軍事を行う機関でした。
多賀城が置かれたのは”陸奥国(むつのくに)”と呼ばれる行政区分(現在の都道府県のようなもの)の一つで、現在の東北地方の太平洋側(福島県・宮城県・岩手県・青森県・秋田県の鹿角郡)にあたります。
多賀城をつくった大和政権の意図
陸奥国内には先住民の蝦夷が暮らしており、中央の大和政権の支配下に属さない領域でした。
蝦夷を従わせ東北地方を完全な支配下に置きたかった大和政権は、8世紀に入ってから侵略の拠点として多賀城の建設に踏み切ったのです。
そもそもなぜ、大和政権は蝦夷を支配下に置きたかったのでしょうか?
なぜ8世紀というタイミングで多賀城を建設し、蝦夷支配に力を入れだしたのか。
その理由を知るためには、当時日本の中心だった大和政権の情勢について知っておく必要があります。
支配力のなかった大和政権
大和政権は現在の奈良県北部の占める、大和地方の豪族たちが成立させた連合政権のこと。
支配地域は九州から関東に至り、その頂点に立った人物は「大王」と呼ばれました。大君はのちに天皇と名称が変わります。
ただし律令体制が築かれる以前の大和政権は、全国を直接支配していたわけではありません。
地方統治は各地の豪族に任せており、政権の支配力はそれほど強くなかったと考えられています。
外交も各地の有力豪族たちが独断で行っていたりと、中央の権力は脆弱でした。
つまり律令体制以前の大和政権には、東北を支配する力はなかったのです。
しかし8世紀に入ると、大和政権に大きな変化が訪れます。そのキッカケの一つが、天智2年(663年)に朝鮮半島で起きた「白村江(はくそんこう)の戦い」。
この戦いを機に、今までは豪族が自由に行っていた地方支配から、朝廷の監視が行き届く天皇中心の律令体制に向けて本格的に動き出すのです。
その延長線上に多賀城の創建や、蝦夷征討といった大和政権と古代東北の戦乱があります。
侵略される危機感から、律令体制化へ
まずは契機の一つ、白村江の戦いについて紹介します。
当時の朝鮮半島は「高句麗(こうくり)」「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の三国が、覇権を巡り争っていました。
しかしそこへ第三の勢力、中国大陸を統一した大国・唐(とう)が参戦。
しかも唐と新羅は連合を組み、大和政権と関係のあった百済を滅ぼします(660)。
百済の生存者からの救援要請を受け、大和政権は朝鮮半島へ3回にわたり軍を派遣します。
当時の朝鮮半島は、最先端の技術や文化を取り入れる重要な取引先。失うわけにはいきません。
しかし大和政権は、唐・新羅連合軍に大敗(白村江の戦い)。
百済復興への道は閉ざされ、朝鮮半島における日本の地位は失われます。
そして668年に唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一。
しかし唐と新羅は支配権を巡って対立し、676年には新羅が唐の勢力を駆逐して、半島統一を成し遂げます。
新羅と対立関係にあった大和政権は、報復・侵略される危機感を覚え、国防を意識せざるを得ない状況になったのです。
「侵略されないためにも、唐のように皇帝を中心とする国家体制(律令国家)を築かなければならない」という意識が高まっていくのです。
律令国家の基礎となった政変「大化の改心」の中心人物、※中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)はこの白村江の戦いに参戦していました。
中大兄皇子が天智(てんじ)天皇として即位したのは、戦争から5年後のこと(673年)。
2年後には人民把握のための戸籍制度をつくり、内政の強化。中集権化を進めていきます。
※大兄……同母兄弟の長男にのみ与えられた、大王位継承資格を示す称号。中大兄は2番目の大兄。
天智天皇の死後、皇位を巡る争いが起こったものの(壬申の乱/じんしん)、673年に天智天皇の弟・天武天皇(てんむ)が即位。
