http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
1692年 園女、夫と大坂に移住し、西鶴・来山らと交わり、雑俳点者としても活躍した。
史邦致仕する。
「野ざらし紀行画巻」(甲子吟行画巻)作成される。
其角編「雑談集」
「罌粟合」嵐蘭撰
1693年 元禄6年
(癸酉) 50歳 歳旦吟
年年や猿にきせたる猿の面 (真蹟懐紙)(俳諧薦獅子集)
(都留市博物館)
奥の細道行脚之図
芭蕉と門人河合曽良が描かれている。許六が描く。現存する芭蕉像はほとんどが芭蕉没後に描かれたものだが本画像は芭蕉生前の作品として残された。
正月12日 許六宛書簡
正月20日 木因宛書簡
春もややけしきととのふ月と梅
1月中旬 許六亭を訪れて4,5日逗留。
1月下旬 洒堂芭蕉庵を辞し、上方へ帰る。酒堂、「俳諧深川」刊行洒堂は大坂に依拠し、俳諧師として門戸を構えたが、同地の之道と門葉獲得の確執を生じ、仲裁を図った師の臨終・葬儀にも姿を見せなかった。
正月27日 小川の尼(羽紅尼)宛書簡
こんにゃくにけふはうりかつ若菜哉 (俳諧薦獅子集)
春 不玉独吟歌仙に評を加える。
春 不玉宛芭蕉書簡「近年武府之風雅分々散々、適々邪路の輩も相見え」
2月8日 曲水に金子(1両2分)の借用申し入れの手紙を書く。
3月 桃印の病状小康中も、20日ころより重体。
3月中旬 芭蕉は許六に「俳諧新式極秘伝集」「俳諧新新式」「大秘伝白砂人集」の三伝書を与える。
3月20日
前後 森川去六(五介)宛書簡
3月中旬末 芭蕉が格別の愛情を注いでいた甥の猶子桃印が芭蕉庵で病死する。享年33歳。物・心ともに芭蕉を労することがはなはだしかった。
3月29日~
4月3,4日 許六亭に逗留。
4月29日 宮崎荊口(太左衛門)宛書簡
ほととぎす声横たふや水の上 (藤の実)(荊口宛真蹟
書簡)
ほととぎす声や横ふ水の上 (荊口宛真蹟書簡)
一声の江に横たふやほととぎす (荊口宛真蹟書簡)
書簡には三つの句形を併記。いずれをよしとするかに迷い、沾徳・素堂の意見に従って成案を決めた次第を述べている。
4月末 帰国を控えた許六のため『柴門の辞』を草す。
許六が木曽路に赴くとき
旅人の心にも似よ椎の花 (続猿蓑)
木曽路を経て旧里に帰る人は、森川氏許六と云ふ。古より風雅に情ある人々は後に笈を懸け、草鞋に足をいため、破れ笠に霜露を厭うて、己が心を責めて物の実を知る事を喜べり。今、仕官公けのためには長剣を腰にはさみ、乗懸の後に鑓を持たせ、徒歩若党の黒き羽織の裳裾は風に翻へしたるありさま、この人の本意にはあるべからず。
椎の花の心にも似よ木曾の旅 (韻塞)
憂き人の旅にも習へ木曾の蠅 (韻塞)
5月6日 許六江戸を発ち帰藩の途につく。
芭蕉は許六離別の詞」を贈る
夏 木曽路にて
やまぶきも巴も出る田うへかな 許六
(炭俵)
江戸から彦根に帰る道すがらの吟である。木曽路に懸かった時、ちょうど田植え時で、女達が出揃うているのを見て、あの中には山吹も巴も交じっているであろうと興じたのである。山吹・巴、いずれも義仲寵愛の勇婦の名である。
7月7日 雨の七夕の夜、杉風来訪。
高水や星も旅寝や岩の上 (真蹟懐紙)(芭蕉庵小文庫)
7月上・中旬 採荼庵閑居中の杉風を訪ねる。
白露もこぼさぬ萩のうねり哉 (真蹟自画賛)(芭蕉庵小文庫)
7月中旬~
8月中旬 体力が衰え、持病に悩み、「閉関の説」を草し約1ヶ月間庵の門戸を閉ざし、病気保養のため人々との面会を絶つ。
朝顔や昼は鎖おろす門の垣 (真蹟自画賛)(芭蕉庵小文庫)
8月中旬 閉関を解き、以後江戸において俳事を重ねる。
8月20日 白雪宛書簡
夏かけて名月暑き涼み哉 (萩の露)
8月27日 門弟松倉嵐蘭没。 8月10日西鶴没52歳
8月29日 其角の父竹下東順没す。
入月の跡は机の四隅哉
竹下東順の死を弔って9月に「東順の伝」を草す。
9月3日 嵐蘭の初七日に当たり墓参。嵐蘭の誄(しのびごと)を草した。
秋風に折て悲しき桑の杖 (笈日記)
桑年とは48歳をいう。嵐蘭は47・8歳で没した。 呂丸・東順没
秋 史邦江戸に移住する。史邦は芭蕉から二見形文台や自画像を贈られた。
10月9日 許六宛書簡[当冬は相手になるべき者御座なく]
菊の香や庭にきれたる沓の底 (続猿蓑)
10月9日 許六宛書簡
金屏の松の古さよ冬籠り (許六宛真蹟書簡)(炭俵)
