https://kyotofukoh.jp/report377.html 【広隆寺・太秦】より
広隆寺(こうりゅうじ)は、京都最古の寺といわれている。飛鳥時代、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)が建立したとされ、王が建立した七大寺の一つになる。「太子堂」、「太秦の太子さん」ともいわれている。
かつて「秦寺(はたでら)」、「太秦公寺」、「秦公寺(はたぎみでら/うづまさでら)」、「太秦寺」、「蜂岡寺」、「葛野寺(かどのでら)」、「桂林寺(けいりんじ)」、「三規寺」とも呼ばれた。山号は蜂岡山という。蜂岡とは、「蓮華の寺ある岡」として現在地を示すともいう。
真言宗御室派。本尊は変遷し、かつては国宝指定第1号の弥勒菩薩像だった。その後、薬師如来を経て、現在は厩戸王(聖徳太子)立像を安置する。
厄除け、疾病除けの信仰がある。
「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 2つ星観光地(弥勒菩薩半跏像は3つ星)」(改訂第4版)に選ばれている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
飛鳥時代、603年、新羅系渡来人氏族・秦河勝が、厩戸王(聖徳太子)より譲られた弥勒菩薩を本尊として建立したという。「蜂岡(はちおか)寺」と称したという。(『日本書紀』)。当初は九条河原里-九条荒見里にあったとも、北野廃寺の地(紙谷川上流右岸、北野白梅町)にあったともいう。
616年、新羅より金銅救世観音像を贈られたという。
622年、19年間の歳月をかけ、堂塔、伽藍が完成した。また、同年に厩戸王(聖徳太子)が亡くなり、その供養のために創建されたともいう。この頃、「葛野秦寺」と呼ばれた。(「広隆寺縁起」・『朝野群載』所収)。第33代・推古天皇より水田、山野を寄進される。
623年、新羅、任那より使者が訪れ、葛野秦寺は仏具、舎利、仏像を贈られたという。(『日本書紀』)
奈良時代以来、厩戸王(聖徳太子)建立七寺、八寺の一つに数えられた。
724年、勅願により伝法会を毎年修するようになる。
797年、勅願により本尊を薬師如来にする。
818年、大火により焼失した。南大門、東大門、西大門、築地は焼失を免れた。
824年、勅願により仏名会を宮中で修した。
836年/承和年間(834-848)、道昌僧都は別当になり再興する。中興の祖になった。
承和年間(834-848)、再興されたという。金堂、歩廊、中門、講法堂、鐘楼、食堂、僧房、宝蔵、政所庁屋、厨房、大炊屋、湯屋、厩屋、客房などが建てられていた。(「広隆寺縁起資財帳」「広隆寺資財交替実録帳」)
860年、第56代・清和天皇の命により薬師如来を勅封(勅命によって封印する)にしたという。
864年、清和天皇が別当・道昌に勅し、願徳寺の薬師仏(七薬師像)を迎え祈願し、病が平癒したという。以後、薬師如来が本尊になるともいう。
873年、「広隆寺資財帳」が作成された。
890年、「広隆寺資財交替実録帳」が作成される。
899年、第60代・醍醐天皇により近江国水田が寄進された。
947年、第62代・村上天皇により水田が寄進される。
980年、第64代・円融天皇により近江国・犬上荘が寄進された。
1012年、恵心僧都は常行堂念仏を3日間修し、中日の夜に摩多羅神を祀る。牛祭りの始まりになる。
1016年、三条上皇(第67代)が行幸し、9日間の参籠をした。
1104年、第72代・白河天皇が行幸する。
1123年、第74代・鳥羽天皇は松原荘を寄進した。
1127年、鳥羽天皇が行幸、参籠する。
1132年、鳥羽天皇が再び行幸、参籠した。
1150年、焼失している。
1165年、勅命により公家・藤原信頼が再建した。金堂(現在の講堂、赤堂)、阿弥陀堂、常行堂、回廊、中門、鐘楼、経蔵も再建される。
鎌倉時代、1248年以来、勅願により毎年、法華会を修する。
1251年、中観上人は桂宮院を再興する。足利尊氏は安堵状を下付する。
1254年、第88代・後嵯峨天皇が行幸、参籠した。
1262年、第90代・亀山天皇は近江森尻荘を寄進する。
1265年、後嵯峨天皇が行幸、参籠した。
1266年、後嵯峨院が行幸、参籠した。
1291年、第92代・伏見天皇の母・洞院愔子(とういんいんし、玄輝門院)が落髪する。
1302年、伏見天皇は山城・安養寺荘、近江・世理荘を寄進する。
1307年、第94代・後二条天皇は山城・安養寺荘、近江・世理荘を寄進する。
