https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/chugokubungakunosekai.html 【中国文学の世界】より
抜粋
魚の楽しみ
『荘子』秋水篇第十七
荘子与恵子遊於濠梁之上。荘子曰「?魚出游従容。是魚楽也」。恵子曰「子非魚、安知魚之楽」。荘子曰「子非我、安知我不知魚之楽」。恵子曰「我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽、全矣」。荘子曰「請循其本。子曰『女安知魚楽』云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也」。
荘子(そうし)、恵子(けいし)と濠梁(ごうりょう)の上(ほと)りに遊ぶ。荘子曰(いは)く「?魚(ゆうぎょ)、出游(しゅつゆう)すること従容(しょうよう)たり。是(こ)れ魚の楽しみなり」と。恵子曰(いは)く「子(し)は魚に非(あら)ず、安(いづく)んぞ魚の楽しみを知らんや」と。荘子曰(いは)く「子は我に非(あら)ず、安(いづく)んぞ我の魚の楽しみを知らざることを知らんや」と。恵子曰(いは)く「我は子に非(あら)ず、固(もと)より子を知らず。子も固より魚に非(あら)ず。子の魚の楽しみを知らざること、全(まった)し」と。荘子曰(いは)く「請ふ、其の本に循(したが)はん。子の曰(い)ひて『女(なんぢ)安(いづく)んぞ魚の楽しみを知らんや』と云(い)へる者(もの)は、既已(すで)に吾(われ)の之(これ)を知るを知りて我に問へり。我は之(これ)を濠の上(ほと)りに知るなり」と。
荘子が恵子と一緒にゴウという川のほとりに遊んだ。荘子は言った。
「ハヤが自由自在に泳ぎまわっている。これが魚の楽しみなのだ」
恵子は反論した。
「君は魚ではない。魚の楽しみがわかるはずがない」
「君はぼくではない。ぼくが魚の楽しみがわからないと、君にわかるはずがない」
「ぼくは君ではないから、もちろん君のことはわからない。君ももちろん魚ではないから、君に魚の楽しみはわからないことは確実である」
「根本に返ってみよう。君はいましがた『おまえに魚の楽しみがわかるはずがない』と反論したが、それは実は、君が、他者であるぼくの知覚能力を知っているからこそ、そう推論できたわけだ。ぼくだって、ゴウの川のほとりに立って魚の楽しみを知ったわけさ」
★☆[参考]☆★ 去る昭和四十年の九月に京都で,中間子論三十周年を記念して,素粒子に関する国際会議を開いた。出席者が三十人ほどの小さな会合であった。会期中の晩餐会の席上で,上記の荘子と恵子の問答を英訳して,外国からきた物理学者たちに披露した。皆たいへん興味をもったようである。
ーー湯川秀樹(ゆかわひでき)「知魚楽」(『湯川秀樹著作集』6)
☆[考えてみよう]☆ 十四歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか。
ーー『文藝(ぶんげい)』三十七巻二号 (一九九八年夏)「緊急アンケート」
(思考時間一分)
己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は人に施(ほどこ)すこと勿(な)かれ
『論語』衛霊公(えいれいこう)第十五
子貢問曰「有一言而可以終身行之者乎」。子曰「其恕乎。己所不欲、勿施於人也」
子貢(しこう)問(と)ひて曰(いは)く「一言(いちごん)にして以(もっ)て終身之(これ)を行(おこな)ふべき者(もの)有(あ)りや」と。子(し)の曰(のたま)はく「其(そ)れ恕(じょ)か。己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は、人に施(ほどこ)すこと勿(な)かれ」と。
孔子の弟子の子貢が言った。「たった一言(ひとこと)で言えて、しかも死ぬまで実践できるような黄金律(おうごんりつ)はあるのでしょうか」。先生は言われた。「まあ、恕(思いやり)だろうね。自分がされたくないことを他人にするな、ということだ」。
★☆[参考]☆★ 黄金律(ゴールデン・ルール)
然(さ)らば凡(すべ)て人に為(せ)られんと思(おも)ふことは、人にも亦(また)その如(ごと)くせよ。これは律法(おきて)なり、預言者(よげんしゃ)なり。