10月20日 志太野坡らと深川に会し「炭俵」所収歌仙一を巻く。野坡は再び足繁く芭蕉庵を訪れ芭蕉の指導を受けるようになた。俳号も野馬から野坡に改めた。なお諸門人と会吟が少なくない。 12月江戸新大橋架橋
11月8日 荊口宛書簡
鞍つぼに小坊主乗るや大根ひき (炭俵)(荊口宛真蹟書簡)
11月8日 曲水宛書簡
振売の雁哀也夷講 (炭俵)
元禄6年 丈草、近江の無名庵に入る。
小名木川に舟を浮べて、五本松付近で詠む
川上とこの川しもや月の友
芭蕉庵が復旧された際にこの句碑が建てられたものを昭和五十六年芭蕉記念館に移された。
貞享~
元禄年間 41歳
~
51歳 座右の銘
人の短をいふ事なかれ
己が長をとく事なかれ
物いへば唇寒し秋の風 (芭蕉庵小文庫)(真蹟懐紙)(大短冊)
12月7日 隅田川に新しい橋が架けられた。新大橋である。この橋の東詰め付近にあった芭蕉庵に住んでいた芭蕉の句に
深川大橋半ばかかりける比
初雪やかけかかりたる橋の上
新両国の橋かかりければ
有がたやいただひて踏はしの霜
大正十二年の関東大震災後,、隅田川に架けられていた諸橋がみな架け替えられた中で、この橋だけは昔のまま残っていたが、昭和五十二年、現在の三径間連続斜張橋に改められた。橋の中央に立つ日本の橋柱には、安藤広重の「名所江戸百景大はしあたけの夕立」、明治45年架設の旧橋のブロンズ製レリーフ、新大橋の由来のプレート、芭蕉の前述の二句が刻まれている。
12月28日 歳暮吟。当時餅搗きは多く十二月二十八日の夜に行われた。
有明も三十日に近し餅の音 (真蹟自画賛)(笈日記)
1694年
元禄7年
(甲戌) 51歳 この年、しきりに『軽み」を唱導する。歳旦吟
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り (炭俵集)(真蹟自画賛)
正月29日 去来宛書簡。山本苛兮「曠野後集」出版に対する去来の不満を、俳風建立の理想確立の時期だからと深く戒めている。
腫物に柳のさはるしなへ哉 (宇陀法師)
正月29日 曲翠(曲水)宛書簡
蓬莱にきかばや伊勢の初便
正月29日 怒誰宛書簡
梅桜みしも悔しや雪の花
2月13日 梅丸宛書簡
梅が香に昔の一字あはれ也 (笈日記)
2月15日 涅槃会や皺手合する数珠の音 (続猿蓑)
2月25日 森川去六(五介)宛書簡
春 むめががにのつと日の出る山路かな (炭俵)
炭俵巻頭、芭蕉・野坡両吟歌仙梅が香の巻の立句である。
腫物に触る柳の撓哉 (宇陀法師)
腫物に柳のさはるしなへ哉 (去来宛真蹟書簡)(芭蕉庵小文庫)
春 沾圃・馬莧・里圃と四吟歌仙「八九間空で雨降る柳の巻」(「続猿蓑」所収)成る。
3月 伊賀藤堂玄虎(藤堂藩士千五百石芭蕉門)の江戸旅亭に招かれ俳諧あり。
花見にとさす舟遅し柳原 (蕉翁全伝)
4月 元禄2年以来推敲を続けていた紀行『おくのほそ道』が完成し、上代様の書に巧みな柏木左衛門(俳号素龍)に清書を依頼する。いわゆる素龍清書本で、芭蕉はこれに自筆の題簽を付し、みずからの所持本とした。
木隠れて茶摘みも聞くや杜宇 (炭俵)(俳諧別座敷)
4月 桃隣の新宅を祝って自画自賛の句を贈る。
寒からぬ露や牡丹の花の蜜 (俳諧別座敷)
5月上旬 子珊亭の別座敷で芭蕉餞別句会催さる。五吟歌仙あり。(連衆)芭蕉・子珊・杉風・桃隣・八桑。席上の俳談に「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。その所に至りて意味あり」と語る。(「別座鋪」)
紫陽花や藪を小庭の別座敷 (俳諧別座敷)
卯の花やくらき柳の及びごし (別座鋪)(炭俵)
5月ころ 帰郷の旅立ち前に杉風に対して「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり」と「軽み」の理念を説く。杉風これを翌年6月麋塒宛書簡に書き伝える。
5月11日 寿貞尼の子次郎兵衛を伴い江戸を出立(最後の旅)、帰郷の途につく。曽良箱根まで随行。野馬は
寒きほど案じぬ夏の別哉
の餞別に寄せ、川崎まで見送っている。川崎まで見送った人々に対する留別吟。
麦の穂を力につかむ別れ哉 (真蹟懐紙)(陸奥鵆)
麦の穂を頼りにつかむ別れ哉 (芭蕉翁行状記)
島田如舟亭・鳴海知足亭・名古屋苛兮亭・佐屋・長島・久居を
経て、途上吟
うぐいすや竹の子藪に老を鳴 (炭俵)(俳諧別座敷)
5月13日 付き添って来た曽良と小田原で一宿。この日箱根で別れる。
