松前藩の成立 ⑥

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

鯡漁業と納屋場

 松前藩の知行制度のなかには家臣の秩禄維持の方法として場所制度があり、また、鷹場の制度がある。場所とは蝦夷地のうち、和人地を除いた地域を七~八〇か所に区割し、藩の直領地を除いた場所を家臣に給付し、この場所給与を受けた家臣は、特別の場合を除き、慣例的累代給与を受けた。そして毎年1回場所の住人であるアイヌ人達の欲する生活物資を中漕船に積んで出かけ、現地人の生産した物資と交換して帰り、その交易物資を商人に売って、その利益によって生活するのが、場所持の高級家臣の実態であった。場所の給与を受けない低級家臣は、藩直領地交易の上乗役として現地に赴き、帰藩後その配当を受けたり、切米を貰って生活をしていた。

 また、鷹は松前藩の重要な財源の一つであった。松前氏が豊臣秀吉に鷹三居を献じたのは天正19(1591)年で、以来、徳川将軍家が使用する鷹狩用の鷹は、蝦夷地出産のものが最高とされていた。元禄13(1700)年の“支配所持名前”によれば、家臣に給与されている鷹場所は二百一か所もあり、ここで鷹匠に捕えられた鷹は藩が飼育して習した上で、将軍家の献上、大名への進物、さらにはこれを売却した。この鷹の収入は、その年によって差があったが、年一千両から二千両に及び、藩財政の十分の一を賄っていた。良質の鷹は一居三十五両もしたので鷹場所持(鳥屋場所ともいう)の家臣も、秩禄維持のための財源の一つでもあった。

 さらに場所持の上級家臣の給与には、道南和人他のなかは本来的には藩主の直領地であるが、若干の地は知行主が定められていた。天明6(1786)年の“蝦夷拾遺”によれば、西在では石崎村は松前左膳、木ノ子村は蠣崎将監、北村は松前貢、厚沢部村は蠣崎蔵人、乙部村は下国岡右衛門等であり、大茂内、小茂内、突符、三谷、蚊柱、相沼内、泊川、熊石の八か村は直領であった。これら和人地は戸口役等の本物成役は藩に収めるが、知行主を持った村は、この外の小物成役を収めるというもので、仲間の供出や生産物の勝手賄等の役があった。

 これら家臣給与のなかで、最近問題となっているのは、家臣に対する鯡漁業権の付与が和人地各村に与えられており、この問題点が“熊石村会所日記”記述のなかに散見され、北海道史学の注目を集めている。

 鯡漁業権は着業しようとする漁業者が沖合漁業をしようとする地先海面とこれに連けいする海産干場を、藩に願い出て役料を払って借りるのが当時の鯡漁業権と考えられるが、松前家の家中については、藩が家臣に給与の一環として、父子相伝の形で所有していたものと考えられる。

 元禄5(1692)年の“松前主水廣時日記”5月3日の項によれば「江差村にて松前自休さ(ママ)上り魚屋場、明石豊右衛門、つばな御魚屋場 小林磯右衛門両人願之通被付候。」とあり、さらに5月26日の項に「江差村つばな御魚場氏家忠右衛門願被仰付候。」とある如く、家臣が漁業権の下付を申請し、町奉行が許可をした旨の記事があり、この時代頃から家臣が漁業権の交付を受けていたものと思われる。この権利を得たことにより、家臣が鯡漁業を営んだり、この権利を漁民に貸して利益を得る等の事が行われていた。時代は少し下るが文化年間に記したと思われる“松前歳時記草稿”によれば、3月の鯡漁期に「此鯡漁には貴賤同しく打交りて其差別なく、私領之節は家老の妻娘なとも出しよし」とある如く、士も鯡休暇を願い出て、現地に赴き鯡漁業に従事する者が多かった。

