菩提(ぼだい)と菩提心

https://ameblo.jp/nanzanbou/entry-12288945516.html 【芭蕉と高野山】より

普賢院 芭蕉堂には、松尾芭蕉の尊像と位牌を祀っています。なぜに、芭蕉を祀るのかと思われることでしょう。それは、かつて高野山 小田原にあった中島坊の後の報恩院が芭蕉の主君である伊賀 藤堂家の菩提寺でありました。城代 藤堂新七郎良精の子である良忠(1642~1666)は、俳号を蝉吟(せんぎん)といい、二つ年下の芭蕉は少年時代から小姓として召使われて共に遊学したといいます。しかし、生まれつき病弱な蝉吟は25歳の若さで亡くなり、その菩提を弔うために芭蕉を高野山の報恩院へ使者として向かわせました。

その時の住職が立盛(りゅうじょう)で芭蕉に大きな影響を与えたといわれます。

生涯に三度高野山へ登ったといわれる芭蕉は、主君蝉吟と亡き両親を高野山で心ゆくまで弔い、奥之院へ拝した時にかの有名な句「父母のしきりに恋しきじのこえ」を詠みました。

時代は明治維新を迎え、中島坊報恩院は普賢院と合併して現在の中島坊普賢院となり、自らも俳人であり高浜虚子らと親交のあった住職 森寛紹僧正(俳号 白象)が芭蕉所縁の地に芭蕉堂を建立しました。

参考『芭蕉と高野山』高野山 普賢院 蔵版

芭蕉堂には、訪れた参詣者が自由に俳句や歌を書き込める和綴じの帳面があります。昭和34年から置き始めた一冊500ページの句帳は現在50冊を超えているそうです。みなさんも高野山参詣の際は、一句いかがでしょうか⁉︎


上記事は♫ラジオ寺子屋・高野山♫ 南山坊のブログ よりコピーさせていただきました。ここでは「菩提を弔うため」と記されていますが・・・


https://true-buddhism.com/practice/bodhi/ 【菩提(ぼだい)と菩提心】 より

「菩提」とは、「ぼだい」と読みます。

よく「菩提を弔う」と言いますが、これは仏教の使い方ではありません。

では「菩提」とは一体どんな意味なのでしょうか。

そして「菩提」に心をつけた「菩提心」とは何なのでしょうか?

菩提の意味

菩提とは、仏のさとりのことです。『阿弥陀経』などに出てくる「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の略です。「阿耨菩提(あのくぼだい)」ともいいます。これは、仏教で教えられる52のさとりの中でも、最高のさとりである仏のさとりす。

よく、亡くなった方の冥福を祈ったり、何かお供えして供養することを「菩提を弔う」といいます。

これは、死んだら仏になれると思っている人が使いますが、仏教では死にさえすれば仏になれるわけではありませんので、この使い方は仏教では間違いです。

地球上で仏のさとりを開かれたのは、世界の四大聖人、三大聖人といってもトップにあげられるお釈迦さまただ一人です。

ですから「釈迦の前に仏なし 釈迦の後に仏なし」といわれます。

その大宇宙最高のさとりを「菩提」といわれるのです。

菩提心とは?

次に「菩提」に「心」をつけた「菩提心」とはどんな意味でしょうか?

菩提は仏のさとりですので、仏のさとりを求める心です。

仏のさとりというのは、本当の幸福ですので、本当の幸福を求める心ともいえます。

この世の幸せがはかなく、続かないことが知らされて、どこかに変わらない幸せはないかと求める心が菩提心です。

また、本当の生きる目的を知りたい、達成したいと思う心も菩提心です。

毎日が同じことの繰り返しで、しかも苦しいことばかりだと

「何のために生きているのだろう」

「自分の人生はこんなものなのだろうか」

「今のまま行くと後悔するのではないだろうか」

という内なる心の呼びかけが聞こえてきます。

そして「本当の生きる目的は何なのだろうか?」

という心が起きるのです。

そして、本当の幸せや、人生の目的は、仏教にしか教えられていませんので、菩提心というのは「仏教を聞きたい」という聞法心です。

菩提心をおこす

このように、「本当の幸せになりたい」「本当の生きる目的を知りたい」

「仏教を聞きたい」という心をおこすことを、「菩提心をおこす」と言います。

ところが私たちは迷いが深いので、普通、苦しいことが次々起きても、問題を解決して苦しみから逃れたいと思うだけで、「なぜ生きているのだろう?」とか、「苦しみを根本的に解決したい」とは思いません。

変わらない幸せがあるとも思っていません。それなのに、菩提心が起きるのはどうしてなのでしょうか?

なぜ菩提心がおきるのか

「袖触れ合うも多生の縁」といわれるように、仏教では、結果には必ず因と縁があります。

「多生」とは、生まれ変わり死に変わり、輪廻転生してきたたくさんの生ということですから、「袖が触れ合う」というちょっとした結果も、遠い過去世からの因縁があるのだということです。

ましてや菩提心をおこすというのは、袖が触れ合うとは比較にならない大変なことですので、ちょっとやそっとで起きることではありません。

菩提心が起きるのは、頭の善し悪しとか、職業や年齢、人生経験とは関係ありません。

かなり年が行っても、起きない人は起きませんし、まだ子供でも、起きる人は起きるのです。

それはなぜかというと、遠い過去世から私たちをご覧になられた仏さまが、「本当の生きる目的を知らず、一時的な幸せばかりに目を奪われて苦しんでいる。

かわいそうだ、何とか救ってやりたい」と思われて「菩提心をおこさせてみせる」という誓いを立てられたのです。

その絶大な念力に引っ張られ、お育てにあずかった深い仏縁があって、初めておきるのが菩提心なのです。

ですから、何億年、何兆年、果てしなく遠い過去から仏法を聞いてきて、約1400年前の中国の善導大師は、このように教えられています。

「過去已曽 修習此法 今得重聞 即生歓喜」「過去」というのは、善導大師の過去世です。「過去にすでにかつて、此の法を修習してきた」ということは、過去世に仏教を聞いてきたということです。ですが、救われずに死んでしまったのです。

そして、生まれ変わり死に変わり、長い間、お育てにあずかってきたのです。

そのように重ねて重ねて仏教を聞いてきて、「今重ねて聞くことを得て、即ち歓喜を生ずる」千年や一億年の話とは違います。

遠い過去世からの深い仏縁があって、今生に本当の仏教を聞いて、絶対変わらない絶対の幸福に救われた、ということです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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