http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
753年 天平勝宝5年 鑑真和尚、入唐僧栄叡らの招請によって、暴風・失明などの苦難をおかして来日。唐招提寺建立。大和上の号を賜う。
865年 貞観7年 望月御牧 中仙道望月駅近傍原野の名なり。昔は例年勅を奉じて名馬を紫宸殿に奉り、天覧に供するを例とせり。貞観七年の制に拠れば、信濃の御牧は、八月十五日を以って之を貢ぐと、これ牧に望月の名を負はせし起こりなるべし。 (信濃大地誌)
あふ坂の関の清水に影見えて いまやひくらむ望月の駒 紀貫之
903年 延喜3年 2月25日 菅原道真亡くなる。
1556年 弘治2年 伊勢津藩の初代藩主藤堂高虎生れる。
「小事は大事、大事は小事と考えろ」
高虎は[大事のときは、皆が集まって議論する。だから大事は大事にいたらない。ところが小事になると皆がタカを括って知恵を出し合わない。そのため小事が大事になることがある。小事も大事だと思って議論を尽くせば、後悔することはなかろう。」と、この言葉を言った。
1579年
天正7年 織田信長の次男北畠信雄が伊賀侵攻を開始すると伊賀衆は一致団結して撃退した。 9月 これに怒った信長が大軍を催し軍事拠点となる神社仏閣をことごとく焼き払う徹底的な焦土侵攻作戦を展開し伊賀の地侍たちを殲滅掃討した。(天正伊賀の乱)信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏がいた。(伊乱記)
1581年 天正9年 伊賀の国の守護職織田信勝の家臣滝川雄利が平清盛が建てたという上野山平楽寺跡に館塞を築いた。これが上野城の濫觴という。
1582年 天正10年 6月2日 本能寺の変による信長の死を知って伊賀侍たちは逃亡潜伏先から徐々に在地に復帰しはじめた。
1584年 天正12年 秀吉の命を受けた脇坂安治が入城した。
1585年 天正13年 脇坂安治が摂津国に転封となり上野城に大和国山郡山城主筒井定次が入部した。秀吉の命を受けて伊賀の国主となった筒井順慶の養子定次は厳しい残党狩りを行った。
1590年 天承18年 徳川家康が江戸に入府すると、大久保主水に上水の設置を命じた。主水は井の頭池を水源として、目白台下(水神社前)を流し、すぐ下流の現在の大滝橋付近に堰(大洗堰)を築き、水位を上げて水道通りの水路に通水した。
1592年~1596年 文禄年間 城主筒井定次は、城の改築にかかり天守閣や二の丸・三の丸を配した近世的な城郭が完成。
1596年~1615年 慶長年間 松尾家は一族から分かれた分家で父与左衛門のときに本拠地の柘植を捨てて上野城下に移った。
1600年 関が原の合戦
1603年 慶長8年 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開く。
幕府は諸大名に命じて城東の海浜を埋め立てて市街地を造成した。日本橋は江戸名所の随一として知られ、江戸城下で初めて架けられた木橋で、誰いうともなく「日本橋」と称し、それが後に橋名になったという。
1604年 慶長9年 五街道が整備された。一里塚を築くにあたって日本橋が国内里程の原標と定められ、全国街道の一里塚の起点となった。
1608年 慶長13年 徳川家康は来るべき大阪方との決戦に備え、彦根城とともに伊賀を軍略上の要地とし、定次の失敗を理由に改易し、信任厚い伊予今治城主藤堂高虎を伊賀伊勢の城主にした。
藤堂藩の初代藩主藤堂高虎は徳川家康から伊勢国・伊賀国の二カ国を与えられて、伊勢国の津に本城を築き、伊賀国の上野に支城を築いた。上野には城代家老を置いて伊賀一国を治めさせた。藤堂高虎は融和懐柔策をとり、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(苗字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。
近世後期の『伊賀の国無足人名前ひかえ帳』に上柘植に5家、鵜山に3家以下、計11家の松尾姓が見える。
1611年 慶長16年 1月 築城の名手といわれた高虎は自ら縄張りをして、上野城と津城の大修築に着手した。
