松前藩の成立 ②

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

第5節 熊石番所

 寛文9(1669)年の日高シブチャリのアイヌ族長シャグシャインが蜂起した際、西部日本海側の和人地を守るために、関内、熊石、相沼内の三か所に寨門を設けて多くの兵士を配置したことは、すでに第4節で述べた。関内の地名からして熊石の松前藩番所は、関内にあったように錯覚されがちであるが、関内とはアイヌ語の「シュプキ ナイ」茅の沢の意(永田方正筆“北海道蝦夷語地名解”)の地名を、和人が漢字に当てたのがこの関内であって、関所があったから関内と言ったのではない。

 熊石番所と称される松前藩の和人地西端の番所は当初相沼内にあり、のち、熊石村に移されたものである。相沼内番所設置の初出は、“松前家記”に、貞享2(1685)年「是歳関門ヲ相沼内ニ建ツ」とあり、この相沼内番所が、6年後の元禄4(1691)年には熊石村に移されたものと考えられる。“松前福山諸掟”(北海道大学中央図書館写本)によれば、熊石村番所の役條が掲載されており、

 定

 一、熊石近郷村々盗買船入念可遂穿鑿候、勿論上蝦夷飯米買等荷物持来候共、下々江申付、売買堅不為致、荷物相改取揚、蝦夷早速相返可申候。

 一、追鯡船節喜(関)内より先江通し申間舗候、自然鯡群来所により急度見届為取候様可申付候事。

 一、鮑(あわび)取船太田より先江遣申間敷事。

 右之旨急度可相守者也。

 元録(ママ)四未年四月

というものである。これで見ると熊石村番所の主な役儀は、私人が盗買のため蝦夷地に入ることの監視、追鯡は関内以外に通してはならない、鮑取は太田岬まで以外での採取をさせてはならないとしている。この定条々は後に次のように改正になっている。

 定

 一、蝦夷地江用事有之罷通候者、逸々相改、切手所持無之者は差留置其段早速可申越事。

 一、追鯡取船免判所持無之者、セッキナイより先々江猥ニ相通し申間舗事。

 一、万一異国船沖合■(舟へんに風)(はしり)通候義見懸ケ候者有之候ハヽ、早々松前表並江差番所に茂可致注進事。

 右之趣堅可相守者也。

 丑四月

とあるが、この定書には年号はないが、丑の年4月に定書条文が追加になってあるのは、外国船が蝦夷地近海に接近し、あるいはこの領域内に入域したときの対策を示したものが多いので、この熊石村番所にも異国船来航の際の報告を義務付けているので、これは文化2(1805)年の定書であると推定される。

 この定書では初めて熊石番所での出入切手の検査、追鯡船の免判制が明確となっているが、当初の定書(元禄4年)にはこの二つのことが明確には記入されていないので、熊石番所での出入切手、追鯡の免判は、その後になってから制度化されたものと考えられる。

松前沖ノ口出入切手(北大北方資料室写真)

 文化13(1816)年の“蝦夷国私記”(糺明録)で「江差…略…此所より凡そ九里程行熊石番所あり、蝦夷村の境、公儀御巡見の役人衆もこゝを限りにて御帰りあり、上ミ下モも入る番所にて、蝦夷地用向きの者を改め通すなり、蝦夷人も此番所より松前地に参ること成らず、日本の者も城下、奉行所切手なくては通用叶はざる境也。」としている。ここに述べられている如く、熊石番所は蝦夷地、和人地の接点上にあって、出入人の規制と追鯡等の監視、徴役を主な業務としていた。   出入人の規制は出入切手所持の有無を検査した。この切手は本人から町年寄を通じて、町奉行に申請し、許可を得ることになっていたが、この許可は各場所の越年番人と、場所への春、夏稼漁夫のみに限られており、許可された場合は、銭一貫二百文の出稼役を支払って出入切手を受領し、これを持参しなければ熊石番所の通行はできなかった。また、数人の人が追鯡取のため関内以北の各場所に三半船やもちふ船、ほっち船で入稼する場合は、予め沖ノ口奉行又は檜山奉行に願い出て、蝦夷地番船役を納めて、免判切手を貰い受けた上、熊石場所で検査を受けた後、蝦夷地に出帆した。これらの小前の漁師が、場所請負人の許可を受けて、その場所に入稼し、自分で刺網を建てて鯡漁をし、その場所請負人に生産した漁獲物を二割、礼金として現物を納めて帰るところから二・八取といわれた。

