http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/basyoyoshinaka/newpage1bayoukikannkeinennpyou.html 【芭蕉の年表】 より
1666年 寛文6年
(丙午) 4月15日 23歳 主君藤堂良忠(蝉吟)が死去する。享年25。上野城下の山渓寺に葬る。18歳の弟良重家嫡となり蝉吟の未亡人小鍋を室とする。
「幻住庵記」の中で芭蕉は自分の人生を振り返って「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と書いている。仕官懸命の地とは侍の身分を言う。
6月14日 芭蕉は良忠の遺骨(遺髪、位牌とも)を高野山の報恩院に納めに行ったと伝えられるがなお不詳。上野城下の山渓寺の墓地に蝉吟の墓があり「貞真院殿実叟宗正居士」の法号が刻まれている。主君良忠と死別して後芭蕉は致仕したようであるが、寛文12年(29歳)春に至るまでの約6年間は兄半左衛門方に身を寄せ俳諧の制作を続けながらも、一時は京都の禅寺に入って修行し、また漢詩文の勉学にも勤めたようである。将来の立身の方針が定まらず、迷っていた時期である。この年、良忠の遺子良長(後の探丸)が誕生する。この年、内藤風虎撰「夜の錦」に伊賀上野松尾宗房として4句以上入集。
年は人にとらせていつも若夷 (千宜理記)
年や人にとられていつも若夷 (夜の錦)
京は九万九千くんじゅの花見哉 (夜の錦)
花は賤の目にも見えけり鬼薊 (夜の錦) 『遠近集』に西鶴の発句初出。
月の鏡小春に見るや目正月 (続山井)
小春は旧暦十月の異称。
1667年 寛文7年
(丁未) 10月 24歳 北村季吟監修、湖春撰『続山井』に伊賀上野宗房として発句28付句3が入集
盛りなる梅にす手引く風もがな (続山井)
餅雪を白糸となす柳哉 (続山井)
今西正盛撰、『耳無草』(『詞林金玉集』)に発句1入集
夕顔の花に心やうがりひよん
うかれける人や初瀬の山桜 (続山井)
「うかりける人を初瀬のやま颪はげしかれとは祈らぬものを」(千載集)の上三句をもじった。
1668年 寛文8年
25歳 波の花と雪もや水の返り花 (如意宝珠)
1669年 寛文9年
己酉 秋 26歳 荻野安静撰『如意宝珠』(寛文9成、延宝2刊)に発句6入集。句引伊賀の部に松尾宗房と見える。
花にあかぬ嘆きやこちの歌袋 執政保科正之致仕
野々口立圃没75。(江戸前期の俳人)
1670年寛文寛文10年
(庚戌) 27歳 正辰撰『大和順礼』に伊賀上野住宗房として発句2入集。
うちやまや外様しらすの花盛り (大和巡礼) 大坂十人両替制成立
1671年 寛文11年
(辛亥) 6月 28歳 吉田友次撰『俳諧薮香物(やぶにこうのもの)』に伊賀上野宗房として発句1入集。
春立つとわらはも知るや飾り縄 (俳諧薮香物) 三都間全飛脚制度成立
1672年 寛文12年
(壬子) 正月25日 29歳 伊賀の俳人の句30番の発句合せに自判の判詞(歌合せ・句合わせなどで、判者が優劣・可否を判定して述べる言葉)を加えて『貝おほい』と題し郷土上野の鎮守菅原天神社に奉納する。この年は菅原道真の七百七十年忌にあたるので、芭蕉は学問の神として尊崇していた道真の神威に、文運を祈願したのである。発句2入集。その判詞は才気煥発であり、その誹風は数年後に俳壇を席巻する談林調を先取りしていて芭蕉の異常な才能と鋭敏な時代感覚とが察知せられる。 藤堂新七郎家の嫡子良重没。享年24歳。蝉吟の男良長(俳号探丸)後継となる。 河村瑞賢(江戸前期の商人)による日本一周航路完成。
石川丈山(江戸前期の漢詩人)没
