唐招提寺

鑑眞和上に捧ぐ

血汐いま衣に凪いで御座しけり  五島高資

Dedicated to the priest Ganjin

Waves of blood

calmed in the monk's robe

as he sat          Takatoshi Goto


https://reki4.com/00382.html 【小説「天平の甍」で描かれた唐招提寺と鑑真、奈良で貴重な文化財とストーリーを知る旅】 より

奈良県奈良市にある「唐招提寺」は、唐僧であった鑑真が苦難の末に渡日し、戒律を学ぶ僧の教学の場、戒院として創建したと言われる寺院です。そしてここには「天平文化の粋」とも言われる伽藍や仏像群の数々が収蔵され、その多くが国宝や重要文化財となっています。今回は世界遺産にも登録されている奈良県の唐招提寺で、鑑真和上の思いと天平の美を知る旅へとご案内します。

天平文化の最高峰と言われる文化財が残り、世界遺産にもなった唐招提寺

奈良県奈良市五条町にある「唐招提寺(とうしょうだいじ)」。ここは奈良時代に聖武天皇の招きに応じ、苦難の末に渡日したと言われる唐僧、「鑑真(がんじん)」によって建立された、律宗の総本山となっている寺院です。唐招提寺には天平文化の最高峰とも言われる国宝や重要文化財の伽藍、仏像群が数多く収蔵され、時を越えて多くの人々に影響を与えています。そんな唐招提寺は「古都奈良の文化財」の構成寺院として、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

美しいフォルムの屋根を持つ「金堂(国宝)」は天平文化の粋ともされ、その佇まいは荘厳。また、金堂の堂内には盧舎那仏坐像と千手観音立像、薬師如来立像は国宝仏3体が配され、御影堂に配された「鑑真和上像(国宝)」は日本最古の肖像彫刻ともされ、フランスのパリや鑑真の故郷、中国の揚州でも公開されました。

日本仏教の礎を築いた鑑真と唐招提寺のストーリー

奈良時代において正式な僧侶となるためには、戒壇で授戒しなければなりませんでした。しかしその一方、当時の日本には授戒の制度が整備されていないという問題点がありました。そこで聖武天皇は、僧たちに戒律を授ける導師を唐から招請しようと考えます。

天平5年(733年)に聖武天皇の命を受けて唐へ渡った普照と栄叡は、揚州の大明寺において鑑真に出会います。そこで鑑真は日本への渡航を決意したものの、当時の渡海というのはまさに命懸け。この時は高名な僧であった鑑真の出国に反対する声も多く、鑑真の出国、渡日は難航したと言われます。

渡航を試みたある時は普照と栄叡が捕縛されてしまい、またある時は船が難破。さらに748年の渡航では嵐で船が漂流し、中国最南端の島である海南島に漂着してしまいます。加えて栄叡は病死、そして鑑真は失明するという苦難にも陥りました。これらの苦難を経てようやく、753年に6度目の渡航で鑑真は渡日に成功します。

日本に来てからの鑑真は東大寺に5年住んだ後、天平宝字3年(759年)に唐招提寺の地を与えられます。そして大僧都に任じられた鑑真は教学の場、戒院としての唐招提寺を創建しました。これらの逸話は映画にもなった井上靖の小説「天平の甍(いらか)」で知られる、鑑真和上と唐招提寺の歴史ストーリーです。

貴重な文化財の数々が残る、唐招提寺の見所を知る

唐招提寺の南大門を入り、境内の正面に見えるのが「金堂(国宝)」。この金堂は唯一奈良時代から現存するものであり、寄棟造りの正面には8本の太い円柱が並び、美しいフォルムの屋根には鴟尾(しび:魚の尾をかたどったと言われる飾り)が輝いています。

また、堂内には大きな須弥壇(しゅみだん:仏像等を安置するために一段高く設けたれた壇)があり、中央には本尊の廬舎那仏坐像、左右には千手観音立像、薬師如来立像の3体を安置するほか、本尊の手前には梵天、帝釈天立像、須弥壇の四隅には四天王立像を安置しています(いずれも国宝)。

そして金堂の背後には「講堂(国宝)」が佇みますが、これは平城宮の東朝集殿を移築したと言われ、奈良時代の宮廷建築としては極めて貴重なものとされています。こちらの堂内にも本尊の弥勒如来坐像と持国天、増長天立像(ともに重文)が安置されています。