 この侍達の納屋場漁業権について、“熊石村会所日誌”の天明7(1787)年3月の記事に

 一筆致啓上候、弥勇勝可(レ)被(レ)成(二)御座(一)珍重ニ御座候。此方代勤共両人無異二罷在候。且此度当村根崎鯡場所山田左平持地御買調被(レ)遊候由ニテ同人並ニ御手代九平殿態々御遣被(レ)成殊更紙面之趣、御両人之口上之趣承知仕候。仍ち右場所代金之内二十両は左平方江当金ニ御渡可申候、残ル金五十両ノ分ハ五月被(レ)遣次第證文引替、地杭等立合相改無(二)相違(一)相渡申候間、右ノ段々左様思召可(レ)成候。

 右可(レ)得(レ)御意 如(レ)此御座候。

 三月十九日

 奥右衛門

 弥 兵 衛

 村山 傳吉様

 これは松前家家臣大広間列の山田左平(左門七)所有の根崎鯡場所を代金七十両で松前の場所請負人村山傳吉 (村山家3代傳兵衛)に売却することになり、二十両は支払い、残り五十両が5月に支払われた段階で、熊石村名主の奥右衛門と弥兵衛が立会杭打をして、その所有を確認するという連絡の文書である。

 この文書に対し、鯡納屋場代金支払い完了による熊石村名主、年寄の確認として

 村山傳吉替地

 一於根崎 納屋場壱ヶ所 但し表通川より西隣境迄十一間、山岸幅十間四尺五寸、浜通九間一尺、西隣ハ大科肋右衛門場所、東隣ハ松前畑中四兵衛場所、立家蔵とも有りのまま。

 右之場所馬形山田左平より村山傳吉方ニテ未五月買取、立合改。

 天明7年末5月

 年寄 弥三郎

 武右衛門

 名主 弥兵衛

 奥右衛門

とあって村山傳吉が、山田左平より買収した鯡納屋場について、代金が完了したので、村役立会でその間数を確認したもので、東隣、西隣もそれぞれの所有者があって、鯡納屋場所有縄張りがかなり厳重に行われていたことを示している。

熊石村会所日記の記事(門昌庵蔵)

 また、この記録に於て

 一、四月九日下国岡右衛門(家老)様平田内湯二御出ノ砌態々此元江御立寄被(レ)成蠣崎佐士様鯡場所当村小西弥三郎方ニテ相求メ罷在候処、一家支配ノ鯡場所故御詮索可(レ)被(レ)成よしにて、此の如き書付御持参写しおく。

 熊石鯡場所

 一、畑中場所壱ケ所、右ノ場所ノ儀ハ小浜屋藤三郎ト申者委細存居候。

 一、当所鯡場所大石ノ中より川岸まで、此場所先年大工利七罷越相彿申候。尤モ金弐十両ニテ内五拾貫同仁利七相仕申候。残リハ造酒隠居候両人ニテ相使申候。以上。

 三月十三日

 織人判

 一家支配

この外、下国岡右衛門が持参した鯡場所證文は、

 永代売渡鯡場之事

 一、鯡場所壱ケ所 西ハ蠣崎将監殿場所、熊石村畠中検地有次第。東ハ杉村勝左衛門殿鯡場所。

 右之通リ此度代金九両ニ売渡申処相違無(レ)之候。

 右場所ニ付脇より構御座無く候条證人加判 仍而如件。

 蠣崎佐士判

 宝暦拾年辰五月十五日

 證人 熊石村家来庄九郎

表書之通相見無相違候。以上。

 辰二月十日

 年寄 藤三郎判

 同 利右衛門判

 同 三之丞判

 名主 平右衛門

 これは中書院席の蠣崎佐士が家老であったが、飛驒屋久兵衛の公訴事件に関連して自尽し、その財産は一家支配となっていたので、これらの證文が正しいものかどうかを佐士の妻の兄で、一家支配の下国岡右衛門が調査に来たもので、この時より27年前に後出の場所が売られており、前出の売払い證文は蠣崎佐士が自尽後、隠居を命ぜられた造酒(広房)の賄料として使ったことを孫に当る職人広常が記録したものである。これらの證文にも見える如く、西隣は有名な家老蠣崎将監(波響の養父)の鯡場所であり、東隣は側用人の杉村勝左衛門の場所である等、松前家家臣の多くがこれら鯡納屋場を所有しており、この天明期頃には多くの家臣が、この頃襲った天明の飢饉の生活苦から、場所を売払い生活費に充てていたことが考えられる。また、後出の證文について、同記録では