1311年、第95代・花園天皇は山城・安養寺荘、近江・世理荘を寄進した。
1315年、院宣(上皇・法皇の命により、院庁の役人が出す公文書)により和泉国・秦寺を管領する。
室町時代、文明年間(1469-1487)、現在の薬師堂が建立された。
1490年、第103代・後土御門天皇は大和・仲居荘、丹波・桐野荘を寄進する。
1532年、後土御門天皇は、厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈る。
1565年、講堂が修理され、規模縮小になり、檜皮葺より瓦葺に替える。
安土・桃山時代、1577年、織田信長は朱印状を下付する。
1585年、豊臣秀吉は600石の安堵状を下付する。
江戸時代、徳川家康以来、歴代将軍は600石黒印状を安堵した。
1662年、第111代・後西天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈る。
1701年、第113代・東山天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈った。
1702年、現在の南大門が再建された。
1720年、第114代・中御門天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈った。
1730年、上宮王院太子堂が建立された。
1746年、第115代・桜町天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈った。
1769年、第117代・後桜町天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈る。
1780年、第119代・光格天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈った。
1819年、第120代・仁孝天皇は厩戸王(聖徳太子)像に天皇即位の御衣を贈る。
1843年、太秦殿を建立する。
1851年、第121代・孝明天皇は近江国・馬椙荘、丹後志高荘を寄進した。
近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、創建以来、境内の桂宮院に鎮守の社として祀られていた大酒神社は、境内西に遷された。
1870年、第122代・明治天皇は厩戸王(聖徳太子)像に即位御衣を贈る。
大正年間(1912-1926)、薬師堂西方より塔心礎が発見された。
1916年、第123代・大正天皇は厩戸王(聖徳太子)像に即位御衣を贈る。
1923年、諸堂が修理され、霊宝殿が建立される。
1929年、第124代・昭和天皇は厩戸王(聖徳太子)像に即位御衣を贈る。
現代、1960年、弥勒菩薩半跏像の薬指の第二関節から先が折られる。
1973年、庫裏が完成する。
1977年、境内東にあった弁天池の中島より、平安時代後期の経塚群、弁天島経塚が出土する。
1981年、境内西南の太秦警察署構内の発掘調査により、平安時代前期の梵鐘鋳造遺構が見つかる。かつての境内であり、この地で梵鐘が製造されていたとみられている。
1982年、霊宝殿が建立される。
◆秦河勝 飛鳥時代、6世紀末-7世紀前半の政治家・軍政人・秦河勝(はた-の-かわかつ、? -650年代? )。秦川勝。山背国葛野に生まれる。渡来系氏族秦氏の長。飛鳥・小懇田(おわりだ)宮に仕えた。厩戸王(聖徳太子)の側近。587年、物部守屋の追討戦に加わる。603年、厩戸王(聖徳太子)より授けられた仏像を蜂岡寺を創建して安置したという。610年、新羅・任那使人らの導者になった。622年、新羅の仏像を葛野の秦寺に安置したという。物部守屋を討った功により、大仁、後に小徳に叙せられた。「ウツマサ」号の初代、爵位「大花上」を授けられた。
◆厩戸王 飛鳥時代の皇族・政治家の厩戸王(うまやど-の-おう、574-622)。聖徳太子(しょうとく-たいし)、豊聡耳(とよとみみ)皇子、上宮太子(じょうぐうたいし)。第31代・用明天皇の皇子、母は皇宮・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。593年、皇太子になり、第33代・女帝推古天皇の摂政。594年、仏教興隆の詔を出した。600年、新羅征討軍を出し交戦したともいう。601年、斑鳩宮を造営する。602年、再び新羅征討の軍を起こしたともいう。603年、冠位十二階を定め、604年、十七条の憲法を発布、君、臣、民が和し、仏法に則る立国の根本義を明らかにした。605年、斑鳩宮に遷る。607年、小野妹子を国使として遣隋使を派遣、以後、対等外交が成る。609年頃、天皇と皇太子は鞍作鳥(くらつくりのとり)作の丈六仏像を法興寺金堂に納める。620年、馬子と議し歴史書編纂の初例『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を録した。墓は磯長墓(しながのはか)と呼ばれ大阪府南河内郡太子町にある。49歳。
