https://madenokouji.wordpress.com/2010/05/31/%E6%9C%80%E6%BE%84%E3%81%A8%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%80%80%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6/ 【最澄と空海 弥勒信仰を中心にして】 より
弘法大師坐像より (木造 室町時代製 金剛峰寺蔵)
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして
平安佛教の両雄である最澄と空海も又、八幡神と秦氏にご縁が深い。平安時代に入って、聖徳太子信仰を広めたのは他でもない、最澄自身であった。最澄は法華経を通じて弥勒信仰を深め崇め、その始祖として太子信仰を深め広げた稀有で無垢な宗教者であった。日本にとって、この法華経の存在はまことに偉大であり、数多ある経典の中で最高峰に位置する経典であろう。お陰で広汎な意味において、観音信仰もこの範疇に入り得る。最澄が延暦寺を建てた比叡山は、推測だが、先住の山背秦氏の聖なる山であったのかも。それを譲り受けたのが最澄であったに違いない。比叡山眼下の湖西街道沿いには渡来帰化人の累々たる墳墓がいまでもあるからでもある。平安遷都の734年、王都鎮護の法要を最澄を施主として行われたが、ここに秦氏出の勤操、護命という二人の僧侶が招かれている。平安京は元々秦氏に勅願され、赦された山背秦氏伝来の地であった。最澄の唐留学も、秦氏と関係が深かった和気清麻呂の子・弘世と真綱が桓武天皇に勧めたことで、公費留学生として認められたことでもある。804年、最澄は入唐に先立ち、弥勒信仰の盛んな豊前の国に寄って、香春(カル)岳に登っている。何と翌年には早々と唐留学を終え無事帰国した最澄であったが、その折にもここを再訪し、香春社に神宮寺・法華院(法華経を通じ弥勒信仰を表現した=神宮院)を建てている。そして帰京後は、和気氏の高尾山寺に、日本で最初の灌頂道場を設けたのだった。
最澄像 (国宝 11世紀<平安時代>に描かれた像影 一乗寺蔵)
延暦寺第五世座主・円珍は唐から帰国後、園城寺(=三井寺)を開くが、その本尊は弥勒菩薩像であり、円珍の没後、園城寺の寺門派は、比叡山の山門派に対して、天台宗の正統性を主張する。この論拠になったものは最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。その園城寺の鎮守社・新羅善神堂のご祭神は新羅明神と称する弥勒菩薩の化身であった。超エリートとして入唐した最澄に比べ、同船を共にした空海の若き時代には格別に不明なことが多い。服部真澄氏の渾身の長編小説「最勝王」に、壮大な若き日の空海が細密に亘って書いてあり、甚だ感動的な小説であったが、多分空想の域を出ていないことだろう。但し八幡神と秦氏を祖型として考えてみると、意外にも空海に別個な相貌が見えてくる。若き日の空海は長岡京(=平安京の前途 ここも秦氏縁故の土地である)で、前だしの僧・勤操から直々に虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を学んだようだ。これこそ如何にも密教的な広大無辺な福徳・智慧を授かる秘法であった。その元は、帰国後に大安寺を開く僧・道慈が入唐中(702~718)に、インド僧・善無量三蔵から口承伝達されたものであった。これを大安寺の僧・善議から勤操を経て、空海へと伝授されたものであった。そして前記の僧・護命も大安寺にいた僧侶であった。
道慈は大和国額田氏の出である。氏寺の額田寺を額安寺とし、自ら造った乾湿虚空蔵菩薩半跏思惟像(現存)を祀ったと言われている。額田氏は手工業者の熊凝(くまごり)氏と同族であり、その氏寺・熊凝寺は聖徳太子が発願された御寺だという。これが後の大官大寺の前身になり、道慈によって平城京に移され、大安寺となったのである。虚空蔵菩薩と言えば、山背国・法輪寺(秦氏出の道昌が開祖)のそれは、漆器業や工芸職人の、まことの守護佛であった。かくして虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造にも結びつき、更には山岳信仰や弥勒信仰にも通じて、はっきりと繋がっていると言えそうである。虚空蔵求聞持法の、その神髄とは、錬金術にも似た神薬などの「製法」にあった。このことが手工業者の守護佛であることに繋がって余りある。又インド僧・善無量は造佛の天才であったとも言う。道慈も菩薩像を造った。豊前の法蓮が「法医」として作った神薬もここに通じている。その法蓮は「虚空蔵」寺の座主でもあったし、寺名には秦氏の手工業=非農耕民性も窺えてならない。大安寺は雑蜜(空海以前の密教)化した寺であり、八幡神に通じている。