兄の意思を継ぎ、唐のような律令国家を目指して、日本史上最初の体系的な律令法「飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)」を制定します。
これは701年に制定された本格的な律令「大宝律令(たいほうりつりょう)」の前身になったとされ、天皇を頂点とする律令国家体制が整います。
多賀城創建までの流れ
払田柵
出典:PIXTA(秋田県にある払田柵跡)
大宝律令の制定より、少し前に遡る7世紀。
律令体制の成立に向けて着々と準備を進める大和政権ですが、白村江の戦いなどで外交も不安定でした。
そこで大和政権の力が及ばない、異邦の地も同然だった古代東北「蝦夷(えみし)」を支配下に置こうと、「※城柵(じょうさく)」の建設を着手。
同時に柵戸(さくこ)と呼ばれる移民を移住させ、支配の拡充を図っていきます。
記録では大化3年(647)に現在の新潟県新潟市付近に設置された「渟足柵(ぬたりき)」がはじまりとされ、その翌年には同県の村上市付近に「磐舟柵(いわふねのき)」が造られました。
※城柵……蝦夷地(東北地方)を征服するために築いた政治・軍隊の運営する機関。
大和政権に従う者、従わない者
先住民の地へ勝手に踏み入り開拓を進める中央に、蝦夷たちは憤ります。
両者の間にしばし衝突が起こりますが、蝦夷は部族社会だったため中央と微妙な均衡を保っていた部族もいたようです。
しかし養老4年(720)、陸奥国北辺で蝦夷による大規模な反乱が発生。
朝廷に陸奥国の按察使(あぜち/地方政治を監督する官職)が殺害されたという報告が入ります。
朝廷は多治比県守(たじひあがたもり)を、征夷大将軍に任命し派遣。反乱は一年経たずに鎮圧されます。
それから四年後の神亀元年(724)、大野東人(おおのあずまひと)によって「多賀城」が創建されたのです。
多賀城とは、どのような城だったのか?
多賀城が創建された8世紀、中央はすでに律令体制を築かれており、蝦夷を含む地方支配のしくみも”律令”によって定められていました。
全国は60余りの「国(現在の都道府県)」分け、その下に「郡(現在の市町村)」、さらに下に「里」が置かれ、各国に朝廷からの監視も配置されます。
多賀城は、陸奥国という「国」の中心となる行政都市(国府)。
のちに軍隊や政治を担う「鎮守府(ちんじゅふ)」も置かれ、大和政権における東北支配の中心地的な施設役割も担っていたと考えられています。
多賀城が築かれたのは、松島湾と塩竈湾を望む丘陵地。城の周囲にめぐらされた城郭は、約900m四方からなる大規模なものでした。
平野部は材木塀、政庁のある頂上部を泥土で固めた築地塀で囲み、北を除く三方向に門が設けられたようです。
南門は正門として利用され、多賀城創建1,300年を迎える2024年に復元される予定です。
中央には重要な政務や儀式を行う「政庁」があり、中心に正殿(中心となる建物)と石敷広場、その南北中軸線上に中門(政庁の南門)と後殿が建っていたと推定されています。
また正殿の両脇には、東西に高楼(こうろう/二階以上ある建物)、脇殿(わきでん/日常業務を分担していた場所)が配されており、政庁の周囲には行政実務を行う役所や木製や鉄製品をつくる工房、兵士の宿舎なども配されました。
このような建物の配置は、藤原宮や平城京などの都城や太宰府と類似しており、多賀城は城柵のような軍事施設というより地方行政機関としての役割が強かったのではないか、と推測されています。
また城外も、方向を一定にそろえた建物や道路、運河などが続々と発見され、区画が整備された街並みが形成されていたのではないかと考えられています。
多賀城は四回建て替えられている
多賀城は大規模な修繕・造営が、過去4回ほど行われています。
【第Ⅰ期】724年、大野東人が創建
【第Ⅱ期】762年、藤原朝狩によって修造される
【第Ⅲ期】780年、伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)による反乱で建物が焼失、復旧される