熊石番所跡(下方=学校坂より望む)

 このように熊石番所は、蝦夷地へ入る和人を規制、監視したばかりでなく、アイヌ人は松前藩主への御目見以外はこの番所の通行はできなかったし、一般のアイヌ人は勝手に和人地に入ることは許されなかった。これは徳川幕府の制札の中の「夷の儀は何方へ往行候共、夷次第に致す可き事」の原則、あるいは松前藩の「夷の事は夷次第」という基本的行政指針に反するものであるが、寛文9年の日高シャグシャイン族長蜂起の際の如く、アイヌ人と和人が一旦事を構えた場合は、少数同族体の松前藩の力でこれを鎮めることは困難で、その際は津軽・南部の両藩の助を借りてようやく鎮定したという苦い経験があるところから、アイヌ人と和人の接触を断つことによって無益の摩擦を避けるための措置として、和人他の東、西の出入口に番所を設けて、これを規制したものである。相沼内番所のあった位置は定かではないが、熊石番所は国道229号線と、熊石第1中学校の登校口の接点の場所にあったといわれている。

 この熊石番所については、元禄5年の“松前主水廣時日記”によれば、6月23日「熊石番所仕舞、松崎太次右衛門罷帰り御目見致候」とある。松崎太次右衛門は石狩川中流の対雁(ついしかり)に知行所を持つ藩の重臣であって、この熊石番所奉行が鯡漁業の終了によって一応の業務の結了を見たので、松前に帰り藩主に所管事項を報告している。この時期の江差駐在の桧山奉行は明石豊左衛門で、松崎太次右衛門とは同列者であるので、熊石番所は、この時点では、藩の直属機関であって、桧山奉行の配下に入っていなかったと考えられる。また、享保2(1717)年の巡見使来航の際の松前藩の申し合わせ書である“松前蝦夷記”では、

 一、松前地蝦夷地境ニ番所建置候而番人指置候所々

 一、西蝦夷地熊石 従 松前町道法三拾里程之由右番所建置番人給人待遣ス由、尤正月二日之頃より五月末迄番人差置、秋冬ハ差置不申候、春より夏にかけ鯡漁申候節蝦夷地江漁師大分交り申候所故相改、漁五月末ニハ例年仕舞申、入交りたる人洗子入納り申候、其節より番人引申よし。

としていて、熊石番所は出入人の改、追鯡役の取立等を行い、その終了後の5月末には番人中は引き揚げ、出入人取締の業務は、熊石村役中に任されていたと考えられている。また、松前家が奥州梁川に移封された文化4年より文政4年(1807~21)年までの14年間については、松田傳十郎筆“北夷談第六”では、幕府の江差詰同心の内より両3人、3月より9月まで相詰、となっていて、熊石番所勤務の月が9月まで延長されている。

 また、熊石番所と熊石村役の特殊な業務としては、流刑者の管理と監視があった。松前藩の刑罰のなかに越山(えつざん)と称し、死罪に次ぐ重大な犯罪を冒したものを越山という流刑に処した。松前藩の地方自治の維持と司法執行は寺社町奉行に任されており、重要な刑の執行については藩家老職に稟議し、この裁可を受けた。この町奉行所は寛永年間(1624~42)にはすでに設置されているが、その統制系列は、

となっていて、住民自治、徴役等は下代、小使が、各村名主、年寄等と連絡をとって運営し、司法の執行、特に巡視や検挙は松前城下では町方掛、各在にあっては在方掛が担当していた。

 犯罪者の刑法処分の刑量を北海道大学中央図書館蔵“奥平肇町吟味日記”、“御目付所日記”及び、市立函館図書館蔵“吟味役工藤長栄日記”等によってこれを見ると、刎首死罪者はなかったが、