尚、金堂と講堂の間には「鼓楼(国宝)」と「鐘楼」があり、講堂の右手には「東室、礼堂(重文)」、その後方には奈良時代の校倉造の倉庫「宝蔵」「経蔵」(ともに国宝)が佇んでいます。

境内の奥にある「御影堂(重文)」では日本最古の肖像彫刻とされる「鑑真和上坐像(国宝)」が安置され、障壁画は日本画家の東山魁夷によって描かれたものとなっています。その御影堂の右奥には「鑑真廟」が広がり、唐招提寺の境内全域が国の史跡に指定されています。

境内の西側にある戒壇

※写真は境内の西側にある戒壇。戒壇院は江戸時代に焼失しましたが、残された3段の石壇に宝塔が置かれています


https://history.kaisetsuvoice.com/Nara_Ganzin4.html 【鑑真和上(最終回)唐招提寺】より

歓迎される鑑真一行

753年12月20日、鑑真の乗った遣唐使船団の第三船は薩摩の秋麦屋浦(あきめやのうら。鹿児島県南さつま市坊津町(ぼうのつちょう)秋目(あきめ))にたどり着きました。

上陸後、鑑真以下24人は大宰府に入り、そのまま大宰府で年を越し、年明けて北九州から船出して、瀬戸内海を通って、天平勝宝6年(754)2月1日、難波津につきました。唐僧崇道と故大僧正行基の弟子・法義が鑑真らを迎え、接待しました。鑑真と同じ中国人に歓迎させたのは聖武上皇の気遣いだったでしょうか。

2月3日、河内国府に入ります。大納言藤原仲麻呂が使いをよこして歓迎しました。また多くの高僧たちが迎えにやってきて鑑真に拝謁しました。

2月4日、河内を後にした一行は竜田越を越えて大和をめざします。山道を下るにしたがって視界が開け、広々した盆地が広がって見えます。大和盆地です。平群(へぐり)の駅で一休みした後、左に法隆寺、法起寺、中宮寺などの堂塔の屋根を見ながら進んでいくと、やがて南北に走る広い街道に出ます。

推古天皇の昔、聖徳太子が開いた下つ道です。南に進むと藤原京右京と畝傍山の合間に至り、北に進むと、平城京の南の入り口、羅生門に至ります。一行は北へ向かいました。

しだいに大きく見えてくる羅生門。門の外では、聖武上皇の勅命により安宿王(やすかべおう)が使いとして鑑真らを迎え、拝みました。安宿王は長屋王の息子で、母が藤原氏であったため長屋王の息子たちの中で唯一処罰されなかった人物です。この頃は長屋王の疑いもすっかり晴れ、安宿王は正四位下にまで至っていました。

鑑真らは東大寺に案内されます。東大寺南門では平城京の僧侶や役人たちがこぞって鑑真一行を迎えました。

東大寺南大門

東大寺別当良弁(ろうべん)が鑑真一行を大仏殿に案内します。そこには、つい昨年開眼供養を終えたばかりの金銅の盧舎那仏像が鎮座していました。

「これは聖武太上天皇が天下の人々を勧誘して造られた金銅の像で、高さが50尺もあります。唐にはこれほど大きな像はありますか?」

聞かれて鑑真は、通訳を通して、「ありません」と答えたと。

良弁伝はく、「此は是れ大帝太上天皇、天下の人を引きて共に良縁を結び、この金銅像を鋳たり。座高、笏尺(しゃくじゃく)の五十尺あり」と。また問ふ、「唐中に頗(すこぶ)る此(かく)の如き大像ありや」と。延慶をして訳語せしむるに伝はく、「更に無し」と。

『大和尚伝』「延慶」は通訳の僧の名前。

以後、鑑真一行は東大寺を当面の滞在場所とします。

翌2月5日、唐の僧、道璿(どうせん)律師、インドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が慰問に訪れ、宰相・右大臣・大納言以下の役人たち100人あまりがご機嫌伺いをしました。