目にかかる時やことさら五月富士
5月15日 駿河の国に入り、東海道の島田如舟亭に到着。夜大雨風で大井川は当年最大の出水となり川留めにあって3日間足止めされた。
五月雨の空吹き落せ大井川 (真蹟懐紙)(有磯海)
駿河路や花橘も茶の匂ひ (炭俵)(真蹟懐紙・俳諧別座敷)
5月中旬 芭蕉のすすめにより寿貞・まさ・おふう親子芭蕉庵に入る。
5月19日 島田発
5月21日 河合曽良(惣五郎)宛書簡
5月22日 名古屋苛兮亭に到着し3泊した。十吟歌仙
世を旅に代掻く小田の行き戻り (真蹟懐紙)(笈日記)
5月23日 隠居所新築準備中の野水への挨拶
涼しさを飛騨の工が指図かな (杉風宛書簡)(陸奥鵆)
5月25日 名古屋発
5月26日 伊勢長島に至り、曽良の叔父の住持する大智院に泊る。
5月27日 久居に至り一泊。
5月28日~
閏5月15日 郷里の伊賀上野に帰着。約20日間滞在
5月 杉風・桃隣後援、子珊(しさん)撰、芭蕉餞別句集「別座舗」に発句五・歌仙一入集。
友琴撰「卯花山」に一句入集。
順水撰「童子教」に二句入集。
閏5月4日 半残の訪問を受ける。
閏5月11日 雪芝亭で「涼しさや」の歌仙を興行。
閏5月16日 二郎兵衛を伴い伊賀上野を発ち、湖南に向かう。同夜、江戸の肉親猪兵衛の実家、山城加茂の平兵衛宅に泊まる。
5月17日~
7月まで 宇治・伏見経由で大津乙州亭着。大津、京などを廻る。
5月18日~
5月21日 膳所の菅沼曲翠亭に移り滞在
閏5月21日 杉山杉風(市兵衛)宛書簡
世を旅に代かく小田の行もどり
涼しさを飛騨の工が指図かな
涼しさの指図に見ゆる住まゐかな
閏5月22日~
6月15日 上洛、落柿舎に入り、滞在。この間、浪化入門す。去来ら門人五人と六吟歌仙
柳行李片荷は涼し初真桑 (市の庵)(許六宛真蹟書簡)
朝露によごれて涼し瓜の土 (続猿蓑)
閏5月下旬 子珊編、杉風・桃隣協力による芭蕉帰郷餞別集「別座敷」刊。
5月28日 伊賀上野に着く
6月2日 江戸深川の芭蕉庵で寿貞が病死したと推定される。享年不詳
6月3日 杉風宛書簡
柳行李片荷は涼し初真桑
6月3日 松村猪兵衛宛書簡
6月8日 松村猪兵衛宛書簡
6月8日 江戸よりの寿貞の訃報に返信。江戸の松村猪兵衛宛に急送する。
数ならぬ身とな思ひそ玉祭
故郷塚の右手前にこの句碑がある。
6月15日~
7月5日 京を発ち、膳所曲翠亭・大津木節亭・義仲寺無名庵に遊吟。おおむね膳所義仲寺境内の無名庵に居住。
道ほそし相撲取り草の花の露
6月15日 許六宛書簡
柳小折片荷は涼し初真桑
6月16日 膳所曲翠亭で催された歌仙の立句
夏の夜や崩れて明し冷し物 (続猿蓑)(杉風宛真蹟書簡)
6月21日 大津木節庵での吟。芭蕉・木節・惟然・支考の四吟歌仙の発句。
秋近き心の寄るや四畳半 (鳥の道)
6月24日 杉風宛書簡。膳所義仲寺の無名庵での執筆[門人不残驚」
六月や峯に雲置クあらし山 (杉風宛真蹟書簡)(句兄弟)
清滝や波に散り込む青松葉 (笈日記)
6月28日 野坡・弧屋・利牛・編『炭俵』(「俳諧七部集」中の第6集)出版
春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り (炭俵)
傘に押し分け見たる柳哉 (炭俵)
四つ五器の揃はぬ花見ごころ哉 (炭俵)(真蹟小色紙写)
「炭俵」の序文に、素龍は「此集を編める弧屋・野坡・利牛らは、常に芭蕉の軒に行きかよひ、瓦の窓をひらき心の泉をくみしりて、十あまりななの文字の野風をはげみあへる輩也」と記している。炭俵は
梅が香にのつと日の出る山路かな 芭蕉
処処に雉子の啼たつ 野馬
の発句と脇句ではじまる。
6月下旬 「骸骨の絵讃」(義仲寺境内の無名庵に滞在中の芭蕉が大津の能太夫本間主馬の宅での俳席に、正客として参加した時、骸骨どもの能を演じている絵に讃したもの)
稲妻や顔のところが薄の穂 (続猿蓑)
大津の木節亭に遊んだ折の吟。
ひやひやと壁をふまえて昼寝哉 (笈日記)
7月5日~
7月中旬 無名庵を去り、京去来亭に赴く
京都に滞在
7月10日 河合曽良(惣五郎)宛書簡
7月10日 ~
9月7日 兄の招きで帰郷し、愛染院で営まれた盆会に参列した時に詠む。約2ヶ月間滞在
家はみな杖に白髪の墓参り (続猿蓑)
芭蕉の菩提寺愛染院の本堂前にこの句碑がある。
7月15日 実家の盆会の折、なき寿貞を哀惜して吟ずる。