 一両二分盗のもの =入墨百敲(たゝき)の上熊石越山。

 無鑑札入国盗 =五〇敲の上東在小安村越山。

 盗み =五〇敲相沼村越山。

 女を甘言を以って売る =五〇敲渡海。

 盗み質入 =渡海申付。

 盗品の質取 =過料三貫文。

 飲食代不払 =手鎖。

 不身持者 =急度叱。

 盗品買取者 =品代損失申付。

 盗み者の女房 =急度叱の上親へ引渡。

等が見られ、他に遠島、所払、町内払、罰金、入墨、始末書、押込、戸閉等があり、士分では扶持召上げ、闕所、扶持減、隠居、閉門等もあるが、このなかで徳川幕府の成敗式目のなかにない、松前藩独自の量刑は越山と渡海である。渡海は他国人が蝦夷地に渡って刑法に触れた場合の刑で、越山は流刑に相当するものである。遠島は稀に奥尻島への流刑はあったが、その初出は天保3年(1832)年以降で、その以前は総て越山であった。

 越山は蝦夷地のうち、松前・江差・箱館の三湊と称せられた中心の町から離れた僻村に追放するもので、とくに和人地と蝦夷地との接点である見日や熊石等の西在、あるいは箱館在の小安、石崎、汐首等であった。この越山の初出は松前法幢寺六世住職柏巖峯樹和尚が延宝5(1677)年に熊石に流刑され、その草庵をもって門昌庵を開創したのはあまりに有名であるが、一般庶民以外に士分者の流刑もあった。貞享元(1684)年には「是歳春小笠原八十郎有罪越山千相之間村」(“福山秘府年暦部全”)と当初は、相沼内に関所があり、その関連で相沼内に流刑し、後には熊石及びその北西側地域にも流刑地が拡大している。

 これについて天明6(1786)年最上徳内筆“西蝦夷地場所、地名、産物方手控”によれば、 一、熊石村

 当村者松前領西百姓地之居境而惣々於松前民家之者法令相犯ス輩、追放之者居住或ハ家中諸士又者軽輩之者に而も分相応之身持不埓成時は、親類共ヨリ松前町役所相連、役所ヨリ大小取当所迄送放、当村名主帯刀之者井川奥右衛門方に預人に相成り、右体之類人多分有之。

 一、ポロメ

 一、ヒンノマ

 右何茂家続きに御座候、村々不残熊石村の別名枝村之村役人熊石より兼□(不明)右別村に追放体之者歴年多分百姓に相成り、此辺之人数存之外多御座候。

と記されていて、これらの越山者が新たな家庭を築き定着していることを示している。

 また、この越山者があった場合、熊石村役の人達はどうしたかについて、“熊石村会所日誌”に、この状況が残されている。

 廻 状

 一此の女一人品有(レ)之、熊石村江越山仰付られ、腰繩にて差立候、村々人足差添無(レ)滞送届可(レ)被(レ)申候。以上。

 申二月三日(天明八年)

 御小使 五人名

 札前村より熊石村まで 村々名主、肝煎中

 一筆申入候、各称御(おのおのいよいよ)無異に可(レ)有(レ)之と珍重に存候、此のまつと申女子供日頃小盗いたし不行跡に付、其村江越山、則ち何れも江下しおかれ候間、両人申合可(レ)然申、右可(二)申入(一)、如(レ)此(二)候。

 申二月三日

 御小使 五人

 熊石村名主両人中

とあって、越山を仰せ付けられた者は繩付きで各村送りされて熊石に着き、ここで熊石村名主が受け取り、この村以北で生活をし、和人地内の逃散は許されない。もしこのような事があれば名主の責任となるので、一村上げて監視をした。本例の場合は女の子供で盗みを数々働いたという事での越山申し付けであるが、この様な女子供でも、村内に飯焚、子守として使う場合はそれも認め、また結婚して普通生活に入る人も多く、境界地以北にこれらの人は多く居住した。

 第6節 封建支配下の自治

 戦国時代から近世初頭にかけての戦乱時代を経て、徳川幕府が成立したが、この段階では大名統制が主体で、村自治の組織運営の基本的な行政指針はなく、各領主治下の藩図内の村自治の運営も多様なものであった。寛永14(1636)年島原、天草に発生したキリシタン宗門を主体とした百姓一揆は、鎮定に2年も要し、百姓烏合の結束した場合の強さをまざまざと見せつけられ、寛永16年以降本格的な百姓統制と、キリシタン宗門禁制の監視機関として、各領主領内の村々に5戸の家庭を一単位とする五人組合(又は五人組)の設置を命じ、その管理を各領主に布告した。

相沼内宗門改帳(島谷護氏所蔵)

