三河の歌

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu4/215.html  【(1) 三河の歌(2)】より

今号は三河の歌(2)として、伊良湖岬の歌を取り上げます。1番歌以外は山家集に採録されていますので1180年からの伊勢在住時代以前に詠まれたものとみてよいと思います。

西行は伊勢に居を移し六年少しを住むよりも前に、しばしば伊勢にまで行きましたが、その時々に伊良湖までの舟旅も体験し、海そのものを楽しんだものと思います。      

1 波もなし伊良胡が崎にこぎいでてわれからつけるわかめかれ海士  (岩波山家集280P補遺・夫木抄)

 いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやのむねと侍るなり、

 それをとりたるからを、高く積みおきたりけるを見て

2 あこやとるゐがひのからを積み置きて宝の跡を見するなりけり(岩波山家集127P羇旅歌)

 沖の方より、風のあしきとて、かつをと申すいを釣りける舟どもの帰りけるを見て

3 いらご崎にかつをつり舟ならび浮きてはかちの浪にうかびてぞよる  (岩波山家集127P羇旅歌・夫木抄)

 二つありける鷹の、いらごわたりすると申しけるが、一つの鷹は とどまりて、木の末にかかりて侍ると申しけるを聞きて

4 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな (岩波山家集127P羇旅歌・夫木抄)

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2番歌から4番歌までは山家集所収歌ですから、新潮日本古典集成山家集にも採録されています。重複しますが新潮版も記述しておきます。

2 阿古屋とる いがひの殻を 積みおきて 宝の跡を 見するなりけり

3 伊良胡崎に 鰹釣り舟 並び浮きて 西北風の波に 浮かびつつぞ寄る

4 巣鷹わたる 伊良胡が崎を 疑ひて なほ木に帰る 山帰りかな

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○伊良胡が崎

愛知県渥美半島の突端にある岬の名称。対岸の三重県鳥羽市とは海上約20キロの距離があります。

○われから

「割殻虫」という海生の虫の名前。海藻などに付着している甲殻類節足動物の一種で体長は3~4センチ。1番歌は伊勢物語の下の歌を参考にして詠んだ歌ではないかと思います。

◎ 恋ひわびぬ海人の刈る藻にやどるてふ我から身をもくだきつるかな

               (伊勢物語 第五十七段)

○わかめかれ

 (わかめ=若布)は海草の一つで食用。(かれ)は(刈れ)。

○かつをと申すいを

 魚のカツオのこと。

○はかち

 西北から吹いてくる風。

○二つありける鷹

 「巣鷹」と「山帰り」の鷹を言います。

○いらごわたり

 愛知県渥美半島伊良湖から、伊勢湾を超えて伊勢の鳥羽まで、もしくはそれよりも遠くに鷹が飛び渡ること。伊勢湾は渡り鳥のルートになっています。

4番歌の場合は飼育されている鷹ですから、渡り鳥の場合とは別に解釈されます。訓練のために伊勢から伊良湖へ渡らせたものでしょう。

○一つの鷹

 「山帰り」の鷹のこと。

○すたか

「巣鷹」。巣の中の鷹の雛のこと。また鷹狩り用に巣の中の雛を捕獲して飼育すること。飼育された鷹自体も「巣鷹」といいます。

○山帰り

 年を越えて山で羽毛をかえた鷹のこと。その鷹を鷹狩り用に捕獲して飼育しているもの。

 (3番歌の解釈)

 「伊良湖崎の沖の方から、風が悪いというので、鰹を釣る舟が一斉に並んで、西北からの風に立つ波に揺られ浜辺をさして近寄ってくることだよ。」

            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (4番歌の解釈)

 「巣鷹は疑うことなく伊良湖へ渡るけれど、山帰りは自信がないのか臆病なことにいったん飛び立ってもまた木に戻ってしまうよ。」

 「鷹の生態を聞き取った二見浦での体験を詠むか。成人してからの出家者としての自身を「山帰り」に重ねているが、最晩年というより「鈴鹿山憂き世・・・」歌の詠出時期に近いか。」

                (和歌文学大系21から抜粋)

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◎ ひきすゑよいらごのたかのやまがへりまだひはたかしこころそらなり

                    (藤原家隆 壬二集)

◎ しまひびくいらごがさきのしほさゐにわたる千鳥はこゑのぼるなり

                    (藤原家隆 壬二集)

◎ ふきおくるいらごがさきのしほかぜにやすくとわたるあまのつりぶね

                  (寂身法師 寂身法師集)

