有情

http://blog.buddha-osie.com/kotoba/758/ 【仏教のことば:「有情(うじょう)」】より

有情(うじょう)梵語サットヴァの訳。存在するもの、の意味です。生命を持ち、感情や意識を有するもの。一切の生きものの総称。

草木を非情とか無情というのにたいしていいます。有仏性の意味です。

仏教において、意識があったり感情を持つ全ての生き物のこと。

有情=心を持つものは、輪廻転生で下記のような三つの世界を 行ったり来たりします。そこで少しでも良い世界へ生まれ変わるようにと、死有から生有までの中有の期間、七日ごとに供養が行われるようになりました。そして七回目の四十九日が重要な供養日となり、満中陰と呼ばれます。

むしきかい無色界 物質的制約をも離れた高度に精神的な世界。

しきかい色界 婬欲と食欲をはなれた生きものが住むところ。物質的な制約が残る。

よくかい欲界 婬欲・食欲の二つの欲望をもつ生きものが住むところ。

無色界では、精神的に高度な世界なので、中有が無いといわれています。また地獄など下位の世界では、中有での存在の仕方に、それぞれ特徴があるとされています。

仏教には、この世のすべての物を「有情」と「非情」とで分ける習慣があります。

「有情」は唐の玄奘(げんじょう)三蔵が梵(ぼん)語の sattva(サットバ) を訳した言葉で、それ以前は「衆生」と訳されていました。

衆生だと、生きとし生けるもの、つまり動物だけでなく、植物も入れてしまいたくなるのだが、有情の場合はやはり動物と人間だけですが、それ以外の山川草木は、非情と呼ばれています。

「一切の有情はみな食によりて住す。」

「すべての人間は常に何かを食べることによって生きている」という意味です。

言うまでもなく、私たち人間は、様々なものを外から取り入れて生きています。

「食」には四つの種類があると説いています。

第一は、「段食」と言います。これは先に述べたような「食料」、つまり食べ物のことです。私たちがいろいろなものを食べてそれを消化したとき「食」になると言うのです。

第二は、「触食」(そくじき)と言います。

「触」とは、あるものと他のものとが接触することです。ここでは、私たちがいつも心に喜びを得るために何かと接触することを求めているという意味です。

第三は、「意志食」と言います。これはいつも自分にとって都合の良いものを求め続けることという意味です。

第四は、「識食」と言います。これは今挙げた三つの食がより多く手にはいるようにと望むことです。

私たち人間は、食べ物だけでなく心地よい刺激と自分の都合をどんどん拡大していくことを支えとして生きているのです。

ブッダは、かつて迷いのもとを断とうして極端な断食修行を実行されました。

それを放棄してスジャータの捧げた乳粥(ちちがゆ)を食べたのち、正覚を得られたのです。

正覚とは、私たち人間を支えているものを否定したところに成り立つのではないのです。だからといってそれを全面的に肯定しているわけでもありません。

ブッダの正覚が、両極端を廃した「中道」と呼ばれるのはこのようなことを指しているのです。


https://kanekotota.blogspot.com/2017/02/blog-post_33.html【『俳諧有情』対談集】より

『俳諧有情』金子兜太対談集 1988年6月 

三一書房 1200円

言葉の力 詩の心――ドナルドーキーン 

原郷としての野、フロンティアとしての原――樋口忠彦 

ひとりごころ ふたりごころ――高田 宏 

庶民のリズムー一茶をめぐって――井上ひさし 

ひと夜、夏無き、両太ぶし――飯田龍太 

肉体を賭けた季節感――佐佐木幸綱 

戦中・戦後、生き方の原点――小沢昭

あとがき 

『俳諧有情』という題はすぐ決った。じつは、この造語は栗山理一著『俳諧史』(塙書房)を読むうちに自ずから出来てきたもので、以来、私の大事なことばの一つになっていたのである。『俳諧史』の出版が昭和三十八年(一九六三)九月だったから、すでに二十五年が経つ。その間、ますますこの語に親しみこそ加われ、気持の褪せることはない。

