霊力なのか気象兵器なのか?

https://ameblo.jp/masako-st/entry-12594353725.html 【霊力なのか気象兵器なのか?】より

いつもブログに起こしくださり、ありがとうございます。

昨日は、関東方面の落雷がすさまじかったようですね。

翌日、5Gのアンテナが真っ二つに折れていたという目撃情報もありました。

こちらで、落雷場所が掲載されてます。↓

https://twitter.com/Franklin_Japan/status/1258023669445439491?s=20

日本には世界最強魔術結社があるのだとか・・・

神懸った霊力の人達は、影として日本を守っておられるようですが、全ての地上の闇が取り払われたら、表に出てきてくれるかもしれません。それも楽しみです。

古代から続いている日本の秘密結社のこと、こちらで、分かりやすく書かれていましたのでご紹介しますね↓

南朝皇統奉公衆【八咫烏】と北朝皇統奉公衆【山窩】

山窩の総領家であった秀吉

藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくった

私は来週から、本格的にお仕事再開です。

週末はゆったり過ごします~♪愛と感謝と光とともに


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334020 【南朝皇統奉公衆【八咫烏】と北朝皇統奉公衆【山窩】】より 

徐福に起源を持つ、技能集団は、土地に縛られた農民としてではなく、全国に散らばった一族の技術者ネットワークを武器に、天皇をも裏で操る諜報ネットワークをつくっていった。例えば、穴太衆は城の石積み技術を持つ技能集団、雑賀衆は鉄砲づくりの技術を持った技術者集団であるが、当然、生き延びるために、武将の力関係を読み、時には暗殺や裏切りetcを仕掛けていった。南朝を支えたのが【八咫烏】で北朝を支えたのが【山窩】。両者は、特に、対立し、時に協力しながら、現在でも、裏で日本社会を支配しているようだ。石工や軍需産業を擁して大きくなったあたり、さらには、両立て戦略を駆使している点をみると、さながら日本のフリーメーソンである。

リンク より転載

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楠木正成を語る場合、非常に重要な存在が、伊賀の服部氏です。楠木正成の妹は伊賀の服部氏に嫁いでいます。伊賀の服部氏といえば伊賀忍者の祖として有名ですが、元々彼らは南朝に仕える技能集団で、南朝皇統奉公衆【八咫烏】の一派です。

逆に北朝に仕えた技能集団を北朝皇統奉公衆【山窩】と言われますが、これが甲賀忍者です。甲賀忍者の祖は大伴氏です。

伊賀忍者と甲賀忍者、八咫烏と山窩、彼らは敵対していたようなイメージがありますが、実

際には、彼らは同族であり、あえて2つに分かれて活動する事で、日本を裏から操りつつ、存続してきました。常に「正反合」が彼らの常套手段です。

服部氏や大伴氏の忍者の歴史は古く、時は聖徳太子の時代にまで遡ります。聖徳太子が、ブレーンである秦河勝を介して、秦国から伝わった兵法に習い、「志能便(しのび)」「志能備」と呼ばれるスパイを使った事が、間者の起源。後に服部氏族が伊賀忍者の源流となり、大伴氏が甲賀忍者の源流となりました。

現在、歴史教科書に詳しく説明されていない技能集団として、雑賀衆、川並衆、ワタリ衆、 穴太衆等がありますが、これらは邪馬台国以前、徐福の一団の来日以降から活躍し、建築技術や製鉄技術を伝えた技能集団の末裔であり、いつの時代も重要な裏方として活躍してきました。

話を楠木正成に戻します。楠木正成の妹と伊賀の服部氏の間で生まれた子が能楽を興した観阿弥であり、観阿弥の子が世阿弥です。能楽者は全国各地を巡業しましたが本業は諜報活動であり、いわゆる「間者=忍者」でした。

楠木正成と云えば南朝の忠臣としての顔と、まつろわぬ民を率いて奇想天外なゲリラ戦 術で北朝の武士団を翻弄させた山の民の首領という2つの顔を持っています。そうです。楠木正成もまた南朝皇統奉公衆【八咫烏】の1人でした。(母親は橘氏系統)

楠木正成が伊賀忍者や修験道と深く関係していた事も、彼の出自が明らにされておらず、 単純に「悪党」とされている事も、180センチ以上の長身であった事も、奇想天外なゲリラ戦術(兵法)を使いこなした事も、忍者衆の特徴が表れています。