 一、五月二日下国岡右衛門様直々御下り被遊、先年蠣崎佐士様より当村吉郎右衛門江下置かれ候、屋敷此度御吟味ニテ間数御改メの上来る五月迄当村名主両入江預ケ候。

 一、畑中場所壱ヶ所

 西隣ハ蠣崎将監様御場所、東隣ハ御用地まで三十七間二尺、御用地ノ内十三間三尺。

 右之通此度立会相改。

となっていて、證文の東隣の杉村勝左衛門所有場所が、この時点では公用地になっており、さらに、この天明7年には近藤亀蔵所有場所が村山傳吉に、厚谷新下所有場所が熊石村与次兵衛に売られる等、藩家臣が知行として与えられていた鯡納屋場所の権利は、次第に民間人に買収されて、その知行は姿を消していったものと考えられる。

藩の鯡漁業政策

 蝦夷地第一の産業は鯡漁業であったので、その豊凶は住民生活はもち論、藩庫にも重大な支障を生ずるので、その保護政策に本腰を入れていた。藩の鯡漁業政策は檜山奉行を中心として立案執行したと考えられている。檜山奉行所が江差に設けられたのは延宝6(1678)年とされているが、この檜山奉行への触書では檜山の運営が取決められているのみで鯡漁業については全く触れられていない。元禄4(1691)年明石豊左衛門が檜山奉行に任命されたときの定め書においても、

 一、年々鯡小屋之奉行と令(二)相談(一)、宜様為(レ)致(レ)候。若奉行私欲をかまへ候者、其段可(二)申聞(一)候事。

とあって、檜山奉行の本来の業務は檜山運営にあって、檜山地方は鯡漁業の本場ではあるが、その保護政策の運営等は鯡小屋奉行(鯡番所奉行)が任命され、鯡漁期から、税役の収納完了までの期間をこの奉行が調査運営をしていた。檜山奉行にその業務が委任されるのは“松前福山諸掟”の辰二月の覚書に

 一、鯡方之事ニ付諸事吟味之義今年より江差番所支配申付候間、万端差図を受可(レ)申事。

となっていて、諸掟の檜山奉行の年代順の記入から見ると、この前に年代が明示されているのは、安永6(1777)酉年であるので、その後の辰年は天明4年であり、同年(1784)以降の事と考えている。

 同掟書の献上鯡番所奉行の所掌事務を定めた「定書」に於ては

 定

 一、献上数子の義随分入念干候鋪物等吟味可申付候事。

 一、諸事入念申付候。自分不及思案義者、家老共迄申達可受差図事。

 一、夜網上させ申間鋪候、とき放し筌切せ申間鋪候。

 附、魚屋場の義先前之通り可付候、自分難計義者、可受差図候事。

 一、粒鯡、筒鯡船積仕廻次第相立申候并直走之義沖口判形差遣候。届次第書付之通法度物等船中改、出船候様可申付候。直走船頭水主之本役も半分宛可申付候。

 附、諸廻船往来不相滞可仕候事。

 一、西在郷ニ近年猥ニ年取候百姓共其元処々々に出候急度可申渡候。若無拠西在郷ニ年取候百姓ニ者歩銭可申付候。

 右之趣急度可相守者也。

享保五子年二月

 和田嘉右衛門との

と、その所掌事務の細分を指示し、さらに裁量不能のものについては、家老まで申し出てその処理の指示を受けるよう定められている。

桧山奉行所の門(江差町法華寺所在)

