http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
1681年 延宝9年
(辛酉) 年頭吟 38歳 餅を夢に折結ふ歯朶の草枕
春 深川の草庵に門人李下から芭蕉の株を送られて愛好し、草庵の庭に植える。やがてこの株がよく繁茂して草庵の名物となり、人々から「芭蕉庵」と呼び習わされる。
ばせを植えてまづ憎む荻の二葉哉 (続深川集)
3月 菅野谷高政撰「ほのぼの立」の内田順也の序に当風三句を挙げた中に
枯枝に鳥のとまりたりや秋の暮れ (曠野)(東日記)
の句が当風の代表句として引かれる。俳壇全般に漢詩文調による談林超克の気運が高まり、ことに芭蕉において「わび」への志向が著しい。
5月15日 高山伝右衛門宛書簡は芭蕉の最も古い書簡とされる。秋元藩(当時甲州谷村を支配)の家老・麋塒を指導した書簡である。
6月中旬 池西言水撰「俳諧東日記」に15句入集
五月雨に鶴の足短くなれり (俳諧東日記)
7月下旬 其角、揚水、才丸との四吟の百韻二巻、五十韻一巻を「次韻」と題して出版する。
7月 京の信徳一派の「七百五十韻」(正月刊)に呼応して「俳諧次韻」二百五十句を刊行。談林脱皮の意欲を示す。
7月 美濃大垣の谷木因を迎え素堂とともにしばしば俳交を重ねる。
7月25日 木因宛書簡
「次韻」は、談林調の残滓を残しながら、漢詩的境地へと鈍化前進しようとする姿勢が見られる。
秋 (月侘斎)
侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌
延宝年間 浅井正村撰「堺絹」に1句入集
1681年 天和元年 9月29日 改元
冬 「寒夜の辞」「乞食の翁」の句文を草す。
(茅舎の感)
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 芭蕉 (武蔵曲)
「芭蕉」の署名の見える最も早い句
( 寒夜の辞)
櫓の声波を打って腸氷る夜や涙 (武蔵曲)
このころ深川臨川庵留錫(りゅうしゃく)中の仏頂禅師につき禅を修める。 堀田正俊大老となる。
清風撰「おくれ双六」に発句1入集
郭公招くか麦のむら尾花 (俳諧おくれ双六) 凶作により米価騰貴
似春撰「芝肴」に百韻二巻入集
歳暮吟
くれくれて餅を木魂のわびね哉 (天和二年歳旦発句牒)
(真蹟懐紙・句切)
1682年 天和2年
(壬戌) 1月 39歳 板木屋又兵衛版「歳旦発句牒」の巻頭に「暮れ暮れて」が掲げられ江戸俳壇における芭蕉の地位を窺わせる。 凶作前年に続く
山崎闇斎没、65歳
1月上旬 茅屋子撰「俳諧関相撲」に芭蕉批点の歌仙を収録。同書に三都(京・江戸・大坂)トップクラスの点者十八名中の一人として載る。この本は京都の未達が自分の作品を三都の俳諧師に採点を依頼しその結果をまとめたもの。未達が採点を依頼した俳諧師はすべて俳諧史に名を残した錚々たる人々であり、「俳諧関相撲」が企画されたのは延宝末年頃のようだからこの頃芭蕉は江戸を代表する俳諧師の一人と目されていたことがわかる。
2月上旬 谷木因宛書簡に初めて「はせを」と署名す。
春 京の千春再び東下して蕉門一派と交流。
3月上旬 千春その成果を「武蔵曲」と題し、北村季吟の序文を得て京版で出版。ほとんど蕉門の書の観あり。千春撰「武蔵曲(むさしぶり)」に初めて「芭蕉」の俳号を使用。発句六・百韻一入集
梅柳さぞ若衆かな女かな (武蔵曲)(木因宛真蹟書簡) 3月西山宗因没、78歳
3月20日
付書簡 谷木因宛書簡で西上の約束をしている。
あさつきに祓やすらん桃の酒 其角
梅咲り松は時雨に茶を立る比 杉風
4月 大坂の如扶撰「俳諧三ヶ津」に発句1入集
4月 大坂の風黒撰「高名集」に発句1入集
5月 仙台の三千風撰「松島眺望集」に発句1入集
5月15日 高山伝右衛門(麋塒)宛書簡
芋茎の戸蕗壺の間は霜をのみ
8月14日 素堂、京の信徳とともに高山麋塒亭の月見の会に一座
月十四日今宵三十九の童部 (真蹟短冊)(三津和久美) 9月西鶴「好色一代男」刊