 「俳諧」については、栗山氏が、《面正しい俳諧釈義においては一様にこの古典的解釈を踏襲している》とする、その(古典的解釈》、つまり〈『奥儀抄』に示された滑稍即俳諧の解釈内容は、「咲笑・和解」「利口諷諌」「狂」「即興」の四点に要約されるように思う。ただし、このことは俳諧をもって、「わざごと」とする解を否定するものではなく、むしろ「わざごと」の効用や機能を分析解明したと考えるべきであろう。云云を、私も今もって基本として受けとっているのである。付け加えて注日しているの は、「咲笑・和解」と十分に関わりのある「挨拶」であり、そのための約束としての「季題」である。「もじり」(本歌取の俳諧版)も大事と思う。

「諧謔」とはっきりいい加えておきたくもある。そして、「諧謔」をよくなし得る状態は、「自然 じねん」にありとも思い定めている。

 「有情」という語は、栗山氏が、芭蕉のことぱとして『あかさうし』が記す「習へといふは、物に入ってその徴の顫れて情感るや、句と成る所也」を踏まえて、《「物の微」と「情の誠」》の一章を設けて書いていた、そこで湧いたものだった。

《「物の微」はついには「情の誠」にまで変質し、高められることによって、あるいは前者が後者によって完全消化されることによって、詩的真実性が獲得されるという構造》を

説く栗山氏の行文は力強く冴えていた。私にはこの一章はいまでも忘れられないものなのだが。

この「情」を芭蕉が「こころ」と読み、「心」と書き分けていることにも気付いて、ますます引かれた。そして、万葉学者であり歌人でもある佐佐木幸綱氏の著書によって、万

葉集でもその書き分けがおこだわれていることを教えられたのだった。そこから私は、心」を「ひとりごころ」と読みかえ、「情」を「ふたりごころ」と読みかえたりして、

自分なりに噛みしめてきたのである。

 したがって、栗山氏の著書から「有情」を「うじょう」と読んで、「俳諧有情」の造語を得たあと、やがて、「情」を感情と受けとるよりも、はっきりと「ふたりごころ」と受けとるようになったのだが、いうまでもなく、「ふたりごころ」は温き感情と重なる。じょう」という読みがじつにわが意を得ているのである。

 対談集の題に、直ちにこの造語を置いたのは、私の俳句へのもとめの一環としてばかりでなく、対談そのものもまた「俳諧有情」と感じてきたためと思う。ときにやり合い、

ときに和解し、利口ぶり、狂に振舞い、即興を楽しむ。諧謔の後味。それらに情がこもっているということで、私は楽しい人だちとの対談に恵まれてきたのかもしれないのだ。

 終りになるが、三一書房の増田政巳氏の御好意に感謝し、あちこちに散らばっていたものを集め取捨して下さった可成屋主人金成博明氏に有難うと申しあげたい。

  

昭和六十三年(一九八八)初夏     金子兜太


http://www.basho.jp/senjin/s0607-2/index.html 【夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉

芭蕉 (笈日記・夏・貞享五)】より

夏にやってきても、この一つ葉という草は、まことに涼しげな一枚の葉であることだ、という意。作者の境涯である。一般的に植物というものの習いは、春に出た芽が夏にかけて茂り、秋に向けて枯れそめて冬には朽ちる。かつて、作者はほかの季節にそういう目でこの草を見ている。その事実が「夏来ても」という措辞を生んだ。その記憶が「たゞひとつ葉の一葉」という発見となった。発見とは感動のこと。作者は対象をしっかり見ている。つまり一つ葉の形状を過去の記憶と共に、自分の身体を通している。この点がわからないと、「枝葉を茂らせるほかの草木に対する、一つ葉の寂しさ」とか「一種のあわれ」を読みとる誤りをおかしてしまう。「ひとつ葉の一葉」という繰り返しを、言葉遊びなど解説して満足してしまう。一つ葉は陰湿の山野に自生するシダ類のひとつ。根茎は地中を這って密生するが、それぞれはただ一枚の葉で、冬に枯れることもない。新しい葉が生じる夏の涼しげな姿を実際にみれば、安易に「寂しさ」に収斂させることの誤りに気づくだろう。植物、つまり非情のものに、有情を見るとは、こういう句を例にして理解できるであろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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