数ならぬ身とな思ひそ霊祭 (有磯海)
8月9日 向井去来(平次郎)宛書簡
をりをりや雨戸にさはる荻の声
放す所にをらぬ松虫
8月15日 伊賀赤坂の実家の裏庭の無名庵新築成り、月見の宴を催す。新庵は伊賀門人らの出資による贈物であった。
名月に麓の霧や田の曇り (続猿蓑)
名月の花かと見えて綿畠 (続猿蓑)
今宵誰よし野の月も十六里 (笈日記)
9月 「笈日記」伊賀の部
まつ茸やしらぬ木の葉のへばりつく (続猿蓑)
9月3日 支考、斗従を伴って伊勢より来着。
蕎麦はまだ花でもてなす山路かな (続猿蓑)
9月初旬 『続猿蓑』の撰ほぼ成る。各務支考伊賀で「続猿蓑」の撰を助ける。(但し、出版は芭蕉没後の元禄11年5月となる。)
朝露によごれて涼し瓜の土
うぐいすや柳のうしろ藪の前 (続猿蓑)
春もやや氣色ととのふ月と梅 (続猿蓑)
八九間空で雨ふる柳かな (続猿蓑)
9月8日 病弱を押して支考・惟然(素牛)・二郎兵衛又右衛門らに付き添われ郷里伊賀を出て大坂に向かう。。奈良に1泊。奈良までは半残も同行。但し、体力の衰えはなはだしく、人々から気づかわれる。
びいと啼く尻声悲し夜の鹿 (杉風宛真蹟書簡)(笈日記)
9月9日 奈良で重陽を迎える。
菊の香や奈良には古き仏達 (杉風宛真蹟書簡)(真蹟自画賛・笈日記)
菊の香や奈良は幾代の男ぶり (杉風宛真蹟書簡)(泊船集)
9月9日 朝奈良を出立。前年大坂に俳諧師としての門戸を開いた門人洒堂と在地の門人之道との不和を調停するため大坂に上り、夜洒堂亭に至る。
猪の床にも入るやきりぎりす (三冊子)
9月10日 向井去来(平次郎)宛書簡
9月10日~
9月20日 高津の宮の洒堂亭を宿とする。
9月10日 晩より悪寒、頭痛に悩む。この症状が20日ごろまで毎晩繰り返す。
9月10日 杉風宛書簡
菊の香やならは幾代の男ぶり
9月13日 大坂住吉神社の『宝の位置』を見物中病気不快の状態に悩む
9月14日 畦止亭
9月17日 千川宛芭蕉書簡に「続猿蓑板下清書に懸り候」と報じている。
9月19日 其柳亭
9月21日 車庸亭。21日以後小康を得る。9月9日から大坂に滞在中の芭蕉は車要亭の俳席に参加して同亭に一泊、翌朝「秋の朝寝」を亭主の車要に贈った。
おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり (まつのなみ)
9月23日 窪田意専(猿誰)(惣七郎)・服部土芳(半左衛門)宛書簡
菊に出てならと難波は宵月夜 (笈日記)(意専・土芳宛書簡)
9月23日 松尾半左衛門宛書簡
9月25日 水田正秀(孫右衛門)宛書簡
床に来て鼾に入るやきりぎりす
菊に出てならと難波は宵月夜
9月25日 菅沼曲翠(曲水)(定常)宛書簡
此道を行人なしに秋の暮 (意専・土芳宛書簡)
9月26日 大阪四天王寺新清水の茶店「浮瀬」で催された泥足主催の十吟歌仙興行。
此道や行く人なしに秋の暮 (其便)
この秋は何で年よる雲に鳥 (笈日記)
9月27日 園女亭に招かれ九吟歌仙興行。(連衆)芭蕉・園女・之道・一有・支考・惟然・洒堂・舎羅・何中
白菊の目に立てて見る塵もなし (菊の塵)
9月28日 畦止亭に遊吟
秋深き隣は何をする人ぞ (笈日記)
9月29日 夜激しい下痢を催し、以後日を追って容態が悪化する。泄痢臥床
10月5日 朝、病床を、御堂前の花屋仁右衛門の貸し座敷に移し、芭蕉危篤の旨を、湖南、伊勢、尾張など各地の門人に急報する。当時看護の人々、支考・素牛・之道・舎羅・呑舟・二郎兵衛。
10月6日 前夕よりやや小康を得、この日は起き上がって景色などを見る。
10月6日 去来、芭蕉が病臥していることを知り、伏見から夜舟で大坂に直行。
10月7日 芭蕉危篤の急報に接し、去来・正秀・乙州・木節・丈草・李由ら各地の門人が相次いで病床に馳せつける。
10月8日 槐本支道が住吉神社に芭蕉の延命を祈願する。
10月9日 病床の芭蕉は「大井川」の句を破棄するよう依頼した。
清滝や波に散り込む青松葉
10月9日午前2時頃 看病中の呑舟に墨をすらせ、口授して一句を筆記させる。『旅に病んで』の病中吟を認めさせる。
旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる (笈日記)
10月10日 死期を悟った芭蕉は郷里の兄松尾半左衛門宛に遺書を認め、別に3通の遺書を支考に口述筆記させる。
芭蕉は遺状その三で、
