http://office-hiroko.jugem.jp/?eid=49 【摩多羅神空間のアルケオロジー ―山本先生の最新論考を紹介!】 より
この10月末、春秋社から『日光――その歴史と宗教』(菅原信海・田邊三郎助編)が刊行された。山本ひろ子先生の記念すべき新論考「我らいかなる縁ありて 今この神に仕ふらん―常行堂と結社の神・摩多羅神」が集録された本である。……それにしても、妖しげなタイトルだ。発表されて間もないこの論考を、本HP読者へ精一杯ご紹介したい。
◆
まずは章立てを確認しておこう。
はじめに
Ⅰ 常行堂と隠れたる神
起請文と新入の作法
第三の空間としての「密蔵」
Ⅱ 修正会の祝祭空間と行事
三時の次第と「所作当て」
剋部屋での行事(一)――「経の題」/「鏡」/「三国各所」
剋部屋での行事(二)――「江東問答」と「懺悔」
Ⅲ 芸能の競演―摩多羅神の顕夜に
摩多羅神の顕夜
エボシの異装
終わりに――結願作法と牛王の授与
『日光』.jpg 「新入」、「密蔵」、「所作当て」、「エボシ」、「牛王」……。『異神―中世日本の秘教的世界』(平凡社、一九九八年)の第三章「摩多羅神の姿態変換」を読んだことのある方なら、目次を眺めただけで、新しいテーマがふんだんに散りばめられているのに気づくだろう。おなじみの『常行堂故実双紙』のほか中世の新資料を読み解き、謎の神・摩多羅神のこれまで知られなかった特性が明らかにされてゆく。ここでは特にⅠ章「常行堂と隠れたる神」を中心に紹介したい。
◆“堂そのもの”へのイニシエーション
それにしてもなぜ摩多羅神は徹底して秘匿されたのか。おそるべき霊威を放つ異神というだけでは秘神となりえるはずがない。こと問題の鍵は、常行堂と堂衆、そして摩多羅神の、“三位一体”というべき不即不離の関係にひそむ。
堂衆と摩多羅神との関係は、『異神』の摩多羅神でも言及されていた。しかし「堂」と堂衆・摩多羅神の「不即不離」の関係とは、一体……。その疑問に答えてくれるのが、「起請文」と「新入」の作法(イニシエーション)であった。
出雲・浮浪山鰐淵寺常行堂の「五箇条の起請文」には、「御堂内の礼儀を寺家に洩すべからず」との一条があり、この禁を破った者には「神罰・冥罰」が下されるという。阿弥陀如来と摩多羅神の前で行われる作法・儀礼の一切、ひいては堂にまつわる情報の一切が、極めて厳格に秘匿されていたのである。その事実はまた、堂衆たちの関係のありかたをも示唆している。「堂僧は、約諾の原理によってなりたつ結集・結社であった」。
さらに興味深いのは、新入の作法である。阿弥陀仏と摩多羅神、法華堂の普賢菩薩に真言を唱え念誦するのだが、このとき常行堂の最重要な二つの柱(上番柱・下番柱)にも同様の作法を行うしきたりだった。「二本の柱が、常行堂という仏堂そのものを象徴するからに違いない」。つまり堂衆たちにとって、「堂そのものが加入儀礼の対象」だったのである。
そのほか、この節では「草座」という特別な敷物を使って新入の「座を定める」作法などが論じられている。「堂」の存在性・空間構成が堂衆たちの作法や儀礼、そして結束のためにどれほど重要であったかを、新入のイニシエーションという場面を通して鮮やかに想像させてくれる。
◆第三の空間「密蔵」へ
続く「第三の空間としての「密蔵」」も、刺激的な考察に満ちた内容となっている。ここで説明のためにいささかの脱線をして「後戸」の話をしたい。
1973年から75年にかけて雑誌『文学』(岩波書店)に掲載された服部幸雄の論考は「宿神論」と総称され、「宿神」と「後戸の神」を核とする大胆な問題提起を行なった。以降、この「宿神論」を起爆剤とするかのように、「後戸」(仏殿で本尊が座す須弥壇の後方の戸、あるいは空間)をめぐる多くの研究が発表されてきた。*1
ところが、服部氏の云う神聖なる「後戸」の「護法神」としての摩多羅神は、当の常行堂での祭祀形態を観ていくかぎり、全く像を結びえないのである。本家本元である叡山の常行堂では阿弥陀仏の後方ではなく「東北隅」に祀られているし、記録に「後戸の摩多羅神」という文字は一切見えてこないし、etc、etc……。