595年、高句麗の僧・慧慈、百済の僧・恵聡が渡来し、法興寺に住して仏教を広めた。皇太子は593年、四天王寺、607年、法隆寺を建立し、仏教経典の注釈書『三経義疏』を著し、仏教普及に尽力した。
◆道昌 平安時代前期の真言宗僧・道昌(どうしょう、798-875)。俗姓は秦氏。讃岐国の人。14歳で奈良・元興寺の明澄に三論教学を学ぶ。818年、東大寺で受戒、828年、空海に真言密教を学び灌頂を受けた。829年、京都・葛井寺に参籠し虚空蔵求聞持法を修し、のちに法輪(林)寺と改めた。830年-870年、淳和天皇に召され宮中仏名懺悔の導師になる。各所の法会を講じた。836年、広隆寺・隆城寺別当を歴任する。864年、権律師、後に律師、874年、少僧都、嵯峨葛井寺(ふじいでら)を再興し、法輪寺と改め中興開山になる。承和年間(834-848)、貞観年間(859-877)、大堰川の堰を改修し行基の再来と称された。78歳。
◆弥勒菩薩半跏思惟像 霊宝殿に美仏の「宝冠弥勒菩薩半跏思惟(はんかしい)像」(国宝)(84.2㎝)が安置されている。飛鳥時代作になる。かつて本堂の本尊とされ、厩戸王(聖徳太子)が自ら礼拝していたという伝承がある。弥勒菩薩は、釈迦の後継者とされ、釈迦入滅後、56億7000万年後にこの世に現れるといわれている。
坐し右足を曲げ左腿に載せ、片足のみで胡坐をかく半跏坐をとる。頭に低い山形の宝冠を戴き、首に三道ではなく四道がある。目は半眼、切れ長、鼻筋は通り、深い人中線、引き絞められ閉じられた唇、頬添う右手の薬指は曲げられている。左手は曲げた右足に添わせる。榻座(とうざ)に坐しており、衣の襞がかかる。造型上から右足先は、不自然に下に向けられている。
像はやや湾曲した材に添う形で、彫り込んで造られている。木芯の後半部に顔の部分が当たる様に彫られているため、顔の正面に木目が現れている。
かつて、木屎漆(1㎝)が塗られ金箔だったという。「金色弥勒菩薩像」(「広隆寺資材交替実録帳」)と記されていた。このため、縦目木の右手中指は頬に接していたとみられる。小指と人差し指も江戸時代に修復されている。なお、1960年に拝観者により、右手薬指が欠損させられたため、仏師・西村公朝によりすぐに修復された。胸に釘跡があり瓔珞(よらく)、肩には天衣を纏っていたとみられている。また、背の台座部分に光背跡があり、かつては光背を背負っていたとみられている。翻波式衣文。
国宝第一号の指定を受けている。かつては、クスノキ材により造像されたとみられていた。その後、朝鮮系のアカマツの一木造と判明する。ただ、飾り帯の綬帯、背板はクスノキ材を用いる。飛鳥時代、国内の木像仏の材質はクスノキ材を用いていた。クスノキは朝鮮半島に自生しないが、当時は中国、日本から輸入していた。このため、国内で造像されたものか、国外で造像については諸説ある。材を輸入し、国内の仏師が造り、材の不足分を国産のクスノキ材で補ったともいう。後頭部、背中、榻座に内刳りがある。一木造、漆箔。
飛鳥時代、603年、百済(新羅とも)から伝来し、厩戸王(聖徳太子)が秦河勝に与えた尊像「金銅弥勒菩薩像」という。河勝は毎日の礼拝を欠かさなかったという。623年に国内にもたらされたという。(『日本書紀』)。広隆寺の弥勒菩薩は、ソウルの韓国国立中央博物館蔵の新羅7世紀、「金銅弥勒菩薩像(韓国国宝83号、徳寿宮旧蔵)」(93.5㎝)と酷似しているともいわれ、渡来仏との見方が有力視されている。ただ、異説もある。
ドイツ人実存主義哲学者・ヤスパース(1883-1969)は、「この仏像は人間の持つ心の永遠の平和の理想を、真に余すところなく最高度に表している。この地上における全ての時間的なるものの束縛を越えて達し得た、人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠の姿の象徴である」と賞賛した。
◆仏像・木像 国宝17体、重要文化財38体の仏像が安置されている。