春 このような作品を菅原天神社に奉納したのは、専門の職業俳諧師として立身する決意を神に誓ったもので、この春に彼は新天地を求めて江戸に下る。芭蕉の江戸での最初の落ち着き先は菊岡沾涼撰の「綾錦」に[芭蕉翁東都において始めて履をとかれしは古卜尺(卜尺の俳号は父子二代にわたっていたので、古卜尺は父を示す)の宿り也」とあるように以前北村季吟の同門として知り合いであった日本橋船町(後の本船町)の名主小沢太郎兵衛宅であった。(江戸へ出たのは3年後という説もある。)江戸に出た頃芭蕉は卜尺や杉風の薦めによって初心者の俳諧指導にあたりながら、一時伊勢出身の俳諧師高野幽山(当時江戸本町川岸に住する。素堂らとの俳交あり)の執筆(書記役=助手)役をつとめた(白亥編「真澄鏡」)とも言われる。白亥編「真澄鏡」に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると「江戸へ出、幽山の執筆たりしころ撫でつけに成る時
「我黒髪なでつけにして頭巾かな」」
とあり芭蕉は高野幽山の紹介で内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。江戸下向後は、これまでの貞門の俳諧から談林風に転向する。
その後、卜尺の紹介で、幕府御用達の鯉屋と称する魚問屋を営む杉山杉風通称市兵衛という日本橋小田原町(現在の中央区日本橋室町1の12付近)の商人と知り合った。杉風は父賢永(俳号仙風)の影響を受け、俳諧にも心得があったので、自然に芭蕉と相通じるところがあり、やがて卜尺とともに芭蕉の生計上のパトロンとなった。
一説に芭蕉が江戸に下った時、初め桃青寺(墨田区東駒形3-15)に草鞋を脱いだという伝えがある。其日庵二世長谷川馬光の記録に、当山第二世黙宗(もくそう)和尚と芭蕉とが東海道を一緒に下り、江戸に着くとしばらく定林院(桃青寺の前名)に寄宿したと記している。
松浦静山著の「甲子夜話」に予陰荘の北隣は東盛寺なり。その寺に小篁あり。その処嘗て俳人芭蕉の棲みし跡と云ふ。芭蕉盤珪禅師に参禅して専ら禅理を問ひしといふ。これによりてよおもふに、このごろ正眼国師は天祥公の為に天祥庵に往来ありしかば、芭蕉も隣を卜して棲みしなるべし。天祥庵は即今不動堂の処にしてかの小篁と相されこと欃に二十余歩。又今東盛寺の中に芭蕉の像をおく小堂あり。是篁中の旧庵を移せし処といふ。又桃青の号を後に東盛に改めしとも云へり。と書かれている。
雲とへだつ友かや雁の生き別れ (冬扇一路)
郷里伊賀を捨てて江戸に赴く時の作。[蕉翁全伝]に「寛文十二、子の春、二十九歳、士官を辞して甚七と改め東武に赴く時、友達の許へ留別」とある。
3月 江戸で『貝おほひ』を出版する。 きてもみよ甚兵が羽織花衣 (貝おほひ)
5月 蘭秀撰「後撰犬筑波集」に「宗房」として1句入集
12月 松江維舟撰『俳諧時勢粧(いまようすがた)』に『伊賀上野宗房』として1句入集。
高瀬梅盛(ばいせい江戸前期の俳人)撰『山下水』に伊賀生宗房』として1句以上入集。
美しきその姫瓜や后ざね (山下水)
1673年 寛文13年 30 三信・素閑撰「音頭集」に宗房号で発句1入集
1673年 延宝元年 9月21日 改元 西鶴の『生玉万句」に談林新風の第一声があげられる。
芭蕉は延宝元年から二年あたりに、幽山の執筆役として、内藤家へ出入りしはじめた。
我黒髪なでつけにして頭巾かな
1674年 延宝2年
(甲寅) 春 31歳 帰郷して旧主藤堂良忠(蝉吟)の俳諧の師匠北村季吟の来遊するに会う。季吟は芭蕉の旧主人蝉吟の俳諧の師匠であったことから旧知の関係にあったであろう。季吟は「万葉集」「大和物語」「源氏物語」そして「枕草子」等の古典注釈や俳人として、京都で活躍していた当代きっての文人である。 宗因の『蚊柱百韻』を巡り貞門との抗争が表面化した。
仏頂、常陸の国鹿島(現在の茨城県鹿島市)の根本寺の二十一世住職に就任する。その直後鹿島神宮との間に領地争いが起こり根本寺側は幕府に訴え出た。寺院や神社の争いの裁定は幕府の寺社奉行所の管轄であり裁定が出た天和二年までの九年間の大半を、仏頂は根本寺の江戸宿泊所である深川の臨川庵で過ごした。芭蕉の門人の支考は「播磨に盤珪禅師といひ江戸に仏頂和尚といふ。天下に竜虎の名知識なり」(十論為弁抄)と書いている。「知識とは仏教語で徳の高い僧をいう言葉。
