松前藩の成立  ③

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

第7節 門昌庵事件

 熊石町といえば門昌庵といい、門昌庵といえば柏巖和尚と答えが返ってくる程、熊石町と門昌庵との因縁が深く、北海道特に道南地方人で門昌庵事件を知らない人は一人もない程である。門昌庵事件が起きたのは延宝6(1678)年で、すでに300年余を経過しているのに何故なのか、どうしてこの事件の真相を知らないのに、こうも道南住民の胸奥に刻み込まれているのか不思議でならない程である。これは封建領主の専横に対する庶民の怒りが、表には出さないが、家族や子、孫に秘話として語り継がれて、現在にまで伝えられたものであるが、その家によっては判官びいきも手伝って歪(わい)曲されて伝えられているものもあり、その真相は不明である。また、これら伝えられる門昌庵事件の伝説を、歴史学的検討を加えながら、これを見た場合、多くの誤りがあって、その伝説が、その発祥時代から正しく伝えられて来たものであれば、誤るべき事のないような事が誤って伝えられているのである。

 これら門昌庵事件についての記録は松前藩の記録にも、住民の記録の中にも残されていない。封建制度の厳しいこの時代に、藩主の非行をあばくような記録を書き残せる訳がなく、その代替として住民の口碑、伝説のなかに深く刻み込まれて、密かに伝えられて来たものであると解することが出来る。

 藩政時代の門昌庵にかかわる記録は、本州方面から入り込んだ旅行者が、蝦夷地の住民から聴いた秘話として、この事件のことを記録したものが若干ある。

門昌庵山門

 寛改元(1789)年蝦夷地に渡り、西へ太田山まで旅行した秋田の民俗学者菅江真澄の旅行記“えみしみのさへき”に

 (五月)=八日天気はたいそうよいが、疲労からか頭が痛いので、きょうも、この宿にとまることにして、近くの門昌庵といふ寺のような庵に、常陸国(茨城県)多賀郡からうつり住んでいる実山上人を訪れた。上人は、この寺の由来を語ってくれた。福山の法幢寺の六世にあたる柏岩峰樹和尚は、世に知られた出家であったが、女色のこころがあると、人の讒言(ざんげん)によって山越(※1)の罪をうけ、遠くの浦に流されたがその方が建てられた庵である。ここで仏道修行をしておられたが、ますます讒言が重なってなお罪を重くされ、いよいよ斬られるということになり、その討手がむかってきた。峰樹はもってのほかと無念に思い、わたしは無実の罪をうけてここに斬られよう、命はめされようとも魂は天に飛び地に去って、この恨みをはらそうと、りしぶ(※2)をとり、さかぐりにくってうたれなさった。その首福山でさらし首にしようと持っていく途中、道が遠いので江差の寺に一夜とまった。ところがその首をおいた一間から火がでて、この寺はすっかり焼けおちた。その後、このような怨念によるたたりがしばしばあらわれたが、そちこちの方のお祈りのおかげで、いまはまったくなくなったという。

 (東洋文庫菅江真澄遊覧記二)

 ※1の山越の罪とは、第5節、第6節で記述した越山の刑、不便な地方へ流刑することである。※2のりしぶは、理趣分のことで、般若理趣経のことで、この経を逆にめくると人をのろう呪術のさまであるといわれる。

門昌庵開山柏巖和尚座像(門昌庵蔵)

 いずれにしても柏巖和尚は、女性問題でのことで讒言によって藩主の怒に触れて熊石に流刑され、そこで門昌庵という小さな庵寺を建て嫡居していたが、重なる讒言(ざんげん)によって、ついに藩命により処刑され、その結果、奇怪な事件が多発したので、これを恐れた領民は、この事件を門昌庵事件、あるいは門昌庵の崇(たたり)と言っていたものである。

 伯巖峰樹和尚の出自については定かではない。松前家家臣であった北見政信が、明治30年代に“北海道史”の編集者として有名な河野常吉氏の要請に答えるの形で書いた。“雲石実記”によれば、