 松前藩の五人組合設置の始期は定かでないが、“福山秘府全”の慶安2(1649)年の項に、「是歳始呈上宗門名簿」とあるので、キリシタン類族名簿とは別に、領内住民の宗旨を明記した名簿を提出したと考えられるので、この時点で五人組(合)制度は成立していたものと考えられる。この制度は前記の目的を達成するため、5戸の住民を単位として一組合を作り、その中に組合頭を置き、相互監視してキリシタン禁制の強化、犯罪の防止、貢納の強化、連帯共同責任、相互扶助を図らせるというものであった。松前城下のような人口の割合多い所では、これらの五人組を統轄するため、一町内を単位として町(丁)代を置き、また、その上の統轄機関として名主を置き、民間自治の執行責任者として町年寄がいた。これに対し在方では町代に代わるものに肝煎があり、名主に代わるものに年寄があり、その総括支配者として名主があり、この指揮監督者に寺社町奉行がいた。この場合、一般的な布告、取締等は寺社町奉行から出したが、西在中石崎村から熊石村までの行政的支配は、桧山奉行が監理するということになっていた。

 松前藩の寺社町奉行は、慶長18年(1613)年創設され小林左門良勝が奉行となったという記録があり、さらに寛永14年町奉行に酒井伊兵衛廣種の名があるので、この時期に於ては民政安定を司る町奉行が設置されていたものと考えられる。しかし、この時点での町奉行の業務指針の条規的なものは未だ定まっていなかったと思われる。松前藩の各奉行以下各職掌の規則的なものが発布されるのは“松前福山諸掟”によって見れば延宝6(1678)年、元禄4(1690)年、享保7~8(1722~23)年と年を追って整備されており、特に享保7年町奉行に与えられた条々は、町奉行及村々民生安定の基本的管掌事項を明示したものと見ることができる。それによれば寺社町奉行の所掌は、

 (1)神仏事、僧侶、神官、寺社訴訟及び普請に関すること。

 (2)キリシタン対策及び五人組合、百姓統制に関すること。

 (3)駅逓、助郷、人馬宿等に関すること。

 (4)火の元、火防対策に関すること。

 (5)司法の執行、裁判、牢屋管理等に関すること。

 (6)物価及び流通対策に関すること。

 (7)通用金に関すること。

 (8)抜荷対策に関すること。(これは沖ノ口奉行と共同管理)

 (9)御鷹餌の確保に関すること。

 (10)村方統制及び町村寄合に関すること。

 (11)税役の収納、督励に関すること。

 (12)見張番所に関すること。

 (13)漁業秩序維持に関すること

等々の極めて広範な業務を持っており、奉行、吟味役、目付等は必ず複数がおり、月番として上番したものは一か月詰め切りで勤務し、下番者は城内の他職と兼務していて、その兼住職に当ることが慣例となっていた。

 これに対し村方三役(名主、年寄、百姓代又は肝煎(きもいり))は凡そ各村2名ずつの名主、年寄がおり、百姓代は置いた村と置かない村があり、その村の総体責任者である名主は、その業務として

 (1)一村の取締りに責任を持つ。

 (2)村内総百姓に法令を守らしめる。

 (3)役銭の徴収と上納。

 (4)諸願書えの奥印。

 (5)村中の利害に関する申告又は願伺い。

 (6)村中寄合又は百姓集合に関与すること。

 (7)呼出人ある場合の付添い。

 (8)献上物、漁獲品検査の立会。

 (9)五人組合に関すること。

 (10)旅人、駅逓、旅宿、道路に関すること。

 (11)村内漁業の秩序の維持に関すること。

等があり、特に熊石村について特殊な例として番所閉鎖後の旅人監視と、流刑越山者の定着世話や、その監視があった。

 熊石村、泊川村、相沼内村に和人が定着した始期はいつであるかについては、これを確定する史料はないが、和人が定着した場合には必ず鎮守神を祀り、また、祖先崇拝と災厄を逃れるため、地蔵堂あるいは薬師堂、観音堂といった草庵を建立しているので、それらを定着の時期と見た場合、根崎神社の創建は慶長11(1606)年といわれ、寛文6(1666)年に彫刻行脚僧円空が来て相沼八幡宮を始め多くの神仏像を刻み、さらに延宝5(1677)年には門昌庵が創建されるなど和人の定着は年を追って増加し、村を構成して行ったものと考えられる。また、物証的なものとしては、現法蔵寺(阿弥陀堂、勢至堂)に保存されている半鐘を見ると、