一、杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れがたく存じ候。云々
と述べている。杉風は、第一次芭蕉庵の提供、第三次芭蕉庵の竣工の出資等最大の経済的な協力者であった。
10月11日 この朝から食を絶ち、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角到着。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。このうち丈草の句
「うづくまる薬缶の下の寒さ哉」
のみを「丈草出来たり」と賞す。
10月12日 51歳 申の刻午後4時ごろ大坂(現在の大阪市)で死去。
仏頂禅師は芭蕉の死をもっとも悲しんだ友であった。遺言により去来は其角・支考等と、遺骸を膳所の義仲寺に収めるため当夜、淀川の舟に乗せて運ぶ。
10月13日 義仲寺に遺骸到着。遺骸に従ったもの、去来、其角、乙州、支考、丈草、素牛、正秀、木節、呑舟、二郎兵衛の10名。支考が髪を切り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高・昌房・探志3名の戻りを待って明日に延期。
10月14日 夜半零時子の刻遺骸を義仲寺境内に埋葬する。導師。同寺直禺上人。門人の焼香八十人。会葬者参百余人。
10月16日 伊賀の土芳・卓袋両人、13日に師危篤の報を得て大坂に急行、この日の朝義仲寺にいたる。
芭蕉臨終の枕許に馳せ参じた伊賀の門弟服部土芳・貝増卓袋らは遺髪を持ち帰って、松尾家の菩提寺愛染院に埋めて石碑を建て故郷塚と称した。服部嵐雪の揮毫で「芭蕉翁桃青法師」と刻まれている。
10月18日 門人による追善句会が行われ百韻が興行された。
なきがらを笠に隠すや枯れ尾花 其角を発句として連衆は大津・膳所・京都・大坂・伊賀からはせ参じた四十三人が参加した。臨終に間にあわなかった曲翠・李由・智月・土芳・卓袋・許六が駆けつけた。伊賀の半残は出向けない事情があり飛脚便で追悼句を送り「枯尾花」に収録された。
10月25日 義仲寺境内に無縫塔が建立される。「芭蕉塚」の三字を刻した。
10月26日 膳所水田正秀宅で芭蕉の遺言状を封し、次郎兵衛に持たせて江戸に下らせることとなる。次郎兵衛、惟然に伴われてまず伊賀の松尾家に赴く。
11月12日 京都で芭蕉追悼の百韻が興行され江戸の嵐雪・桃隣・岩翁ほか名古屋の苛兮・俳書板元井つつ屋主人の重勝ら二十一人が参加した。これらの追悼句会はすべて其角が取り仕切った。 11月柳沢吉保老中格となる。
かくして芭蕉のあととりは其角に決まった。其角は江戸に戻って「句兄弟」を刊行した。
蕉門の俳人宝井其角が俳諧集「枯れ尾花」を編纂し、井筒屋庄兵衛が刊行した。
(都留市博物館)
上巻は其角が書いた「芭蕉終焉記」や近江国、大津、膳所、京都、摂津国、伊賀国の連衆(連歌や連句を共同制作するために集まる会衆)による芭蕉への追悼発句が収められている。
下巻は嵐雪の追悼文、江戸の嵐雪、桃隣や杉風の発句などが収められている。
芭蕉を孤独貧弱で徳業に富む人としてとらえ最後の旅から旅宿の病状そして死の様子を写した。また義仲寺における葬送に多くの人が参したことを記している。
有磯海集
はれ物にさはる柳のしなへかな
花に寝ぬ是もたぐひか鼠の巣
芭蕉没後まもなく、芭蕉庵一帯は武家屋敷となった。江戸俳壇の人々は、俳諧の聖地である芭蕉庵がなくなることを残念に思い、芭蕉の門弟雪中庵一世服部嵐雪らが奔走して、庵跡の武家屋敷の近く(芭蕉庵があった松平遠江守屋敷の北側の民有地)に池や草庵を造り、芭蕉を祀った芭蕉堂を建てて、師を偲んだという。ここに芭蕉が生前、古池の畔にあって愛好した蛙が立ち上がった形をした青石を移し代々の雪中庵が管理していたといわれる。
この草庵や芭蕉堂は幕末までには消失してしまったが、武家屋敷内にあった芭蕉庵は大切に保存されていた。その後明治維新のドサクサの際に一帯が民有地になると芭蕉庵も消滅してしまい、その位置も定かではなくなり、現在でも正確な位置は確定されていない。
1695年
元禄8年 2月8日 江戸に大火が発生。四谷伝馬町より出火、芝・札の辻・海辺まで焼亡した火災は内藤家の六本木屋敷を焼失させてしまった。幕府は露沾に対して、即刻磐城平へ移住するように指令を出した。その後、沾徳はもっぱら義孝公俳号露江)のもとに出入りした。
