芭蕉の年表 ⑤

http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html  【芭蕉の年表】 より

1686年貞享3年

(丙寅) 1月 43歳 其角歳旦帖(井筒屋版)に歳旦ならびに歳暮吟入る。

歳旦吟

   幾霜に心ばせをの松かざり         (あつめ句)  (其角歳旦帖)

其角、俳諧宗匠立机はこの年か。 下河辺長流没。61歳

任口没81歳

5歳年少の曽良に対する芭蕉の信頼は厚く俳文「雪丸げ」では「交金をたつ(断金の交わり=友情が固いこと)」と表現されている。

      歳旦三物集に発句2  

  正月   其角らと「初懐紙」百韻を巻く  

  1月   江戸蕉門十七人の「鶴の歩み」百韻に一座。その前半五十韻に評注(「初懐紙評注」という)を加えて貞享風の在り方を示す。  

  3月20日   出羽の鈴木清風の江戸の仮寓で其角・嵐雪・曽良その他と七吟歌仙を巻く。

   花咲きて7日鶴見る麓哉    (俳諧一橋) (あつめ句・真蹟懐紙)  

  3月下旬   大坂の西吟撰「庵桜」に1句入集  

  春    (垣穂の梅)

   留守に来て梅さへよその垣穂かな   (あつめ句)         

  春   寂照(知足)宛書簡

   かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ (寂照宛真蹟書簡)(俳諧千鳥掛)  

  春   芭蕉庵で「古池やかわず飛び込む水の音を巻頭に衆議判による蛙の句の二十番句合「蛙合」を興行。」参加者40名という。志太野坡の奉公した越後屋には「蛙合」の句会に参加している小泉弧屋という同僚がいた。のち野坡と一緒に「炭俵」を編むことになる池田利牛は野坡の奉公していた越後屋三井家の支配人であった。「古今集」序「みづにすむかはずのこゑをきけば」以来の伝統季題(鳴く蛙)にいどんでどれだけ俳諧独自の新しみが出せるかを試みたものである。「古池」は芭蕉庵の傍らの池。

   古池や蛙飛びこむ水の音      (春の日)(蛙合)(あつめ句・真蹟懐紙・短冊・自画賛・旬切)

    いたいけに蝦つくばふ浮葉哉  仙化  

  閏3月   仙化撰「蛙合」として出版される。  

  6月中旬   風瀑著「丙寅紀行」に発句1端物連句1入集。  

  8月15日   芭蕉庵で月見の会を催し、其角、仙化、吼雲らと隅田川に舟を浮べる。

   名月や池をめぐりて夜もすがら       (あつめ句) (孤松)  

  8月下旬   尾張蕉門の山本苛兮編「春の日」(「俳諧七部集」中の第二集)が出版される。発句三句入集

   雲折々人をやすむる月見哉    (春の日)(あつめ句) (真蹟懐紙・孤松)

   馬をさへながむる雪のあした哉(春の日)  

  8月下旬   去来稿「伊勢紀行」に跋の句文を与える。

   東西のあわれさひとつ秋の風     (真蹟懐紙)  

  9月   清風撰「俳諧一橋」に歌仙1入集。  

  秋   句文「四山の瓢」成る。芭蕉が山口素堂に乞うて芭蕉庵の米入れの瓢に銘を求める。素堂応えて、句毎に山を詠み入れた五言絶句瓢名を作る。芭蕉はこれによって瓢を四山と命名した。大きな瓢は芭蕉庵再建の時、北鯤(石川氏。「桃青門弟吟20歌仙」の一人)から贈られた。

   ものひとつ瓢は軽き我が世かな  

  秋    (笠の記)

   世にふるも更に宗祇のやどりかな            

不明 不明    信濃路を過るに

   雪ちるや穂屋の薄の刈残し  (猿蓑)

陰暦7月27日、諏訪の神が御射山狩に出でます時、薄の穂でお假屋を作り、小鳥を狩つて神贄にそなへる習慣がある。そのお假屋のことを穂屋といふ。これは祭神建御名方命が出獵された時薄の穂で葺いた小屋に泊られたといふ故事に基いている。この神事の行われる場所、諏訪神社の東南三里の地を穂屋野と呼ばれるが此處では地名をいふのではない。これから深い冬に閉ざされようとしている信濃路の山ふところの薄原が、まだらに刈残されてあって、ほうけた穂にちらちらと粉雪の降りかかっている様である。このときの文献が発見されていないがこの国は冬ざれの信濃路の気分がよく出て居り、殊に刈残しと断定していることも大膽なので空想の作ではないといふことに大方の説が一致している。  

