http://ninjacenter.rscn.mie-u.ac.jp/blog/2020/0110/ 【(エッセイ)百地家系図の「芭蕉」に関する記述について (吉丸雄哉)】 より
2020年1月6日(月)に「新説!所JAPAN」という番組で忍者が特集された。番組内で芭蕉忍者説に触れられていた。「奥の細道」の旅に関する伊達藩視察説が妄説であることやいわゆる「曽良忍者説」は蓋然性は認められるもののこれも証拠がないことはよそで触れたので本稿であらためて触れることはしない。
番組中、「百地家の子孫」辻弥重治氏の「百地家の系図」として紹介された資料について見解を述べる。この資料は『忍者の教科書』(笠間書院、2014)のコラム「芭蕉忍者説」ですでに紹介されたもので、コラムは無記名だが伊賀忍者研究会の池田裕氏が執筆している。
「百地家の系図」で「重左衛門」という人物の下に分かち書きで「藤堂新七郎様御家来へ/養子に参後芭蕉と改名」と記してあるように読める。
この系図が正しければ百地一族の「重左衛門」なる人物こそ俳人松尾芭蕉だったことになるが、結論からいえば、当該の記述はまったく信憑性がない。
芭蕉は伊賀の無足人松尾氏の支族である松尾与左衛門の次男である。芭蕉出生前後には父松尾与左衛門は農民となっていた。侍でないので藤堂新七郎の家臣ではない。芭蕉は新七郎には台所用人としてつかえているが、これも士分として仕えたのではない。今は研究が進んで芭蕉は農民の出自であることがほぼ定説になっているが、俳聖芭蕉の格を高く見積りたいためか、江戸時代から芭蕉は武士の出だとみなすむきもあった。事実がよくわかる間柄なら正しくないことはわかるはずである。
芭蕉は次男で兄半左衛門と一姉三妹がいた。跡継ぎの兄がいるので松尾家は養子をとる必要がない。松尾家は格段裕福であったとも思われず、次男以下で養子をとることは考えにくい。また、養子をとるなら女子と結婚させた可能性は高いだろうが、そういう記録もない。
次に「養子に参後芭蕉と改名」という記述だが、「芭蕉に改名する」こと自体がおかしい。芭蕉は幼名を「金作」といい、長じて「宗房」と名乗った。これは奉公先の藤堂新七郎、名は良忠、字は宗正から「宗」の字をもらったのだろう。この「宗房」は俳号にも使っているが、本名である。芭蕉は「宗房」「桃青」「芭蕉」の三つを生涯に俳号として使用した。俳号「桃青」「芭蕉」は本名ではない。江戸時代では本名は家族や主従の間柄でしか使わず、対外では通称を用いる。芭蕉の通称は「甚七郎」「忠右衛門」が伝えられている。「重左衛門」は成人が利用する通称である。「重左衛門」が「甚七郎」「忠右衛門」に変わるのならまだわかる。本名が変わったのなら「金作」や「宗房」になったと記すべきである。それが「後芭蕉と名乗る」とか「後芭蕉と号す」でなくて「芭蕉と改名」という記述は甚だ不審である。
加えていうなら、仮に芭蕉が百地一族の出身だったとしても忍術を身につけていた証明にはならない。十七世紀後半に忍術を身につけているには、藤堂藩の伊賀者であることがまず条件として必要であり(ちなみに番組内の貝野家や阿波家はそれにあたる)、百地家はそれに当てはまらないからである。伊賀者でなくても家術として忍術を伝えているというのであれば、本当にいえるかそれを確かめねばならない。
番組で歴史学者の磯田道史氏が当該の資料には「俳句の聖人とされていた松尾芭蕉だったから『うちの系図に書き込みたい』だったかもしれないけれど、そうじゃなくて本当にそうだったかもしれない」とコメントしている。
芭蕉は没後二、三十年のうちに早くも俳聖としてあがめられるようになる。そのため芭蕉と係累があることを書き加えた家系図は伊賀では珍しいものではない。おそらく磯田氏はこの程度のことはわかっていたはずである。持ち主および資料を紹介した池田裕氏は記述をよく理解できていなかったと思われる。よって専門家が放送するには価しない記述であることを教えておくべきだった。申し訳なくも私の指摘で辻氏や池田氏の体面は傷ついたかもしれないが、それは磯田氏の責任だろう。番組を盛り上げるために事実をうやむやにするようなことを言うようでは専門家として出演する意味がない。(吉丸記)