【第Ⅳ期】869年、貞観地震(じょうがん)で倒壊、復旧される
なかでも第Ⅱ期にあたる天平宝字6年(762)年、藤原朝狩(ふじわらのあさかり)による修造が最も華々しく、装飾的な建物が増設されたようです。
多賀城の歴史が刻まれた「多賀城碑」
現在も多賀城は跡地ですが、天平宝字6年(762)に建立された碑文「多賀城碑」は、当時の姿のまま残っています。
多賀城碑文があるのは、多賀城南門近くに建つ小さな堂の中。平らな石には141字の文字が彫られており、多賀城の創建や修造に関する内容、京や蝦夷から多賀城までの距離などが記されています。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、代表作『おくのほそ道』の道中で多賀城碑文へ足を運び、対面した時の感動を作中に記していました。
「行脚の一徳、存命の悦び 羇旅の労をわすれて、泪(なみだ)も落るばかり也」。
時代が移り変わり、その跡をハッキリ留めていないことばかりだった。しかし多賀城碑は千年来の姿を留めており、目の前に古人の心をみている。
これこそ旅の利点であり、生きているからこその味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れ、涙も落ちるばかりであった。
多賀城碑は群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)に並び、”日本三古碑”に指定されました。
多賀城と三十八年戦争
話を多賀城から東北全体に戻します。多賀城が創建され、大和政権の蝦夷侵略が進む天平21年(749)。
現在の遠田郡(とおたぐん)涌谷町(わくやちょう)付近で、金が発見されます。
涌谷町は日本ではじめて金が採れた地とされ、奈良時代に造営中であった東大寺の大仏、のちに奥州藤原氏が築いた平泉の黄金文化に貢献します。
しかし金の発見は、大和政権の蝦夷侵出を加速させ、同時に反乱を招く原因にもなりました。
宝亀5年(774)に、海道蝦夷(石巻市の北上川から三陸海岸にかけての蝦夷の総称)が、現在の石巻市に築かれた城柵「桃生城(ものうじょう)」を襲撃する事件が発生、翌年宝亀6年に鎮圧されます。
のちに「三十八年戦争」と呼ばれる、蝦夷VS大和政権の戦がはじまったのです。
蝦夷の反乱に苦戦する大和政権
時を待たずして、宝亀8年(777)。
陸奥国の隣、出羽国(でわのくに/現在の山形県と秋田県)管轄だった志波村で、蝦夷の反乱が発生。
これを朝廷に服従した蝦夷”、俘囚(ふしゅう)”の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が鎮圧します。
蝦夷のなかでも中央に抵抗する者もいれば、服従して官位を授かる者もおり、伊治公呰麻呂は後者でした。
しかしそれから3年後、宝亀11年(780)。
陸奥国上治郡の※大領となった伊治公呰麻呂が、反乱を起こします。
のちに「宝亀(ほうき)の乱(伊治呰麻呂の乱)」と呼ばれるこの反乱では、陸奥国・出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害されるだけでなく、襲撃を受けた多賀城が焼失。大和政権の東北経営は大打撃を被りました。
※大領……大宝令によって定められた郡司(国司の下で郡を治める地方官)における最高の地位。
朝廷が黙っているはずもなく、光仁天皇(こうにん)は中納言・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、次いで参議・藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を蝦夷※征討軍の指揮官である”征東大使”に任命し、現地へ派遣します。
しかし大した成果は得られず、大和政権による東北支配をより強化する契機になりました。
反乱の首謀者である伊治公呰麻呂は、その後の史料に登場することはなくその最期は不明です。
※征討……服従しないものを、攻め込んで討つこと。