 さらにこの年には浜表に一般漁民についての鯡漁業関係について、その保護のため、次のことを禁止する高札を掲げて注意を求めている。

 浜表建札鯡番所奉行江相渡、

 尤二月より五月下旬引

 一、海江ひゝき有之処ニて鉄砲うち申間鋪事。

 一、鯡あミときはなしに仕間鋪。

 一、鯡あミうけきり申間鋪事。

 一、夜あミあけ申間鋪事。

 一、野火つけ申間鋪事。

 右之旨相背におゐてハ急度申付者也。

 子二月

というものである。一、の海へ響く処で鉄砲を打ってはいけないというのは、鯡は非常に敏感な魚で、陸で大きな音がすると鯡は陸岸に近寄らないので、春の彼岸以降は、寺院の寺鐘まで漁期の終るまで中止し、さらに一、野火つけ申し間敷事も、野火等が鯡の群来に影響があってはならないという配慮であった。他の三項については、漁業中の制約で、漁中に網を解き放したり、浮を切ったりすると、他の漁業者に迷惑をかける結果となり、また、夜間に網揚する場合は危険を伴うので、網揚は日中に行う等の条文を掲げている。これは極めて簡単な条文ではあるが、鯡漁業と領民保護の藩の基本的姿勢と見ることができる。

鯡漁業歳時記

 鯡漁業の準備は正月に始まり、6月の節季払いまでの六か月間を要する。1月11日には船魂祭が行われ、鯡漁家や船持は自家船の安全と豊漁を祈って、床の間には「船魂大明神」の軸を掲げ、供物を備え、船には大漁旗を掲げ、御神酒、お備え餠を備えて神主のお祓を受けた後酒宴を開いて祝う。この場合、泊川の北山神社の蟹(かに)講のように船魂祭を集団で行うところもあった。この蟹講は「蟹のように横になって歩くまで酒をのむ」という意味があり、毎年1月17日鯡漁業者達が当番の広い家に集まって大漁祈願をする。祭壇には蟹をはじめ助宗、ゴッコ、鱈等この海岸でよく獲れる魚を17種34枚の大皿に盛り、左右二列に並んでそれぞれお膳を付け、当番者の指示によって着席、上席より順次お神酒を配り、謡曲に始まり謡曲に終って酒宴に入るが、女人の酌は禁じられていた。帰路には祭壇の蟹を2、3匹土産として配った。

 また、相沼内八幡神社の愛宕講もその例である。八幡神社の親神様が隠居して愛宕神社として祀られていて、その命日に当る1月24日に講が開かれ、小太鼓をたたいて神社まで登り、男達はシトギ(水に浸した生米を搗き砕いた粉)を顔に塗り付け、シトギの入ったお神酒を頂いて、鯡の大漁祈願をしているし、泊川の薬師寺の金比羅講は1月10日に行われ、漁夫の身を守り、海上安全を祈り、泊川光明寺の竜神講は1月18日行われ船主や漁民の海上安全と大漁祈願をするなど、神、仏を問わず、頼れるものには皆お願いをし、ひたすら大漁と着業の安全を祈った。

 1月下旬から2月にかけては各村落の青年男子は皆村内の山に入って薪伐りをした。一戸の必要な薪は五尺×一〇尺のものを一敷といい、これを一戸五敷位薪炭材として取り、その外鯡釜用と物納税用を三敷位伐り、2月15日頃までには山を下った。その間、婦女子は鯡漁期の労働着を裁縫した。その主なもの男子用には刺子、テッポウ、チャンチャン、肌着、股引等があり、婦女子はドンジャ、刺子、股引、足袋、手がけ、前掛、脚絆、ツカミコテ等を作り、春の鯡漁に備えていた。

 2月初めの節分会にはその年の吉凶を占う。年男は羽織、袴の姿で「鬼は外・福は内」と主屋、番屋を清めて歩く。この時男の子がすりこぎを両手で持ち「ごもっとも、ごもっとも」と付いて歩く。その家族は年の数だけ豆を拾う。拾い終って明りを付け、親方の拾ったものを炭火の回りに間隔を置いて並べ、予めその場所を定めておき、その方向の豆の煎り上る色を見て豊凶、天気模様、その他1年の計を占った。また、北山神社には大鍋があり、豆を先ず油で煎り、次にその鍋で湯を沸し、その中に豆を入れて沸騰させ、その方面を決めておいて、豆や泡の寄り具合によって、漁場の豊凶を占うという方法があったが、その鍋は今も北山神社に保存されている。