ーー『新約聖書』「マタイ伝」第七章・十二(日本聖書協会)
あるとき、非ユダヤ人が一人やってきた。(ユダヤ教の学者兼僧侶(ラビ)である)ヒレルに、「私が片足で立ち続けていられるだけの時間に、ユダヤの学問のすべてを教えよ」と言った。
そのときヒレルは、「自分がやってもらいたくないことを他人にするな」と答えた。
ーーラビ・M・トケイヤー著・加瀬英明訳
『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』講談社+α文庫
胡蝶(こちょう)の夢
『荘子』斉物論篇第二
昔者、荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与、不知周也。俄然覚、則??然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
昔(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢(ゆめ)に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みづか)ら喩(たの)しみて志(こころ)に適(かな)ふか、周たるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則(すなは)ち??然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為(な)るか、胡蝶の夢に周と為(な)るか。周と胡蝶とは、則(すなは)ち必ず分(ぶん)有(あ)らん。此(こ)れを之(こ)れ「物化(ぶっか)」と謂(い)ふ。
むかし荘周(そうしゅう)は夢に胡蝶(こちょう)となった。楽しく飛び回る胡蝶であった。心が楽しくて思い通りだったせいか、夢のなかでは自分が荘周であることを自覚しなかった。ふと目がさめると、自分はまぎれもなく荘周である。いったい荘周が夢で胡蝶となっていたのか、胡蝶が夢で荘周となっているのか。荘周と胡蝶には必ず区分があるのだろう。これを「物化」という。
★☆[参考]☆★
一日物云(ものい)はず蝶(ちょう)の影さす
ーー尾崎放哉(おざき ほうさい)(一八八五―一九二六)
☆[考えてみよう]☆ 私たちは自分の体さえ思いどおりにできません(もし思い通りにできるなら、肥満や病気や老化で苦しむことはありません)。そう考えると、自分の体は自分の所有物であると、本当に言えるのでしょうか?(思考時間三分)
汝(なんぢ)の身(み)すら汝の有(ゆう)に非(あら)ざるなり
『荘子』知北遊篇第二十二
舜問乎丞曰「道可得而有乎」。曰「汝身非汝有也。汝何得有夫天道」。舜曰「吾身非吾有也、孰有之哉」。曰「是天地之委形也(下略)」。
舜(しゅん)、丞(じょう)に問(と)ひて曰(いは)く「道(みち)は得(え)て有(ゆう)すべきや」と。曰く「汝の身すら汝の有に非ざるなり。汝、何(なん)ぞ夫(か)の天道を有するを得んや」と。舜曰く「吾(わ)が身、吾が有に非ざれば、孰(たれ)か之(これ)を有するや」と。曰く「是(こ)れ天地の委形(いけい)なり(下略)」と。
舜が丞に質問した。「道を自分のものとできるでしょうか」。丞が答えて「おまえの体さえ、実はおまえのものではないのだ。どうして、自然の道などというものを自分のものにできようか。できはしない」と言うと、舜は「自分の体が自分のものでない、とすると、自分の体は誰のものなのでしょうか?」と質問した。丞は「大自然からの預かりものだよ」と答えた。
★☆[参考]☆★ 星新一(ほししんいち)(一九二六ー九七)の短編小説より。
未来の病院。交通事故に会い重体となった男が運びこまれる。男は目を覚ます。ぼんやりとした明るさがあるだけで、目の焦点(しょうてん)がさだまらない。ただ女医(じょい)の呼びかけの声だけが聞こえる。
男は足の裏がかゆいので、女医に「かいてくれ」と頼む。女医は気の毒そうに「実はあなたの足はもうありません」と答える。男はショックを受けるが、気をとりなおし、「腹(はら)が痛い」と訴える。女医は「実はあなたのお腹(なか)もありません」と打ち明ける。男はびっくりし、心臓がどきどきし、頭に血がのぼり、「こめかみが痛む」と訴える。女医はためらったあと、真実を打ち明ける。