 伯巖峰樹和尚 生国越後国蒲原郡出雲崎俗名土谷治助ト号、年弐拾歳正保弐年明僧隠元禅師ノ門ニ入ル、得度シテ徒弟トナル名ヲ一應ト号ス、其後隠元承応二年明江帰国ニ付此年生国ニ帰リ、翌三年六月蝦夷島ニ渡リ、曹洞宗松前山法源寺七世霊翁積巖和尚ノ徒弟トナリ、入院仏業ヲ励マス、歌、茶道、画学ノ一式ニ秀テ賢明ナル聞ヒアルニ付、寛文五年乙巳秋九月曹洞宗法幢寺五世鉄山麟鷟和尚ノ継目トナリ、入院住職六世ノ法定伯巖峯樹ト改ム。‥以下略。

となっていて、伯巖和尚の出自を明確にしている。しかし、昭和39年10月当時、北海道道史編集所編集員永田富智が、熊石門昌庵の史料調査中、たまたま伯巖和尚の三物を発見した。僧職者の場合袈裟の内側に必ず、仏道者としての三物、あるいは三道、三脈と称する仏道者の血脈を内蔵しており、それは絶対に他見を許さず、死亡時に焼却するか、納骨の際埋葬することを原則としているのでこの様に残されていて発見される機会の極めて少ないものである。

 この三物は永田氏からの依頼で、前住十四世長水憲貢和尚(故人)が、庫裡の上に二畳間程の部屋があり、そこに封印された木箱があったのを発見して待ち受けていたものである。永田編集員が箱を開いて披見すると、一枚の金繡の袋があり、その中央には卍巴の白の縫取があり、その両側には阿(あ)・吽(うん)を表現した白狐が同じく縫取られたものであった。この袋を明けると、15センチメートル角の奉書を織った紙があり、この包紙には

 松前法幢寺六世

 柏 巖 峯 樹

 寛文六丙午天

 九月十八日

と記されていた。この包を披くと約畳一枚程の白絹に書かれたものが三枚出てき、これが柏巖和尚の三物であることが確認できたのである。

 一枚は道元禅師から柏巖和尚にいたるまでの法脈を書いたものである。二枚目は柏巖が法幢寺鉄山和尚の法嗣弟子となったことを示すもので、これは鉄山和尚の筆で

 示山僧云仏戒者宗門之一大事也昔日靈山少林曹洞山天童永平和尚嫡寸相来而吾今附海吾新法弟子教峯樹(伝附畢)

 維持寛文六丙文天九月十八日

 東林敝和尚在天台日於維摩之宝示西和尚菩薩戒者 禅門之一大事

 也航海来問禅弔因此先授戒法衣応量興坐具宝瓶柱 杖曰払下遺

 一物授畢 懐莽刻

 大釆淳■(手へん+人べん+己)乙酉九月望

 法幢五世 鉄山麟鷟洩(書判印)

というもので、これによって見ると柏巖は、寛文6(1666)年9月18日に法幢寺五世鉄山和尚の弟子として入院し、柏巖と名乗ったものと解され、“雲石実記”にいう法源寺七世雲翁積巖和尚の弟子ではなく、寛文5年法幢寺の五世住職の後継者になったのではないということが分った。

 さらに三枚目の白絹には、

となっていて、柏巖峯樹が法幢寺六世住職として入院したのは延宝4(1676)年であって、鉄山和尚は隠居の翌年の延宝5年6月26日に死去しているので、法幢寺住職就任の時期にも誤りがあり、また、定説となっている柏巖の熊石流刑が、延宝5年であるとするならば、柏巖の住職就任1年後にこの事件が発生したことになるが、この三物の発見によって前出の“雲石実記”等に見られる柏巖の出自に多くの誤りが発見されるし、巷間に伝えられるこの伝説を史実に照応した場合は、更にその矛盾は大きいのである。

