http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno053.htm 【奥の細道(裏見の瀧 元禄2年4月2日)】
廿余丁山を登つて滝有*。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭*に落たり。岩窟に身をひそめ入て、 滝の裏よりみれば、うらみの滝*と申伝え侍る也 。
しばらくは滝にこもるや夏の初(しばらくは たきにこもるや げのはじめ)
元禄2年4月2日。この日は快晴であった。裏見の滝を見物の後、那須・太田原へ行く。夕刻には、雷雨強烈、塩屋町に到着してそこで一泊。ただし、あまり宿がひどかったので無理に願い出て庄屋の家に泊めてもらった。
しばらくは瀧にこもるや夏の初め
「夏(げ)」は、 「夏行(げぎょう)」のことで、陰暦4月16日から90日間水垢離(みずごり)などをする僧侶の行(ぎょう)のこと、夏安居(げあんご)とも。「裏見の滝」を見物しながら、まるでその夏行に入ったような気分になった。そういえば、もうそろそろ夏行の始まる季節だ。
なお、ここでは他に、「ほととぎす裏見の滝の裏表」または「ほととぎす隔つか滝の裏表」などが作句されている。
廿余丁山を登つて瀧有:<にじゅうよちょうやまをのぼってたきあり>と読む。一丁は1町で、この時代には約108m程度の距離。よって、廿余丁は2km余だが、現代の地図で調べて見ると東照宮から裏見の滝までの距離は約2.5km。
岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭:<がんとうのいただきよりひりゅうしてひゃくしゃく、せんがんのへきたん>と読む。巨大な岩山の頂上から流れ出した水は、百尺もある落差をもって,岩だらけの滝壷に落ちていたのである。碧潭<へきたん>は滝壷のこと。百尺<はくせき>と千岩<せんがん>をかけた。
うら(裏見)の瀧: 滝の岸壁に窪んだ空間があって、ここに入ると滝水の落下するのが見える。そういう滝として、この時代、「裏見の滝」は華厳の滝よりずっと有名だったのである。
全文翻訳
東照宮からおよそ二・五キロほど上がったところに滝がある。水は、岩壁の頂上から飛び散って三十メートル。ごつごつした岩でできた真っ青な滝壺に落下する。岩窟に身体をよじって入ると、裏側から滝を見られるので「裏見の滝」と言い伝えられている。
暫時は滝に籠るや夏の初
https://dh-hideyuki.jimdofree.com/2012/10/14/%E5%BF%83%E6%83%85%E8%A7%A3%E9%87%88-%E5%A5%A5%E3%81%AE%E7%B4%B0%E9%81%93-%EF%BC%94/ 【心情解釈:奥の細道(4)】 より
暫時は滝にこもるや夏の初
通常の解釈でこの俳句が解釈されると季語は” 夏(げ) ”
滝裏の岩窟に身をひそめ滝の流れを見ていると、暫(しばし)の夏篭りの気になり身も引き締まる と言う事
ですが、私的心情解釈としてこの内容を紐解くとまず、この俳句の前に松尾芭蕉の同行者である曾良と言う方の俳句が来るのですが
「 剃り捨てて黒髪山に衣替え 」と、唐突に曾良さんの自己紹介がてらの俳句があり
奥の細道にはこの曾良と旅先の俳人と松尾芭蕉の俳句で構成されています
旅の同行をする為に名前も改名し、頭も丸め、巡礼者のような出で立ちだったとあります
ちなみに季語は” 衣替え ”曾良さんの旅にかける意気込みが感じられますが暫時(しばらくは)と自分の事というよりまるで他人事に使う言葉を使用し滝にこもればではなく、滝にこもるやとこれも他人事の気配
夏(げ)はこもるとかけて” 夏篭り(げごもり) ”となり、陰暦4月〜7月中旬(解夏・夏解)の僧侶の修行で一歩も出ずに90日間一室に篭もる勤行(仏道修行をする)精進することで夏安居(げあんご)・雨安吾(うあんご)と言う
実際的に松尾芭蕉が滝の裏に入って流れる滝から外の世界を垣間みた実体験を元にした俳句ですが、自分が僧侶の気持ちでこの滝の裏側からみた世界観を表現するには重ねている言葉が少ない、暫時((読:ざんじ)しばらく)は、時代背景的に歌舞伎の演目「参会名護屋」で「 暫く 」と言う台詞がありますが、少しの間(さほど長くないがすぐともいえない時間がかかるさま)、ちょっと待てと言う意味合いに近い
滝の裏側から垣間みた外の世界というよりも、その場所からそれを見たらそんな風に感じたと言う方がしっくり来る言い回し、それとこの修行は禅宗で盛んだった可能性もあり僧侶の知り合いも多かった松尾芭蕉のイメージからくるこの修行は上位よりしたの位置の僧侶がする修行と捉えていた可能性がある
之をもう少し文章的に開いて見ると
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滝の裏側に入り、勤行をしているような気分に浸っていたのだが滝の中から外を見ていると、曾良が静かにこちらを見守っている
まるで私が勤行をしているのではなく、曾良が勤行を静かに行っているように見えた
こもっているのは自分なのか、自分の心もちなのか