「あなたの体はもうありません。あなたの脳だけを取り出し、培養液のなかに浮かべ、電線で装置につないで意志疎通(いしそつう)をしているのです」
男は覚悟を決め、最後の質問をする。
「おれは生きているのだろうか? それとも、生きているような気がしているだけなのだろうか?」
女医は考えたあと、衝撃的な回答を口にする。ーー
さて、もしあなたがこの女医だったら、どう答えますか?(女医の答えは、星新一『これからの出来事』新潮文庫をご覧下さい)
☆[考えてみよう]☆ 聞く人が誰もいない森のなかで木が倒れたら、音はするのでしょうか?(思考時間三分)
非風非幡(ひふうひはん)
『無門関』
六祖、因風??幡。有二僧、對論。一云「幡動」。一云「風動」。往復曾未契理。祖云「不是風動、不是幡動。仁者心動」。二僧悚然。
六祖(りくそ)、因(ちな)みに風?幡(せっぱん)を?(あ)ぐ。二僧(にそう)有り、対論す。一(いつ)は云(いは)く「幡(はた)動く」と。一(いつ)は云(いは)く「風動く」と。往復し曽(かっ)て未(いま)だ理(り)に契(かな)はず。祖(そ)云(いは)く「是(こ)れ風動くにあらず、是れ幡(はた)動くにあらず。仁者(にんじゃ)の心動くなり」と。二僧悚然(しょうぜん)たり。
六祖(禅宗第六代目)の慧能(えのう)が、まだ本当の身分を隠していたとき、広州(こうしゅう)の寺に行った。
寺ではちょうど説法(せっぽう)(仏の教えの講習会)の最中で、説法を告げる幡(はた)が風にパタパタとはためいていた。それを見ていた二人の僧が、「因果(いんが)」について論争をはじめた。「あれは幡が動いているのだ」。「いや、風が動いているのだ」。堂々巡りで決着が着かなかった。六祖(りくそ)が脇から言った。
「風が動いているのでも、幡が動いているのでもありません。おふたりの心が動いているのです」
二人の僧は、ゾッと鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。
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右の他、「補充教材」七五頁以下(ここ)も参照のこと。
この章の自分での納得度・・・ ○ △ ×
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○ 言葉(ロゴス)の限界 ○
ーー自分と他人はどこまでわかりあえるのでしょうか?
☆[考えてみよう]☆ 「キティちゃん」には、なぜ口がないのでしょう?(思考時間五分)
渾沌(こんとん)、七竅(しちきょう)に死す
『荘子』応帝王篇第七
南海之帝為?、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。?与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。?与忽、謀報渾沌之徳、曰「人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之」。日鑿一竅、七日而渾沌死。
南海(なんかい)の帝(てい)を?(しゅく)と為(な)し、北海(ほっかい)の帝を忽(こつ)と為(な)し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為(な)す。?と忽と、時に相(あひ)与(とも)に渾沌の地に遇(あ)ふ。渾沌、之(これ)を待(たい)すること甚(はなは)だ善(よ)し。?と忽と、渾沌の徳に報(むく)いんことを謀(はか)りて曰(いは)く「人皆七竅(しちきょう)有りて、以(もっ)て視聴食息(しちょうそくしょく)す。此(こ)れ独(ひと)り有る無し。嘗試(こころみ)に之(これ)を鑿(うが)たん」と。日(ひ)に一竅(いっきょう)を鑿つに、七日(なぬか)にして渾沌死せり。
南海の帝を倏(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。倏と忽はときどき渾沌の地で会った。渾沌のもてなしはとても行き届いていた。倏と忽は渾沌にお礼をしようと思い、相談して言った。
「人間の顔には目耳鼻口に七つの穴があり、それで視聴飲食しているが、彼にだけは無い。ためしに穴をあけてあげよう」
一日にひとつずつ穴をあけていったところ、七日目に渾沌は死んだ。