◈本尊の「薬師如来像」は、平安時代、864年、第56代・清和天皇の病平癒のために、願徳寺より遷し、道昌が加持祈祷した。その後、本尊になり、霊験薬師仏檀像と呼ばれたという。
◈本堂の上宮王院太子殿の厨子内に本尊「厩戸王(聖徳太子)立像」(148㎝)が安置されている。平安時代、1120年に造立されたという。頼範作による。室町時代、1526年に即位の第105代・後奈良天皇以来、歴代天皇が即位式で身に付けた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が贈られ、像が着用している。黄櫨染御袍とは、天皇が儀式の際に着用する束帯装束の袍(長い着物)をいう。現代、1994年に現天皇により贈られた黄櫨染の袍を纏う。太子の命日、11月22日に開扉される。
◈本尊の薬師如来像脇侍の「日光菩薩立像」(175㎝)(重文)、「月光菩薩立像」(174㎝)(重文)は、平安時代、1064年、藤原資良により、定朝弟子・長勢(長成法橋)が造像した。日光菩薩は上瞼を水平、下瞼を弧状とし、小鼻、形のよい唇をしており、藤原彫刻最盛期の作品とされる。月輪を載せる蓮華は後補による。木造、漆箔、彩色。
◈平安時代前期(9世紀)作の「千手観音菩薩立像」(266㎝)(国宝)は、9世紀末、818年の火災以後に造立されたとみられている。金堂の本尊・霊験薬師如来像とともに安置されていた。11面42臂あり翻波式衣文、木造、ヒノキ材、寄木造(手は除く)、彩色。
◈「厩戸王(聖徳太子)十六歳像」(57.9㎝)(重文)は、鎌倉時代後期作になる。父・用明天皇の病気平癒を祈願した姿を表す。ほかに、秦河勝御夫妻神像などがある。
◈「厩戸王(聖徳太子)立像」(147㎝)は、平安時代、1120年の頼範作による。定海により、太子500回忌を前に造られた。木造、彩色、瞳嵌入。
◈「大日如来坐像」(96㎝)(重文)は、平安時代後期作、奈良国立博物館寄託。
◈講堂(赤堂)に安置の本尊「阿弥陀如来坐像」(264㎝)(国宝)は、平安時代、天長年間(824-834)に淳和天皇妃・永原御息所(ながはらのみやすどころ)御願により、奈良・大安寺の道昌により造立された。右足を上にして結跏趺坐、転法輪印を結ぶ。二重円光、古式の宣字裳懸座(せんじもかけざ)に坐している。「広隆寺縁起資材帳」によれば、像造当初より三尊一具だったともいう。源信が崇敬した。木屎漆、漆箔、一木造。
▪脇侍右の「地蔵菩薩坐像」(182.4㎝)(重文)は、平安時代(9世紀)作による。右手は与願印、左手に宝珠を載せる。837年-861年に僧・道昌の発願による。一木彫、彩色。
▪脇侍左の「虚空蔵菩薩坐像」(233.3㎝)(重文)は、平安時代(9世紀)作、840年頃、淳和天皇追善供養に際しての造立とみられている。道昌の発願による。木造、一木彫、漆箔。
◈講堂須弥壇背後の左右隅に平安時代(8世紀末-9世紀初、奈良時代後期、797年頃とも)作の「不空羂索観音立像」(313.6㎝)(国宝)を安置した。雑密像(空海以前の密教)、一面八臂、当初は白木、檀像。現在は上半身は裸形だが、かつて天衣、条帛を纏う。円光背に火焔の板光背。背刳。ヒノキ材、一木造。現在は霊宝館に安置。
◈霊宝殿の平安時代、1064年、定朝弟子の長勢(長成)作という「十二神将立像」(各120cm)(国宝)は、いずれも、丹波守・藤原資良の寄進により本尊の薬師如来像守護のために日光・月光菩薩とともに像造された。忿怒形の表情をする。岩座までの一木造、割矧造、彩色。
優品のひとつ「宮毘羅(くびら)大将」(123㎝)、「安底羅大将」(115.1㎝)、「真達羅大将」(120㎝)、「摩虎羅大将」(117㎝)。「因達羅大将」(115.4㎝)、「珊底羅大将」(122.2㎝)、「迷企羅大将」(114.5㎝)など。現在は、京都国立博物館寄託。
◈霊宝殿の「弥勒菩薩半跏思惟像(宝髻 [ほうけい] 弥勒、泣き弥勒)」(66.3㎝)(国宝)は、高い髻が特徴になっている。飛鳥時代、白鳳時代(645-710)作になる。首を傾げ、目が大きく瞳が潤んだように見えることから「泣き弥勒」とも呼ばれた。やや前かがみで右手の指を頬にあて、折り曲げた右足に添える左手は、宙に浮いた状態になる。裙の裾、臂釧、腕釧などに獣皮(牛皮)を使うのは珍しいという。厩戸王(聖徳太子)没後一年を経て、新羅国より献上されたという。飛鳥木彫最後の造仏になる。やや右手からの拝観が最も美しい造形ともいう。クスノキ材、一木造、漆箔。