9月12日 去来は、芭蕉の実兄半左衛門から借りていた素龍清書の「奥のほそ道」を写了し、その跋を草した。 金銀貨改鋳
1696年
元禄9年 2月14日 水間沾徳が松島訪問をかねて磐城平滞在中の義孝公を訪問する。
4月25日 沾徳は5人扶持で藩にかかえられる。
岩翁編「若葉合」なる。岩翁は「桃青門弟独吟廿歌仙」のメンバーであった。「若葉合」は若葉の題を発句とした其角一門の独吟十歌仙から成る。 荻生徂徠の登用
長伯の「歌林雑木抄」
1697年
元禄10年 其角が「末若葉(うらわかば)」を編集。これも若葉を題として「若葉合」の続編ともいえる。其角の加点結果が付されている。
其角の活動は終わっていた。神田秀夫氏は「元禄10年以後の其角の生涯は、もはや衰微のそれである」と指摘している。([其角]井本農一編「芭蕉をめぐる人々」)
元禄10年頃~ 惟然、大胆に俗語を取り入れた独自な口語調の作風を得意とした。
1698年
元禄11年
「続猿蓑」を服部沾圃・芭蕉が編集
俳諧七部集の第七集
許六編「俳諧問答」なる。「末若葉」の下巻の末尾に去来と去録の論争のきっかけとなった「贈晋渉川先生書」が掲げられている。これは去来から其角に届けられた書簡であるが其角はそれに手を加えて公表してしまったのである。去来は疑念を持ち其角に詰問状を送りつけ、其角・去来の間でやり取りがあった。そこに蕉門俳人の許六が参加して俳諧本質論が議論・展開されるのだが、これが世に有名な許六編俳諧問答である。
1699年
元禄12年 芭蕉の長兄の実子又右衛門没。後、芭蕉の末の妹およしが長兄の養女となる。
支考の「梟日記」
八九間空で雨降る柳かな (続猿蓑)
1701年
元禄14年 凡兆の句が「荒小田」に多数入集するが、往年の精彩を欠いた。
芭蕉の長兄半左衛門命清没。
沾徳編「文蓬萊」をひもとくと「仰松軒」(内藤家上屋敷にあった建物)での句会が頻繁に開催されていたことがわかる。
10月25日 「万覚書」(内藤家の磐城平の記録)には、義孝公の地元滞在にあわせて、沾徳がご機嫌うかがいのために下向したことが記録されている。
1702年
元禄15年 「初便」
「ばせを庵にて」と前書きして野坡との両吟4句未満歌仙
寒菊や粉糠のかかる臼の端 (炭俵)
芭蕉と同時代を生きた轍士は「花見車」を著わす。
1704年
元禄17年 丈草死す。
1704年
宝永元年 3月13日 改元
去来死す。
1705年
宝永2年 夫没後、園女、其角を頼り江戸に出る。園女、眼科医をしながら俳諧を続け「菊のちり」を編む。
森川許六編「本朝文選」に芭蕉が延宝5年から延宝8年までの4年間水道工事関係の職に携わったことが書かれている。
水間沾徳の「余花千句」なる。花を題材とした百韻十巻を連ねており参加した面々は沾徳門弟八十名に及ぶ。
1707年
宝永4年 其角死す。
嵐雪死す。
1708年
宝永5年 千那、親鸞の遺跡を巡排し、「白馬紀行」などを刊行
1709年
宝永6年 乙州、芭蕉の遺稿をもとに「笈の小文」を上梓した。
曾良は幕府の諸国巡国使の随員に任命された。
1710年
宝永7年 曾良、壱岐勝本(長崎県壱岐市)で病に倒れ死す。
春 芭蕉17回忌。京都東山の双林寺境内の西行庵庭前に門弟各務支考が鑑塔を建立。「我が師は伊賀の国に生れて承応(1652~1655)の頃より藤堂に仕ふ」と刻まれている。
「十二月箱(しわすばこ)」
1711年
正徳元年 4月25日 改元
1712年
正徳2年 12月10日 義孝公他界。「有章院殿御実紀」によると享年四十五という。
「千鳥掛」
1713年
正徳3年 臨川寺は芭蕉追善のために開いたと伝えられ通称芭蕉寺と呼ばれた。正式には瑞甕山臨川寺という臨済宗の寺院である。東京案内によれば、かつて堂内には芭蕉自作と称する木像及び芭蕉の碑ありと記されているが木像は大震災のため寺とともに焼失した。
1714年
正徳4年 凡兆死す。
10月 祗空、箱根草雲寺で剃髪
1715年
正徳5年 消息を絶っていた越人俳壇に復帰し「鵲尾琴」を編む。
許六死す。
1716年
享保元年 6月22日 改元
沾徳傘下の風葉、俳書「江戸筏」を出版し、沾徳一門の隆盛を世に示す。二十余名の門弟が独吟歌仙(一人で詠んだ三十六句形式の連句)を連ね、その歌仙に沾徳が加点するというスタイルをとっている。
苛兮死す。
素堂死す。
蕪村、摂津の国東成郡毛馬村(大坂)に生れる。
1717年