  12月18日   「初雪や幸ひ庵」成る  

  冬   訪庵の曽良に「雪まるげ」の句を与える。

   きみ火をたけよき物見せん雪まろげ       (花膾)(真蹟色紙)

曽良は芭蕉の「鹿島紀行」「奥の細道」に随行することになる。

句文「閑居の箴」成るか  

  冬   (深川の雪の夜)

   酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 (俳諧勧進牒)            

      嵐雪この年三十年に及ぶ武士奉公を辞す。  

      土芳、藩を致任して蓑虫庵に入り、半残とも連携して伊賀蕉門の形勢に与る。  

1687年

貞享4年

(丁卯) 1月 44歳 嵐雪の妻から正月小袖を贈られて歳旦吟を成す。

   誰やらがかたちに似たり今朝の春    (続虚栗集) (真蹟短冊)

   誰やらが姿に似たり今朝の春      (泊船集)  

      藤堂藩では他国に働く領民に、帰国して再度出国の許可を得るように命じる。  

  正月20日   知足宛書簡

   気晴ては虹立空かよもの春 其角  

  春   東下中の去来を囲み其角、嵐雪とで四吟歌仙あり。  

  春   鳴海の知足に頼まれ、笠寺奉納の発句を送り且つ夏中に西上の予定を告ぐ。

   笠寺や漏らぬ岩屋も春の雨    (寂照宛真蹟書簡)(俳諧千鳥掛)  

  3月25日   京都の去来を迎えて四吟歌仙興行。(連衆)去来・芭蕉・其角・嵐雪

尚白撰『孤松』に十七句入集。

尚白、近江蕉門の中心としての地位を確立するが、「猿蓑」記の新風に追随できず。  

  3月25日   門人孤屋の訪問を受ける。

   永き日も囀り足らぬひばり哉  (あつめ句)(真蹟懐紙・続虚栗)

   原中や物にもつかず鳴く雲雀  (あつめ句)(真蹟短冊・続虚栗)  

  4月22日   工山宛書簡

   目に青葉山ほととぎす初鰹  

  5月12日   其角の母妙務尼の57日追善俳諧に列席。其角・嵐雪と三物(俳諧三物の略称。発句・脇句・第三の三句の称。)

   卯の花も母なき宿ぞ冷まじき  芭蕉  (続虚栗)

   香消え残るみじか夜の夢    其角

   色々の雲を見にけり月澄みて  嵐雪

   ほととぎす鳴く鳴く飛ぶぞ忙はし  

  8月14日   曽良(芭蕉庵近隣に住んでいた)、宗波(本所の定林寺現在桃青寺の住職)を同伴し常陸の国(茨城県)鹿島の月見と鹿島神宮参詣をかね旅立つ。鹿島に隠棲する仏頂禅師に再会するのが目的であった。深川より舟便で行徳へ、行徳より北総台地を横断し釜谷を経て、利根川畔布佐に至り布佐より夜舟で鹿島に着く。

   雪は申さず先づ紫の筑波かな  

  8月15日   鹿島神宮に詣で

   この松の実生えせし代や神の秋    (鹿島詣)  

  8月15日   鹿島根本寺の前住職、参禅の師仏頂和尚を訪ねて1泊。名月雨に逢う。

   月はやし梢は雨を持ちながら         (鹿島詣)(真蹟色紙)         

  8月中旬   鹿島の帰路、利根川・江戸川経由、行徳で神職を勤める旧友小西自準(旧号似春)を訪ねて俳交あり。  

  8月25日   紀行『鹿島詣」成る。(「貞享丁卯仲秋末5日』と奥書)同じ頃「貞享丁卯仲秋」と奥書した別の清書本を杉風に贈る。

   寺に寝てまこと顔なる月見哉       (鹿島詣)  

  秋   両三年来の発句34章を精撰して壱となす。(「あつめ句」または「貞享丁卯秋詠草」と呼ぶ。)

   里の子よ梅折り残せ牛の鞭  

  秋   素堂に『蓑虫の』句を贈る。素堂これに応えて「蓑虫説」を送る。芭蕉またこれに応えて『蓑虫説跋』を草す

   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵  (続虚栗)(あつめ句・真蹟自画賛・画賛・懐紙)

「蓑虫」は実際には鳴かないが、「枕草子」に「八月ばかりになれば、ちちよ、ちちよと果かなげに鳴く」とあり、以来、秋風が吹くと悲しげに鳴くものとして文学に扱われた。  

  9月   内藤露沾邸で芭蕉帰郷に餞する連句会あり。七吟歌仙

   旅人と我が名呼ばれん初時雨   (笈の小文)  