3月17日 宗房は京都に上って、季吟から『宗房生(芭蕉)、俳諧熱心浅からざるによって、書写を免じて、且つ奥書を加ふるものなり云々』と奥書した俳諧の作法書『埋木』を授けられた。『埋木』は季吟の著した貞門流の俳諧論書であるが、それを奥書して授けられたことは、両者の間に師弟関係の確立したことを示す。
藤堂新七郎良精没。享年74。良長(俳号探丸)9歳にして家督をつぐ。 冬信章(素堂)上洛、季吟と会吟する。
5月 江戸に来遊した談林派の総帥西山宗因歓迎の百韻に一座し初めて『桃青』の俳号を使用。(尊敬していた李白にちなんで白い李に対する青い桃という意味があるといわれる。)江戸本所大徳院縱画亭で催された。(連衆)宗因、蹤画、幽山、桃青、信章(山口素堂)、木也、吟市、小才、似春、又吟。
立句
いと涼しき大徳也けり法の水 宗因 千利休の孫千宗旦四天王の一人山田宗偏による『茶道要録』刊
この年あたりから著名な文学大名内藤風虎(奥羽磐城の平七万国の城主)およびその次男露沾の江戸溜池葵橋の藩邸で催される風雅の会合に参加し既に知名の俳諧師であったことが知られる。このころすでに宝井其角・杉山杉風・蘭蘭らの門人があった。
9月 広岡宗信撰「千宜理記(ちぎりき)」に伊賀上野住宗房として発句6入集
目の星や花を願ひの糸桜
内藤露沾判「五十番句合せ」(「芭蕉翁句解参考)所引)に発句2以上入集。俳号を宗房より桃青と改める。
町医師や屋敷方より駒迎へ (五十番句合せ)
この当時、幽山の執筆を勤めたという。「駒迎へ」は中古中世期、諸国から朝廷に名馬を献上する駒牽の儀式に当り、左馬寮の官人が逢坂の関まで出迎えた旧暦八月の行事。これを当世風にもじったおかしみ。
嵐雪この年芭蕉入門か。「桃青門弟独吟二十歌仙」に嵐亭治助の号で入集。
1675年 延宝3年 32歳 武蔵野や一寸ほどな鹿の声 (俳諧当世男)
芭蕉江戸に出る。俳号を芭蕉とする。
5月 大名俳人の陸奥国(福島県)磐城平藩主内藤右京太夫義泰(俳号風虎)の招きに応じた大坂の談林派の総帥西山宗因が東下し、本所の大徳院で百韻連句が興行され、芭蕉lも桃青の号で出席したが是が記録に残る桃青号の初出である。この年あたりから、内藤風虎(奥羽磐城の平、七万石の城主)およびその次男露沾の江戸屋敷で催される風雅の会合に参加し、既に知名の俳諧師であったことが知られる。白亥編「真澄鏡」(安政六年)に紹介された高山麋塒の子息が記録した記事によると高野幽山という俳人の紹介で内藤家の文芸サロンに参加できたとされている。
露沾主催の「五十番句合」に芭蕉の二句が確認できる。(何丸著「芭蕉翁句解大成」)
山口信章(俳号、素堂)と親交を結ぶ。
(都留市博物館)
この頃から宝井其角・服部嵐雪・松倉嵐蘭らが相次いで入門
1676年 延宝4年
(丙辰) 2月 33歳 親友山口信章(俳号、素堂)と両吟の百韻二巻を巻き天満宮に奉納。
3月 「江戸両吟集」と題して刊行。宗因新風に心酔のさまが著しい。
立句
この梅に牛も初音と鳴きつべし 桃青(江戸両吟集)
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
夏 俳諧師として自立する目算ができたためか郷里へ旅立つ。桃同伴では、出国後五年目に一度帰国することが、他国で働く領民に義務付けられており芭蕉は寛文十二年に江戸に出ているから延宝四年はちょうど出国後五年目に当っている。
6月20日ごろ~7月2日 四年ぶりに故郷伊賀上野に帰省。 京都にも出向いている。
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