時代は異なりますが、豊臣秀吉も山窩衆の1人です。彼の家は山窩の首領(アヤタチ)格の家柄であり、尾張国中村郷(愛知県名古屋市中村区)に広大な屋敷がありました。この事実をひた隠しにして、秀吉が貧農の子だったという事としているのは、「山窩」というキーワードを歴史上から隠すための作り話に他なりません。

秀吉は土豪・蜂須賀小六率いる「川並衆」を自在に操りましたが、「川並衆」自体、れっきとした独立系技能集団であり、それを自在に操る事が出来たのは、秀吉が彼らの首領格であったからです。

その首領格の血統が、江戸末期、ポルトガル(イエズス会)とオランダ(近代メーソン)の両方に通じて勢力を拡大した穴太村の上田家につながり、江戸時代末期以降の当主・上田吉松(1代目と2代目)から、牧口常三郎、畑中理、笹川良一、出口王仁三郎、戸田城聖といったフィクサー達が登場しています。

南朝皇統奉公衆【八咫烏】、

北朝皇統奉公衆【山窩】、

彼らは今でも日本の裏側で生き続けています。


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334192 【山窩の総領家であった秀吉】より

古来から人別にも記載されない山窩(サンカ)。豊臣秀吉は山窩出身とする説があり、あだ名である「サル」は「山猿」から来ているor生誕の地である尾張国中村の程近くにある日吉神社の使い神である「猿神様」から来ているともいわれている。(秀吉の幼名は日吉丸)

秀吉は、教科書にあるような貧しい農民ではなく、尾張国中村に大屋敷を構える山窩衆の嫡男。秀吉に仕えた蜂須賀小六も同様に山窩の川並衆の頭目だが、蜂須賀小六の秀吉に対する心服から、秀吉は山窩集団の総領家だったことが推察される。

山窩は、その諜報能力(忍者)と運輸、治水、土木、築城技術に優れた集団を率いており、その後の秀吉恩顧の大名である浅野長政、加藤清正、藤堂高虎、福島正則も山窩を出自とした面々。

血統が重んじられる時代において、優れた人材であれば出自を問わず活用した織田信長の両腕は、秀吉と明智光秀である。諜報、運輸、築城能力に優れた山窩集団の総領家嫡男である秀吉と、皇族、貴族と深い関わりをもち表裏に尋常ならざる人脈をもつ光秀は、尾張弱小の織田家を一気に天下取りまで勢力を拡大させる絶大な力となった。

織田信長に秀吉を引き合わせたのが、信長の妾である生駒吉乃である。生駒吉乃の生家・生駒家は、尾張中村の有力な豪族。元は藤原北家の末裔で、大和国の生駒を本拠としていたが、室町時代に戦火で終われ尾張中村へ移住。武士の傍ら兼業として馬借・運輸を担っており、同じく運輸を担う山窩川並衆の蜂須賀小六とも縁戚関係であった。

その山窩総領家の嫡男である秀吉(日吉)に目をつけ、吉乃の小者に仕えることで信長への道筋を開くこととなる。なお生駒家は、秀吉の中国大返しの際、蜂須賀小六との連携のもと中国街道筋の馬借で大軍の大移動を全面支援したとある。(生駒家、蜂須賀家は後に四国の大名へ)


http://web.joumon.jp.net/blog/2018/08/3322.html 【藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくった】 より

表の世界で藤原氏vs蘇我氏ら反藤原氏の闘いが繰り広げられる日本の歴史にあって、一貫して、影から政権を操り、力を保持してきたのが、三輪氏と並んで出雲族の本流をなす賀茂氏である。同じく出雲→葛城系の蘇我氏が倒された乙巳の変から、壬申の乱を経て、平安京がつくられるまでの賀茂氏の動きが、それを象徴している。 賀茂一族は、この激動期を、百済派(天智・持統派)にも新羅派(天武派)にも両建てで対応し、どっちにころんでも、神官としての座を守りながら、一族の権力を保持し続けてきた。そして、最終的に、秦氏とともに、平安京建設の立役者となった。この両建て戦略で、政治の矢面に立たずに、裏から政権をコントロールするスタンスが、賀茂氏が八咫烏と言われる所以である。