◈霊宝館の「如意輪観音半跏像」(71.5㎝)(重文)は、平安時代初期作になる。かつて、桂宮院に安置されていた。大袖を着る。岩座に坐し、右手人差し指を頬に当てる。肘は膝から離れている。左手は曲げた右足に載せる。
◈霊宝館に平安時代作の42臂、「千手観世音菩薩立像」(266㎝)(国宝)を安置する。平安時代、836年-862年作とみられている。かつて、講堂に安置されていた。面、脇手の大部、光背台座は後補。翻波式衣文、渦文。背刳、一部に木屎漆、漆塗彩色。ヒノキ材、一木造。
◈霊宝館の「五髻文殊菩薩坐像」(99㎝)(重文)は、平安時代、1165年の金堂再建時に安置されたとみられている。木造、素地。
◈丈六の「千手観世音坐像」(256㎝)(重文)は、像内墨書銘により平安時代後期、1012年作になる。現在は13臂あるが、かつては42臂あった。カヤ材、寄木造。
◈霊宝館の「蔵王権現立像」(96㎝)(重文)は、平安時代後期作という。蔵王権現とは神仏習合の仏であり、役行者が吉野金峯山に千日籠った際に、釈迦、千手、弥勒が出顕し、最後に蔵王権現が顕れたという。
◈「聖観世音菩薩立像」(147.4㎝)(重文)は、平安時代前期、873年以前の作による。良階貞範を願主として像造された「観世音菩薩檀像」とみられる。木造、カヤ材、一木造、一部に木屎漆、彩色。
◈地蔵堂に、弘法大師作という「腹帯地蔵尊(腹帯地蔵)が祀られている。
◈薬師堂に、「霊験薬師仏壇像」、神仏習合の天部形の「薬師如来像」が安置されている。
◈「仁王門」の仁王像は、室町時代作になる。
◆地蔵 ◈講堂の本尊脇侍に、阿弥陀三尊のひとつ「地蔵菩薩坐像」(重文)が安置されている。平安時代作になる。右手は膝上に曲げた与願印、左手は宝珠を載せ、宝珠を持つ最古の例になる。一木彫、像高182cm。
◈霊宝殿の「地蔵立像」(重文)は、平安時代作になる。右手は下げた与願印、左手は宝珠を載せ、右肩を脱いで見せている。一木彫り、像高91cm。
「埋木地蔵(うもれぎじぞう)」と呼ばれたという。逸話が残されている。大堰の樵が菩提樹より刻んだという。菩提樹に花が付き、蜂が群がる羽音はお経を読むように聞こえた。まるで呻くようであったことから、「うめき」「埋れ木」に転訛したという。平安時代、1150年の火災を逃れ、1179年に仏師・院尚が修復を施したという。鎌倉時代、1221年に盗難に遭うがこれも逃れた。塔頭・十輪院に安置され、その廃寺に伴い当寺に遷されたという。(『埋木地蔵菩薩記』、1230年)。
江戸時代中期の歌人・国学者・小沢蘆庵(1723-1801)は、1788年の天明の大火に遭い、十輪寺に一時移り住んだ。その時に「花咲かぬ身ぞたぐひなき埋もれ木のみかげも世にはいでけるものを」(『六帖詠草』)と詠んだ。
◆建築 ◈「南大門(仁王門)」は、江戸時代、1702年に再建された。上層の軒は二重繁垂木、腰四周に廻縁、柱間に桟唐戸、朱塗の仁王門、3間1戸、入母屋造、桟瓦葺。
◈「講堂」(重文)は、平安時代、1150年の火災後に建てられた。1165年に再建されている。京洛最古の建物という。かつては、正面の柱一列が吹放しになっていた。室町時代、1565年に補修された。両端に壁を塗り、花頭窓を開けた。扉は柱から1間入ったところに残る。床は漆喰叩き、朱塗りで「赤堂」ともいわわれている。5間4面、単層、寄棟造、本瓦葺。
◈「上宮王院(太子殿、太子堂、本堂)」は、江戸時代、1730年に建立された。宸殿造風、入母屋造、檜皮葺。
◈「太秦殿(河勝殿)」は、江戸時代、1841年に再建された。本尊は秦河勝(太秦明神)、後に漢織女(あやはとりめ)、呉織女(くれはとりめ)も祀られた。
◈「桂宮院(けいぐういん)」(国宝)は、境内の西に位置している。鎌倉時代、1251年に中観上人証禅により改修された。「八角円堂」ともいう。法隆寺東院夢殿の八角円堂を模し、「広隆寺の奥院」と呼ばれている。 厩戸王(聖徳太子)が楓野別宮(かえでのべつぐう)を起こし住んだという伝承も残る。かつて、八角形漆塗り春日厨子内に、厩戸王(聖徳太子)半跏像が安置されていた。柱間は2.1m、土檀は亀腹、周囲に縁、内部は板敷による。頂上に八角形露盤、その上に宝珠を載せる。屋根の勾配は緩く、軒に反りがある。単層、八柱造、 檜皮葺。
◈「霊宝殿(収蔵庫)」は、現代、1983年に竣工した。四注造、鉄筋コンクリート造り。
◆秦氏 本堂右手、河勝殿という祠には、秦河勝夫妻が祀られている。