9月 延宝八年六月と同じ町触が発行されている。文言はほとんど同じであるが名前の箇所が桃青から六左衛門に変わっている。芭蕉は延宝八年の冬に日本橋から深川へ移住しているから芭蕉の仕事を六左衛門が受け継いだのである。
秋 朝顔にわれは食(めし)くふおとこ哉 (筒朝顔画賛)
其角の「草の戸に我は蓼くふ蛍かな」の句に調和した句である。
朝湖圓の署名は画の作者英一蝶の初号
(都留市博物館)
12月28日 本郷駒込大円寺から出火した江戸大火(八百屋お七の振袖火事)のため深川の芭蕉庵が類焼。芭蕉はやがて旅の詩人として旅に身を置く転機ともなった。
要津寺も俗に八百屋お七の火事で焼失して一時は廃寺になっていた。
住所を失った芭蕉はひとまず日本橋堀江町の其角宅に身を寄せさらに其角の菩提寺であった二本榎の上行寺に仮寓した。
世にふるもさらに宗祇のやどり哉
飯尾宗祇の「世にふるも更に時雨のやどり哉」の句をもじったものである。芭蕉真筆のこの短冊を長慶寺の境内に埋めて塚を築いたのが、芭蕉時雨塚である。時雨塚の正面は「芭蕉翁桃青居士」と刻まれ、芭蕉の墓になぞらえて、俳人らがこの寺に来て、香花を捧げた。のちに隣に其角の「宝晋斎其角墓」、嵐雪の「玄峰嵐雪居士」の碑が立っていたが関東大震災や戦災のためにすべて失われた。
1683年 天和3年
(癸亥) 1月初め 甲斐の国谷村(山梨県都留市)藩主秋元但馬守高朝の国家老で芭蕉門弟の高山麋塒(本名は繁文(高山伝右衛門)、千二百石の武士)の招きを受けて芳賀一晶同伴で谷村の桃林軒で半年間ほど流寓生活を送ることになった。天和3年5月江戸に戻るまで世話になる。
(都留市博物館) 近松が最初期の作『世継ぎ曽我』を宇治加賀掾のために書きおろす。
夏 40歳 麋塒・芳賀一晶との三吟歌仙成る。
立句
夏馬の遅行我を絵に見る心かな (俳諧一葉集)
変手ぬるく滝凋ム滝 麋塒
(夏野の画讃)
馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野哉 (水の友)
5月 其角や門弟らの勧めによって甲斐の国から江戸に帰る。一時日本橋船町の小沢卜尺や杉山杉風の家に仮寓した。其角撰「みなしぐり」跋に新風『侘び』の特色を宣示。発句13・漢句1・歌仙3入集。
朝顔にわれは食(めし)くふおとこ哉(みなしぐり)
6月20日 郷里の母没。享年不詳。法名「梅月妙松信如」愛染院に葬られる。
6月中旬 23歳の其角の編んだ漢詩文の句調の「虚栗」(芭蕉跋)に発句13、漢句1、一座の歌仙3入集。天和新風の特色を示す。跋文で芭蕉は、「虚栗」が、杜甫・寒山・楽天などの心を直接学ぼうとしたものであることを説く。これは「次韻」の老荘趣味からさらに深い境地に到達したことを示している。
時鳥正月は梅の花咲けり (あつめ句)(虚栗)
鶯を魂に眠るか嬌柳 (虚栗)
9月 其角・一晶が音頭をとり、素堂が「芭蕉庵再建勧進簿」を作り、門人知友52名からの寄金で芭蕉庵の再建に乗り出す。
冬 知友門人の喜捨によって、深川に新築された第二次芭蕉庵(住所は旧庵の跡で深川元番所森田惣左衛門屋敷内)に入庵。
霰きくやこの身はもとの古柏 (続深川集)
新庵での生活は極めてわびしいものであり、庵には文台・、大瓢・小瓢・檜笠・画菊・茶羽織のわずか六つであったという。この庵を中心とした生活は元禄7年(1694)5月8日芭蕉が最後の旅に出るまで続く。
曾良、芭蕉に邂逅し、以後深川の芭蕉庵近くに住んで親交を結ぶ。
1684年 天和4年
(甲子) 41歳 歳旦吟
はる立つや新年古城米五升(真蹟短冊)(蕉翁句集)
1684年 貞享元年 2月21日 改元
8月中旬~貞享2年
4月末 門人苗村千里を伴い「野ざらし紀行」(別名「甲子吟行」「甲子紀行」)の旅へと江戸を出立。翌貞享2年4月末に及ぶ約9ヶ月間の旅、目的1前年6月20日になくなった郷里の母の墓参。2大垣の谷木因に会うため
野ざらしを心に風のしむ身哉 (野ざらし紀行)(真蹟草稿)
秋十年かへって江戸をさす故郷 (野ざらし紀行) (真蹟草稿)
唐崎の松は花より朧にて (野ざらし紀行)(真蹟短冊)
2月義太夫、竹本座の櫓をあげる
箱根の関所
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き (野ざらし紀行)