 新屋 久五郎

 茶屋 善太郎

 甲屋 伊右衛門

 吉見 長兵衛

 西川 安兵衛

 大坂屋 孫右衛門

 山本 庄治郎

 櫛屋 弥三治

 四角 忠右衛門

 厚谷 七右衛門内儀

 近藤 市郎左衛門

 寄進之施主 工藤 杢右衛門

 弥陀堂三世誠蓮社至誉以信代之造

 元禄十二己卯天

記銘のある半鐘(法蔵寺什物)

 また、同寺に保存されている鰐口には

 元禄十二己卯年寄進施主甲屋長九郎

 内儀為一門眷属菩提也

 阿弥陀堂三世誠蓮社至誉以信代

 京堀川住筑後大掾常味作

等の金石文を残している。半鐘刻銘の厚谷、近藤、工藤の3名は松前藩士であると考えられ、他の9名は熊石を代表する定着者であったと考えられ、然も苗字を許されている者も多いことは、この地に定着し生活もある程度安定してきたと解してよいのではないかと考えられる。

 また、法蔵寺境内には山海漁猟供養塔があるが、これには

 享保五年辛丑年

 願主松前

 山海漁獵群萠下種結縁為菩提也

 熊石村中

 五月廿三日

と刻まれていて、享保5(1720)年の鰊漁の終了した5月末に、住民に幸福をもたらす鯡を始め、山海の産物に報恩感謝してその霊を慰め、これらの産物が繁殖して豊かな村にして欲しいとの願いを込めて慰霊をしたと解され、この時期には出産物が多く、生活も安定し、村民がこの様な碑文を残すような余裕を持てるようになり村は発展の度を早めていたものと思われる。

 このほか相沼無量寺本堂建立の際の棟札(文化5―1808年)を見ると、世話人として

 西川 勘兵衛 三関 清治良

 三関 平治良 神原 吉兵衛

 田村 宗十郎 西色 喜兵治

 林 三太郎

の名が見られ、さらに文政9(1826)年完成した門昌庵棟札

 林 甚六 泉屋 権太郎

 田村 松右衛門 上林 小平次

 泊川旦頭 工藤 次郎右衛門 渡辺 善兵衛

 当村世話人 杉村 長右衛門 田村 長吉

 阿部 作右衛門 菊地 興三兵衛

 目谷 又右衛門 越後屋 源兵衛

 泊川世話人 杉村 三吉

等の名が見られる。普通の村の場合、苗字を許されるのは、一村について名主か、名主等を経験した者か、永年年寄をして功労のあった者に対して藩が苗字を許すことが原則であるが、熊石村の場合苗字を許されているものが、この2枚の棟札だけでも18名もいるということは全く異例の事で、その原因が何であるか不明ではあるが、そのように苗字者が多いのは一面では、資産家が多く村治が安定していたと見ることができる。

 熊石町には天明3(1783)年から寛政12(1800)年間の“熊石村会所日誌”が、門昌庵に残されている。さらにその残欠と思われる安政元(1854)年の記録が残されている。このような村会所のこの様な記録が残されているのは、“松前町年寄日記”以外では、この日記のみであって、代々の名主が、藩からの触書の事件等を克明に記録していた結果であって、熊石の村治は安定していたものと考えられる。

 今その“熊石村会所日誌”によって村治の一斑をのぞくと、

 天明六年二月五日

 名主弥平二日ニ江指表追鯡札御用ニ付罷リ登リ六日帰ル。

とあって、村内の鯡業者で関内を越えて追鯡に出かける許可を一括して取るため名主弥平が、わざわざ江差に出向いて許可を受けている。

 天明六年二月二十一日

 下山瀬風なり御城下出船の処、乗落し、同夜かかり澗にて難船、則ち二十二日御注進仕り候。

 奥州津軽小泊船頭藤八辨財船壱艘弐人乗為商買致海候。津々浦々往来為無滞。依而如件。

 津軽土佐守内

 今井 佐次郎判

 桑良 嘉 内

 天明六年丙午月

 津々浦々

 御役人衆中

とあって、熊石村へ難船があり、これを救助して検分をしたところ、津軽小泊の船で、出入船切手を持っていて、怪しいものではないことを確めたので、番所にその旨を報告した。

