http://kokusanlife.blogspot.com/2016/03/blog-post_45.html 【松尾芭蕉と旅】
松尾芭蕉は、旅の人である。東北を中心に、関西までその足を進めている。
しかも、一鉢一杖、一所不在、正に世捨て人のなりわいの如くであったとのこと。
松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?
私自身の旅への強い想いもあり、「おくのほそ道」「野ざらし紀行」等からその一端を掴みたい。
1)「おくのほそ道」より
まずは、「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎ゆる者は、日々旅して、旅を棲とす。古人も多く旅に死せるあり。
予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思いやまず、海浜をさすらいて、、、、」。
この旅に出る根本動悸について書き出している。松尾芭蕉の旅の哲学がそこにある。
旅の中に、生涯を送り、旅に死ぬことは、宇宙の根本原理に基づく最も純粋な生き方であり、最も純粋なことばである詩は、最も、純粋な生き方の中から生まれる。多くの風雅な先人たちは、いずれその生を旅の途中に終えている。
旅は、また、松尾芭蕉にとって、自身の哲学の実践と同時に、のれがたい宿命でもあった。
「予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思いやまず、海浜をさすらいて、、、、」とあるが、旅にとり付かれた己の人生に対する自嘲の念でもある。
また、唐津順三も、「日本の心」での指摘では、「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋に
つながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定なものがあった。
「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を極めて、「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった,はずである。
野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を見出したという自信を持った。松尾芭蕉としての気概がここにある。
2)「野ざらし紀行」より、
貞享元年(1684)8月、松尾芭蕉は初めての旅に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。
「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。
「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
この発句で、松尾芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたにちがいない。
「野ざらし紀行」は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。
この旅で松尾芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。まるで魔法のように身につけた。
例えば 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり 秋風や薮も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸 春なれや名もなき山の薄霞 水とりや氷の僧の沓(くつ)の音 山路来てなにやらゆかしすみれ草 辛崎の松は花より朧にて
海くれて鴨のこゑほのかに白し
とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」
「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」
の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。
そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。
しかし、ここで注目しなければならないのは、これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったという。
例えば、劇的な例もある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これを初案・後案・成案の順に見ていくと、
(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
(後)何となく 何やら床し すみれ草
(成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<
このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、
奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。いや、頂点にのぼりつめていく。これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。
それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの
速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。
http://koten.kaisetsuvoice.com/Nozarashi/11Nara.html 【野ざらし紀行】
一番気になるのは、松尾芭蕉が、このような長旅と困難なことを実行したのか?
彼にとって、旅とはその人生にどんな意味を持つのか?これは、以下にる唐木順三の指摘が納得できる。
旅した地域が東北中心でもあり、原点回帰の場所選定には、少し少ないが、「野ざらし」紀行ほかでも、関西に出向いている。また、その最終の地は、大垣でもある。
これから旅する私にとっても、彼の想いと行動は、極めて有益と思う。
まずは、その序文にヒントありか?
芭蕉の著作中で最も著名なおくの細道
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。
しかし、唐津順三の指摘は、「竿の小文(おいのこぶみ)」「幻住庵記」にある「この一筋」、様々な人生経路や彷徨の後、「終に無能無才にしてこの一筋につながる」として選び取った俳諧の画風に己が生きる道を見出しながらも、その己における在り方には、まだ不安定なものがあった。「野ざらし」以後の「旅」の理念、日本の伝統的詩精神を極めて「旅」こそ詩人の在り方と心に誓い、一鉢一杖、一所不在、尊敬する西行の庵生活すらなお束の間の一所定住ではないかと思いつめた旅人芭蕉にも、ふいと心をかすめる片雲があった。
野ざらしを心にして旅に出て以来、殊に大垣を経て名古屋に入るとき、己が破れ笠、よれよれの紙衣を見て、「侘つくしたる侘人、われさえ哀れに覚えける」と言って、「狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな」の字余りの句を得て以来、芭蕉は、つねにおのが「狂気の世界」を見出したという自信を持った。
こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。
この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。これも、いよいよ「和」の位をとった。『野ざらし紀行』(甲子吟行)では「貞享甲子秋八月、江上の破屋を立ちいづるほど、風の声そぞろ寒げ也」と綴って、この句を添えている。 どこか思いつめたものがある。
「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。
