芭蕉の年表 ⑪

http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html  【芭蕉の年表】 より

1759年

宝暦9年 芭蕉句解(芭蕉注釈書)が刊行される。

1763年

宝暦13年     要津寺の「芭蕉翁俤塚」は大島寥太が芭蕉の亡母の画像を納めて建立した。  

1764年

明和元年 師走袋(俳諧注釈書)が刊行される。

1768年

明和5年     「真向翁(まむきのおきな)」  

      雪成編「俳諧觽」、花屋久次郎より刊。江戸座の機関誌的性格をもつ組織的な高点付句集。本格的な江戸座宗匠の情報誌。幕末まで継続。  

1769年

明和6年     呑吐の「芭蕉句解」  

1772年~

1780年

安永年間     安屋冬李「蕉翁略伝」を書く。  

1773年

安永2年 10月12日       ふる池や蛙飛こむ水の音

要津寺の門前のこの句碑は江戸の能書家三井親和の揮毫により、普成・亀求・子交らが建立した。この句碑の文字を模写したものが芭蕉記念館内にある句碑である。  

溝口素丸が芭蕉翁発句解説叢大全をつくる。溝口素丸が記した俳諧法注釈書で全部で5冊ある。芭蕉の発句計105への解説を収録。

芭蕉翁発句評林(芭蕉の発句におけるもっとも古い注釈書1758年刊行)

芭蕉句解(芭蕉注釈書1759年刊行)

師走袋(俳諧注釈書1764年刊行)

の3説を揚げて論じそれに対する自説を述べている。

1776年

安永5年     鷗沙の「過去種」成る。  

1778年

安永7年     梨一著「奥細道菅菰抄」刊  

1781年

天明元年     野坡の門人の風律没す。風律の書き留めた「小ばなし」に寿貞が一時期芭蕉の妾であったと載っている。  

1782年

天明2年     可因編「かれ野」  

1781年~

1789年

天明年間     松尾家商家となり、幕末には畳屋になる。  

      天命年間は俳諧の中興期で、雪中庵三世大島寥太が、要津寺の門前に芭蕉庵を再興し、復興運動と拠点となった。門を入った右手に、寥太が建立した「芭蕉翁俤塚」を初め、

     ふる池や蛙飛こむ水の音

の句碑、「芭蕉翁百回忌発句塚碑」「前籍中庵嵐雪居士 後雪中庵吏登居士墓碑」(供養塔)

     碑に花百とせの蔦植えむ

の寥太句碑、「大島寥太墓碑」「雪中庵円形墓碑」(供養塔)など雪中庵関係石碑群が整然と並んでいる。  

1791年

寛政3年     芭蕉が仕えていた藤堂新七郎家の家臣の安屋冬李が亡くなる。安屋冬李が蝶夢に送った報告書の中の文言に「父与左衛門は全く郷士なり。作りをして一生を送る」という一条がある。(曰人(わつじん)編「芭蕉伝」(「芭蕉翁系譜」ともいう。))安屋冬李は熱心に芭蕉のことを調べて判明したことを俳諧の師である京都の蝶夢に送っていたのである。蝶夢は芭蕉の顕彰に生涯をかけた人でライフワークの「芭蕉翁絵詞伝」を作成するために伊賀上野の門人である冬李に芭蕉に関する調査を依頼していたのである。「郷士」は伊賀では無足人といい公式の場で名字を名乗ったり刀を差すことを許可されるというような特別な資格を与えられた農民である。「作り」とは農業を営むことである。  

1792年

寛政4年 蝶夢が芭蕉の100回忌に義仲寺に奉納するために「芭蕉翁絵詞傳」という芭蕉伝の絵巻を著した。芭蕉の紀行や発句前書を綴り合わせる手法をとり終焉、葬送の部分は「枯尾花」、「笈日記」の内容を用いた。芭蕉を義と情に厚い人物にとらえ旅に過ごした生涯というイメージをつくり以後の芭蕉観に影響を与えた。

1793年

寛政5年     芭蕉100回忌に「桃青霊神」なる神号を授与され、芭蕉を神としてまつる人が出てきた。また多くの芭蕉追悼の句集が作られた。  

1794年

寛政6年     蝶夢編「祖翁百回忌」が刊行される。この中に上野の武士堀伊織介(俳号は未塵)の句がありその前書に「祖翁(芭蕉)の家に伝えたる田あり。字は打尻とよぶ」と記されている。