  10月11日   其角邸で芭蕉の帰郷を送る送別句会あり。由之、其角、嵐雪、ほか十一吟世吉成る。

   朝霜や師の脛おもふゆきのくれ 野坡  

  10月   上記に巻のほか身辺の門友から送られた餞別の詩、歌、発句、連句を芭蕉自ら編して『伊賀餞別』1冊をなす。  

  10月   不卜撰『続の原』発句合冬の部判詞および跋を草す。

   花に遊ぶ虻な喰らひそ友雀  

  10月25日   江戸を出立。東海道を帰郷の途に就く(いわゆる『笈の小文』の旅)翌貞享5年4月20日に及ぶ6箇月間の旅。鳴海、熱田、保美、名古屋、等で吟席を重ね、12月末帰郷。

   旅人と我が名呼ばれん初時雨    (笈の小文)

   いざゆかむ雪見にころぶ所まで      (曠野)  

  11月4日   尾張国(愛知県)鳴海の下里知足亭に到着。7日まで菐言、如風、安信、自笑、重信ら鳴海常連と連日俳諧興あり。

   星崎の闇を見よとや啼く千鳥      (曠野)

   いざゆかむ雪見にころぶ所まで     (曠野)  

  11月8日   熱田御修覆。(熱田神宮の修理造営)芭蕉が貞享元年の野ざらし紀行の旅の途次に参詣した時には、熱田神宮は荒廃衰微の極にあった。熱田桐葉亭に1泊。

   磨ぎなほす鏡も清し雪の花  

  11月9日   越人と一緒に再び知足亭に戻る。  

  11月10日   越人を伴い、二十五里引き返して三河伊良湖崎畑村に蟄居中の坪井杜国慰問の旅に出立。杜国は家業の米庄にからんで空米売買の罪に問われ、追放の身となり、このとき畑村から保美の地に移り蟄居生活を送っていた。空米の事は、恐らく彼自らは関知しなかったのではなかったかと推察される。杜国は芭蕉から人柄と才能を愛されていた。

   さればこそあれたきままの霜の宿    (曠野)

「笈日記」には

   さればこそ逢ひたきままの霜の宿  

とあるが恐らく誤りであろうとしている。

    さればこそあれたきままの霜の庵  (泊船集)       

      伊ら湖崎に蟄居中の杜国を訪ねる途中、天津縄(今豊橋市内)手で詠んだ句。

    冬の日や馬上に氷る影法師     (笈の小文)  

      「笈の小文」に「鳴海より跡ざまに二十五里尋帰りて、その夜吉田に泊る」とあって、

    寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき   (笈の小文)

    寒けれど二人旅ねぞたのもしき     (曠野)  

  11月12,13日   両日面談。芭蕉・杜国・越人の三人で伊良湖崎にも遊ぶ。

   鷹ひとつ見付けてうれしいらご崎    (真蹟懐紙)   (笈の小文)  

  11月13日   其角編「続虚栗」刊発句24句入集。

   花の雲鐘は上野か浅草か       (続虚栗)  

  11月16日   杜国見舞いの往復五十里の旅を終えて再び知足亭に戻る。  

  11月21日   桐葉に請われて熱田に移る。4日間滞在。熱田神宮の修理造営。芭蕉が貞享元年の野ざらし紀行の旅の途次に参詣した時には、熱田神宮は荒廃衰微の極みにあった。

   磨ぎなほす鏡も清し雪の花      (笈の小文)   

  11月25日   名古屋に移り苛兮亭に入った。  

  12月13日   杉風宛書簡

    旅寝してみてみしやうきよのすす払   (曠野)

(笈の小文)  

  12月   名古屋の書林風月孫助を訪ねた折の作。

   いざさらば雪見にころぶ所まで       (花摘)  

  12月中旬   名古屋を出て郷里伊賀上野に向う。経路、佐屋回り、桑名まで渡船。以後東海道を上り、杖突坂で落馬。

   歩行ならば杖つき坂を落馬哉      (笈の小文)  (真蹟懐紙)  

  12月末   旅の途次の帰郷。郷里伊賀で越年し、翌貞享5年3月19日まで約3箇月間滞在。

   旧里や臍の緒に泣く年の暮 (曠野)(笈の小文) 

生家前の大和街道に面して、芭蕉翁誕生の地碑とこの句碑が立っている。  

      嵐雪この年宗匠となる。  

      「野ざらし紀行」初稿本作成される。  

      地誌「江戸鹿子」に「俳諧師」として雪柴・桃青・一晶・不卜・亀鶴(其角のこと)・西丸(才丸のこと)・調和・林中子・幸入・幽山・露言を登録している。  

1688年 貞享5年

(戊辰)   45歳 正月を郷里で迎える。大晦日の夜旧友と酒を飲み夜更かしをしたせいで元旦は寝すごした。

   二日にもぬかりはせじな花の春 (曠野)(笈の小文) (真蹟懐紙)  