 同年三月十七日

 西館(雲石の上町)支配四右衛門火元ニテ五ツ時失火、類火左五平茂辺地追鯡取善三郎、但し左野権右衛門様場所ニ罷り在り類焼致候。御所御(番欠力)上様表一軒焼申上候。仍テ焼弔ヒハ左五平、善三郎、左野屋三軒江届候。是ニハむしろ五枚、左五平にはむしろ五枚、たば粉弐わ、四右衛門江ハ尺角二本、柾弐把、出火届。

とあって、失火による火災に対する村としての見舞、奉行宛の届けのことが記入されているが、日誌では、翌日以降突符村名主、泊川村年寄、総名代、相沼内総名代、蚊柱村名主、三ツ谷村小走、小茂内村小走り等が火事見舞に来着しているし、乙部村名主、同村寺島庄平からも見舞があったことを記しており、これを見ると交通不便な当時でも西在8ヶ村は常に協調し合っていた事が分る。

 天明七年五月二日

 下国岡右衛門様直々御下り被遊 先年蠣崎佐士様より当村吉右衛門江下置かれ候、家敷此度御吟味ニテ間数御改メの上来る五月迄当村名主江預ケ候

 一畑中場所壱ヶ所

 西隣ハ蠣崎将監様御場所 東隣ハ御用地まで 三十七間二尺、御用地ノ内十三間三尺

 右之通此度立会相改。

 これは平田内温泉に湯治に来て帰路、家老の下国岡右衛門が、蠣崎佐士が熊石村吉右衛門に九両で売った鯡納屋場について問題があると証文を取り上げて名主に預け、名主達は証文により実測をしたと記している。

 天明八年六月十八日

 此ノ度御城下行己之助代り御仲間一人大館支配四郎兵衛忰太郎次申付、九ツ時ニ御小使高谷伝左衛門様まで御状相添差送申候。

 これは幕府巡見使藤沢要人外2名が松前領内に来るので、熊石村から助勢として仲間1名を出すことを命ぜられ、太郎次という者を選び、松前の町奉行小使宛に手紙を持たせて送ったと書いている。

 さらには藩の触書の示達、公用旅行者の宿舎、荷物持人夫、本馬、軽尻馬、あるいは海路の場合の掻送り船の準備、公用書状の送達等々実に複雑な業務を村会所が行っていたことが記録されている。

熊石村会所日記の鰊納屋場証文写(門昌庵蔵)

熊石村の年中行事 

 “熊石村会所日誌”、“江差年中行事帳”、“蠣崎廣常年中行事記”、“箱館名主風俗書上げ”、“松前福山諸掟”、“維新前町村制度考”、“松前年中行事”(高倉新一郎筆)、“上ノ国村史”“松前福山の年中行事と餅類”(刀祢武夫筆)等によって見ると、近世時代の熊石村には次のような年中行事が行われていた。

 一月

 一日には新年回礼が行われ、二日は初売、四日には松前城への新年拝賀参向の案内を受け名主出発。これには会所記録の安政2(1855)年に次のようにある。

 覚

 一御年始 名主 四右衛門殿

 人足 久太郎

 正月四日 久次兵衛

 廻 文

 来ル七日、例年之通村々名主麻上下着用御役所におゐて御礼可申上候。尤前日早々合宿迄相詰候様可被致候様此段申達候。

 以 上

 この指紙を受け、名主は人足2名を従えて松前に到り、7日城中表御座敷に於て石崎村から熊石村迄の名主が麻上下で列座して藩主にお礼言上する。

 七日 七草 松餝(かざり)引

 十日 場所祝、船塊祝、諸帳面書改め

 十一日 山神祭

 十四日 女正月

 十五 六日 小正月、藪入り、

 中旬 追鯡願書書上げ、のり摘み始まる。

 下旬 寒だら釣始まる。打のり献上。

 このころ村内大寄合を神明社で行う。この際村方三役(名主、年寄、百姓代)を決め、また消防人夫受持区域の取り決め、村方役及び村方見聞割(町内会費的なもの)、筆墨銭、村内の当年の行事等の取り決めを行う。なお寄合前後に各戸は寺院から檀徒である証明を貰い受け、五人組合頭と共に名主の処で人別仮帳に記入する。

 これについて相沼無量寺過去帳の表紙下張り紙中に、この寺請状の木版で印刷したものが張られており、各寺がこの用紙に記入して檀徒に与えていたものと思われる。

宗門寺請状(無量寺蔵)