1612年 慶長17年 9月 完成間近い五層の天守閣が大暴風にあって倒壊し、以後再建されなかった。
1615年 5月 大阪夏の陣
蝉吟の祖父良勝は高虎とともに連歌俳諧を嗜んだが、大阪夏の陣の時戦死し、15歳の良精が家督を継いだ。蝉吟は生来病弱であったために文芸に興味を持ち、京都在住の国学者で俳人の北村季吟について、当時もっとも権威あるとされていた松永貞徳の貞門俳諧を学んだ。
1615年 元和元年 7月13日 改元
1624年 寛永元年 2月30日 改元
1626年 寛永3年 臨済宗京都妙心寺の末寺の芭蕉山桃青寺創建。初めは定林院と号す。
1630年 寛永7年 越後の国岩船郡村上の耕雲寺の末寺である蟠竜山長慶寺(曹洞宗)が創建される。開山は一空全鎖、開基は本所奉行徳山五兵衛重政である。芭蕉が参禅した寺とも、仏頂禅師と面識を得た寺ともいわれている。芭蕉真筆の
世にふるもさらに宗祇のやどり哉
の短冊をこの境内に埋めて塚築いたのが芭蕉時雨塚である。
藤堂高虎死す。
1634年 寛永11年 11月7日 大和街道と伊勢街道とが交わる上野市街の西端で、柳生流剣士として知られた荒木又右衛門が義弟渡辺数馬を援けて、仇敵河合又五郎を討たせた。(鍵屋ノ辻の仇討ち)曽我兄弟・赤穂義士と並んで日本三代仇討ちの一つに数えられる。
芭蕉と並んで伊賀上野を有名にしたのが、この鍵屋ノ辻の仇討ちである。
1642年 寛永19年 素堂生れる。
1644年 寛永21年
(甲申) 1歳 伊賀国阿排郡小田郷上野赤坂(当時、農人町。今の三重県上野市赤坂町300番地)の郷士、手習い師匠の松尾与左衛門の次男として生まれる。出生月日不詳。幼名金作。長じて宗房。通称を甚七郎、藤七郎または忠右衛門といったと伝える。今高野山報恩院の過去帳に従って忠座衛門となす。(俳家奇人談巻の中)元服の後、宗房と名乗り31歳の頃までこれを俳号としても使用(そうぼうと音読)別号、釣月軒・座興庵・くく斎・泊船堂・風羅坊・芭蕉・桃青等。季吟門。
上に兄半左衛門命清(のりきよ)および姉が一人、下に妹が3人あった。姉は早世、一の妹は片野氏に、二の妹は堀内氏に嫁したと伝える。末の妹はおよしと言う。通説ではおよしは長兄の実子又右衛門の没後、長兄の養女となる。
先祖は平氏で、伊賀の士豪柘植七党のうちの松尾氏の流れをくむが主流の松尾に比べて家格の劣る支流の松尾の一族と見られ、頼朝のころの人弥兵衛宗清であるという。芭蕉の父は松尾与左衛門といい伊賀の国阿排郡柘植の出身で、父の代に伊賀の国柘植の郷から上野に移住したと伝える。父の社会的地位は名字帯刀を許されている『無足人』と称する地侍級の農民であったと推測される。母は伊予宇和島の生まれで藤堂家の移封に従って伊予から伊賀名張に移住した者の娘といわれる。桃地氏であるとも言われるが不詳。 12月16日改元。後光明天皇即位後1年 徳川家光三代将軍宣下後22年鎖国令後5年目に当たる
文芸界では貞門俳諧が興隆し前年貞徳の『新増犬筑波集』が刊行された。
芭蕉が生れたころ、城代家老は藤堂采女家(禄高七千石)、その下に侍大将の藤堂新七郎家(五千石)、さらにその下に伊賀付藩士の藤堂宮内家や藤堂玄蕃家があった。
1644年 正保元年 12月16日 改元
1647年 正保4年 3月 杉風生れる。
1648年 正保5年 苛兮生れる。
1648年~1652年 慶安年間 要津寺(ようしんじ)はに僧東鉄が本郷に創建して東光山乾徳寺と称し、開基は常陸国笠間藩主牧野越中の守茂徳、開山は西江和尚である。
1648年 慶安元年 2月15日 改元
1649年 慶安2年 曾良が高島藩城下の下桑原村(諏訪市諏訪2丁目)に生まれた。幼名は高野与左衛門。母の実家は「銭屋」という商家だったらしい。
その御両親の死により福島村(諏訪市中洲福島)にある親戚の岩波家の養子となり岩波庄右衛門正字と名乗っている。
岩波庄右衛門正字は12歳の頃養父母が相次いで死亡したことから伊勢長島(三重県)にいる親戚で大智院(真言宗三重県桑名市)の住職であった深泉良成のもとに身を寄せたという。
