真如の月

https://www.kyoto-art.ac.jp/t-blog/?p=94078 【【和の伝統文化コース】真如の月とは??】より

月を愛でて、歌に歌われるようになったのは、『古今和歌集』の頃からのようです。有名な在原業平も「月やあらぬ春は昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」と、月を歌に読み込んでいます。この和歌は、能『雲林院』や『井筒』にも引用されており、月は人の心に問いかけるような魅力を持ち合わせているのかもしれません。『古今和歌集』でも、「月見れば千々にものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど(古今集・巻第四秋歌上・大江千里)」と読んでいます。秋の月はどこか自分の内面と向き合うようなそんな輝きを放っているのかもしれません。また、臨床心理学者であり、ユング派分析家でもあった河合隼雄は、西洋では太陽と心を重ね合わせて観る傾向があるのに対して、日本人は月に心を重ね合わせて観る傾向があると考えました。太陽のように全てを明るみのもとに晒すのではなく、月明かりの中でひっそりと考えるような物事の考え方が、日本の文化の中で培われてきたのだと思います。また、月はいつも同じように昇る太陽とは異なり、満ちたり欠けたりしながら、その形を変えて空に昇って行きます。その姿は、仏教の諸行無常の考えと重なります。また、仏教では悟りの姿を月に見立てて、「真如の月」と言ったりもします。「真如」という言葉は、ありのままの姿、万物本体としての、永久不変の真理という意味があります。そして、「真如の月」と言った場合には、仏の教えの言葉となって、真如(永久不変の真理)によって煩悩の迷いが晴れるという意味になります。月の光は仏の慈悲の光と同じように考えられていたのかもしれませんね。

昔の人は、月の美しさを鑑賞することで、日々の悩みや迷いを晴らしていたのでしょう。現在でもお月見は各寺社などで観月祭として行われています。京都では、9月13日から15日にかけて、上賀茂神社、下鴨神社、大覚寺、松尾大社などで、観月祭が行われています。


https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/51104eb5840f93e80c770a2818179b0d【真如の月】より

        其の魂や羽黒にかへす法の月     芭 蕉

 この句、真蹟懐紙に上五「無玉や」の「無」を見せ消ちにして「其玉や」と改め、最後に「元禄二年季夏」とある。また、『蕉門録』には、天宥法印追悼の文末に掲出され、「羽黒山別当執行(べっとうしゅぎょう)追悼」と題がある。

 「法(のり)の月」は、天宥(てんゆう)の冤罪を解いて清澄ならしめる力があるもの、として生かされている。『泊船集』などの伝える「その玉を羽黒にかへせ」という形だと、法の月に向かって、亡き魂をこの山に呼びかえすように、呼びかける発想になる。はげしい熱情がよく出たもので、あるいはこれが後案かとも言われているのも、もっともである。

 なお、「無玉(なきたま)」を「其玉(そのたま)」と改めたのは、追悼文の勢いをここに生かしたものであろう。

 「羽黒」は、山形県庄内平野南東にある、標高414メートルの羽黒山。月山(がっさん)・湯殿山と共に出羽三山の一つ。1400年前に開山された全国有数の修験の山。

 「天宥法印」は、羽黒山の中興の祖と言われた傑僧で、罪を得て伊豆に流され、そこで果てた。芭蕉はその追悼文を、依頼されて書いたのであろう。

 季語は「月」で、秋季をあらわすが、この句の出来たのは六月四日ごろで夏であり、真蹟懐紙の文末に、明らかに「元禄二年季夏」とあるので、季がそぐわない。当時としては当季でないのはおかしいのだが、この月は仏法でいう真如(しんにょ)の月であるから、季に縛られなかったものと考えるのがよいかも知れない。

    「この仏法の真如の月は、その神秘な法の力で、遠流(おんる)の地に眠る

     天宥法印の亡き魂を、この羽黒の山に再び呼び戻すことであろう」

 ――無我の境に遊ぶとは、こういうことを言うのだろう。

 またまた「秋山俊也 展」に来てしまった。何とも不思議な〈俊也ワールド〉にひたりたくて。

 純真無垢な俊也君は、一瞬にして無我の境に遊ぶことが出来る人である。無心で絵を描く人である。日々の訓練(ドローイング)の積み重ねが、感性をより研ぎ澄まし、線を軽やかにし、色彩に深みを出させた。3年前の個展と比較すると、格段の進化、いや深化がある。

 心中の物を写すということが、俊也君の作品で、味わえば味わうほど特異なモノが表現されている。俊也君は、〈無心の縁〉で出合った森羅万象と、無言で語り合っているのだ。

 「くちびる」も「電信柱」も、〈無心の縁〉のままに、精いっぱい生きている。

 無心とは、いわゆる心なきことでもなければ、たんなる無邪気でもない。物をねだることでもなければ、いわゆる妄念を去ることでもない。また、言動をつくろわぬということでもない。自然(じねん)のままである。

 自然とは、因縁の法則のままに生き、生かされ、因縁の出会いを生かす生き方をいう。

 俊也君の作品は、永遠にほろびぬ生命のよろこびが、悔いなくそこに輝いている。

      一人居の部屋に「くちびる」十三夜     季 己

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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