http://ninjacenter.rscn.mie-u.ac.jp/ninja/ 【忍者学とは研究の内容】 より
国際忍者研究センター
三重大学では、伊賀地域の発展のために、忍者の歴史や文化を研究し、その成果を発信しています。
中世の忍者
忍者は歴史的には「忍び」と呼ばれ、最も重要な職務は、主君に命じられて情報収集をすることでした。忍びは鎌倉時代末期から力を拡大してきた悪党を起源として登場したと考えられ、14世紀はじめの南北朝時代から19世紀後半の江戸時代の終わりまで活動していたことがわかります。伊賀は大名の力が弱かったため、そのかわりに自治を行い、自衛のための忍術が発達しました。それによって天正伊賀の乱の際には1度は織田軍を退けることもできました。
戦国時代には、各地の大名のもとに忍びが召し抱えられ、敵国への侵入、放火、破壊、夜討、待ち伏せなどを行いましたが、最も重要なのは敵方の状況を主君に伝えることなので、極力戦闘を避け、生き延びて戻ってくる必要がありました。そうした活動のため、忍術にはさまざまな知恵が凝縮されることになりました。(山田雄司)
近世の忍者
近世になると、戦争のない時代となりました。忍者は、幕府や各藩に仕官して下級武士となったり、武士の格式をもつ百姓になったり、普通の百姓になったりなどします。
幕府の伊賀者は、多くの家が先祖を伊賀国の忍者と意識していました。ときどき秘密の任務を帯びて、情報探索活動を行っていた形跡があります。幕府の伊賀者松下家文書は、幕府における伊賀者の勤務の実態を知ることができます(高尾善希『忍者の末裔』角川書店)。藩に仕えた忍者も、隣りの藩の情報を探ったり、百姓一揆の風聞を探ったりするなど、やはり情報探索を行っていました。ただ、普段は、城下町や城の警備などを担当していることが多かったようです。
いっぽう、村に残った忍者たちの中にも、忍術書を記して、かつての忍術を忘れずに後世に伝えようと考えていた家がありました。(高尾善希)
忍術書
忍術についてまとめられた書が忍術書です。忍術書の内容は多岐にわたり、忍びの心構えからはじまって、侵入術・変装術・交際術・対話術・記憶術・伝達術・呪術・武術などのさまざまな術について詳しく解説されており、また医学・薬学・食物・天文・気象・火薬など多方面の知識が記されています。
忍びはさまざまな術を駆使して情報を収集する必要があったため、忍術書にはあらゆる方面の知識がまとめられています。この中には現代では忘れられてしまったものも数多くあり、それらを再現することによって、何か現代社会に活かしていけないか研究を行っています。(山田雄司)
作られた忍者イメージ
江戸時代では、現実の忍者の活動を見る機会が普通の人にはなくなりました。小説やお芝居のなかで活躍する忍者が一般的な忍者像になりました。忍者が主役級に活躍する話では「忍者が忍術を用いて大事なものを奪って戻ってくる」「魔法的な忍術を身につけた忍者が天下の転覆やお家の乗っ取りなどをはかる」というものがほとんどでした。
いまでは忍者は黒装束に手裏剣という組み合わせが定番ですが、江戸初期から18世紀半ばまでは忍者は普通の人の格好で描かれていました。18世紀中頃より主に見た目の問題から演劇において忍者が黒装束や黒覆面に手裏剣といった姿で登場するようになり、19世紀初頭には小説でも同様の姿が定着します。
江戸時代の忍者は後ろ暗い存在として描かれますが、大正期の立川文庫の猿飛佐助よりヒーローとしての正義の忍者が登場します。(吉丸雄哉)
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