月が変わって三月になると、聖武上皇の勅使として吉備真備が来て、上皇のお言葉を伝えました。

「大徳和上は遠く海をわたり、この国に来られた。誠に朕の意にかなうものである。とても喜ばしい。朕が東大寺を建立して10年あまりが建つ。大仏殿の西に戒壇を建てて戒律を伝授したいと思っていた。そういう心を抱いてから、日夜忘れたことがない。。今、大徳らが遠方から来られ戒を伝えようとしている。誠に朕の意にかなっている。今後、戒を授けるることと律を伝えることは大和上に一任する」

大徳、遠く滄波を捗り、此の国に来至(きた)る。朕、先に東大寺を造り、十余年を経たり。大仏殿の西に於いて、戒壇を立てんと欲す。此の心有りてより、日夜忘れず。今、諸大徳遠(はるか)に来たり、朕が心と冥契(めいけい)す。乃ち是れ朕の感有るか。今より已後(いご)、授戒と伝律は一に大徳に任す。

『唐大和上東征伝』

その年の4月はじめ、東大寺の大仏殿前に戒を授けるための壇(戒壇)を設けました。まず聖武上皇が、ついで光明皇太后が、ついで孝謙天皇が菩薩戒を受けました。ついで430人あまりの沙弥(僧)が具足戒を受けました。これが日本発の登壇授戒です。

5月1日、天皇らが授戒した壇の土を運んで、大仏殿の西側にあらたな戒壇院を築きました。治承4年(1180)平重衡の焼き討ち、永禄10年(1567)三好・松永の兵火で焼失し、現在の戒壇院は享保18年(1733)再建されたものです。

唐招提寺

その後、鑑真は数年を東大寺で過ごし、朝廷から天武天皇第五皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の館跡(現奈良市五条町)を下されると、戒律を学ぶ僧が修行するための道場を築きました。後の唐招大寺です。

はじめ鑑真和上は役人に招かれてこの地を訪れた時、土を舐めから、弟子の僧に「この地には福がある。寺を建てるのによい」そう言ったと伝わっています。

鑑真は唐招大寺で静かに余生を過ごしました。天平宝字7年(763)の春ごろから、体調がすぐれなくなります。

この頃、鑑真の弟子の忍基(にんぎ)が夢をみました。唐招提寺の棟梁の一部が砕け散るという夢です。

(和上のお命ももう、長くはないのだ…)

そう悟った忍基は、ほかの弟子たちととももに、鑑真の坐像をこしらえました。現在、唐招提寺の御影堂に安置されている国宝「鑑真和上坐像」です。

ただし御影堂の鑑真和上像は年に数回しか御開帳されないので、向かいの開山堂に、平成25年(2013)から「御身代わり像」が安置されています。ふだんはこちらを拝む形になります。

天平宝字7年(763)5月6日、鑑真は唐招提寺の宿坊にて、西に向かい端座したまま、息を引き取りました。享年76。死んで3日経ってもまだ体温が感じられたので葬らず、後に火葬に付した時には山に香気が満ちたといいます。

唐招提寺には平城京の宮殿から移築した講堂、金堂や宝蔵…歴史的建造物の数々が、天平文化の息吹を今日に伝えています。金堂は鑑真の没後に建てられましたが、唯一現存する奈良時代の金堂です。


www.iwanichi.co.jp/2020/10/07/3389613/

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http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/hist_todaiji/hist_todaiji.html 【東大寺の歴史】より抜粋

1 東大寺創建から平安時代までの東大寺

 東大寺ができるきっかけは、*聖武天皇の時代に社会的な不安が多かったことです。聖武天皇が即位してから、地震・日食が続き、神亀5年(728)皇太子の死、天平元年(729)*長屋王の変・皇太子の死、天平9年(737)天然痘大流行、天平12年(740)*藤原広嗣の乱など災難が度重なりました。

 聖武天皇は、まず天平13年(741)に*国分寺・国分尼寺の建立の詔を出しました。数々の災難を仏教の力で消滅させて国家を守る*鎮護国家という考えから、*国分寺は金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)にもとづいて四天王を護持する寺、*国分尼寺は法華経(ほけきょう)を絶えず読経する寺としました。

 その後、天皇や貴族に華厳経(けごんきょう)を説いていた*良弁が諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立すること進言しました。天平15年(743)、これを受け入れた聖武天皇は、時の都であった*紫香楽宮(現在の滋賀県)で*大仏造立の詔を出しました。大仏は最初紫香楽宮で造られ始めましたが、都が*平城京にもどったことに伴い、新たに東大寺が造営され、その本尊として大仏が作られることとなりました。