秦氏(はたし)が日本に渡来したのは、5世紀後半(480年代)という。秦韓(しんかん)の有力な首長が、戦火を避け蔚珍(ウルジン、現在の大韓民国慶尚北道東北部)より渡来したとみられている。
秦には「波多」(『新撰姓氏録』)、「波陀」(『古語拾遺』)の字も当てられた。秦氏は秦の始皇帝の子孫といわれる。また、「ハタ」は、機織りに由来とする説、サンスクリット、梵語の絹布を意味する「パタ」説。古代朝鮮語の海を意味する「パタ」語源説もある。また、中国から朝鮮の楽浪郡、新羅を経て日本に渡来したとされ、新羅の古地名「渡旦(ハタン)」(『三国史記』)に由来するという説も有力になっている。
秦氏は土木灌漑技術のほか、製陶、醸造、養蚕、機織、金工、軍事などで高い技術を保持していた。飛鳥時代、6世紀(501-600)前半、秦氏は深草に住し、農業、交易により富をなした。6世紀半、ヤマト政権の財務に関わる。6世紀後半に、深草から葛野に移住したとみられている。646年の大化の改新以前、朝廷直轄領・屯倉(みやけ)の管理実務に従事していた。
奈良時代、738年以前、桂川上流の大堰井川(かつての葛野川)に葛野大堰(かどのおおい)という堰を造り、嵯峨野の開拓に関わった。平安時代、794年、平安遷都に際しても関与し、造都の技術者には秦都岐麻呂(はた-の-ときまろ)が就いた。秦氏は、遷都の財政的な協力も行ったとみられている。9世紀、広隆寺の秦氏の僧・道昌(どうしょう)も葛野川堤防の修造に尽力している。
その後、秦氏は歴史の表舞台より消えている。
◆寺号 広隆寺は秦河勝の実名、「広隆」に因むという。広隆寺の前身は「葛野秦寺(北野廃寺)」とされ、現在の白梅町あたりに、飛鳥時代-平安時代初期に存在したともいう。また、もとは九条河原里と荒見社里の地にあり、8世紀(701-800)中頃、五条荒蒔里に移転したともいう。(『廣隆寺縁起』、836)。
広隆寺の古名についてはさまざまな説がある。広隆寺は、飛鳥時代に建立された「北野廃寺」とする説がある。また、まったく別の寺ともされる。広隆寺の古名は「蜂岡寺」とも「葛野秦寺」ともいう。また、北野廃寺は蜂岡寺であり、広隆寺である葛野秦寺と合し、「野寺(常住寺)」になったともいう。
蜂岡寺、秦寺(大秦公寺)、広隆寺、北野廃寺などは、すべて同じ寺名とする説が有力になっている。ほかにも、宇秦公寺、秦公寺、後に桂林寺、三槻寺、葛野寺などとも呼ばれた。
近年の考古学的な調査結果によると、広隆寺は、厩戸王(聖徳太子)時代より現在地を離れていないことが確実視されている。
◆太秦 太秦(うずまさ/うづまさ)の地名由来についても諸説ある。初例は、飛鳥時代、644年の『日本書紀』という。太秦として秦河勝の名が登場する。
渡来系の豪族・秦氏(秦酒公)は配下に秦の民、秦人を組織し、族長は絹織物を取り立てていた。これらを、ヤマト政権の財源として管理し税として納めた。その際に、絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より族長称号「禹豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた。これに「太秦」の字を当てたという。
秦氏の拠点に本家として「偉大な」という意味の「大(太)」を付け、「太秦」にしたともいう。また「うず」が現在の韓国慶尚北道蔚珍(ウルサン)を意味し、「まさ」とは「村」を意味するともいう。(山尾幸久を引用する形で『京都の地名 検証』)。また、秦河勝の「河勝」は「禹豆満佐(古代朝鮮語で族長)」と呼ばれたため、太秦は秦氏長の姓になり、地名に使われたともいう。
◆文化財 平安時代、873年の「広隆寺縁起資財帳」(国宝)、平安時代、890年の「広隆寺資財交替実録帳」(国宝)。
鎌倉時代初期の「准胝仏母像」(重文)。
鎌倉時代中期の「能恵法師絵詞」(重文)は、東大寺僧で蘇生し地獄の様を説いたという能恵を描く。
鉄鐘(重文)は、鎌倉時代、1217年に秦末時発願寄進による。本尊・霊験薬師物に奉納されたという。
平安時代、1165年、再興時の鐘楼、在銘鐘は西本願寺に移された。
◆法然の墓 鎌倉時代、1212年に法然は大谷の禅堂・禅房(現在の知恩院勢至堂付近)で亡くなる。遺骸は当初、禅房東の崖上(現在の御廟)に葬られ、墓堂(現在の知恩院法然廟)が建てられた。
1227年6月の嘉禄の法難では、比叡山衆徒が法然の墓を破却し、遺骸を鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、6月22日に遺骸を嵯峨清凉寺 に一度移した。さらに、28日、太秦・広隆寺の来迎房円空のもとへ移された。これらの動きに際して、帰依した関東御家人、宇都宮頼綱、千葉入道法阿らが、郎党と共に遺骸の警護に当たった。