アルテイ VS 坂上田村麻呂
蝦夷の反乱を抑えきれない大和政権は、どんどん軍を送り続けます。
光仁天皇に次いで即位した桓武天皇(かんむ)は、蝦夷の最大拠点であった胆沢(現在の岩手県水沢市)を攻略をしようと征討軍を派遣。
しかし族長・阿弖流為(アテルイ)が率いる蝦夷の抵抗は激しく、思うように進みませんでした。
その後、朝廷は結局3回にわたり大軍を派遣することになります。
1回目の遠征は789年。
征東大使に任命された紀古佐美(きのこさみ)が、5万を超える大軍で攻め込みます。しかし蝦夷のゲリラ作戦に大敗。
2回目の遠征は794年。
征夷大将軍に任命されたのは、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)。1回目より倍の大軍を率いて攻め込みます。
この時、副将を坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が務めました。
一定の戦果を上げますが、攻略には至りません。
3回目の遠征は801年。
征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が、胆沢へ攻め込みます。
そして翌年802年、アルテイら蝦夷が降伏。坂上田村麻呂は敗者となったアルテイを連れて、朝廷のある平安京へ戻ります。
坂上田村麻呂とアルテイは、敵同士ながらも互いを認め合っていたといわれています。
死刑を言い渡されたアルテイですが、坂上田村麻呂が反対し「東北地方は運営をアルテイに任せるべき」と提言。
しかしアルテイは刑に処され、三十八年戦争は終結。
しかしアルテイの処刑は、大和政権による蝦夷の徹底抗戦と同義でした。
中央は引き続き蝦夷へ軍を派遣し、802年に岩手県水沢市に「胆沢城(いさわじょう)、803年には盛岡市に「志波城(しわじょう)」、さらに矢巾町に「徳丹城(とくたんじょう)」など、城柵の建造を進めてきます。
東北侵略は大和政権自身の首も絞めていた
しかし9世紀に入り、この蝦夷征討は大きな転換期を迎えます。
いわゆる「徳政論争(とくせいろんそう)」です。
桓武天皇の命令で、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがののまみち)が”徳のある政治”について議論させます。
藤原緒嗣は社会を疲弊させる原因となった軍事、蝦夷の征討と平安京の造営という二大事業を停止すべきと提言。
しかし菅野真道は藤原氏の意見に反対でした。
桓武天皇は藤原氏の意見を採用し、延暦24年(805)に蝦夷への征討を停止します。
といっても戦をすぐに辞められるわけではなく、最後の征討は十年後の弘仁2年(811)。
坂上田村麻呂の意思を受けついだ征夷大将軍・文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)による遠征でした。
これにより、蝦夷の征討事業は一応完了となります。
その後、朝廷は蝦夷の有力者たちを郡司などに任命することで、俘囚として律令体制の中に取り入れていきます。ですが朝廷の厳しい政治に対し、878年に現在の秋田県で起こった「元慶の乱(がんきょう)」など、抵抗を示す俘囚も一定数いました。
とはいえ大和政権と蝦夷の間で和平交渉が行われ、東北征服を受け入れる代わりに、現地の統治は蝦夷が行うという形で収まります。
朝廷は完全に蝦夷を支配することはできず、あやふやな状況が続きます。
多賀城と前九年の役
再び多賀城の名が史料に現れるのは、朝廷による東北平定からおよそ200年後の11世紀。
その頃の東北は「安部氏」と「清原氏」という二つの氏族が、出羽国と陸奥国を実質支配していました。
やりたい放題だった安部氏
安部氏は朝廷に服従する蝦夷(俘囚)で、陸奥国の国司から現在の岩手県付近にあたる「奥六郡」の統治を任されていました。
一族を率いるリーダは、安部頼良(あべよりよし)。のちに起こる「前九年の役」の主要人物です。