尚白(医師。蕉門十哲の一人)撰孤松集
唐崎の松は花より朧かな
富士川
猿を聞く人捨て子に秋の風いかに (野ざらし紀行)
霜を着て風を敷寝の捨子哉(延宝5年)
芭蕉は運命とか天命とかについては現代人以上にわりきっていたようだ。
馬上吟
道のべの木槿は馬に食はれけり (野ざらし紀行) (真蹟自画賛・短冊)
8月20日過ぎ 小夜の中山を通過。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙 (野ざらし紀行) (真蹟懐紙・自画賛) 6月西鶴弐萬参千五百句独吟
8月末 伊勢山田到着。松葉屋風瀑(伊勢国渡会の産。江戸住。一晶の門人。俳人。藤堂家藩士。元禄13年没)を訪ねて約10日間滞在。雷枝・勝延・廬牧らとも風交あり。 8月大老堀田正俊刺殺さる。
8月晦日 外宮参拝
晦日月なし千歳の杉を抱く嵐 (野ざらし紀行) (真蹟懐紙)
西行谷
芋洗ふ女西行ならば歌詠まん (野ざらし紀行)(真蹟草稿)
閑人の茅舎を訪ひて 廬牧をさす
蔦植ゑて竹4,5本の嵐哉 (野ざらし紀行)
9月8日 旅の途次伊賀上野に帰郷。4,5日逗留。去夏死去した母の霊を弔う。前年の天和三年六月二十日に亡くなった母の墓前で芭蕉は、[母の白髪をおがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老いたりと、しばらくなきて」と前書きし、
手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜 (野ざらし紀行)
9月中旬 大和竹内村の千里の実家に至り数日逗留その後当麻寺に詣で、次いで秋の吉野山に遊ぶ。、
僧朝顔幾死に返る法の松 (野ざらし紀行)
きぬたうちて我にきかせよ坊がつま (曠野) (野ざらし紀行)
碪打て我にきかせよや坊が妻 (甲子吟行)
西行の旧庵を訪ね
露とくとく試みに浮世すすがばや (野ざらし紀行)
後醍醐帝の御廟を拝む。
御廟年経て偲ぶは何をしのぶ草 (野ざらし紀行)
9月下旬 大和から山城、近江とたどり、美濃に入って今須、中山を経、常盤御前の塚を見る。
義朝の心に似たり秋の風 (野ざらし紀行)
9月下旬 不破の関跡を見る。
秋風や藪も畑も不破の関 (野ざらし紀行)
9月末 大垣に谷木因を訪ねる。滞在中、如行嗒山らとも風交あり。
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 (野ざらし紀行)
10月 木因同道して、大垣から舟路揖斐川を下り、桑名に至る。本統寺琢恵上人をも訪う。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす (野ざらし紀行)
11月上旬 桑名より海上熱田に渡り、林桐葉を訪ねて12月下旬ころまで逗留。「熱田三歌仙」。
海くれて鴨の声ほのかに白し (野ざらし紀行)
初冬のころ 亭主以下東藤、叩端、工山、閑水らの俳人と風交を重ね熱田神宮にも参詣。
忍ぶさへ枯れて餅買ふ宿り哉 (野ざらし紀行)
11月ころ 熱田にて唱和後、名古屋に入る。名古屋に山本苛兮、岡田野水、坪井杜国・重五・正平・羽笠のグループを訪う。名古屋において苛兮らと「狂句木枯らしの」を巻頭とする「冬の日」(俳諧七部集中の第一集)の尾張五歌仙を巻き蕉風の確立を示す。
狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉 (野ざらし紀行) (冬の日)
草枕犬もしぐるるか夜の聲 (曠野)(甲子吟行)
この頃越人芭蕉に対面入門したか。杜国芭蕉に入門。
12月 杜国亭に遊ぶ。
白芥子に羽もぐ蝶の形見かな (野ざらし紀行)
12月19日 熱田に戻る
海暮れて鴨の声ほのかに白し (野ざらし紀行)
12月25日 、旅の途次再び伊賀上野に帰り越年。
年暮れぬ笠着て草鞋はきながら (野ざらし紀行)
この年、去来(34)、其角(24)を介し芭蕉に入門。
1685年 貞享2年
(乙丑) 1月 42歳 郷里で越年。2月下旬まで滞在。