翌1228年1月25日、西山粟生(あお、現在の光明寺)の幸阿弥陀仏のもとへ移され、ここで荼毘に付されたという。遺骨は弟子たちがそれぞれ分かち持ったという。1234年、法然の弟子・源智は、現在地、大谷の地に知恩教院大谷寺(後の知恩院)を建立し、法然の遺骨を廟堂に安置した。
◆石造物 ◈「石燈籠」は、本坊書院前庭にある。写しは、太子殿前の左にある。「太秦形燈籠」と呼ばれ、茶人にも好まれた。源頼政の寄進ともいう。基礎は円形、蓮弁、六角形、宝珠は後補による。
◈「塔心礎」は、平安時代のものという。かつて講堂西にあり、創建時の伽藍配置が法隆寺式とみられている。近代、大正期(1912-1926)に発掘された。
現在は楼門脇の標柱台石に転用されている。
◆遺跡 ◈ 境内の桂宮院前に「弁天島経塚」が保存されている。信者の死者は、釈迦没後56億7000万年後に弥勒菩薩とともにこの世に復活再生するとして、この地に経典を納めた。
境内東にかつて弁天池(直径30-40m)が存在し、中島(直径12m)に平安時代後期の経塚群、「弁天島経塚」があった。現代、1977年の発掘調査により、15基の経塚、遺物などが出土している。一つの石室は平石により築かれ、上には魔除けの刀子(とうす)5本が置かれていた。石室には、須恵器の甕が置かれていた。中に経筒が納められ、隙間には木炭が詰められた。
埋葬品としては、鏡、銭、水晶玉、硝子玉、青磁、白磁、金箔の仏像、白銅製の柄香炉(えごうろ)、土器、「警固(けご)」と刻印された瓦などがあった。これらは国宝指定され、京都国立博物館に移されている。
経塚の1基が、桂宮院前に保存されている。石室(1m)がある。
◈ かつての境内は現在よりも広大だった。付近からは、古墳時代前半(7世紀前半)の竪穴式住居跡70棟が見つかっている。一辺は4mほどの小規模なもので、窓際に竈が設けられているものもあった。食器として用いた須恵器、土師器もわずかに見つかっている。仮設住居とみられ、広隆寺創建時の工人のためのものだったともいう。
◈旧境内になる常盤仲之町遺跡からは、中世の集団墓100基が見つかっている。土葬墓のほか、火葬墓もあり、火葬炉跡、蔵骨器の土器も発見された。
奈良・西大寺の叡尊は、葬送儀礼を重んじ、その弟子・澄禅は広隆寺境内に桂宮院を建立している。
◆文学 平安時代の女性歌人・周防内侍(すおう-の-ないし、?-1110頃)は、病平癒祈願に参籠し、「かくしつつ夕べの雲となりもせば哀れかけても誰か忍ばむ」(『新古今和歌集』巻18、雑歌下)と詠んだ。
近現代の作家・志賀直哉(1883-1971)は、1923年より3年間、京都に暮らした。当初は粟田口三条坊、その後、山科竹鼻に移った。広隆寺も訪れ日記に記している。「不空ケンサク、桂宮院、如意輪観音大いによし」「厩戸王(聖徳太子)の真筆美し」と記した。
◆映画 時代劇映画「雨月物語」(監督・溝口健二、1953年、大映京都)の撮影が境内右手の土蔵前で行われた。琵琶湖畔が設定されている。亭主は逃げ、阿浜(水戸光子)は侍たちに手篭めにされる。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、イタリア批評家賞を受賞している。
時代劇映画「山椒大夫」(監督・溝口健二、1954年、大映京都)では、奴隷として売られた兄妹は追っ手から逃げる。安寿(香川京子)は、厨子王(花柳喜章)を逃がした後、境内に逃げ込み入水する。ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。
◆木枯明神 桂宮院の旧鎮守社・大酒神社(右京区)本殿に木枯(こがらし)神社が合祀されている。伝承がある。
広隆寺の旧本尊・薬師如来像は、向日明神の作という。像が乙訓郡より広隆寺に迎えられた際に、広隆寺門前西南の大槻に影向(ようごう)した。忽ちその木が枯死したため、神霊を遷して祀った。その後、木は再び繁茂したため、木枯明神と称された。(『広隆寺縁起』)
◆あぶり餅 現在、今宮神社(北区)門前の茶店で知られるあぶり餅は、かつて広隆寺の名物だったという。「勝餅(おかちん)」と呼ばれていた。都に疫病が流行った際に、今宮神社のやすらい祭りで疫病が鎮まり、神前に供えた餅を持ち帰り食したのが起源という。
◆樹木 クスノキがある。