☆[考えてみよう]☆ 生まれつき嗅覚(きゅうかく)障害をもち、いままで一度も「におい」を体験したことのない人から「においって、どんな感覚なの? 鼻のなかに味がわいてくるの?」と質問されたら、あなたは言葉でどう説明しますか?(思考時間五分)
古人の糟粕(そうはく)
『荘子』天道篇第十三
桓公読書於堂上。輪扁?輪於堂下。釈椎鑿而上、問桓公曰「敢問公之所読為何言邪」。公曰「聖人之言也」。曰「聖人在乎」。公曰「已死矣」。曰「然則君之所読者、古人之糟魄已夫」。桓公曰「寡人読書、輪人安得議乎。有説則可、無説則死」。輪扁曰「臣也、以臣之事観之。?輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手、而応於心、口不能言、有数存焉於其間。臣不能以喩臣之子、臣之子亦不能受之於臣。是以行年七十而老?輪。古之人与其不可伝也、死矣。然則君之所読者、古人之糟魄已夫」。
桓公(かんこう)、書を堂上(どうじょう)に読む。輪扁(りんぺん)、輪(りん)を堂下(どうか)に?(けづ)る。椎鑿(ついさく)を釈(す)てて上(のぼ)り、桓公に問ひて曰(いは)く「敢(あへ)て問ふ、公(こう)の読む所、何(なん)の言(げん)と為(な)すや」と。公曰(いは)く「聖人(せいじん)の言なり」と。曰(いは)く「聖人在(あ)りや」と。公曰(いは)く「已(すで)に死せり」と。曰(いは)く「然(しか)らば則(すなは)ち、君の読む所の者(もの)は、古人(こじん)の糟魄(そうはく)(糟粕)のみ」と。桓公曰(いは)く「寡人(かじん)書(しょ)を読むに、輪人(りんじん)安(いづく)んぞ議するを得んや。説(せつ)有(あ)らば則(すなは)ち可なり、説無くんば則(すなは)ち死せん」と。輪扁曰(いは)く「臣(しん)や、臣の事を以(もっ)て之(これ)を観(み)る。輪を?(けづ)るに、徐(じょ)ならば則(すなは)ち甘(あま)くして固(かた)からず、疾(しつ)ならば則(すなは)ち苦にして入(い)らず。徐ならず疾ならず、之(これ)を手に得て心に応ずるも、口もて言ふ能(あた)はず、数(すう)の其(そ)の間(かん)に存する有り。臣は以(もっ)て臣の子(こ)に喩(さと)すこと能(あた)はず、臣の子も亦(ま)た之(これ)を臣より受くること能(あた)はず。是(ここ)を以(もっ)て行年(こうねん)七十なるも老いて輪を?(けづ)る。古(いにしへ)の人と其(そ)の伝ふべからざるものと、死せり。然(しか)らば則(すなは)ち、君の読む所の者(もの)は、古人の糟魄(そうはく)のみ」と。
斉(せい)の桓公(かんこう)が、建物のなかで読書をしていた。建物の外の地面では、輪扁(りんぺん)という職人が木を削って車輪を作っていた。彼は木槌(きづち)とノミを置くと、建物にあがり、桓公にたずねた。
「おそれながらお尋ねします。殿様が読んでおられるのは、何ですか」
「聖人の言葉である」
「聖人は、生きていますか」
「とっくに亡くなった」
「そういうことなら、殿がお読みなのは、古人の残りかす、ということですね」
「余の読書について、車輪を作る職人ふぜいが議論するとは、ふとどきであるぞ。なにか説明があればよし、さもなくばそちを死刑にする」
「私めは、自分の経験からそう思うのでございます。木を削って車輪を作るとき、少しゆるいとガタガタしてしまい、少しきついとピタリとはめ込めません。この、ゆるさときつさの微妙な手加減は、手や心では感じられますが、口では表現できませぬ。言葉で言えぬところに、コツがあるのです。私めは自分の息子にコツを口で伝えることができず、息子も私から教わることができません。こういうわけで、私めは今年で七十歳にもなるというのに、いまだに現役で、車輪を作らねばならぬのでございます。いにしえの聖人は、言葉では伝えられぬものといっしょに、とっくにお亡くなりです。ということで、殿がお読みになっているのは古人の残りかすに他ならぬ、と申しあげたのでございます」
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右の他、「補充教材」七六頁以下(ここ)も参照のこと。
この章の自分での納得度・・・ ○ △ ×
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