 この門昌庵事件が、文章化されて伝えられるようになったのは、明治時代の後半であると考えられ、前述した 河野常吉の道史編集資料として北見政信に編述させた“雲石実記”を初め、“松前福山城下江差在熊石村門昌庵実説”があり、この書には「今から220、30年前」との文言があるので、その執筆は明治30年代の後半で、その底稿になったのは、北見政信の“雲石実記”から抜萃して芝居の稿本風に書き上げたと推定され、また、明治42年北海日々新聞記者の千葉稲城の書いた“実説門昌庵物語”も、この“松前福山城下江差在熊石村門昌庵実説”を底稿としている面が多分にある。また松前家家臣の末流であった中島峻蔵も、その著“北方文明史話”(昭和4年刊)のなかで、簡明に門昌庵事件を扱っている。また、昭和8年門昌庵第十三世住職伊藤憲隆も、これらの既刊物を集約する形で“門昌庵縁起”を出版している。また、昭和10年笹谷常咲著“松前史物語”にも収載されている。

 このように門昌庵事件に登場してくる人物は、北見政俗筆の“雲石実記”によって位置付けられ、それを芝居戯曲風に書かれた“門昌庵実説”によって固定化されて行ったものと考えられる。今この“門昌庵実説”は北大中央図書館北方資料室に収蔵(NO.103091)されている。美濃判和紙に木版活字印刷をされているので、当時としては相当数が出ていたものであり、現在流布されている門昌庵伝説の根本であるので、これを次に記す。

松前福山城下江差在 熊石村門昌庵実説

 二、三年前了見も若かりし頃筆まめなる人の誰もすなる小説とぶもの綴りて試みんと思ひ立ち、その材料にもとて松前藩の御家騒動ともいよべき渡島生ものお方は、芝居の怪談にても知る妄執庵とは附会の訛まこと門昌庵が侍女松江と濡衣の遺憾(うらみ)を熊石に留めたるや、説をば旧記を猟り、敬老に質ね、略ぼ荒筋を拾ひ蒐めたりしを、詩を作らんより田を作れと異見、さもて暫く蠹毛(しみ)の棲み家となりたりしを日永の徒然反古しらべに偶と見出しける、折から此社の先生を訪ひ来て奪い去り、闇黒の恥を晒す事とはなりぬ。元より秘密の材料ひかえ帳、文もかざりも無き一つ書改むべき餘暇もなければ下手な文句を並べるよりはと、有のまゝをぶちまけて逃げ代序。如件

 東山天皇の御宇徳川は四代将軍家綱公の時世であるから、今から二百二、三十年前年の物語。当時蝦夷ケ嶋の太守は松前第十代目矩廣公と申て、御身分は従五位下朝散太夫志摩守先代高廣(ママ)公の御嫡男で万治二年十一月二十四日福山城で御誕生になり、幼稚い中は竹松丸と申された。阿母(おつか)様は秋といって實家は老臣蠣崎右衛門輔利廣の一女、祖母は清涼院継母即ち高廣公のお妾は了光院といって、お両人とも御髪を剃して尼さんになっている。この清涼院は忠臣蠣崎庄左衛門廣明の姉さんで、了光院は徳川の旗本高井飛驒守の女。延宝五年矩廣公十九歳の時に公卿唐橋侍従在庸卿の息女を夫人に迎ひたが、夫人は翌年の秋七月逝去された。

 さて矩廣公は却々方(なかなかさい)の利いた御器用な性質で、弓は家臣新井田嘉肋好寿、馬は品川佐左衛門勝安、軍学は柴田角兵衛勝元、剣術は志村玄丹明政を師範として御勉強の餘暇には、風雅の道にも心を寄せ、和歌茶の湯を一向系専念寺潭玄に、楽焼を西川春庵に、画を江戸の狩野永真と家臣村岡伊右衛門忠能に学び、孰(いず)れも御堪能であった。

