https://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201001150003/ 【松尾芭蕉いざさらば雪見にころぶ所まで】 より
句集「花摘」
さようならばこれにて。私は雪見に行く。雪に躓(つまづ)くところまで、行けるところまで。
註
貞亨4年(1688)旧暦12月3日(新暦の今頃)、名古屋の門弟で書籍商・風月堂孫助(俳号:夕道)邸の雪見の宴に際しての初案「いざ出でん雪見にころぶ所まで」(真蹟懐紙)。
推敲案「いざ行かん雪見にころぶ所まで」──句集「笈(おい)の小文(こぶみ)」所収。
上記掲出作は最終決定稿。
名句であるが、初案および「笈の小文」の第2案が良く、最終案(決定稿)はむしろ改悪ではないかというのが、大方の見巧者の意見であろう。僕もやや同感。
侘び寂びを漂わせ脱俗洒脱といえる初案・第2案とニュアンスが変わり、離別句めいた妙な悲壮感を漂わせてしまっている。
・・・好みの問題だとは思うが。
https://japanknowledge.com/tomonokai/card.html?id=122255&kw=%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%BF【はいかいみ【俳諧味】 より
用例: 年をとればとるほど支那系統のものや、江戸趣味のものや、俳諧味(ハイカイミ)を帯びたものなどがすきになって来ます
『世界放心遊記』 1926年 矢田挿雲
語釈: 〔名〕俳諧に通有する性質、風趣。基本的には抑圧されない自由な人間性から生まれる滑稽、風刺、軽妙、洒脱、また、わび・さびの脱俗的な情趣、好みなど。俳味。俳趣味。】
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498746602.html 【芭蕉が抱える風狂について】より
今日の話はほとんど「受け売り」である。
国文学者、早稲田大学名誉教授、堀切実(ほりきり・みのる)さんの文章「風狂の心に徹する」を紹介する。
以前、芭蕉の弟子・向井去来(むかい・きょらい)の、岩鼻やここにもひとり月の客
(いわはなや ここにもひとり つきのきゃく)という句の、去来と芭蕉の「読み」の違いについて書いたことがある。
豊かな「読み」~読み手の共同創作者としての自覚
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/34547708.html
以下、堀切さんの文章を引用する。
元禄六年(1693)秋の明月の夜、門人・向井去来が嵯峨野の山野を散策中に詠んだ
〈岩鼻やここにもひとり月の客〉の句を、作者自身が、岩頭に己れと同じ風流人がいたのに興を発したものと自解したのに対し、芭蕉が、それでは平凡、作者自らが岩頭に立ち、天空の月に向って、ここにも風狂人がひとりと名乗り出た句とすべきだと説いたのは、月への無限の想いを託した芭蕉の風狂精神を伝えるエピソードであろう。
芭蕉は「月」とくに「名月」に執した俳人であった。芭蕉の紀行文は五つ残っているが、そのうちの二つ、
鹿島紀行 更科紀行
鹿島は今の茨城の鹿島、更科は今の長野県姥捨山へ、「名月」を愛でるための旅であった。
月はやし梢は雨を持ちながら (鹿島紀行)(つきはやし こずえはあめを もちながら)
俤や婆ひとり泣月の友 (更科紀行)(おもかげや うばひとりなく つきのとも)
また、江戸深川では、名月や池をめぐりて夜もすがら(めいげつや いけをめぐりて よもすがら)なんと、名月を愛でて一晩中、池を巡っていた…というのである。
(実に「風狂」だ…。)
「おくのほそ道」では、福井県敦賀で名月を愛で、(あいにく曇り空だったが…)
名月や北国日和定めなき(めいげつや ほっこくびより さだめなき)と詠んだ。
芭蕉にとって「名月」は「一大テーマ」であった。
「風狂」とは「風雅に狂うこと」だが、芭蕉は「月」という「風雅」に狂った詩人であった。
去来の句の解釈は「岩の先に先客の月見人がいた」という「読み」は「一般的」…つまり「普通」である。