 大仏の正式な名称は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)、良弁の説く華厳経の教理では釈迦如来と同一であり、一切万物を救済する仏とされます。この世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える仏であると考えられていました。

 その大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できないため、*行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めました。こうして大仏および大仏殿の建立にたずさわった人数と物資は以下の通りで、莫大な量にのぼりました。

材木の寄進51,590人、労働力1,665,071人、金銅の寄進372,075人、労働力514,900人

銅約241トン、練金4,187両1分4朱

 こうして、国の力を一点に集中させて天平勝宝4年(752)に完成し、*大仏開眼供養が盛大に行われました。翌年に来日した*鑑真は東大寺に戒壇院を設け、僧侶の国家的な育成にあたりました。聖武天皇の遺品も東大寺に寄進され、正倉院に収められて現在に伝わっています。

 奈良時代から平安時代にかけて、奈良の大寺院は*南都六宗(法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗)と呼ばれる教派を形成していきます。東大寺は華厳宗の中心となると同時に、「六宗兼学」を目指す、総合的な仏教学の中心となりました。*平安京に都が変わると、東大寺造営と修理を担当していた「造東大寺司」が閉鎖され、国家の特別な保護を受けなくなりましたが、黒田荘(くろだのしょう 現在の三重県名張市)に代表される多くの*荘園を営み、斉衡2年(855)の大地震で大仏の仏頭が落ちた時も直ちに修理・復元されました。

 さらに、平安後期の*信貴山縁起絵巻から、東大寺はこの世の浄土とも考えられ、信貴山を開いた妙連の母が大仏に祈りを込めて、息子の居場所を大仏が夢でお告げをして知ることができたという話も残っています。*院政の時期には、*興福寺や*延暦寺と同様に、*僧兵が都に*強訴におもむくこともありました。

 平安時代の末、*保元・平治の乱の後、平氏は*大和国を勢力下におき、平氏政権と東大寺をはじめとする*南都の寺院勢力が対立した結果、治承4年(1181)*平清盛の命を受けた*平重衡らが、南都を焼きはらいました。この火災により東大寺は、二月堂・法華堂(三月堂)・転害門・正倉院以外の主要な伽藍を失ってしまいました。

 東大寺では「天下が栄えればわが寺も栄え、天下が衰えればわが寺も衰える」と言われていました。*平家物語には、この焼き討ちを見て、民衆は平家は滅びると噂したと述べられています。

2 鎌倉時代の東大寺

 *南都焼討後、東大寺は平氏政権に逆らった罰として、荘園・所領を没収されてしまい、消失した伽藍の再建を認められませんでした。しかし、*高倉上皇や平清盛があいついで亡くなったり、*源頼朝の動きが不穏になったために、これらの処罰はすぐに撤回されました。

 その後、*後白河上皇は東大寺の被害状況を知るために使者を送りました。このとき東大寺の再建を説いたのが、*重源です。その報告を聞いた後白河上皇は、重源を大勧進に任命し、直ちに東大寺の再建に取りかかりました。重源は精力的に全国を*勧進にまわり、源頼朝の協力のもとで、大仏や諸堂の再建にあたりました。このときに再建された大仏殿や*南大門などは、建築方法が独特なもので*大仏様(だいぶつよう)と呼ばれています。

南大門正面

 そして、文治元年(1185)に大仏開眼供養、5年後の建久元年(1190)に大仏殿が完成。建久6年(1195)に落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203)に再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝が列席のもと東大寺総供養が行われました。

 この再建事業と平行して、東大寺では多くの新しい仏像が造られ、奈良の仏師の代表である*運慶・*快慶らが活躍しました。*東大寺南大門金剛力士像など、新たな時代を代表する仏教彫刻が、東大寺再建をきっかけとして生まれたことは、特筆すべきことです。

年代 出来事

1181(治承4) 南都焼討による諸堂の焼失

1181(治承4) 重源、大仏修理のための勧進を開始

1182(治承5) 大仏修理の開始

1185(文治元) 大仏開眼供養

1190(建久元) 大仏殿再建完了

1195(元禄7) 大仏殿落慶法要

1203(建仁3) 東大寺総供養

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