https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=393 【伊勢湾台風で一部露出―月出の中央構造線露頭地】 より
今回は、地球の歴史に関する三重県の見どころ、松阪市飯高町月出の中央構造線露頭地について述べてみよう。
中央構造線とは、日本列島を九州から関東まで約1000㎞も続く横ずれの大断層帯のことで、明治期に来日したドイツの地質学者E・ナウマンの調査研究によって知られるようになった。断層の始まりは、まだ日本列島が形づくられる以前の中生代白亜紀後期(約8000万年前)まで遡(さかのぼ)るという。構造線を境に北と南では地質構造が大きく異なり、断層山脈や褶曲地形あるいは破砕帯を浸食して流れる河川がよく発達している。ランドサット衛星からの写真を見ると、愛媛県の佐多岬半島から四国山地、吉野川、和歌山県の紀ノ川にかけてほぼ東西に一直線の線が走っているように見える。これが宇宙から見た中央構造線である。九州地方と中部以東は新生代以降の複雑な地殻変動が重なって衛星写真でも見えにくくなっているが、地表調査では、紀ノ川最上流部から高見峠を越えて松阪市飯高町月出~同飯南町粥見~多気町五桂付近を通り、伊勢湾口を横断して豊橋付近から天竜川沿いを北上、途中、フォッサマグナ(新生代の地質構造線/ナウマンの命名)で断ち切られるが、諏訪湖付近から北関東を経て太平洋の海底に延びていることがわかっている。
松阪市街から国道166号線を西に向かって櫛田川沿いに車を進めると、道路の両側には茶畑が広がっている。この付近は伊勢茶の生産が活発な地域の一つで、飯高出身の「茶業王」大谷嘉兵衛の活躍を思い起こさせる。所々には旧和歌山街道の面影の残る家並みと旧道が見られ、波瀬本陣屋敷の少し手前、桑原トンネルの脇を北に折れて国道を離れると月出集落に入る。さらに、林道を約6㎞進み、案内板に従って山道を少し歩くと通称ワサビ谷の斜面で明らかに異なる地層の大規模な露頭が見られる。これが中央構造線の露頭で、高さ80㍍×幅50㍍ほどの範囲で山の斜面が大きく崩れており、明らかに色の違う地層が観察できる。向かって左側が領家系(日本海側)の変成岩層、右側が三波川系(太平洋側)の変成岩層で、約60度の角度で直接接している。超高温・高圧の状態が長年月続くと地層の界面は変質し、脆(もろ)くなって岩屑帯となっている様子がはっきりとわかる。
『三重県史』別遍(自然)が刊行されたのは1996(平成8)年3月で、月出の露頭に関する資料を採録することはなかったが、自然系の分野とは別の方面から少し調べてみた。発見の経緯などはあまり明らかではないものの、1959(昭和34)年の伊勢湾台風に伴う崖崩れによって露頭の一部が現れた(写真の右肩部分)のが最初とされる。しかし、下半は崩れた土石で埋もれたまま見過ごされてきた。
90年代になって、これを中央構造線の露頭であると見抜いたのは諏訪(すわ)兼位(かねのり)名古屋大学名誉教授ら地質学研究者たちだった。一方、櫛田川上流部での治山治水事業が進む中で、県内外の研究者や教育界から学術的にも貴重な月出露頭の保存について県や町に提言されるようになった。95年度から3か年計画の県営治山事業で、露頭下部の崩れた土石を除去してその残土で観察広場を造成し、崖面の擁護壁を建設するなどして治山と保護の両立を図った工法を進めた結果、露頭が全面に見られるようになった。97年、このことが学会誌「地質学雑誌」に発表されて月出の露頭は全国にも知られるようになった。
当時の飯高町の広報活動などもあって、月出の露頭は、中央構造線の基本的な姿が観察できるところとして広く知られる存在となり、2002(平成14)年には国の天然記念物に指定された。今年度は「日本の地質100選」にも選定され、今後は野外観察授業の場やジオパークとして活用が進むものと期待される。
http://www.nishida-s.com/main/categ3/20mtl-aichi-mie/index.htm 【中央構造線の旅(2)-愛知県・三重県】
https://mtl-muse.com/mtl/aboutmtl/whereismtl/ 【大鹿村中央構造線博物館 > 中央構造線 > 中央構造線ってなに? > 中央構造線はどこを通っている?中央構造線はどこを通っている?】
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO99946320R20C16A4TJN000/ 【「中央構造線」列島横切る巨大断層】より
熊本地震の延長上 九州~近畿で400年前に連続発生 2016年4月22日 3:30