 また、2月の初午の日は各部落の稲荷神社で初午の占いが行われた。その際、各人が赤飯を炊いて供えて、自分の願いを唱え、飯の減り具合で吉凶を占った。

 2月末になると鎮守社の神主を呼んで、鯡船、道具、網、干場を湯立神楽によって清めるが、これを浜清女神楽といった。3月末までには形枠、網の固定を終って、ひたすら鯡の群来るのを待つが、幸い北海道教育庁が刊行した“日本海沿岸ニシン漁撈民俗資料調査報告書”に熊石町の漁撈と漁具が詳細に載せられているので、これを次に掲載する。

鰊漁撈と漁具

1 網作り

 網は糸でなく編まれたものを何反と購入する。建網・差網は場所の条件と資本の額、船頭の経験によって現地で組み立てて作る。(網の大きさ、深さ、手網の長さ等に変化がある。)

 網の使用が終ると、きれいに水洗いをして保存しておくので、毎年の仕事は網の修理ということになる。

 鰊漁の多かった時は、行成網(入り易いが逃げ易い)を使用したが、鰊が薄くなってから角網(改良網、入りにくいが逃げにくい)を使用するようになった。

2 鰊漁の準備

 初鰊は清明(4月5日)の前後になるので、3月に入ると雇人が集まってくる。番付の発表(今年の仕事の段取りを職種別に発表する)があって、船頭の指図で次のような準備にかかる。

(1)網の修理

(2)網 染 め

 柏木の皮(カツ渋という)で染める。前年から準備していたものを使用して新しいものは使わない。

 芽の出ない柏木の皮をはぎとって乾燥し、たたいて粉にし俵に詰め保存していたものを、大釜に入れて二昼夜煮てその汁で染める。この方法が一番長持ちしてよく染まり、網も丈夫である。

(3)船の修理

 三半船、保津船、磯舟等。

(4)山仕事

 大きな焼き握り飯と沢庵漬や鰊漬をおかずに持って山へ行き、漁場で必要な材料を切り出す。

 ア ネギ緒取り

 ブドウ蔓、コクワ蔓で建網の型にする嬰児籠(エジコ)やアバ(浮子)の玉、定マッケ(錨)につける玉などに使用し、非常に用途が広かった。

 イ タモ、ポンタモの台木(ヤチダモ、ナラなどを山取りする)

 ウ アバ(浮子)の材料

 エ なやの早切竿、トドマツを使用

 オ マッケ(木の錨)、マッケのかんざし

 カ 突掻敷

 キ ヤシャ鈎(ヤッサイ鈎)

 ク アンビア棒(アンバイ棒)

 ケ タナポの木(タラノキ)

 コ 柏木の皮

 サ 樺の皮

 シ ■(木へんに品)の皮

 ス 楡の皮(オヒョウダモの皮)

 セ 根曲竹、笹竹

 ソ 櫂の山取り。(櫂にする材料、荒取りしたものをいう)

突掻敷、アンバイ棒、ヤッサイ鈎、定マッケ

マッケ

(5)番屋の雪消し

  突掻敷で雪をはね、海に投げて早く雪を消す。

(6)縄ない、網打ち

 ア 櫂引縄。藁で作った(米俵をほぐして使用した)

 イ 綱。縄を3本または4本合わせて作る。綱打ち道具を作る。

 ウ 早物綱、■(木へんに品)皮で作った。この綱を手操って船を移動するに使用する。

(7)干場になやをつくる。

(8)スギス作り

 笹竹、根曲竹等を荒縄で編み、ローカ、魚坪(ナツボ)の囲いに使用する。

(9)嬰児籠(エジコ)定マッケ作り

 ネギ緒で嬰児籠を作り中に石をつめ、網の型入れに使用する。マッケにかんざしをネギ緒でむすび付け、石をつけて定マッケを作る。建網に使用する。

(10)アバにネギ緒でアバ玉をつける。

(11)屋形造り(オガミ小屋といった)