◎ 玉藻刈るいらごが崎の岩根松幾世までにか年の経ぬらん

                   (藤原顕季 堀川百首)

◎ うつせみの命を惜しみ波に濡れいらごの島の玉藻刈り食む

                   (万葉集巻一 麻積王)  

◎ 汐さいにいらごの島べこぐ舟に妹のるらむか荒き島みを

                  (万葉集巻一 柿本人麿)

 万葉集では伊良湖は伊勢の国としています。

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    (2)伊良湖の渡り鳥

芭蕉に「鷹一つ見付てうれし伊良湖崎」という句があります。

(笈の小文)の旅の時の伊良湖での句です。尾張鳴海まで来てから、引き返して渥美半島先端の伊良湖に向かったと記述されています。

この句や西行の歌にあるように伊良湖と鷹は関係が深く、古代から「鷹渡り」の中継地点として知られていたようです。

冬渡りする鳥たちは10月頃に方々の生息地から伊良湖岬に集合します。

そして何百羽、何千羽という規模で、上昇気流に乗って飛び立ちます。

伊良湖から各地を経ながら、あるいは一気に南方を目指して日本を離れます。そしてまた次の年の春には日本にやってきます。

鷹などの猛禽類だけでなく、ツバメ、ヒヨドリ、メジロなどの小型の鳥なども伊良湖渡りをするようです。

今号の4番歌の場合は鷹狩り用に飼育されている鷹であり、渡り鳥としての鷹ではありません。ですから「伊良湖渡り」と言っても、渡り鳥の場合とは意味が違ってきます。伊勢の鷹匠が訓練の一環として伊勢から伊良湖まで飛ばしたものと解釈して良いでしょう。

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    (3)尾張と三河の歌枕

(尾張)

○ 熱田(愛知県名古屋市)

○ 鳴海(愛知県名古屋市)

○ 二村山(愛知県豊明市)

○ 夜寒の里(愛知県名古屋市)など。

(三河)

○ 伊良湖(愛知県渥美半島)

○ 八橋(愛知県知立市)

○ 引馬野(愛知県知立市)

○ 二村山(愛知県岡崎市?)

○ 高師山(愛知県豊橋市)

○ 志賀須賀渡(愛知県宝飯郡)など。

◎ 「引馬野」については遠江の歌枕とするのが正解と思いますが、五代集歌枕、八雲御抄では三河の歌枕としています。しかし遠江の「引馬野」歌は多くありますが、三河の歌は万葉集に一首のみです。そういう事情があって、「引馬野」は三河 及び遠江の両方の歌枕であると解釈しても良いでしょう。

十六夜日記では引馬野は遠江としています。この当時は、現在の静岡県浜松市の地名が「引馬野」とされていたようです。

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    (4)尾張からの推定順路

13号で伊勢から尾張両村駅までの順路を記述しました。当時の東海道であり、西行が陸奥までの往路をたどった推定順路とみなして良いと思います。今号では尾張両村駅から、遠江猪鼻駅までのルートについて記述してみます。

尾張両村駅→鳥捕(ととり)駅「安城市」→山綱駅「岡崎市」→渡津駅「宝飯郡小坂井町」→遠江猪鼻駅「静岡県浜名郡新居町」

このルートは、鎌倉時代の鎌倉街道及び江戸時代の東海道とほぼ重複します。

尾張両村駅から遠江猪鼻駅までの距離数は66.3キロです。

この間、矢作川と豊川の渡しがあり、渡船で二度の渡川をすることになります。

尾張両村駅から遠江猪鼻駅までの名所は二村、矢作川、宮地山、白須賀渡、高師山などがあります。

(江戸時代の53次の宿場)

知立→岡崎→藤川→赤坂→御油→吉田→二川→白須賀→新居

今号の歌である「伊良湖」は東海道のルートにはありません。

ただし平安京以前の初期の東海道ルートは飛鳥京あるいは平城京から伊勢に出て答志島→伊良湖岬というルートの可能性もあるようです。

「古代の道・建部健一氏著」では答志島に志摩国府があった可能性を示唆していますし、「万葉集 運命の歌・小島信一氏著」では「都から尾張、三河へ出るには、伊勢から海路をとるしかなかったと明記しています。

いずれにしても伊勢から伊良湖、さらには渥美半島の根元の豊橋市の高師あたりまでは盛んに舟で行き来していたことだろうと思わせます。伊勢湾の海流や気候を知悉した人々の存在なくしては成り立たない航路だったものと思います。


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