誰が聟ぞ歯朶に餅負ふうしの年 (野ざらし紀行) (あつめ句・真蹟短冊) 正月貞享暦施行
山鹿素行没64歳
風虎没67歳
路通、近江国膳所で芭蕉に入門
正月28日 山岸半残(重左衛門)宛書簡
禰宜独人は桜のまばら哉
春 藤堂探丸(旧主人藤堂良忠の嫡男)より肴を贈らる。 近松が竹本義太夫のために『出世景清』を書き与える。
伊賀を出て奈良に出づる道の程
春なれや名も無き山の朝霞 (野ざらし紀行)
2月中旬 奈良興福寺の薪能、2月堂のお水取りを見物。その前後再び大和竹内村にも遊ぶ。
水取や氷の僧の沓の音 (野ざらし紀行)
2月下旬~3月上旬頃 京都に遊び鳴滝の三井秋風の別荘に約半月逗留。伏見の西岸寺に任口上人を訪う。
わが衣に伏見の桃の雫せよ (野ざらし紀行) (真蹟懐紙)
梅白しきのふや鶴を盗まれし (野ざらし紀行)
橿の木の花に構はぬ姿かな (野ざらし紀行) (曠野)
3月上中旬頃 大津に入る。江左尚白(36)、三上千那(35)、青亜ら相携えて入門。
山路来て何やらゆかし菫草 (野ざらし紀行)(真蹟懐紙)
初めは3月下旬に熱田連衆中と白鳥山に詣でた時に
何とはなしに何やらゆかし菫艸 と詠んだ。後逢坂山を越える旅人の気持ちに詠みかえて
山路来て何やらゆかし菫草 とした。
から崎の松は花より朧にて (野ざらし紀行)(真蹟短冊) (曠野)千那宛書簡および「鎌倉海道」(享保10年版)によるとこの句は千那亭に於いてよまれたものである。「鎌倉海道」に
辛崎の松は花より朧にて 翁
山はさくらをしほる春雨 千那
3月中旬 大津から東海道筋を下り東海道水口の宿で芭蕉を慕って追って来た土芳と当地の医師柳軒とに寛文5年以来20年ぶりの感激の対面をする。(往時、幼少の土芳は13歳年長の芭蕉に師事したが境遇かわって藩士の服部家を継ぐ身となり、藤堂藩士の土芳は公務で長く播磨の国に出張滞在していた)4,5日逗留する。この再開を転機に、土芳は俳諧に専念する決意を固める。
命二つの中に生きたる桜哉 (野ざらし紀行)
3月下旬 桑名本統寺琢恵方に3日逗留。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす (野ざらし紀行)
3月25,6日ごろ 熱田再訪。4月8日まで滞在。
しのぶさへ枯れて餅買ふやどりかな
3月27日 熱田白鳥山法持寺で桐葉、叩端と歌仙二を巻く。前年の一巻と合わせ「熱田三謌僊」という。
何とはなしに何やらゆかし菫艸
思ひ立つ木曾や四月の桜狩り (幽蘭集)
『熱田皺筥物語』に『翁これより木曽に赴き深川に帰り給ふとて』と前書がある。
兼好「思ひ立つ木曾の麻衣浅くのみ染めてやむべき袖の色かな」(名所方角抄)をふまえた句作り
4月4日 鳴海の知足亭で桐葉、業言、自笑、如風らと九吟二十四句興行。
此の頃越智越人(29)が入門
4月9日 鳴海、如風亭で歌仙興行
4月10日 鳴海の知足邸を発し、名古屋から木曽路に入り甲斐を経て帰東の途に就く
行く駒の麦に慰む宿り哉 (野ざらし紀行)
4月末 木曽路、甲州路経由で月末に江戸帰着。①「野ざらし紀行」(別名「甲子紀行」「甲子吟行」)の旅を終る。このころまでに河合曽良(37)が入門。
夏衣いまだ虱を取りつくさず (野ざらし紀行)
5月12日 千那宛書簡
山路来てなにやらゆかしすみれ草 (野ざらし紀行) (真蹟懐紙)
6月2日 江戸小石川において出羽尾花沢の鈴木清風を迎え、古式百韻(七吟百韻俳諧)興行。(連衆)清風、芭蕉、嵐雪、其角、才丸、コ斎、素堂。
7月18日 千那・尚白・青鴉連名宛書簡を執筆
夏 風瀑撰「一桜賦」に発句1入集。
夏 其角撰「新山家」に発句1入集。
杜国空米売買の罪で領内追放となり三河の国保美村に隠棲。
素堂が芭蕉庵近くの葛飾に居を移す。以降二人の親友は度を増す。
9月15日 其角、深川八幡参詣の途次芭蕉庵を訪れ、夢中に一句を得たことを語る。
12月 (自得の箴)
めでたき人の数にも入らむ老の暮 (あつめ句) (真蹟懐紙)
冬ころ 曾良入門して芭蕉庵の近くに住んだ。
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