◆いさら井 境内の西に「いさら井(いさらい)」という井戸があったという。「潦井」「浚井」とも書かれた。
江戸時代には洛西有数の名水として知られた。大酒神社の発祥に関係がある井泉ともいう。
◆坂東妻三郎 境内の西に、映画俳優・坂東妻三郎(1901-1953)の屋敷があった。その後、中村某により屋敷は引き継がれる。以後、映画関係者の利用する旅館になる。30年ほどして廃業後、屋敷は取り壊された。
◆牛祭り 厄除神事「牛祭り」(10月10日)は、「京都三大奇祭(ほかに鞍馬の火祭り、今宮神社のやすらい祭り)」の一つに数えられる。かつては境内に祀られた大酒神社の旧暦9月12日、丑の刻の祭礼だった。
伝承がある。平安時代、1012年、比叡山の恵心僧都(942-1017)は、夢告に従い広降寺絵馬堂に詣で、夢に見た阿弥陀三尊を刻した。9月11日より3日間の声明念仏を修し、国家安泰、五穀豊穣、悪魔退散を祈願した。念仏堂行堂の後戸に、摩多羅神(魔咤羅神、まだら/またら)を勧請したことに始まるともいう。
また、それ以前よりの祭りともいう。円仁(794-864)は、唐より摩多羅神を将来し、比叡山、赤山、この地太秦の三カ所に祀ったことに始まるともいう。
また、土地の精霊(大避明神/大酒神)が守護神(摩多羅神)と化し、厄除、国家安泰、五穀豊穣、悪魔退散などを祈念する祭りになったともいう。
祭りは午後8時頃に始まる。西門より金棒、燈、囃子、松明、四天王の列が続く。白衣装束に赤鬼、青鬼の面を付けた四天王は、頭に紙冠を被り、天矛(あめぼこ)を手にしている。摩多羅神役の神人は、鼻高面を被り、桃割れの面をつけ牛に乗る。これらの面の意匠は、近代、1888年に祭りを復興させた富岡鉄斎による。
僧の祈祷を受け、一行は松明の火の下で練る。西門より通りに一度出て、東門より再び境内に戻る。四天王は薬師堂前の拝殿で四隅に立つ。摩多羅神は拝殿の周りを3周した後、拝殿に上がる。摩多羅神は、独特の節回しで祭文を読み上げ、四天王も続く。聴衆よりこれらの読み方について悪口が投げかけられる。これを合図に、摩多羅神は堂内に逃げ込み、四天王もその跡を追う。かつて、人々はその後を追い、厄除のため神の面を奪ったという。
◆厩戸王(聖徳太子)火焚祭 厩戸王(聖徳太子)火焚祭(11月22日)は、近代以降、厩戸王(聖徳太子)を崇敬する建築、機織りの職人により始められた。
護摩焚き厄を祓う。本尊の厩戸王(聖徳太子立像)が開扉、勅封薬師如来像が特別開扉される。
◆年間行事 修正会(1月1日-3日)、釿始め(1月2日)、節分会(2月22日)、招魂祭(3月10日)、牛祭(10月12日、現在は開催未定)、厩戸王(聖徳太子)火焚祭(11月22日)。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*商業利用の境内撮影が禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『飛鳥白鳳の甍』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『旧版 古寺巡礼 京都 13 広隆寺』、『国宝への旅 2』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『事典 日本の名僧』、『京都の地名検証』、『京都の地名検証 2』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の寺社505を歩く 下』、『日本美術全集 7 浄土教の美術』、『新版 京のお地蔵さん』、『仏像』、『京都の仏像』、『古都の美をめぐる』、『京都仏像を訪ねる旅』、『京都の仏像 入門』、『平安の都』、『京都・美のこころ』、『まなびすと vol.31』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『京都のご利益めぐり』、『京都絵になる風景』、『京の寺 不思議見聞録』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『掘り出された京都』、『週刊 京都を歩く 29 太秦』、『週刊 日本の仏像 第50号 広隆寺 国宝弥勒菩薩 (京都)』 、京都市平安京創生館、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「コトバンク」
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