そうではなく、天空の名月よ!ここにもひとり、風雅の男がいるぞ!と鑑賞すべきだ! と断言した芭蕉には「風狂」を超えて「狂気」さえある。
堀切さんは言う。
「風狂」とは〝風雅"すなわち〝詩美"の世界への狂気の念をいうが、現実の世間の常理からは逸脱し、自分自身に徹底して心酔してゆく生き方である。
芭蕉は「風狂」の詩人であったわけだが、芭蕉の風狂の人生は、ある時は草庵に住し、ある時は旅に出るという、いわば二つの舞台装置の転換の上で演じられた。
たしかにそうだと思った。
芭蕉の旅の起点は多くは「江戸深川」の「芭蕉庵」である。
そこでつつましいわび住まいをしながら、旅への想いを膨らませてゆく。
そしてどうにもならなくなって、「旅」へ出る。
堀切さんはその風狂の舞台を芭蕉は「演じた」と言う。この「演じた」は批判的な意味ではない。おのが意志によって、現世を出て「風雅」「風狂」の詩世界へと登っていったのである。月に名乗りをあげる…という思想は「風雅」と「自分」との一体…、「自然」との一体感があってこその詩世界である。
「森羅万象」と対等であるからこそ生まれてくる言葉だ。
芭蕉の「凄さ」はそこにこそあり、いまだに他の俳人の追随を許さない。
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ajih.jp/backnumber/pdf/30_02_03.pdf
芭蕉における荘子 - 日本思想史学会
芭蕉における荘子I江戸期の老荘受容と対比してI. 論ずべき重要なことが ... 時、そして深川に隠棲して旅を栖とした時の三期である。 第一期は京都への遊学を ... 師との絶縁として、はっきりした反俗・脱俗の立場がそこ. に表明されている。
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.4/haiku/basyou/basyou.2.htm 【松尾芭蕉・選集】 より抜粋
選者の言葉 (1) 芭蕉/風雅への妄執 (もうしゅう)
支折が、手を結び、深く頭を下げた。
「星野支折です... 現在...小林一茶の俳句を選集しているわけですが、中休とし、松尾芭蕉に目を移してみたいと思います。一度、他に目を移すことにより、一茶の考察も、よ
り深まるものと思っております。
それから、芭蕉は一茶も尊崇した、蕉風/正風の初祖です。そして、私はまだ勉強が足りないのですが、芭蕉によつって連歌の発句(ほっく)が、俳句として確立されたのでしょうか。それ以前には、貞門や談林派などもあったようですが、これから調べてみたいと思います。そうした意味でも、興味津津(きょうみしんしん)ですね。松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶...そして明治に入っては、夏目漱石と知己の、正岡子規が有名でしょうか。
ええ、ともかく...芭蕉の名前は、一茶よりもはるかに知られています。俳句も、非常に有名なものがあり、日本文学の巨星の1つですね。一茶は庶民的な俳句を詠みますが、芭蕉の俳句は脱俗した、洗練されたもののようです。
でも...そこから先になると、分からない世界ですよね。また、非常に奥の深い世界のようですし、多くの国文学者が、長年にわたり研究を重ねています。その辺りも含て...私の個人的なスタンスで...見て行きたいと思います。
そういうわけでので...ここでは、文法や足跡などに深入りすることは避けて、私なりに芭蕉の句を拾い、散文的に芭蕉の世界を考察してみようと思います。私としても、初めて分け入って行く、芭蕉の世界です。私も、非常にドキドキしています...」
「さて... 芭蕉について...少しづつ考察して行くことになりますが...芭蕉は禅や禅僧とは、非常に深くかかわりを持った人のようです。芭蕉といえば、最も有名な句に...古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音 (芭蕉) ...というのがあります。これは、1つの“禅の公案(参禅者に、考えさせる対象や手がかりにさせるために示す、祖師の言動)”のようにもなっています。この一事からも...“芭蕉が深い禅的境涯を極めた人”...だということが、分かります。でも、その一方で...“風雅への妄執(もうしゅう: 迷いによる執着)に、生涯ひきずられ・・・旅の空を彷徨(さまよ)った文学的・求道者”...の面が重なります。