 延宝五(①)年の八月江戸より御帰国になり、その十月廿日町家では姪子講といふ日に専念寺に御歌会の催ほしがあるといふので、矩廣公はこっそりとお忍びで裏門から御小姓の女中両三人をお連れになり、潭玄の許へお遊びに参らせ、その帰り途に法幢寺の和尚を御訪問になったのは、此物語の起る抑々である。此法幢寺は松前家代々の御菩提所にて、宗旨は曹洞宗、和尚の柏巌は越後の国出雲崎の生れ姓は土谷名は峯樹、字は門昌初め一応といひ、明暦年中福山に渡来りて法源寺積巌和尚之弟子となり仏学の蘊奥を極め、和歌、茶、画にも達し、日頃学徳兼備の聞へあり。寛文五年法幢寺之先住が入(②)寂した跡を継いで同寺六世の住職となった。物語りを始むる前に、重なる役者の素情を述べて置かう。法幢寺柏巌和尚即ち門昌庵の連累として刑罰を加へられた坊様に朔応和尚といふかある。此人生国は伊勢の国桑名在八幡といふ処で、俗名は鈴木弾肋、姓は源、得度して朔応と改め、字は巓雄(てんいう)といった。寛文二年秋九月中二十八歳の時に剣術修行の為諸国巡回の序、松前に渡り、寛文六年三月三十二歳の春仏法に志して柏巌和尚の弟子となり、其後寛文八年十一月朔日曹洞宗法源寺七世雲翁積巌和尚の跡を継いで八世の法源寺住職となった。

 門昌庵と関係の疑を受けた御小姓女中の松江といふ藩臣丸山清左衛門康近の三女で、その兄久治郎兵衛清康は、諢(あだ)名を闇の夜の久次郎兵衛といわれた人である。且つこの丸山家は松前藩主の中でも名家の一人だといふのは、先祖の麻呂市兵衛は藩祖信廣公が蝦夷征討の為め、上の国に旗揚をした当時、股肱の手足となって抜群の功労をした勇士が七人なる所謂七人衆の一人で、清左衛門は市兵衛から六代目になる。松江は器量の佳い方で既に主ある同じ家臣でも由緒正しい蠣崎牛松廣久と強縁(いいなずけ)であって、今は只公然の祝言を待つのみである。小姓同士岡焼するものもあったらしい。

 門昌庵の処刑された処は、只今の尓志郡熊石村、その頃は雲石といった。是が本名で、日本人の付た名で、蝦夷語ではない、口碑によると雲石といふ故事因縁がある。昔時蝦夷と内地人(シヤモ)と戦闘した時に、内他人の方が敗軍(まけ)そうになった。すると天佑といふものか神助といふものか、不思議にも俄に空掻き曇り怪しの黒雲か降りて忽ち大きな岩石となり、勝誇って追ひ駈来る蝦夷の路を遮った為め、内地人は無事に引上げる事が出来た。それから此地を雲石と称へたといふ。