享保2年 曲翠奸臣を討ち自刃して果てる。
名古屋の越人が編集した「鵲尾冠」に芭蕉の
似合わしや新年古き米五升 という句が収録されている。
1718年
享保3年 園女、剃髪し智鏡と号す。
北枝死す。
祗空、京都紫野に移住して敬雨と改号
5月29日 内藤義稠他界。沾徳は義孝・義稠・政樹と推移する藩主交代にもかかわらずおかかえの立場にあった。
12月18日 露沾の息子・政樹が藩主となる。政樹に対する従五位下備後の守への叙任の報告が磐城平に届くやいなや祝賀の俳諧が興行された。
冬咲の花は千年の大樹哉 由之
穂だはらの声つれて養老 露沾
(露沾俳諧集)
内藤家江戸藩邸の火災
1719年
享保4年 桃隣死す。
内藤藩内の不穏な騒動(松賀伊織らを粛清した騒動)
1720年
享保5年 7月 内藤領内洪水
1721年
享保6年 沾徳の手により「後余花千二百句」が刊行される。
「花鎮集」
「桂山舎月次句集」
1722年
享保7年 尚白死す。
1723年
享保8年 千那死す。
正秀死す。
蕗夫軽人編「わすれ草」。仙鶴の支援になる俳書である。
8月 内藤家暴風雨被災
1725年
享保10年 「十論為弁抄」刊。支考は「故翁(芭蕉のこと)は伊賀の城主藤堂家に仕えて稚名は金作といいへるよし」と書いている。その後冬扇一路が刊行されて芭蕉が仕えていたのが藩主の藤堂家ではなく、その重臣の藤堂新七郎家であることが明らかになる。
巴人この頃江戸を去る。伊勢・大坂を経て京にいたる。
1726年
享保11年 園女死す。
5月15日 沾徳は死を意識して妻と幼い実子勢吉の将来を案じて内藤家に妻の父日名雲東のおかかえを願いでる。
5月26日 沾徳の願書却下される。
5月30日 沾徳他界。享年65。内藤家と沾徳との縁は切れる。
沾州・長水・風葉ら編、沾徳追善集「白字録」刊行
瓢箪池の対岸、高台の中腹にある芭蕉堂は戦火を免れた建物でその中に芭蕉の三十三回忌にあたり製作・安置された芭蕉像が祀られている。
1727年
享保12年 芭蕉三十三回忌追善集「伊賀産湯」刊行
神はまさに翁と現じ、翁は神と崇めたまふ
月花の神や千鳥をつかはしめ 宰陀
享保年間にはすでに芭蕉を神と崇める人がいた。
紹廉編「ちりの粉」
3月 内藤家苗代の腐る事件が起きる。
1728年
享保13年 9月 内藤家風雨洪水による被災
1729年
享保14年 内藤家日光宮修復手伝い金を拠出
1730年
享保15年 土芳死す。
風葉ら編「続江戸筏」出版される。沾洲の加点状況を公表。沾洲一門の宣言。水間沾徳が他界して跡目をひきついだ沾洲の披露集と理解できる。
1731年
享保16年 支考死す。
長谷川馬光は芭蕉没後、江戸俳壇が宝井其角の洒落風が勢力を占めて俗化の傾向を示したことを憂い、中川宗瑞・松本珪林・大場寥和・佐久間柳居らと相はかって、いわゆる「五色墨」の運動を起こし、蕉風復権運動の端緒を開いた。沾洲を中心とする宗匠連に決定的に打撃を与える。
超波編「落葉合」刊。
祗空、箱根湯本に石霜庵を結ぶ。
1732年
享保17年 『伊乱記』の著者菊岡如幻の養子で江戸の俳諧師として活躍した沾涼編の俳諧系譜『綾錦』には芭蕉のことを如幻の導きで季吟門に入ったと記している。
杉風死す。
この年刊行された沾涼の書いた「綾錦」に芭蕉が江戸に来て最初に落ち着いたのは「古卜尺(こぼくせき)」の家だったと記されている。沾涼は古卜尺の子供の二世卜尺からこの情報を得ている。このとき古卜尺はすでに亡かった。卜尺の父小沢太郎兵衛(俳号は得入)は日本橋大舟町(後に本船町と改称)に住み名主を勤めていた。
梅人編[杉風句集」に収録されている[杉風秘記抜書」より芭蕉が江戸に出て最初に落ち着いたのは杉風の家であったという説もあるが「杉風秘記抜書」は捏造であるとされている。杉風の家は日本橋小田原町の魚屋で、幕府や大名家に魚を収める大きな商家であった。杉風はこの家の主人で、後に芭蕉の門人となり芭蕉の生活を支えた人物として知られている。この事実を利用して梅人は「杉風秘記抜書」を捏造したとされる。
芭蕉庵の位置に関する資料としてこの年刊行された菊岡沾涼著「江戸砂子」には芭蕉庵の址、六間掘、鯉屋藤左衛門と云魚售の籞屋敷の所也。
古池や蛙飛込む水の音 ばせを
これは此庵室にての句也、池洲に魚も貯へず藻草うづみて古池と成りし此也。今は猶他のやしきとなるよし也。
と記されている。
「綾錦」
内藤家渡良瀬川普請
1733年
