奥の院の参道に立つ芭蕉の句碑

https://www.koyasan-u.ac.jp/library/publications/tosyokandayori/pdf/dayori82.pdf 【奥の院の参道に立つ芭蕉の句碑】 高野山大学教授 図書館長 下西 忠 より

俳聖松尾芭蕉は、貞享五年(一六八八)『笈の小文』の旅の途中、高野に詣でました。芭蕉は旅を好み、しばしば旅をするとともに、文章にも強い興味をもっていて、多くのすぐれた紀行文を残しました。『笈の小文』もその一つです。二月十八日に亡父の三十三回忌法要をすませ、三月十九日門人杜国を同伴し、伊賀上野を出発、吉野など大和国を巡歴し、高野山を参詣しました。高野については同書では、

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声  ちる花にたぶさはづかし奥の院  万菊

しか載せていないが、芭蕉は「高野登山端書」と呼ばれている一文を残しています。万菊とは杜国のことです。芭蕉の俳文の妙味を味わっていただきたいので、あえて原文でしめしておきます。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈消る時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、御 庿びょうを心しづかにをがみ、骨堂のあたりに 彳たたずみて、倩おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの 集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおも ひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、父母のしきりに恋しきじ雉の声

納骨の場としての高野の特性がよく出ていると思います。

句の意味は、慈愛をうけた亡き父母のことがしきりに思われることだ。昔から雉は子を思う鳥とされている。そういえば行基菩薩が、山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふと詠んだ、その雉の声を聞くと一層父母のことが恋しく思われることよ、となると思います。季語は「雉」で春。

山桜いづくにおはす父母ぞ 読人知らず

句碑は安永四年(一七七五)十月十二日に建てられました。この句碑の建立者は、紀州の日高郡御坊村の塩路沂風で、後に義仲寺無名庵六世になった俳人である。もちろん、義仲寺は滋賀県にある寺で、朝日将軍源義仲の菩提を弔うために建立されたものです。なお、芭蕉のお墓は、彼の遺言によってこの義仲寺にあります。なぜ芭蕉は源義仲を慕ったのであろうか。

木曽殿と背中合はする夜寒かな 又玄


https://gururinkansai.com/basyokuhi.html 【芭蕉句碑】 より

芭蕉句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。

松尾芭蕉(1644-1694)が、記した俳諧紀行「笈(おい)の小文」の中で詠んだ次の俳句で、池大雅の字で刻まれている。

ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声

芭蕉は、貞享4年(1687)江戸をたち、郷里伊賀上野、伊勢神宮、吉野を経て高野山に参詣した。

郷里伊賀上野では、貞享5年2月18日に亡き父の三十三回忌法要を済ませた。

父は芭蕉十三歳の時に、また母は芭蕉四十歳の時に他界している。

その後、和歌の浦、奈良、明石までの旅を「笈の小文」としてまとめ、宝永6年(1709)に出版された。

旅中の54句が納められており、高野山について次の2句が載せられている。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の声

ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊(芭蕉門人の杜国)

また、「枇杷園随筆」所載の高野登山端書では、芭蕉は次のように記している。

高野のおくにのぼれば、霊場さかんにして、法の燈きゆる時なく、坊舎地をしめ、仏閣甍をならべ、

一印頓成の春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて、

御廟を心しづかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたずみ)て、倩(つらつら)おもふやうあり。

此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、

此内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとゞめて、

父母のしきりに恋し雉の声

芭蕉は、雉の声に亡き父母への思慕の情をかきたてられ、この句を詠んだ。季語は雉で春である。

芭蕉句碑は、紀伊名所図会で、「芭蕉墓(づか)」と紹介され、碑の裏面には、次の碑陰銘が記されている。(高野山詩歌句碑攷)

      雉子塚の銘

ほろ々と。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。

おもひしたへる。いにしへの。良辨のかの。ふるうたに。かよふ心の。十(とお)あまり。

なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ(弓)。紀の高野(たかの)なる。法の月。

雪にさらして。すゑの世も。朽ちぬためしを。この國に。この道したふ。沂風(そふう)てふ。

人のまことを。かきぞとどむる。右 東武 雪中菴蓼太

     安永四乙未年十月十二日

この俳句は、行基が高野山で詠んだと伝えられる次の歌を踏まえたものと言われている。

「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ 母かとぞおもふ」(玉葉和歌集)

良辨僧都は、「ほろほろと鳴は山田の雉子の聲 父にやあらん母にやあらむ」と詠んでいる。

撰文を記した雪中菴蓼太(大島蓼太)は、江戸時代中期の俳人で、天明期の俳諧中興に尽くした。

句碑の台石には、次のように刻されている。

  宿坊 

  金剛頂院

  南紀日高郡御坊邑

  鹽路沂風

     建之

この芭蕉句碑は安永四年(1775)に、紀州日高郡御坊村の塩路沂風によって建立された。

塩路沂風は、後に滋賀県義仲寺無名庵六世になった俳人である。芭蕉の墓は義仲寺(滋賀県大津市)にある。

高野山奥の院中の橋西にある市川団十郎供養句碑には、「雉子啼や 翁の仰せ 有る通り」と詠まれている。

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