楊州の鑑真和尚

鑑眞和上に捧ぐ

血汐いま衣に凪いで御座しけり  五島高資

Dedicated to the priest Ganjin

Waves of blood

calmed in the monk's robe

as he sat          Takatoshi Goto

https://4travel.jp/travelogue/10538853 【楊州の鑑真和尚】 より

長江(揚子江)北岸にある揚州は、運河に囲まれた風光明媚な街。春秋時代に、呉の夫差が城を築いたことからこの街の歴史が始まり、千数百年後の唐代には、長安(西安)に次ぐ大都市といわれるほど賑わっていた街である。その後、隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。鎮江から見て長江の対岸に位置する。運河に面する商工業都市。日本の遣唐使も揚州を経由し長安に入り、空海も804年にこの地を訪れている。鑑真は揚州から日本に向けて出発した。揚州には、元の時代にはマルコポーロも滞在した。

大明寺は揚子江の北側(揚子江まで16キロ)、揚州市の西北に位置する寺。坂を上る位置にあるが、この坂は自然のもので、二万年前から南の方向へ狭くなったと説明があった。揚州は北側の高台でまず文明が栄え、南へ住居を移すようになったという。また、役所は高台にあった。

市内にある大明寺は、日本に来る前に高僧、鑑真和尚がいた寺である。失明の憂き目にあいながらも、6度目の渡航でようやく日本へたどり着いた鑑真。仏法を伝授し、後に唐招提寺を建立するなど、日本仏教界に大きな恩恵をもたらした鑑真を慕って、今も多くの日本人が訪れている。

大明寺は唐城の西にあたるため西寺ともいう。大明年間に建てられたので大明寺と名付けられた。唐代の形がのこったものは少ないそうである。大明寺の額は猪迹良の字を集字して作ったという。

創建は5世紀半ばの南北朝時代という歴史ある名刹。三尊大仏像や十八羅漢像、観音像などが納められた大雄殿や天王殿など見どころも多い。本殿(大雄宝殿)は清代のものである。

20世紀初頭の詩人、郭沫若の手による。雲南産の大理石による「唐鑑真和尚紀念碑」があり、文革の時に壊されそうになったが、鑑真を紀念した碑であるということで保存が認められ現在にいたるというエピソードが紹介された。

唐招提寺の金堂を模して建てられた記念堂。大明寺は5間。唐招提寺は7間である。この一画だけが奈良唐招提寺に似た外観の作りになっています。記念堂の奥には唐招提寺の鑑真像のレプリカが安置されていました。鑑真記念堂は現代の建築家 梁思成氏によるもの。辛亥革命で有名な梁啓超の子息である彼は万里の長城の保護者としても有名。それによると、1963年に鑑真没後

1200年を記念し設計を決定したという。

唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。「唐律招提」と名付けられ鑑和真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。

金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

木彫の鑑真坐像。だが、国禁を犯し、荒れ狂う海を渡ってまで日本へ赴こうとする僧は、誰1人としていなかった。鑑真和上(西暦688年〜763年)。大明寺境内で1963年に鑑真没後1200年を記念して日中協力の元、鑑真記念館が建設され、1973年に完成。1980年に日本から移された鑑真和上の像が置かれる。教科書でも馴染みの姿を拝むことができる。鑑真像があったが、日本から持ってきた鑑真像を参考に揚州の伝統的技術である漆塗りによって楠の木で作られたもののレプリカである。楠の像は現在、大明寺にて保存している。

記念堂には安芸郡倉橋町に作った遣唐使船の模型、第9次遣唐船が入唐したのは、天平5年(733年)のこと、栄叡と普照の二人の学僧は、大名寺の鑑真和尚に、日本へ伝戒の師を派遣してくれるよう懇願する。当時の航海技術は風まかせで中国に着く確立は非常に少なかった。

08年4月12日、来日していた中国の温家宝首相が国会で演説した。相互信頼、平等互恵、交流強化をうたった演説を、温首相はこう締めくくった。「議員の諸先生方、揚州・大明寺の鑑真記念堂に一つの石灯籠があります。これは、1980年に日本の唐招提寺の森本孝順長老が自ら送り届け、自らともしたものです。この石灯籠は日本の唐招提寺にあるもう一つの石灯籠と一組になっています。この一組の灯籠は今なお消えることなく燃え続け、

はるか遠くから互いに照り映え、中日両国人民の子々孫々にわたる友好の明るい将来を象徴しています」温首相はそう訴えて、互いに友好の努力をと呼びかけた。

森本孝順(唐招提寺の長)の碑あり。

友好の御心つたう灯に  和桜はゆる古里の寺

大明寺内に建つ塔。隋仁寿元年(西暦601年)に佛骨を納めるために建設された。大詩人李白や劉長卿、劉禹錫、白居易などもこの塔に登り、賞賛したと言われている。大明寺にある塔で、非常に良く目立ちます。元々の仏塔は、古い時代に焼失しており、現在の塔は1997年に再建されたものだそうです。焼失した仏塔には仏舎利が納められていましたが、共に焼失しており、2003年、鑑真が日本へ運んだ奈良唐招提寺に納められている仏舎利の一部が、塔の二階に安置されています。「棲霊塔」という塔は合昌3年にできた。昔は木造9層であったが、現在はセメントである。スタイルは唐代のものである。