熊本県から大分県にかけて強い地震が連続して発生、大きな被害を出した。内陸で起きる地震の常識を超えて100キロメートルもの範囲に震源が広がり、さらに東の愛媛県などに拡大するのではないかと懸念する声が出ている。一連の地震の震源の延長上に西日本を縦断する「中央構造線」と呼ばれる大規模な断層帯が存在するためだ。西日本を背骨のように貫く中央構造線とはどのようなものなのだろうか。
熊本県御船町で確認された、日奈久断層帯が地表に現れたとみられる断層=東北大提供
「一番の懸念は、(一連の地震が)中央構造線につながっているということだ」。18日に開いた緊急記者会見で、日本地震学会会長の加藤照之さんはこう語った。
14日の夜に熊本市近郊で最初の地震が発生。16日未明にそれをはるかに上回る規模の本震が起き、これをきっかけに阿蘇山周辺から大分県へと、マグニチュード(M)5級の地震が広がっていった。
今回のような直下型地震は、地下の断層がずれることで起きる。地震を起こした活断層の延長上で別の地震が起きることはしばしばあるが、これほど大きな地震が100キロ以上も進んでいくのは「かなり特徴的」(加藤さん)だという。
全長1000キロ以上
地震は、九州を横切る「別府―島原地溝帯」を東に進んだ。地溝帯というのは、両側を断層で挟まれた幅の広い谷のことだ。別府―島原地溝帯は、西日本を横切る長大な断層の連なり「中央構造線」の西端に当たる。中央構造線の周辺には並行して多くの活断層があり、地震の連鎖が広がるのではと懸念された。
中央構造線は、全長1000キロメートル以上に及ぶ。九州から四国北部を経て紀伊半島を横断。伊勢湾を横切り、天竜川に沿って北上して、長野県諏訪湖付近で本州の中央部を横切るフォッサマグナとよばれる巨大な地溝帯にぶつかる。このフォッサマグナの西の縁が、中央構造線と並ぶ巨大な断層帯として知られる糸魚川―静岡構造線だ。
異なる断層に由来する大きな地震が連動するのは、近代的な観測が行われるようになってからはあまり例がない。だが、過去の時代の文献からは、そうした事例があったことが見て取れる。
安土桃山時代末期の1596年9月1日、中央構造線沿いの愛媛県でM7級の慶長伊予地震が起きた。その3日後に、およそ200キロメートル離れた大分県で、同程度の慶長豊後地震が起きている。その翌日に兵庫県で発生した慶長伏見地震も、これらの地震と関連するとみる研究者もいる。
分かれる意見
今回の地震が、大分県を越えてさらに東へと強い地震が広がる可能性はあるのか。研究者の見方は様々だ。
九州大学准教授の松島健さんは「1995年に中央構造線近くで阪神大震災が起きた。今回も中央構造線に沿って他の地震が起きる可能性は否定できない」と見る。一方、京都大学防災研究所教授の岩田知孝さんは「慶長伏見地震などから約400年しかたっていない。ひずみはたまっておらず、すぐには動かないのでは」と話す。
中央構造線の元になった断層は、今から1億年以上前、日本列島がアジア大陸の一部だったころに誕生した。恐竜がいた白亜紀に、海洋プレートが運んできた陸地が大陸にぶつかった。その後、大陸の端が大きく横ずれして巨大な断層ができたと考えられている。これが中央構造線だ。
日本列島は、中央構造線の一部を含んだ形で、2500万年くらい前に大陸から離れはじめた。海底にできた裂け目が広がり、日本海ができたことで太平洋側へと押し出された格好だ。この過程でさらに断層がずれ、現在の日本列島の形ができた。
中央構造線にはひずみが集中しており、その周辺には活断層帯が多い。別府―島原地溝帯には、熊本地震を引き起こした日奈久(ひなぐ)断層帯や布田川(ふたがわ)断層帯、大分の地震との関連が疑われる別府―万年山(はねやま)断層帯などの活断層がある。中央には巨大な阿蘇山が存在し、雲仙岳がある島原半島から熊本県八代市沖までは活断層の密集地帯だ。
今回の地震は、遠く離れた断層が連動して動く可能性を印象づけた。地下の断層の動きはいまだ予測がつかず、対策は警戒を怠らないことしかないようだ。
(小玉祥司)
構造線 長さが数百キロメートルにわたって続くような大規模な断層のつながりのことをいう。構造線の両側では地層や岩石の特徴が大きく異なる。構造線すべてが活断層とは限らないが、構造線の周辺には並行して活断層が存在することが多い。
大陸の沿岸にある日本列島は、太平洋から大陸の下に沈みこむ海洋プレートから様々な方向の力を受けて至る所に断層が形成されている。このため各地に多くの構造線が存在しており、中央構造線のほかにも、北関東から東北に延びる棚倉構造線などが知られている。
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