 法幢寺の茶会室は雪見山と称えて、流石(さすが)に数寄を尽した有名なものであったとて、矩廣公は専念寺歌会の御帰り途茲処へ御立寄りになり柏巌和尚の手前でお茶を召され、四方山(よもやま)の話に暫は時を移し、暮六ツ頃御帰りになった。頓(やが)て御夜食を進らせんと御膳番御側衆古田小源治信尹、酒井戸次九郎好澄、杉村勝之助治恃、細界多佐士貞利の四人伺候して、今日は専念寺御歌会にいらせられ御勇々敷御帰城恐悦至極に存んじ奉りますると御挨拶を申し上げても、何の御答もなく御意に召さぬ事のある様子ゆえ、四人の側衆は不審の面色を見合せながら御前を退き、直ちに老女の野村、田村両人に会って今日殿様御遊散の節御供申し上げしは誰々なるやと尋ぬると、野村はそれは昌村、松江、幾野の三人に御座りまする、何の御用か但しは素忽でも有ましてかと気遣ふを、いや別義はないと四人は老女と別れ猶相談の上、再び御前に伺候し、恐れ乍ら殿様へ内密に申上奉り度義の候へば、暫時お人払をといふので御小姓を次へ御下げになり、何事なるぞとおたづねの下より、餘の義にても候はず、実は松江事殿様参府御留守中、清涼院様、了光院様御仏参の折柄お供にて度々法幢寺へ参り候中、柏巌と不審の擧動ある由の噂を聞及び候、殊に聞捨に致さば恐れ多くも殿様を無きものにせんと奸計を懐くやに候へば、別して御食事御召上りの折は御注意遊ばしまする様にと言葉も未だ終らぬに、矩廣公赫と御立腹の御権幕にてお言葉もあらあらしく松江を呼寄せ、その影を見るより早く佩刀を取り憎くき奴と忽如(いきなり)抜き討ちに斬掛けたまえば、松江は悲鳴をあげて遁れ出で、苦痛の餘り狂ひして、大書院裏の梁に駈け登った。此物音に御側役の老女、御小姓の面々駈付、御守役新井田嘉肋好寿(よしひき)、大力無双の聞えある御側衆岡口彦十郎長次、近藤杢之助有武、藤倉五郎次郎重明外二名にて矩廣公静めまつり、漸やう御居間へお連申した。松江の斬付けられた大書院裏の間は濡縁の間といって柱に血染の跡が残り、先年舊城内を小学校舎にした初めの頃、不勉強又は乱暴な生徒があれば、この凄惨(すごみ)のある薄暗い室へ入て懲(こら)したそうだ。負傷の松江は御典医桜井玄三、川道元宕両人きて手当を加へ、西の丸御殿所閉塞させた。家(③)老蠣崎庄右衛門廣明は急報により早速登城して御守役新井田嘉助好寿、御側御小姓頭工藤清兵祐義両人を招ぎ打合せをなしたる後、御機嫌伺に御前へ進むと矩廣公の御気色猶おだやかならずして柏巌の首を伐って参れとの御意に、蠣崎廣明申し上げやうは、法幢寺は御代々の御菩提所にあるが、血を流すやうな事は如何あるべき、且は、柏巌こと兼て賢僧の聞あるに松江と言々の事実あるべしとも存申さず、これは何かの間違と存候へば、明日迄臣下へ御預け仰せ付けられ、御憐愍(れんみん)御猶予あるよう願ひ奉る。尤も法幢寺へは人数を遣はし厳重に警戒を致し置候と請願の所へ西の丸両御隠居よりも飛内義右衛門盛之、佐藤権左衛門季平両人を使者として、同様柏巌の命乞ひ、且つ松江に限りては蠣崎牛松と定まれる縁辺平素貞操を守って居れば、左様な不行跡は断じてないとの申開きに、矩廣公も稍御心を和らぎ、更に老臣共に仰せられ、本年六月中御改めなりし雲石の関所へ柏巌流罪と決まり、取敢ず護衛番人として惣奉行下国清左衛門季春、小林甚五兵衛長元、御側衆細界多佐治、杉村勝之肋、谷梯(やぎはし)浅之進質重、太田彦七貞治、若侍麓花六郎政純、小平小十郎季長、足軽布施新十郎、村田作治兵衛、瀬戸勘左衛門外三人を早々法幢寺へ詰めさせ、猶武器は一品も携帯に及ばずとの達しであった。それから又御家門、寄合中へは惣登城といふので御馬役因藤與治右衛門孝光に命じ、早馬を以って御使を立てた。

 斯くて登城の願触れは松前左衛門尉(④)謀廣、松前藤兵衛直廣、松前主膳正幸廣、下国宮内要(かね)季、蠣崎牛松廣久、蠣崎廣明の六家、御両院尼御名代としては蠣綺采女清廣、下国七郎兵衛季平等追々参着するを待って、御守役新井田好寿、御小姓頭工藤祐義より其旨御前へ申上げると、公には大書院へ御出座になり、更めて柏巖の処分御評議を開かれた。其處へ町奉行氏家唯右衛門直重は寺僧神主どもより柏巖令乞ひの歎願書を持参して老中蠣崎廣明へ渡すと、廣明は御守役新井田に御前へ差上げさせた。この歎願書は曹洞宗法源寺朔応和尚と真言宗専念寺潭玄から別段に二通、其の他曹洞宗宗圓寺、寿養寺、龍雲院、真言宗阿吽寺、萬福寺、慈眼寺、万願寺、実相院、地蔵院、三光院、浄土宗光善寺、正行寺、欣求院、地蔵堂、真宗浄応寺、西教寺、日蓮宗法華寺、及び法幢寺坊主共にて都合十九ヶ寺。神主では太神宮、八幡宮、馬形宮、羽黒宮、熊野宮、朝間宮の七人、松前市中の総てであった。