享保18年 「四時観」刊。祗空、序文をよせる。
4月 祗空没。
巴人、「一夜松」を刊。
1734年
享保19年 柳居、尾張の巴静と交流。以後、地方俳人と積極的に交流。
9月 宗瑞・咫尺編「柿むしろ」刊。本書は「五色墨」連中の宗瑞・咫尺の文台開き賀会集。
1735年
享保20年 2月8日 二世市川団十郎の日記に「芭蕉翁は藤堂和泉守(正しくは大学頭。初代高虎の和泉守と混同)様御家来藤堂新七(正しくは藤堂新七郎)殿の料理人のよし。笠翁(りつおう)物語」と記されている。笠翁は破笠のことで彼は一時芭蕉の門人であり芭蕉門の最古参の其角の親友であった。
とくとくの句合
山口素堂筆江戸杉浦さぶろべえ刊行
柳居、美濃派俳人と親交をかさねる。この頃、江戸の宗匠連中より、「五色墨」一派の評判の方が高い。
蕪村、この頃江戸へ下る。
1736年
享保21年 菊岡沾涼の俳論書「鳥山彦」なる。
1736年
元文元年 4月28日 改元
1737年
元文2年 洒堂死す。
巴人、江戸に帰り、日本橋本石町に夜半亭を営む。
この頃、蕪村、巴人宋阿の内弟子となり、本石町に住む。
1738年
元文3年 路通死す。
1739年
元文4年 巴人、其角・嵐雪三十三回忌集「桃桜」を刊。「桃桜」より、「蕪村」号を使用。
1740年
元文5年 2月~7月 柳居、伊勢・吉野・和歌の浦さらには京あたりを巡遊。この頃に「麦阿」号から「柳居」号へ改号。
1741年
寛保元年 7月 柳居剃髪。伊勢の俳人との交流が表面化。
常仙・長鶴編「千々の秋」刊。十点以上の高点付句集の抜粋。
12月17日 沾州他界。沾山が跡目をつぐ。
1742年
寛保2年 琴呂編「続の筏」刊。常仙点。
6月6日 巴人没。
1743年
寛保3年 芭蕉五十回忌
各地で芭蕉を追悼する句集が刊行される。
桃青寺に芭蕉堂を建て蕉風復権運動の拠り所とした。
芭蕉堂には小川破笠作河と伝えられる芭蕉・素堂や西行像、等があったが関東大震災や戦災に遭って失われた。
玉栄編「枝若葉」刊。青峨点。
11月 柳居、芭蕉五十回忌記念集「芭蕉翁同光忌」刊。
1744年~
1748年
延享年間 江戸小石川の神谷玄武坊白山老人が双林寺の「芭蕉墨直しの碑」をそのまま写して臨川寺に建立し、毎年3月俳人らが碑の文字に墨を入れて句会を催し芭蕉を偲んだ。
1745年
延享2年 定林院を桃青寺と改める。
湖十ら編「江戸二十歌仙」刊行される。江戸の宗匠連、分裂。ここから江戸の宗匠連は、分裂再編成をくりかえしていく。
1745年~
延享2年
1757年
宝暦7年 藤堂元甫(もととし)上野城の城代家老を勤める。藤堂元甫は芭蕉を敬慕し再形庵という芭蕉の記念館を作り芭蕉の資料を集めようとした。その一環として自分の家臣である川口竹人に命じて芭蕉の伝記「蕉翁全伝」を作らせた。「蕉翁全伝」は、すべて竹人の調査によるものではなく竹人の俳諧の師である服部土芳の「芭蕉翁全伝」を増補改定したものである。
1746年
延享3年 5月 柳居、伊勢の麦浪亭に滞在。
1748年
延享5年 5月晦日 柳居没。
1749年
寛延2年 安達屋善兵衛編の「宗匠点式并宿所」
1750年
寛延3年 8月12日 芭蕉堂の下方に「芭蕉翁の墓 夕可庵馬光書」と刻んだ石碑(五月雨塚)が立っている。これは江戸川を越えて西南方面に広がる早稲田田圃を琵琶湖に見立てた芭蕉の句
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
の真筆を遺骨代わりに埋めて塚としたものである。
紀逸撰、初篇「武玉川」刊。本格的な江戸の高点付句集。以後、十五篇(安永五年)まで刊行。十一篇以降は、「燕都枝折」と改題。
1751年~
1763年
宝暦年間
宝暦年間に刊行された「千鳥墳」や「俳諧耳底記」に芭蕉のことを俳聖と記している。
1752年
宝暦2年 桃青寺を東盛寺と改称し以後白牛山東盛寺と称す。
春 三世湖十撰「眉斧日録」刊。
1755年
宝暦5年 竹居丹志編「硯のいかだ」
1758年
宝暦8年 鳥酔編「冬扇一路」刊。芭蕉が藤堂新七郎家に仕えていたことを記した最初の資料である。鳥酔は江戸の俳諧師であるが芭蕉を慕い上野まで出かけて芭蕉の遺蹟を探訪した時の見聞を「冬扇一路」に掲載した。
芭蕉翁発句評林(芭蕉の発句におけるもっとも古い注釈書)が刊行される。
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