深泉良成が長島藩主・松平氏と交流を持っていたことから曽良は若くして長島藩に仕えるようになった。河合惣五郎と名乗ったのはこの頃からである。奥の細道においても「曽良は河合氏にして惣五郎と云えり」と紹介されている。
1649年 慶安2年 路通生れる。
1650年 慶安3 尚白生れる。
1651年 慶安4年 去来生れる。千那生れる。
1652年 承応元年 9月18日 改元
1653年 承応2年 清洲橋通りに面して建つ臨川寺は根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まる。
1654年 承応3年 嵐雪生れる。
1655年 明暦元年 4月13日 改元
1656年 明暦2年
(丙申) 2月18日 13歳 父松尾与左衛門が死去する。享年不詳。法名松白浄恵信士。上野の農人町の愛染院願成寺に葬る。
越人生れる。
許六生れる。 御西天皇即位後2年。
徳川家綱4代将軍宣下後5年。松永貞徳(江戸初期の文人、貞門俳諧の中心人物)没後3年。北村季吟、宗匠として独立。独立するに際し、祇園奉納俳諧連歌合を催す。
兄半左衛門が家督を告ぐ。半左衛門は藤堂宮内家の分家藤堂九兵衛家に仕える軽輩で、父が家業としていた手習い師匠を副業としていた。
1657年 明暦3年 土芳生れる。 正秀生れる。
明暦の大火をきっかけに、江戸の再開発が行われ、深川にも開発の手が入った。
1658年 万治元年 7月23日 改元
1660年 万治3年 曲水生れる。 其角生れる。
1661年 寛文元年 4月25日 改元
1662年 寛文2年
(壬寅) 19歳 藤堂新七郎家(藤堂藩侍大将上野城伊賀付五千石藤堂新七郎良精(よしきよ)の嫡子主計(かずえ)良忠宗正(俳号蝉吟。北村季吟(京都を代表する俳人で「源氏物語湖月抄」「枕草子春曙抄」「徒然草文段抄」など数多くの古典文学の注釈書を書き残した業績が認められて後年将軍綱吉の歌学の師となって、江戸に移住する。)門。当時21歳))に出仕したのはこの年のことと推測される。その身分は近習役と伝えるがなお不詳。台所用人、料理人とも言う。二歳年上の主君良忠の格別の愛顧をうけその誘掖で俳諧を嗜むようになる。中右衛門宗房と名乗る。
二十九日立春なれば
春や来し年や行けん小晦日 (千宜理記)
現在知られる芭蕉最初期の作。『千宜理記』旧暦では十二月三十日を大晦日というのに対して、二十九日を小晦日という。当時は一月一日を春とした。
柚の花や昔しのばん料理の間
『嵯峨日記』1691年元禄4年 伊藤仁斎(江戸前期の儒学者)、古義堂開塾。
2,3年前より、和泉、河内、大和等に前句付が起こる。 丈草生れる。 沾徳江戸に生れる。
1663年 寛文3年 20歳 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿 (佐夜中山集) 霊元天皇即位 祗空大坂に生れる。
1664年 寛文4年
(甲辰) 12月29日 21歳 松江重頼撰『佐夜中山集』に蝉吟とともに初めて松尾宗房の名で2句入集。(句集所見) 姥桜咲くや老後の思ひ出 (佐夜中山集)
1664年 園女生れる。
1665年 寛文5年
(乙巳) 11月13日 22歳 主君藤堂良忠(蝉吟)の主催する「貞徳翁13回忌追善五吟俳諧」の百韻に伊賀の貞門流、窪田正好、保川一笑、松本一以ら先輩俳人に伍して若輩の芭蕉も一座する。これは良忠の格別の愛顧によるものであるが、芭蕉は他の故老に遜色のない句を詠出する。この百韻が、芭蕉一座の連句作品中、伝存する最古のもの。この百韻では発句を蝉吟が詠み、その次の脇句を北村季吟が詠んでいる。季吟はこの句会には出席していないがわざわざ蝉吟の発句を京都の北村季吟のもとに届けて彼に脇句を詠んで貰いこのことから蝉吟が季吟の門人であったことがわかる。またこの百韻に一座して名声を博した芭蕉は、初めて幼い俳諧の弟子二人を迎えた。その一人は後の服部半左衛門保英こと伊賀蕉門の重鎮土芳(『三冊子』の著者。当年9歳)であり、もう一人は後の医師中村柳軒こと佐脇柳照(柳喜とも。土芳よりやや年長)であった。 西山宗因(江戸前期の連歌師、俳人)、点者として大坂俳壇に進出する。
支考生れる
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