book_isin0.jpg そこで「後戸」を中心軸に据えるのではなく、摩多羅神の本貫地・叡山の所伝や、各地に伝播した常行堂儀礼の内実に踏み込んでいったのが山本ひろ子先生の『異神』であった。そこにはそれまで注目されてこなかった「堂衆」たちの儀礼や芸能が生きいきと描かれている。それだけでも画期的なことだが、そのような堂衆たちによる摩多羅神への信仰のありかたから、それまで誰も想像しなかった驚くべき摩多羅神の像――「結社の神」としての摩多羅神――が立ち上がったことにこそ注目すべきであろう。それは図らずもまた、猿楽中心の「後戸」概念を超えた、摩多羅神の真の「聖性」を現代に復元し、屹立させる営みだともいえる。
さて、ここから話はようやく山本先生の新論考に差しかかる。なんとこの論考で先生は、新たなる「聖所」の存在を提出したのである。
日光山常行堂では、「管弦・具足の部屋」はもちろん、「後戸」の空間も「剋部屋」も聖化されていたふしはない。修正会では正官権官のみが、大念仏会では上所下所というトップのみが、特権的に出入りした、もっとも神秘な空間が「宝蔵」=「密蔵」ではなかったか。
これだけでは何だか分からないと思うが、ここで詳しくは語るまい。実際に論考を読んで頂きたい。
一定の資格を持った者がそこに籠って「通夜」した、聖所と呼ぶに最も相応しい場所。それが「密蔵」であった。ここに服部氏以降の「後戸」に代わる、常行堂の「聖所」が発見されたことになる。そこは阿弥陀如来の「後ろ」の空間などではなく、堂衆たちの間でも秘せられることによって霊力を湛えた神秘の「蔵」であった。
◆摩多羅神への饗宴、その狂騒と逸脱
続くⅡ章「修正会の祝祭空間と行事」、Ⅲ章「芸能の競演―摩多羅神の顕夜に」では、タイトルから分る通り大晦日からの七日間を通して行なわれる「修正会」での儀礼を論じている。
Ⅱ章では「経の題」、「鏡」、「三国各所」、「江東問答」、「懺悔」といった、これまでほとんど考察されたことのない、しかし実に面白い(僕は出雲へ向かうバスのなかでこの論考を読んだが、その不思議さとおかしみに笑いが止まらなかった!)剋部屋での芸能の数々が再現されている。「もどき」の精神に貫かれたその振舞は、中世芸能の本質にも肉薄しうる隠された芸能の宝庫といえよう。*2
最後のⅢ章で語られるのは「エボシ」という特殊な被り物をめぐる堂衆たちのやりとりや*3、修正会「結願」の日に行なわれる「牛王」の授与作法などである。どちらも摩多羅神を前にして行なわれた修正会の逸脱的エネルギーと道化の精神とをありありと伝えてくれる。
◆摩多羅神空間のアルケオロジー
常行堂の儀礼空間を満たす、堂衆たちの躍動的な動作と発声――。秘めやかな古文書の声に耳を澄まし、神の最も近くにいた人びとの動きをつぶさに現前させてゆくと、ゆらゆらと、しかし確かな手触り感をともなって摩多羅神の原像が浮かび上がる。山本先生が打ち出して見せたのは、まさしく常行堂儀礼の空間(摩多羅神空間)のアルケオロジーなのだ。そのような方法はまた、特定の儀礼を理念的な全体性として描出することで、「深秘」の微妙な実相に触れうる、という可能性を示している。
それゆえにこの論考は単一の「論」には収まらない広がりを孕んでおり、しかもそこに強烈な具体性を伴っている。まだ個々の流れとして分化される以前の状態にある、強靱な思想の「身体」のようなものといえるだろうか。汎・日本中世思想としての身体は、そのまま常行堂の外の中世世界の彼方へと「踊り出」て行くであろう。コク部屋の存在性が仏堂の次元を超えて、奥三河・大神楽の「部屋」へと繋がってゆくように――。
先生は、本論考の続編「大いなる部屋」を準備中とか。その完成を待望しつつ、ひとまずの紹介としたい。〔文・宮嶋隆輔〕
【註】
*1 「後戸の神」ないし「宿神論」関係の論考については、服部幸雄『宿神論――日本芸能民信仰の研究』に付録の年代順リストに詳しい。
*2 常行堂における「赤物・くさ物」、「エボシ」「ヨボウシ」といった珍しい被り物の数々は、「被りものの時代」(黒田日出男「「場」を読む」『姿としぐさの中世史』(平凡社))として中世日本を捉えていく際にも重要な示唆を与えるであろう。
*3 たとえば「江東問答」では、「修正会が始まりました。世間では何かございますか」という意味の文句で始まるが、これは一日ごとに行なわれた「読経・発願」「徐目奉事」「江東」「ケケ(計計)」という四つの次第に共通する皮切りの定型句であった。ここで思い出すのは猿楽の「式三番」で、初日の式から四日目の式まで、一日ごとに三番叟の問答の後半部分を変えて演じられたことが詞章に見える。どちらも、日を改めるごとに変奏されてゆく芸能になっているのだ。このほか常行堂の記録に多彩に見受けられる「数えもの」の芸能もまた、猿楽の世界へ通底しているように思われた。
0コメント