      藤堂藩では他国に働く領民に、帰国して再度出国の許可を得るように命じる法令を再び出す。  

  1月9日   小川風麦亭の会

   春立ちてまだ九日の野山哉     (笈の小文)  

      落梧の瓜畠集に

   山里は萬歳おそし梅の花  

  2月初め   旧友宗七・宗無を同伴し、伊賀の国阿波の匠(三重県阿山郡大山田村)の新大仏寺に詣でる。

   丈六にかげろふ高し石の上     (笈の小文)

   枯れ柴やややかげろふの一二寸 (笈の小文)

   かれ柴やまだかげろふの一二寸   (曠野) 正月生類憐令発布

  2月4日   伊勢神宮参拝。五度目の参宮。尾張の杜国と落ち合い、益光と会吟する。以後、伊勢山田俳人と風交を重ねる

   何の木の花とは知らず匂い哉 (笈の小文)(真蹟懐紙)

   御子良子の一もとゆかし梅の花(笈の小文)(猿蓑)

網代民部の息に逢って

   梅の木になほやとり木や梅の花 (笈の小文) (曠野)(真蹟懐紙) 網代民部、一時伊勢俳壇に重きをなした談林系の俳人足代弘氏のことで當時既に故人となっていた。笈の小文には「足代民部雪堂に會」とあり、笈日記には「胡来亭」と前書して「是は父弘氏のぬし此道の風流に名あるゆゑなるべし」と記してある。その息は雪堂又胡来亭と号した。

   神垣や思ひも掛けず涅槃像      (笈の小文)(曠野)(真蹟懐紙)

地元の医師で俳人の斯波一有(俳号渭川)の妻である園女、伊勢参宮の芭蕉に入門。  

  2月17日   山田を去る。  

  2月18日   伊賀の実家に戻り、亡父与左衛門のの33回忌追善法要に連なる。  

  2月19日   三河の杜国、江戸の宗波来訪。

   吉野にて桜見せうぞ檜笠     (笈の小文)(真蹟短冊)

   吉野にてわれも見せうぞ檜笠 万菊丸  

  2月末頃~

約2旬   岡本他意蘇の瓢竹庵で杜国とともに閑を養う。  

  3月   芭蕉を厚遇した故主計(かずえ)良忠(俳号蝉吟)の嗣子、良長(俳号探丸)の別邸の花見に招かれ、往時を追懐して探丸と唱和する。

   さまざまの事思ひ出す桜かな(真蹟懐紙)(笈の小文)

上野城天守閣の傍らにこの句碑がある。玄蕃町の様々園にも同じ句碑がある。 4月東山天皇即位

      芭蕉判『十二番句合せ』入集。  

  3月中旬   服部土芳の新庵を訪れ、面壁の図に『蓑虫』の句を書き与える。これにより蓑虫庵の称が生れる。土芳は家督を辞して蓑虫庵に隠棲、俳諧に専念する。伊賀蕉門の重鎮として、独身のまま風流三昧の生涯を送った。

   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

近鉄伊賀線上野市駅前から碁盤目状の町並みの中を通る仲立町通りを南下すると芭蕉翁五庵の一つ蓑虫庵がある。上野市駅前には東の空を仰いで立つ旅姿の芭蕉像がある。  

  3月19日   伊賀上野の武士で俳人の岡本苔蘇の別荘瓢竹庵を出、万菊丸(杜国の戯号)を伴って吉野行脚に赴く。めいめいの笠の裏に「乾坤無住同行二人」と偽書した。

   よし野にて桜見せふぞ檜の木笠(笈の小文)(真蹟短冊)

   よし野にて我も見せふぞ檜の木笠(杜国)  

      初瀬

    春の夜や籠り人ゆかし堂の隅   (笈の小文)

奈良県桜井市初瀬町にある長谷寺は、古来女性の信仰が厚く、[枕草子][源氏物語]更級日記]等王朝古典の舞台となっている。堂は本尊十一面観音を安置する本堂。  

  3月下旬   南下して兼好塚を見物し大和に入る。

   淋しさや花のあたりの翌檜      (笈の小文)

   雲雀より上にやすろふ峠かな      (曠野))

笈の小文には「臍峠(多武峰より龍門へ越道也)」と前書きがあって

    雲雀より空にやすろふ峠かな (笈の小文)(真蹟短冊)

となっている。    

      大和草尾村にて

   花の陰謡に似たる旅ねかな  (曠野)(真蹟懐紙)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000