 これは一月に寺請状を貰っていなかったので宗門改の近づいた9月になって貰っている。

 また、下旬から2月上旬にかけ男子は山に入って1年分の薪切りをし、家庭用、漁業用を賄う。

二月

 二~五日 節分の豆によって場所の豊凶を占う。初午。この頃前浜鯡取船調。

 四日 涅槃会お施餓鬼修行。

 (本州の場合三月に行うが、蝦夷他の場合は鯡漁の盛漁期になるので、この時期に繰上げて実施する。)

 十五日 村役人別帳清書、熊石勤番松前発足。鯡円満神楽。

 この頃、婦人達は鯡加工用手甲等を作る。

 下旬 鯡漁業の準備に入る。

 下旬 鯡着業浜清女神楽。

 二十七日 春被岸(家庭はだんごを作る)

三月

 三日 節句=ひな祭。(家庭によっては一月中に実施する家もある)

 二月末より四月末まで鳴物停止。

 十日頃 初鯡献上=鯡漁盛漁期に入り、仲積船も多く来る。四月末までは鯡漁に集中する。

四月

 鯡漁の終漁に近づいた四月末、漁船役の高間改はじまる。

 この頃、漁業の間合を見て畑種蒔。

五月

 5日 男の節句、家庭でベコ餅、クジラ餅を作る。

 中旬 熊石村は椎茸の良品を産出するので、将軍家献上用と松前家の賄用椎茸は熊石村から献上する。村民総出で椎茸取をし、採ることのできない者は椎茸役として一個七文、十個七十文を負担する。村役で選別乾燥し、極選された献上椎茸は、名主指添えで松前城下に運び、献上する。

 下旬 鯡漁業切場。

六月

 一日 歯固め。(米をいって砂糖、黒砂糖でまぶし喰べる。また粽(ちまき)も作る)

 初句 昆布刈、海鼠曳(いりこひき)、鮑取等の鎌おろしの日取りを協議をする。

 中旬 わかめ鎌下し。

 下旬 店借節季払。(節季払は一年二回とし、六月は鯡漁終了精算後に支払う)

七月

 各村夏祭始まる。

 七日 七夕祭

 十三日 お盆、藪入り、墓参り。(各家庭は赤飯、煮〆、てんを作る)

 十四~二十日 盆踊り、泊の獅子舞この頃来る。

 下旬 鮑取り、昆布刈はじまる。いかつりも始まり、するめを献上する。

八月

 一日 村中大寄合。祭礼、秋味漁、秣刈り、村中薪流し等を協議する。

 中旬 秋味場出稼漁夫出発。

 下旬 穀物改。

九月

 上旬 薪伐出し川流し、伐出者役として四半敷上納

 中旬 十五夜、各家庭で団子を作る。これは一枡の米で十五個作るのを原則とした。

 下旬 人別役、昆布役上納。熊石番所役人城下へ帰る。大根抜。

十月

 初旬 漬物漬、冬囲い始まる。船役取立て。宗門改。

 二十日 恵比須講。(この日はお膳を作る。膳料理は総て鮭の料理とし添物としてねじり飴を付ける)。

十一月

 越年米入り、その船で佐渡、越後の出店帰る。

 下旬 秋味漁終る。薪伐杣入人調べ。

十二月

 越冬準備。

 三日 毘沙門講。

 上旬 旅人越年役取立て。

 二十二日 柏巌和尚追悼会。

 二十四日 太子講。

 二十四~二十八日 餅搗き。

 二十八~九日 煤払い。

 大晦日 節季払い。年越し祝い。

等である。これらの熊石村の年中行事を見ると本州のそれとは大いに異なっている。この年中行事は旧暦によっていて、行事によっては今よりは約一か月のズレがあるが、本州の年中行事は農業を主体としているのに対し、蝦夷地の行事は総て漁業を主体として構成されていた。従って鯡盛漁期の3月から5月までの行事は総て中止されるか、繰上げて行われ、そのため雛祭を正月に行ったり、春の彼岸を2月に行ったりしている。また、9月から11月までは秋味場の出稼が多いので、6月から8月にかけて磯廻り漁業や、夏祭り等が集中し、秋祭りはあまり行わないというのが、蝦夷地年中行事の特色である。

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