 主従黙して控ゆるのみ、大書院只寂寞(ひっそり)として耳立ものは蝿の羽音ばかりであった。蠣崎廣明はやをら席を進み御前に額き仄(ほのか)に承りすれば今度不慮の出来事に付きましては、清涼院様には御一方ならぬ御心痛遊ばされ、松江を御小姓に推薦なしたるは我身なるに事実無きにせよ、仮にも斯る疑ひを蒙りし本人の落度は詰り我身の目鑑(めかん)届かさりしよりの事、御申訳なしとて既に御生害遊ばさんと迄思ひ追られしを漸く御諌め申上げ、御制め申たる程候得は、両人に対しての御処置何分御慈悲の御沙汰を願ひ奉るといって退席(ひきさが)った。矩廣公いまだ兎角の仰せなき中新井田好寿末席より進み出で只今蠣崎氏より申上たるやうの次第にも候得ば、柏巖死刑の義は御宥免遊ばされ本年六月相定め候蝦夷境界の関所雲石へ流罪追放仰せ付けられ候はば、御寛大冥加至極と存じ候と申上ぐれば、列座の一同も然るべき旨言葉を添へて願った。さらば宜きに計らへと公の仰せに有難御意畏り奉ると御申。猶御意に依り今日中に城下を出立させる手筈を評議して一同退出した。

 大書院にての評議により松江の兄丸山久治郎兵衛清康は閉門仰せ付けられ、柏巖はその日の暮に福山城下を出立することゝなり、警衛総奉行は下国清左衛門季明、御側衆古田小源治信尹(ただ)、酒井戸次九郎好澄、高橋権之助貞光、太田彦七貞治、若侍並河宇弥大正甫(よし)、近藤杢之助有武、麓花六郎政純(よし)、医師須藤春庵、足軽頭北村団六、木崎藤七外八人都合一行十七人、柏巖は網乘物にすべしとの評議もありしかど種々異論ありて普通の乘寵を用いさせ、其夜は根部田村に泊り、翌二十二日の夜雲石に着いた。警護の人数は越て二十六日福山へ帰着し(す)。

 柏巖は其後草庵をむすびて門昌庵と号(なづ)け、昨日は松前家の菩提所法幢寺の和尚と尊敬され錦繍の袈裟を纒へしが、今日は住む人もなき山陰に麻の衣の肌寒く人に教へて説きたりし有為転変の理(ことわ)りを我身の上にまのあたり、無常迅速の世を味けなく送るあわれな境涯となった。

 延宝六年秋九(⑤)月中旬矩廣公は御狩猟を催ほされて、西在なる桧山の厚沢部へ御成あり、江差に廻られて西川春庵方へ御泊になった。一説には人麿庵を御旅館としたともいふ。この春庵の住居近くに薬師堂があったので、其辺を薬師町といった。春庵には公より御直筆焼物を給はり、又此の縁故にて其後春庵の甥西川庄右衛門春美(よし)は故郷近江八幡より延宝八年十月江差へ渡航(わた)り、種々営業向の便宜を受け、天和元年には豊部内沢にて鉱山を発見したといふ、これは話序の餘談である。

 ある日笹山といふ所に上って四方の景色を御覧ある内、偶(ふ)と目に留った方角を御側近くに居たる酒井佐治兵衛好澄に御尋なさると、彼れは見市嶽と申し、その崎の方に白く霞みて見ゆるは雲石とこそ存ぜられ候。ナニ雲石とならば柏厳の居る処かと仰せらるふ折しも、その山の端より俄かに黒雲起り今にも大雨にならん空模様と変ったので、急ぎ御帰館になった。これは元より秋の空のならひなれども、当時はこれも門昌庵の執念だと噂さとりどりであった。その翌る日江差を御出発になり道筋なれば、上の国村の夷王山に御先租借廣公の霊を祭、無事松前城に御帰着になった。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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