空海も最澄と同じく804年に入唐し、806年最澄より一年多く留学し、恵果和尚から密教のすべてを伝授される。九州に上陸し、間合いを徐々に慎重に詰めて行くかのように、直ぐには入京しなかった。空海を寵愛する親王(後の嵯峨天皇)が皇位に就くまでの長い期間であったであろう。しばらく九州に留まり草庵を建てたりしていた。そこへ807年、最澄が空海の師・勤操遣わし、空海に遊行を止めて直ちに比叡山に戻るよう説得をしたが、二人は日本の将来を按じながら、香春山や英彦山などの秦王国の神々の宿る多くの山野遊行したのだろう。じっくり時間を掛けて、勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移り、ここで受戒している。更に山背国の高尾山寺へと入った。高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祀る例の高尾社付近にあった。和気清麻呂が八幡神の託宣によって創建された神護寺(一名高尾寺 高尾社が鎮守する)を、子の真綱と仲世が山背国の高尾山に移したもので、後の神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の拠点の寺である。愛宕社の神宮寺も白雲寺の開祖も、役小角と運遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・秦澄のことである。道理で愛宕山は「白山権現」でもあり得る。多少遡るが、桓武天皇の即位、781年、山背国への遷都を前にして、愛宕権現にて祭祀が行われている。この時、「大安寺」僧・慶俊を本願士とし、和気清麻呂を祭祀奉行などとしている。桓武天皇の長岡・平安両京への遷都造営太夫は、畢竟、和気清麻呂であった。山背国は秦氏の神地であったために、和気氏は朝廷と秦氏の両者を取り持つ役割を始終担っていたのだろう。
空海は816年に高野山を開いた後、823年になって東寺(教王護国寺)造営の任務を与えられた。空海の入京までの十余年に及ぶ潜伏は一体何を意味していたのだろうか。推測では嵯峨天皇即位までの我慢の時間ではないかとしているが、桓武王朝の百済アイデンティティーの強さへの恐れではなかっただろうか。裏を返せば、空海の新羅への近さであったろう。空海は讃岐国の佐伯氏の出と言われているが、その実態はなかなか分かりづらい。それこそ以下に述べるが、空海こそ、法蓮の「嫡子」であり、日本習合宗教の祖であったのではなかろうか。伏見稲荷社の創祀は711年である。にも関わらず、『弘法大師伝抄』によれば、空海は筑紫(九州)で、稲を担った太夫に出会った後、その太夫が再び東寺に現れた。そして稲荷山に去って行ったと書かれてある。それで空海が823年に伏見稲荷社を造ったという。これは何を意味しているのだろうか。九州・豊前で、秦王国のイナリ信仰に出会い、既に山背国秦氏によって祀られていた稲荷社を東寺にお招きしたということだろうか。東寺の鎮守は二箇所あり、内鎮守が八幡社で、外鎮守が稲荷社である。『高野大師行状図画』と『稲荷記』は、稲荷大明神を「魏国の大臣」と記してある。どこから「魏」が出てくるか、それは『熊野縁起』にある通り、熊野権現は北魏(或いは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏の僧・善正が英彦山の開山者であるというように、「魏」は方位磁石の針のように秦王国を指し示しているのではないだろうか。
空海は門外不出の秘法・虚空蔵求聞持法を讃岐・秦氏出の僧・道昌に伝授している。道昌は、828年あの神護寺で空海から両部潅頂と虚空蔵求聞持法を受け、翌年から秦氏の松尾社北麓の葛井寺に参篭する。百ケ日の虚空蔵求聞持法を修して、ついには虚空蔵を空中に感得、一木を刻して虚空蔵菩薩を創り、安置し、寺号を「法輪寺」と改めた(『源平盛衰記』より)。法輪寺とは、聖徳太子追善のために大和国斑鳩に建てられた法輪寺(飛鳥時代の虚空蔵がある)の借名である。更に道昌は、836年には山背太秦氏寺・広隆寺の別当職についている。空海の遺言『御遺告二十五ケ条』の第十七条には「必ず兜率天に往生し、五十六億年の後、必ず弥勒菩薩とともに下生する」とある。空海は高野山を未だに生き、弥勒の兜率天へと上生往生するための聖地としたに違いない。「即身成佛」の空海とは掛けえ離れたものだが、然し後には、高野山そのものが兜率天内院に擬せられ、空海も弥勒の化身とされてゆく。これは英彦山が兜率天とされ、法蓮がミロクの化身とされたことと同じことなのだろう。こうしてみると、空海の密教とは自力の虚空蔵信仰と、他力の弥勒信仰から成るものだったことがよく理解出来よう。弥勒信仰は聖徳太子のタイシ信仰となって普及していった過程が見えて来る。でも何故この信仰が、大工や鍛冶屋など手工業者の信仰になったのだろう。そこに弘法大師(ダイシ)信仰にも流れ込み、太子・大師信仰となっていったのだろうか。弥勒たる八幡神と秦氏がこれを完璧に裏打ちしていたのだろう。天台宗と真言宗が、何故聖徳太子を問題視し、又は山岳信仰に深く関わったことも、うっすらとお分かり戴けたことだろう。
最後に、法蓮の「嫡子」たる空海の習合宗教「密教」を更におさらいしたい。空海は何故山野遊行をしたのだろう。アルの母神を求めて、日子=太子=弥勒を求め、常世=兜率天の出入り口を求めて、神佛の回路を求めた結晶でもあったろう。シャーマニズム・アニミズム・道教・佛教・神道・朝鮮宗教などの坩堝(るつぼ)の混在一体化・・・・・・。それが佛像による立体曼荼羅であり、護摩修行による加持祈祷でもあった。秦氏の「雑蜜」の信仰は、空海によって「純蜜」の宗教として姿を変えたのである。それはまさしく日本化であり、空海の秘密主義とは何のことだろう。私たちは八幡神を忘れていただけのことではなかったか。日本人は何もかもすべてを受け入れ、そして純化し特化しながら、「祓い」と「清め」とに集約し、そしてすべてを拒絶し日本化する習慣は古来からあったのではなかろうか。
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