欧陽脩を記念し、蘇東坡が作った谷林堂も見学した。六一居士と自称した欧陽脩は40過ぎで揚州に来たが、よくこの来寺し、平山堂を作る。この堂の名の由来は「揚子江の北側でもっとも高い場所であり遠くの山々と同じ高さに見える堂」「欧陽脩の高い人間性や才能を賞したもの」の2つがあるという。現存のものは清代のものである。現在は市内の建築物のためにそれほどの風景でもないようであるが、しかしながら、この高台にある堂は、当時は

なかなかの風景を楽しめたと思われる。

谷林堂

(1007-1072)廬陵の人。謚は文忠、酔翁・六一居士と号する。枢密副使、参政知事として声名が高かったばかりでなく、北宋時代の詩文革新運動の主導者として、王安石・蘇軾らの人材をその門下から出した。<br />

(1007-1072)廬陵の人。謚は文忠、酔翁・六一居士と号する。枢密副使、参政知事として声名が高かったばかりでなく、北宋時代の詩文革新運動の主導者として、王安石・蘇軾らの人材をその門下から出した。

文峯寺

古運河沿いにそびえる、高さ40mの塔。1582年に創建された八角七層の荘厳な塔です、長距離バスターミナルの近くにある。

この古運河から長江へ抜けられる。鑑真が日本へ出発したところでもある。

東門から続く主要道路であった。只今復元中です。

上級官吏が多く住んでいたようだ。

唐代には長安(西安)、洛陽、に次ぐ大きな街で城壁に囲まれていた。

表側のみで横から見ると中身がありません。

アヘン戦争の時、長江を上って来る英国軍を迎え撃った。

昔の城壁を表した模型

遺跡のみで現存していません。

「法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」と、井上靖は「天平の甍」の中で、鑑真にそう言わしめている。


https://loungecafe2004.com/historical/inoue-yasushi-tenpyou-no-iraka 【井上靖の「天平の甍」を読んだ感想とあらすじ(面白い!)】 より

昔は留学することは、まさに命がけであった。まず、渡り切ることができるか分からなかった。そして、渡りきっても帰ってくることができるかどうか分からなかった。

むしろ、帰ってこられないで、海の藻屑と消える確率の方が遥かに高かった。留学して、勉強に励み、そしてせっかく得た知識を国に帰って役立てようと思っても、その志を遂げられなかった優秀な人物がどれくらいいたことか。

奈良時代とはそうした時代であった。そういう時代の中で、本作品の主人公・普照と同僚の栄叡が成し遂げた偉業は、歴史に名を残すにふさわしいものであったろうと思う。

そして、仏教が伝来して日の浅い日本に、ちゃんとした仏教を広めたい、高僧を唐から招きたい。そんな当時の仏教界の強い意志というものが、この様な奇跡を後押ししたのだろうと思う。

鑑真の来日という事実は歴史上の一つの結果でしかない。しかし、そのことを実現するために、国としての日本が払ってきた犠牲は、国を担うはずの優秀な留学生の命と留学僧の頭脳であり、船を操っていた船員達の命である。

国はこの様な犠牲が生じるのが分かっていても遣唐使を派遣することは止めなかった。そこに国としての意思があり、覚悟が伺える。

そして、それらの重責を留学生も留学僧も分かっていたはずである。だからこそ、留学生や留学僧は運良く帰国することができたら国を支える中枢にいることができたのだろうと思う。

こういう犠牲があるのを分かってこそ、はじめて国を支えることができるものであることを再認識させてくれる小説である。

「歴史小説の周囲」の「天平の甍」に関する井上靖氏のエッセーも興味深い。

内容/あらすじ/ネタバレ

第九遣唐使派遣が決まったのは聖武天皇の天平四年(西暦七三二年)のことだった。この第九遣唐使に留学僧として普照、栄叡が選ばれた。

まだ日本には戒律が備わっておらず、適当な伝戒の師を請じて日本に戒律を施行したい。ついてはその伝戒の師を師を連れてくるようにというのが二人に課せられた仕事であった。船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という二人の留学僧も加わった。

船は波浪にもてあそばれ、船酔で苦しむものが続出した。だが、難破することなく蘇州へと漂着することができた。

一行は、そこから洛陽へと向かった。当時の朝廷は長安ではなく洛陽にあったからである。時の皇帝は玄宗であった。留学僧の四人は洛陽の大福先寺に入れられた。ようやくにして留学の生活が始まった。

ある日普照は業行という先輩留学僧に会った。業行はまだ日本にない仏典を写経しており、その数は膨大なものに上った。それらの中には密教の仏典もあった。普照が業行とあってからの後のこと。戒融が出奔した。

都が再び長安に移るにつれ、三人も長安へと移った。長安に移ってから、日本の仏教界の話が洩れ聞こえてきた。その話を聞き、栄叡は留学にあたって、戒師を連れ帰るという仕事を早く進めなければならないと思い始めた。また、業行も自身の写経がほぼ終わり、日本に教典を持ち帰りたいと思っていた。

栄叡は戒師として、名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていた。その旨を鑑真にお願いしに行くと、あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではないか。栄叡は感激してしまった。これより、栄叡は鑑真を日本へ連れて行くための準備に入る。そして普照も手伝うことになった。

だが、日本への渡航は困難を極めた。最初は出航することすらできずに失敗、そして次は船が難破してしまう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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