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大賀茂真也氏の「八咫烏の超日本史」から紹介します。

天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。

通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。実は、『日本書紀』の記述に全く記載がない人物が、後に編纂された『続日本紀』等には多くの記載があるという事が判明している。大海人皇子は決して勝算のない危険な賭けに出たわけではなかったのだ。壬申の乱で大海人皇子を支えた豪族は多かった。中でも軍事氏族として名高い大伴氏の中心人物であった、大伴馬来田(マクタ)、大伴吹負(フケイ)の兄弟。  しかし、この大伴氏以上に、皇子が頼りにしたと思われるのが鴨君蝦夷。賀茂氏系図に壬申の乱の功により、天武3年に「賀茂朝臣」の姓を賜ったとの記載ある。

壬申の乱で活躍した人物に注目すると、吉野方には、圧倒的に出雲族がついていたことがわかる。逆に近江方の名門豪族で最後まで戦い抜いたのは、中臣連金と穂積臣百足だけであった。つまり、近江朝にいた名門豪族の殆どが、開戦後吉野方に寝返ったということある。こうして、壬申の乱は、吉野方(大海人皇子)の圧倒的勝利に終わった。   しかし、天武天皇が崩御すると、皇位についたのは皇后である「うののささら皇女」(後の持統天皇)であった。天武後の皇位後継者は大津皇子と目されていた。ところが持統は大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑。病弱な我が子、草壁皇子を使命したが、草壁皇子が病死。皇位継承者は高市皇子と目されていたが、それまでの皇位継承ルールを無視して、自ら女帝となった。

持統は、天武天皇の妻であり、天智天皇の娘であるが、反百済・反藤原の天武の政策をとらず、むしろ藤原を重用していく。こうして、壬申の乱で、破れたはずの、藤原は息を吹き返し、天武方についた出雲系は排除される。724年には藤原不比等の娘・宮子を母に持つ聖武天皇が即位。770年には天智天皇の孫、光仁天皇が即位し、その子桓武天皇は亡命百済王族の帰化人(武寧王10世孫)高野新笠の血を引くことになる。こうして、百済王子・豊璋とも同一視される藤原鎌足の跡を継いだ不比等の目論見通り、亡命百済王族による日本支配が確立する。

しかし、古代から天皇になるためには母方の血統が重要であり、藤原氏がいかに政治手腕に置いて力があったとしても、天皇家に外戚となることはかなわないことであるはずだ。事実、いくら実力があっても、母方の血統が条件に合わないものは、天皇にはなれず、源氏、平氏という苗字を与えられ、臣下の身分に降下させられていった。では、何故、藤原氏は天皇の外戚となれたのか?それは藤原氏には賀茂氏の血が入っていたからである。

なんと藤原不比等の娘・宮子の母は、賀茂朝臣比売。壬申の乱で天武方の功臣、賀茂蝦夷の娘なのだ。壬申の乱で、反藤原として闘う一方で、乱の後、藤原氏とつながっていたのである。

つまり、不比等は、賀茂朝臣比売との間の娘、宮子を天武天皇第二皇子であり、持統天皇が寵愛した軽皇子でもある文武天皇の后とし、聖武天皇を即位させ、その聖武天皇の皇后として、自分の娘の光明子を嫁がせることで、藤原時代を築き上げたのである。

壬申の乱の敗北者である藤原氏の大逆転には、賀茂氏、すなわち八咫烏が深く関わっていたのである。

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そして繰り返された遷都は、ようやく平安京で定まり、藤原氏は歴史の表へ。そして賀茂氏は安倍晴明ら陰陽師として、あるいは京都下鴨神社の禰宜(神職)として全国の神社ネットワークを支配下におくことで、裏から日本を支配していくことになる。

なんと女系社会日本が藤原支配を生んだということだ。そして、この女系支配を正当化するツールとして女神としてのアマテラスを描き出した記紀神話が編纂された訳である。しかも、藤原不比等は最初の側室として、蘇我氏の血を引く蘇我娼子を迎え入れているのだ。

これでは、記・紀によって日本の歴史がいくら改ざんされても、表立って文句がでなかったわけだ。蘇我氏らは、人質をとられたようなものだ。藤原鎌足は人質として百済から日本に来た豊璋だとされる。不比等は人質の扱いを熟知していたのかもしれない。

あるいは、元来、亡命者である、徐福、秦氏の血を賀茂氏が継いでいたからこそ、起こったことなのかもしれない。

いずれにせよ、乙巳の変→壬申の乱→平安京の成立に至る流れの中で、藤原・百済派と反藤原・新羅派が激闘・暗闘を重ねながら、今日の権力対立の基礎が作られたことは間違いない。藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくったともいえる。聖徳太子の和を持って貴しとなす、は綺麗事ではなかったのだ。 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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