蝶夢著「芭蕉翁絵詞伝」刊  

1795年

寛政7年     芭蕉堂に溝口素丸の碑建立。関東大震災や戦災に遭って失われた。  

1801年

享和元年     梅人亡くなる。  

1806年

文化3年     この年にも芭蕉を神としてまつる人が現れる。  

1808年

文化5年     芭蕉、朝廷から「飛音明神」が与えられた。  

1815年     芭蕉堂に素堂の碑が建てられたが関東大震災や戦災で失われた。  

1820年

文政3年     「おくのほそ道」の旅立ちから131年後に千住天王森の山王社といわれた素盞雄神社の境内に「奥のほそ道首途(かどで)」と呼ばれる碑建てられる。   

1826年

文政9年     平一貞が書いた「埋木の花」に長慶寺にある芭蕉の時雨塚や其角や嵐雪の碑が描かれている。  

1843年

天保14年     芭蕉の150回忌には、俳人田川鳳朗が二条家に請願し、二条家の斡旋で神祇管領吉田家から「花本大明神」の神号が贈られ神格化された。芭蕉の神格化は不動のものになる。

富岡八幡宮の右側、弁天池前に、祖霊社(合祀花本社)があり、毎年十月十二日の芭蕉命日に例祭が行われている。  

1858年

安政5年     切絵図に松平遠江守の屋敷内に「芭蕉庵ノ古跡庭中に有」との注記が付されている。  

1859年

安政6年     白亥編「真澄鏡」に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると高野幽山という俳人の紹介で芭蕉は内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。  

1862年

文久二年     鳳洲・梅年が陶工一瓶に嵐雪像を作らせ瓢箪池の対岸、高台の中腹にある芭蕉堂に祀ってある。去来像は沙羅庵・大黒庵・梧静庵らが施主となって一瓶に依頼して滋賀県大津市の義仲寺にある芭蕉墓所の土で一瓶に依頼して作った。丈草像は五竜峰・発雲社らが施主となって、同じく一瓶に依頼して作った   

明治11年     江東区清澄3-3の清澄庭園は元禄時代に豪商紀伊国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後下総国(千葉県)関宿藩主久世大和守の下屋敷となった。明治11年、三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の所有となった。  

明治18年     庭園が完成した。回遊式築山山水庭園で、近世庭園史上貴重なものである。岩崎が全国から集めたという奇岩名石が特徴である。園内南隅の芝生広場に芭蕉門弟の宝井其角の門流、其角堂九世晋永湖の筆になる

    古池やかはづ飛こむ水の音

の句碑がある。  

1893年

明治26年     白牛山東盛寺を再び芭蕉山桃青寺に復す。  

大正6年 9月30日    芭蕉庵跡(江東区常盤1-3)から大型台風による津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見される。故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀りこの石蛙も安置された。  

大正10年     東京府は常盤1丁目を史跡に指定した。  

大正15年     関口芭蕉庵は維新後、明治期の政治家田中光顕の邸内にあり、その尽力で保存されてこの年東京府の史跡に指定された。以後、俳壇の長老伊藤松宇が管理人となって、昭和18年に85歳で病没するまで、ここに住んでいた。  