これは、一体どういうことなのでしょうか。これから芭蕉の世界に分け入り、こう
したことも考察してみたいと思います。
ええ...その前に...道元・禅師(どうげん・ぜんじ: 永平寺開祖/『正法眼蔵』の著者。鎌倉時代・初期の禅僧)に...このような歌/短歌があります。
“花紅葉 冬の白雪見しことも 思へばくやし色にめでけり” (道元)(はなもみじ)
道元は...若い頃に学僧として入宋(にっそう: 日本の僧や使節が宋/中国に行くこと)し、仏道に生涯をささげた人です。その道元が、四季の風雅をめでたことを...“思
えばくやし色にめでけり”...と歌に刻んでいます。
僧侶である道元は...風雅や物欲、喜怒哀楽を超え、“悟り/無我無心”に到達しなければなりません。事実、道元は永平寺(曹洞宗の大本山/福井県吉田郡永平寺町)を開山し、禅宗を日本で押し広めるという、偉業を成し遂げました。
でも、芭蕉は俳人です...“無我無心”になっては...俳句を作る必要もなくなり、俳人ではなくなってしまいます。そこで芭蕉は、深い禅的境涯に到達しながらも、あえて文学的・求道者として...“風雅に深く恋をし・・・風雅の魔心/妄執に・・・身をゆだねた”...のではないでしょうか。そこに...“芭蕉の独特の世界が結晶化”...したものと思います。
ともかく...芭蕉の俳句は敷居が高く、私の両手には余るものです。また、そういう次第で、高い禅的素養も求められます。そこで、ここでは他の皆さんにも、助力を仰ぐことにしました。あ、でも、最終的には私が取りまとめます。
ちなみに...《当・ホームページ》では...ボス(岡田/一風/止水)が、独学で、『正法眼蔵』を学んでいます。それから、ボスと同格の高杉・塾長がいて、里中響子さんは、塾長のお弟子さんです。そして私は、主に響子さんから、教えを仰いで来ています...」
支折が、チラリとインターネット正面カメラを見た。そして、モニターをスクロー
ルした。
「さあ...これから、考察を進めて行くわけですが...その前に、時代背景を簡単に述
べておきましょう...
松尾芭蕉が活躍したのは...江戸時代・前期/元禄の頃でした。元禄文化というのは、有名ですよね。上方(関西地方)では、井原西鶴(いはらさいかく: 俳人/談林派、浮世草子/上方を中心に出された娯楽的な通俗小説・・・代表的なものは、好色一代男)や、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん:人形浄瑠璃と歌舞伎の作者 )がよく知られています。
芭蕉は、江戸/深川に芭蕉庵を持っていたわけですが、 元禄文化の中心は、上方にあったようです。江戸は、徳川幕府が開府されてまだ日も浅く、文化の中心地にはなり得なかったようです。
でも、一茶が活躍した...文化・文政(1804年~1829年)/江戸時代・後期の化政
文化は...江戸を中心とした町人文化だったようです。
一茶(1763~1828年)は、芭蕉(1644~1694年)から、およそ100年ほど後の俳人です。正確には...ええと...芭蕉が誕生した年から...119年後に、一茶が誕生していますよね。
あ、それから...芭蕉は、芭蕉翁などとも呼ばれたりしますが...それは尊称です。実際には、51歳という若さで、早世(そうせい: 早く世を去ること)しています。
一茶の方は...65歳で没していますね。うーん...これは当時としては、よく
生き抜いた方なのでしょうか...? さあ...あまり固くならずに...塾長のよく言われるように...ブラリと...芭蕉の世界に入ってみましょう...」
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