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夏の初の意味に曾良さんの頭” 剃り捨て(青々とした頭) ”をかけた感じと
こもるに自分自身を折り混ぜた感じがしてならない
それと唐突に曾良の俳句を取り入れ、自分よりも覚悟を感じた
(自分もそれなりの覚悟で望んだつもりがもっと強く覚悟してきていた事)
それに自分も気持ちを新たにするつもりがが隠されているよう
このあたりの句から人に触れる事でのちょっとした心境の変化が現れ出します
暫時は滝にこもるや夏の初
しばらくは、たきにこもるや、げのはじめ
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/hosomichi003.html 【『おくのほそ道』の3:黒髪山は、霞かかりて】より
松尾芭蕉(1644-1694)が江戸時代初期の元禄時代に書いた『おくのほそ道(奥の細道)』の原文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。『俳聖』とされる松尾芭蕉の経歴・身分については様々な説がありますが、『おくのほそ道』の旅程の速度や滞在先での宿泊日数から、幕府の隠密活動を行う伊賀(三重県)の忍者だったのではないかという仮説が知られています。
『おくのほそ道』は日本屈指の『旅・俳句』を題材とした紀行文であり、『侘び・寂び・しをり・ほそみ・かろみ』などの概念で表される蕉風俳諧の枯淡な魅力を、旅情漂う文章の中に上手く散りばめています。松尾芭蕉の俳号は、『宗房(芭蕉の実名)→桃青(唐の詩人・李白と対照を為す号)→芭蕉(はせを)』へと変化しています。
紀行文『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良(かわいそら)を連れた旅の記録であり、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を出発して、東北地方や北陸地方の名所旧跡を巡り岐阜の大垣にまで行く旅程が記されています。江戸深川の採荼庵を出発した奥の細道の旅は、全行程が約600里(2400キロメートル)にも及び、かかった日数も約150日間という長旅でした。東北・北陸地方を巡った後の元禄4年(1691年)に芭蕉は江戸に帰りついていますが、旅先の各地で詩情溢れる優れた俳句を詠んでいます。
参考文献
『芭蕉 おくのほそ道―付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』(岩波文庫),『おくのほそ道(全) 』(角川ソフィア文庫ビギナーズ・クラシックス),久富哲雄『おくのほそ道』 (講談社学術文庫 452)[古文・原文]
黒髮山は、霞かかりて、雪いまだ白し。
剃り捨てて 黒髪山に 衣更(ころもがえ) 曾良
曾良は河合氏にして惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒を並べて、予が薪水(しんすい)の労を助く。このたび、松島・象潟(きさがた)の眺め共にせんことを喜び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅だつ暁、髪を剃りて、墨染(すみぞめ)にさまを変へ、惣五を改めて宗悟とす。よつて黒髪山の句有り。「衣更」の二字、力ありて聞こゆ。
二十余町を登つて、滝あり。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へ侍るなり。
しばらくは 滝にこもるや 夏(げ)の初め
[現代語訳]
黒髪山(日光の男体山・なんたいさん)は、霞がかかっていたが、残雪がまだ白く残っている。
剃り捨てて 黒髪山に 衣更 曾良(髪を剃って僧衣に着替えて、死ぬ覚悟も定めて江戸から長旅に出発したが、この黒髪山で衣替えをする夏の季節を迎えた。出発の時の決死の覚悟を思い出し、気持ちを固めて旅の道を歩んでいこう。)
曾良は氏は河合氏であり、名前を惣五郎(そうごろう)と言った。芭蕉庵の近くに家があって、労を惜しまずに私の食事・家事の手伝いをしてくれていた。今回、松島・象潟の景色を一緒に眺められることを喜んでいて、私の長旅の苦労を少しでも減らそうとして同行してくれた。旅に出発する日の朝、頭髪を剃って、僧衣に着替えて、惣五という名前を僧侶に似つかわしい宗悟へと改めた。このような事情があって、曾良の黒髪山の句が生まれたのである。『衣更』の二文字には、旅への覚悟・気力がにじみ出ており、本当に力づよく聞こえた。
神社から200メートルほど上に登ると、滝がある。滝は岩の洞穴の頂上から流れ出ており、多くの岩に囲まれた青い滝壺に落下している。岩の洞窟に身を縮めて入ると、滝の裏側から滝を見ることができ、これを『裏見の滝』と呼んでいるという。
しばらくは 滝にこもるや 夏(げ)の初め(しばらくこの洞窟に籠って、裏見の滝を見ていると、清冽・清涼な空気が感じられて、僧侶が行う夏籠りの初めのように心身が引き締まる思いがする。)
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