のちに加藤楸邨が「かなしび」をめがけたことがあったものだが、そういう感覚に近い。 この句はよほどの自信作であったろう。
「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。
しかも、そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそうになってきたということである。
この句において、芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたにちがいない。けっして奢ることのない人ではあったけれど、おそらくこの「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させたはずである。
舟で雄島へ向かう芭蕉と曾良 蕪村筆「奥の細道画巻」より 「発句の事は行きて帰る心の味はひなり」
野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。
ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。まるで魔法のように身につけた。
たとえば――。
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり 秋風や薮も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸 春なれや名もなき山の薄霞
水とりや氷の僧の沓(くつ)の音 山路来てなにやらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて 海くれて鴨のこゑほのかに白し
これらの句には、突然に芭蕉が凛然と屹立しているといってよい。
その変貌は驚くばかりだ。とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら
魚しろきこと一寸」
「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。
そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。
「野ざらしを」の句のリーディング・フレーズはみごとに役割をはたしたのだ。
しかし、ここで注目しなければならないことがある。それは、
これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったということだ。いよいよ今夜の本題に入ることになるが、芭蕉はこの旅で推敲編集の佳境に一気に入っていったのだ。
どういう推敲だったかというと、たとえば「道のべの木槿は馬にくはれけり」は、最初は「道野辺の木槿は馬の喰ひけり」や「道野辺の木槿は馬に喰れたり」だった。また、「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」は「雪薄し白魚しろき事一寸」だったのである。
「雪薄し白魚しろき」では、重畳になる。つまらない。そこで、白魚から薄雪を去らせて、白さを冴えさせる。芭蕉は推敲のなかで、こうした編集技法を次々に発見していったのだった。
もっと劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。
これを初案・後案・成案の順に見てもらいたい。
(初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
(後)何となく 何やら床し すみれ草
(成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<
初案と後案の句は、どうしようもないほどの体たらくになっている。
「何とはなしになにやら床し」では、俳諧にさえなってはいない。
これなら今日ですら俳句を齧った者なら、ごく初歩のころに作る句であろう。 むろん芭蕉としては、道端の菫があまりに可憐でゆかしいことを、ただそれだけをなんとかしたかったのである。
『野ざらし紀行』によると、伏見から大津に至った道すがらのことだった。
けれどもその場では言葉を探しきれなかった。それでともかくは書き留めておいたのだろう。
そこでのちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入である。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。
芭蕉の歩く姿がふわっと浮上した。そして、そのぶん、路傍の一点の菫色(きんしょく)があっというまに深まったのだ。こうした推敲編集のこと、このあとでも紹介したい。
「品川を踏み出したらば、大津まで滞りなく歩め」
ところで、なぜ芭蕉は9カ月ものあいだを旅の途上においたのか。やっと江戸に出てきて、漢詩を離れたばかりなのである。いくら西行の風雅に気がついたとはいえ、この9カ月は長い。
しかし、ぼくはしばしば思ってきたのだが、この時間の採り方がつねに芭蕉をつくっているのではないかということである。
このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。いや、頂点にのぼりつめていく。
どうも、ここには決断的算定ともいうべきものがある。自身に課す習練のパフォーマンスが星座が形をなしていくように、勘定できている。
俳諧をめぐるエディトリアル・エクササイズというものが見えている。
そのパフォーマンスがどうしたら自分の目に、耳に、口に、手について、その後に化学反応のような「俳句という言葉」に昇華していくかが、見えている。、、、、、、、
いったい芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって、何に近づきたかったのか。
発句を自立させ、俳諧を一句の俳句として高みに達するようにすることとは、何だったのか。
それを感じること、また、それを感じさせることが、まさに芭蕉が追求したことだった。
これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。
このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきことでもあろう。ぼくははっきりとそう言いたい。
しかしながらそれをさて、「わび」「さび」というか、「ほそみ」「かろみ」というかどうかは、まだ芭蕉も自覚していない。
けれども芭蕉は、もはや「姿」は「形」がつくるもので、「形」は「誰やら」がつくるものであり、「誰やら」は「今朝」が育むものであることであって、それが「春の姿」という面影であるということを、アルベルト・ジャコメッティとまったく同様の確信をもって、その心の中央に楔のごとく打ちこんだのであった。
「格に入り、格に出てはじめて、自在を得べし」
貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けた。その貞享5年は元禄元年にあたっている。
芭蕉は45歳になっていた。
笈の小文の旅をそのまま更科紀行にのばした芭蕉が、岐阜・鳴海・熱田をへて8月に更科の月見をしたのちに、江戸の芭蕉庵(この芭蕉庵は火災ののちに2度目に組んだもの)に戻ってきて、後の月見を開いたのは9月のことである。
それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。
あらかじめ芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲っているし、「菰かぶるべき心がけにて御座候」と言って、乞食(こつじき)行脚を心に期していたふしもある。
そうなのだ。ぼくはこの紀行はまさに乞食行だと思っているのである。
なぜそう思ったのか、ずいぶん以前に『笈の小文』を読んだときのことになるのだが、芭蕉が伊勢に参宮したおりに「増賀の信をかなしむ」と前書きして、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだことが、心に響いたのだ。
(略)
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