1930年

昭和5年     故郷塚の入口の芭蕉翁五庵(蓑虫庵・無名庵・東麓庵・西麓庵・瓢竹庵)の一つの瓢竹庵(門弟岡本苔蘇の庵)を再建。  

昭和7年 2月29日   芭蕉堂には其角像がなかったので、伊藤松宇らの結社五展会が九谷焼陶工石田久光に依頼して造られた。  

昭和9年 10月   芭蕉門弟の宝井其角の門流、其角堂九世晋永湖の筆になる

    古池やかはづ飛こむ水の音

の句碑は深川芭蕉庵跡の地が狭かったので、岩崎弥太郎の作った清澄庭園に建立したという。   

1935年

昭和10年     上野城跡に川崎克により上野文化産業城として三層の天守閣が復興された。  

1938年

昭和13年 3月31日   近所からの出火によって藁屋根の関口芭蕉庵は消失し、半年の後、俳壇の長老伊藤松宇の尽力で庵は旧態通り再建された。  

昭和18年     芭蕉二百五十年忌の際、芭蕉の門弟天野桃隣の門流、十世太白堂主人が石造りの叢祠を造った時に石蛙はその中に安置された。  

1945年

昭和20年 3月10日   東京大空襲直後、この石蛙は再び姿を消してしまった。  

  5月25日   再建した関口芭蕉庵は空襲で再度灰燼に帰し、現在の建物は三代目である。  

      戦災のため常盤1丁目の芭蕉庵跡は荒廃した。  

  3月10日   臨川寺の堂内にあった「芭蕉墨直しの碑」と「芭蕉由緒の碑」も東京大空襲の際失われてしまった。「芭蕉墨直しの碑」は鑑塔または鑑塚ともいい、もとは門弟各務支考が京都東山の双林寺境内の西行庵庭前に建立したものである。  

1955年

昭和30年     常盤1丁目の芭蕉庵跡は地元の芭蕉遺跡保存会が復旧に尽力した。  

  6月   真鍋儀義十が要津寺にある江戸中期の書家三井親和の書を模写して、芭蕉稲荷神社に句碑を建立した

   古池や蛙とび込む水の音  

1956年

昭和31年     芭蕉庵が復旧された際に

   川上とこの川しもや月の友

の句碑が建てられる。  

1973年

昭和48年 10月12日   芭蕉二百八十回忌に、史跡関口芭蕉庵保存会が中心となって、駒塚橋北詰めの瓢箪池畔に

   古池や蛙とび込む水の音

の自画賛の軸より模刻した句碑を建立する。  

1975年

昭和50年     別の石蛙が造られ叢祠に収められた。  

1980年

昭和55年 3月   芭蕉記念館の建設工事が始まる。近くに住む芭蕉遺跡保存会副会長飯田繁蔵氏が自宅の耐火金庫に石蛙があることを発見した。繁蔵氏の父が亡失することをおそれて金庫に収めていたのである。この石蛙は小松石で高さ16センチ、長さ26センチで石の台座に座っている。  

1981年

昭和56年 4月   芭蕉稲荷神社にあった句碑を芭蕉記念館に移築した。

   川上とこの川しもや月の友

の句碑移される。  

1984年

昭和59年 陰暦10月12日    柴戸の門から館内に入ると、すぐ左手にある自然石の安山岩の

   草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

の句碑がある。芭蕉の祥月命日にこの句碑が建てられた。揮毫は当時の江東区長の小松崎軍次のものである。  

1992年

平成4年     今栄蔵氏「芭蕉伝記の諸問題」刊行  

2001年

平成13年 9月14日   大島稲荷神社が創建350年を迎えるにあたり、芭蕉の石造が境内に建立された。同時に

   五月雨をあつめて早し最上川

の句碑も立てられた。    

2009年

平成21年 曽良の菩提寺・正願寺(諏訪市)の境内に曽良の銅像が建てられた。

写真は山形市山寺境内の河合曽良銅像

参考文献

芭蕉句集  新潮日本古典集    新潮社       昭和57年6月10日発行     平成5年5月25日4刷  

芭蕉ハンドブック    尾形仂    三省堂       2002年2月20日

松尾芭蕉この一句   柳川彰治  平凡社       2009年11月25日

松尾芭蕉        稲垣安伸   勉誠出版     2004年1月10日

芭蕉書簡大成     今栄蔵    角川学芸出版   平成17年10月31日 

芭蕉文集        新潮日本古典集    新潮社  昭和53年3月10日        平成14年5月10日12刷

芭蕉句選年考     博文館

芭蕉七部集俳句鑑賞 川島つゆ著   春秋社

芭蕉            幸田露伴閲   平凡社     昭和5年9月20日

芭蕉           田中善信     新典社新書   2008年8月11日

江戸の芭蕉を歩く   工藤寛正     ふくろうの本   2004年2月18日初版     

江戸の俳壇革命    楠元六男     角用学芸出版   平成22年5月25日

人生に役立つ戦国武将のことば

信濃大地誌      石川耕治  小平高明    光風館書店  明治38年5月5日

蕉門俳諧前集    神田豊穂    日本俳書大系刊行会     大正15年7月5日

俳人逸話紀行集   佐佐醒雪    博文館    大正四年八月三日

あなたの知らない長野県の歴史  山本博文   洋泉社  2014年

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000