しかし安部氏は国司の言うことを全く聞かず、奥六郡の外側に柵を築いたり国への納税を怠るなどやりたい放題でした。
そんな安部氏に我慢ならなかったのが、陸奥国の国司であった藤原登任(ふじわらのなりとう)。
両者は現在の宮城県鳴子町にあたる鬼切部(おにきりべ)で衝突し、結果は安部氏の圧勝で終わります。
敗者となった藤原登任は国司を交代させられ、代わりに源頼義(みなもとのよりよし)が国司(陸奥守)の任に就きます。
源頼義の着任で、静かになる安部氏
源頼義は1028年に関東地方で起きた反乱「平忠常の乱(たいらのただつね)」を鎮圧し、強い影響力をもつ源頼信(みなもとのよりのぶ)の息子でした。
する、と今までの徹底抗戦の姿勢を崩さなかった安部氏の態度が一変。藤原氏に服従する低姿勢へ切り替えてきたのです。
しかも安部頼良は、藤原頼義の父・頼信と同じ名前であることを配慮し、自ら安部”頼時(よりとき)”へと改名するほどの忠実ぶりでした。
結果、頼信の着任でしばらくの間東北地方に平穏が続きます。
事が動いたのは天喜4年(1056年)、頼義の国司任期が終わる頃でした。
鎮守府が置かれた胆沢城から国府(多賀城)の帰路へついたとき、頼義のもとに部下が夜襲を受けたという報告をが入ります。
部下に犯人の心当たを訪ねると「安部頼時の長男・貞任(さだとう)が自分(頼義の部下)の妹を妻にしたいと願ったが、卑しい俘囚にはやれないと拒んだ。その逆恨み以外の襲撃以外考えられない。」と話します。
源頼義は大いに怒り、真相を確かめずに「息子の貞任を出頭させろ」と安部頼時に命令します。
しかし頼時は、父親として命令を拒否。再び安部氏と朝廷の戦いがはじまりました。
源頼義、出羽国の清原氏と手を組む
国司の任期を終えた源頼義でしたが、頼義以外の人間の命令に誰も従わないような状況だったため、頼義は再び国司に任命されます。
そして翌年1057年、安部頼時は戦いの最中に命を落とします。
源頼義は朝廷に頼時戦死の報告と援軍の要請を送りますが、朝廷からは音沙汰なし。
褒美や援軍を送ってもらえないどころか、戦死した父の代わりに一族を率いる安部貞任が力をつけていき、源頼義は次第に追い込まれていきます。
劣勢の状況から打開策を探る源頼義は、ある一族に協力を仰ぎます。
それは中立の立場を貫いていた出羽国の俘囚リーダー・清原氏です。
源頼義は説得や貢物を繰り返し、1062年ついに清原氏の協力を得ることに成功します。
総大将・清原武則(きよはらのたけのり)率いる清原軍の参戦により、これまで優勢だった安部氏が劣勢に追い込まれます。
そして1062年、藤原氏・清原氏の連合軍の勝利で「前九年の役」は幕を下ろしました。
その後の東北地方は安部氏の代わりに清原氏が実権を握り、出羽国・陸奥国の統治を任されます。
蝦夷が自身の土地を管理する情勢は変わず、東北に朝廷の支配が行き届くには至りませんでした。
多賀城と後三年の役
前役が終わった1062年から20年後、蝦夷が暮らす東北地方は再び戦乱へ巻き込まれていきます。1083年~1087年に起こった「後三年の役」と呼ばれる戦のはじまりです。
そころの東北では、前九年の役で安部氏の勢力下にあった六つの郡(奥六郡)を清原氏が支配し、元々支配していた出羽国の三郡と合わせ、計九つの郡を統治してました。
とはいえ、前九年の役の安部氏とは違い納税もしっかり行い、清原氏は朝廷に従順な姿勢をみせていたようです。つまり前九年の役のような、対朝廷がキッカケではありません。後三年の役は、清原氏の家庭内問題が原因で起こりました。
複雑すぎる三兄弟の関係
争いのキーとなる人物は、前九年の役で総大将を務めた清原武則の孫にあたる清原真衡(まさひら)。
清原氏の当主です。真衡には二人兄弟がおり、この三兄弟が後三年の役を招く原因となります。
真衡の父・武貞は、もともと安部頼時の娘と婚姻関係を結んでいました。
娘には連れ子がおり、武貞の養子となって清原清衡(きよひら)と名乗ります。
その後、武貞と安部頼時の娘の間に清原家衡(さねひら)が生まれ、武貞の息子は真衡、清衡、家衡の三人になりました。