 枠船、起し船(三半船又は保津船)に家形造りをする。家形造りは起し船の場合は胴の間、枠船の場合は表の間に塩を二寸ぐらい敷きつめ、その上に粘土を六寸~七寸くらい積み固めて箱形の炉をつくる。)ここに火を焚いて暖をとり、そばに寝たりもする)その上に小屋をかける。柱木と棟木は準備してあり、それをとめる穴は船に作ってある。上に莚をかけて屋根とし、その上に飛ばないように古網をかけ、下をヌマ串(タナボのタイ、一尺二寸位)で止める。莚をかけたら棟に艫櫂(トモカイ)をのせる。

屋形

(12)夜業(ヨナベ)

 夜は番屋の焚火を囲んで■(木へんに品)の皮さき、オヒョウの皮さき、松明作り(笹竹をたたいてつぶし、縄で固くまるめる)差し作り等の仕事をする。

差し(竹製)

(13)米つき

 玄米を木臼でついて白米にする。これは漁期間の雇人の分と親方家族の分もつくる。

(14)薪割り

(15)網建て

3 網起し

 清明が近づいていよいよ鰊漁が近くなると、沖船頭は枠船にあって漁夫を指揮し、昼夜鰊が網に乗るのを待つ。漁経験の最も豊かな者が袋網の胴張に結びつけてあるサワリ糸をもって待つ。(サワリ糸は細い糸がよく、この糸に触れる鰊の手ごたえで鰊層の厚さを判断した)サワリ糸に3匹のサワリがあったら起し船に伝える。行成網では入った鰊はすぐ出るので、ちょっとでも遅れる事は大変なことになる。そこで磯舟を付けておくのが普通で、船頭の指揮によりかんぱつを入れずに早物綱を伝って磯舟が舷により、サイ縄を繰り上げ、前繰りを引上げて口をふさぐ。一方マネをあげて陸に知らせ、待機していた漁夫は保津船で早物綱を伝って起し船に乗り移り、両端の繰越し綱を引いて起し船に渡し、網を起して魚群を攻めていく。

 この時音頭取りに合せて■ハーどっこいしょ、どこいしょ■アーラ、どっこいしょ、どっこいしょ、と掛け声をかけて魚群をワクに攻めこんで行く。だんだん網が重くなり容易に起きなくなると、音頭取りの木遣りで

○ドットコセー、ヨーヤサー、ヨーイヤサー

 松前様は志摩の守だよ ヨーイヤサー

 島の神とは弁天様だ ヨーイヤサー

 ハァー 一人じゃこわかろ わしもちょっこり

 合をとる ヨーイヤサー

と力を奮いおこして根かぎり網を引き、手早く枠網と建場とをとじ合せて八百プチを解いて枠の中に■ヤースン ヨイサ、ヤースン ヨイサ、ヤンサノ、ドッコイ と掛け声かけて鰊を入れ、網から枠船を離し準備していた枠船と交換して、次の鰊の入るのを待つ。大漁のときは休む間もなく5-6回も繰り返えすこともある。

 大漁の時は枠船から枠の口を閉じて、印の入った大漁旗を立てて放しておく。

 夜のあげの場合は、松明を焚いたり、樺の皮に火をつけて灯りとした。また煉瓦に油をしもわせ火をつけて灯りにしたこともあるが、普通は樺の皮を焚いた。樺の皮に火をつけて灯りとする場合、樺ばさみといって針金に樺の皮をはさみ柄をつけて焚いたが、その後プランタンといって、鉄の用器で樺の皮を焚いた。

 漁夫は昼に漁模様がなければ起し船についていない。鰊が乗るとマネをあげる。一定の約束があってサ櫂にムシロをつけてあげるが、舟のどの位置でマネを上げるかで漁獲量を知らせた。また、鰊が乗る網と乗らない網があるが、まだ乗らない網の船頭が若者を連れて偵察に来る。これを「かけ廻し」といった。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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