真衡には子に恵まれず、自分の後継者に養子として※桓武平氏(かんむへいし)の血を引く清原成衡(なりひら)を迎え入れます。
真衡は息子となった成衡を、源頼義の長男・源義家(よしいえ)の娘と婚姻関係を結ばせ、皇室の血を引く源氏との関係強化を図っていきました。
息子の政略結婚からもうかがえるように、真衡は嫡流のみを重視する思考をもっていました。
そのため真衡に反感を抱く同族も多くおり、結果後三年の役のキッカケとなった事件が起こるのです。
※桓武平氏……桓武天皇の子孫で、平(たいら)の姓を賜った家系。
成衡の婚礼を祝うため、真衡の叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)は大量の金を抱えて訪れます。
吉彦秀武は真衡の父・武則の妹を妻としており、嫡流ではありませんが一族の長老格を担う人物でした。
しかし碁に夢中だった真衡は、お祝いに来た吉彦秀武を無視。
日頃から蓄積された不満が爆発し、秀武は怒って帰ってしまいます。
この報告を受けた真衡も激怒し、秀武を討ちに出ます。
吉彦秀武も黙ってはいません。自分の力だけでは勝てないと思い、もともと真衡に対し不満をもっていた家衡と清衡に声をかけ、ふたりは秀武側に参戦します。
この頃、国司(陸奥守)を拝命された源義家が、陸奥国に入っていました。
息子の婚姻で源氏と親戚になった真衡は、国府(多賀城)で義家を歓待します。
その後吉彦秀武を討ちに出羽に出陣しますが、本拠地が襲撃される可能性もあったため、源義家の軍に留守を任せます。
そして真衡が去った後、予想通り家衡と清衡が本拠地を襲撃。
これに源義家本人も応戦し、家衡と清衡は敗北します。家族喧嘩に勝利はしたものの、真衡は進軍中に病で亡くなりました。
清原氏の遺産問題に、親戚が首を突っ込む
真衡の死を受け、問題になったのは遺産(真衡の所領)問題です。
そこに口をはさんできたのは、源義家でした。
義家は真衡が支配していた所領(奥六郡)を、家衡と清衡にそれぞれ三つずつ分け与えます。
しかし家衡はこの決定に不満でした。「清原氏の血が流れていない清衡と、なぜ自分が同等なのか。」と。
そして1086年家衡は清衡の屋敷を襲撃。しかし生き残った家衡は源義家に救援を求め、義家はこれに応じました。
家衡は出羽国の金沢柵(かなざわさく)へ入り、清衡・義家軍を迎え討とうと陣を構えます。
金沢柵は四方を水で囲まれ、当時は難攻不落といわれたやっかいな城柵です。
これに対し清衡・義家軍は、敵の補給路を断ち食料や兵力を欠乏させる”兵糧攻め作戦”を行います。
作戦は功を成し、飢餓に苦しんだ女子供が投降してきました。
はじめ源義家は助命しようとしましたが、食糧を早く底つかせたい狙いもあり皆殺しにします。
これに恐怖した家衡陣営から降伏する者はいなくなり、家衡は金沢柵に火をつけ敗走。
しかし最終的に家衡は討ち取られ、後三年の役が幕を閉じます。
ちなみに前九年の役で活躍した源頼義と、後三年の役で頭角を現した源義家の親子は、その後”武家の棟梁”と呼ばれる源氏の嫡流となっていきます。
つまり鎌倉幕府を開いた源頼朝やその弟義経、室町幕府を開いた足利尊氏も、頼義・義家親子の直系の子孫にあたるのです。
そしてこの親子が務めた陸奥国の国司、その拠点であった陸奥国国府「多賀城」。関東と東北、思わぬところに繋がりがありました。
多賀城と古代東北の歴史について紹介しました。「城」と聞くと石垣にそびえ立つ天守閣をイメージされる方が多いと思いますが、多賀城が創建されたのは奈良時代。天守閣が登場するのは、およそ800年後戦国時代ころと言われています。
後三年の役のあとの東北は、奥州藤原氏の統治によりしばらく平穏な時代が続きます。そして陸奥国国府の多賀城もその役割を終え、10世紀以降はほとんど機能していなかったと考えられています。
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