「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」松尾芭蕉の生き方

https://ameblo.jp/hiroo117/entry-11625869302.html 【何でもないことに感動する】より

松原泰道師の心に響く言葉より…

私の友人に九州で非行気味の少年少女や不登校の子どもたちを預かるお寺があるんです。

子どもたちは事件を起こすこともあるそうで、警察官たちとも懇意になった。

ある日、一人の警官が私の友人に質問をしたそうです。

「今朝、署長から『宿舎から警察署に来るまでに何か感動したことがあるか?』と聞かれて、私たちはみな『ありません』と答えたら、すごく怒られました。『生きた人間と向き合う私たちが感動しなくてどうするんだ』と言うのですが、これはどういう意味なのでしょう?」

友人は、「『よく見ればなずな花咲く垣根かな』の気持ちだと思う」と答えたんです。

ご承知の通り、松尾芭蕉の句ですね。

なずなとはペンペン草のこと。

義理にも美しいとは言われない。

その花が垣根の隅っこに咲いていた。

誰が見ていても見ていなくても、咲くべきときがきたら一生懸命咲いている。

それを芭蕉は、熱視して感動したんです。

つまり、その署長の言いたかったことは、何にしても深い感銘が持てるようにならなければ、繊細な心を持つ子どもたちのことなどわかるわけがないだろうということなのでしょう。

私もその通りだと思います。

人間は何でもないことに感動できる感受性を持っています。

感動すると、そこに希望が生まれ、希望を持つことで、工夫を重ねるわけです。

逆に言えば、人間は感動しなくなったら進歩することなどできません。

私も毎朝、目が覚めたとき、この高齢(101歳)で今日もまた生きさせて頂いたと感動します。

本当にありがたいことです。

『つまずくことが多い人ほど、大きなものを掴んで成功している』マガジンハウス

感動とは、集中すること。

うわの空で、心ここにあらずの、心がざわついている時は、感動できない。

好奇心や、ワクワク、ドキドキする子供の気持ちを持ち続けている人は、小さなことにも感動できる。

道ばたに咲く野の花。

朝起きたときの小鳥の声。

真っ青な空や、山の色。

感嘆のあまり発する感嘆詞は、感動詞とも言うが、「わぁ!」、「すごい!」、「やった!」、「キャアー」、「ええ!まさか!?」等々の感嘆詞を普段多く使う人は、感動多き人。

日常の何でもないようなことに、感動できる感受性豊かな人でありたい。


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「大量生産・大量消費でない未来社会」について皆さんといっしょに考えようと呼びかけました。そして私は「死」や「自然」という視点から、人間にとって本当に必要な価値観について発言することを多くしたいと予告しました。これまでの常識を捨ててゼロから考え直すという場合、「死」や「自然」こそゼロの視点を提供してくれると考えたからです。

 でも、いきなりそのような話に入って行くと、誤解を受けそうに思います。誤解とは、これまで進められてきた、そして現在も多くの人が努力を重ねている運動、例えば「平和」「人権」「環境」「政治改革」などの価値を否定するのか、という誤解です。

 いえ、決して否定するものではありません。むしろ結局は「平和」「人権」「環境」「政治改革」といった運動の先に未来社会は開けてくるのだと考えています。ただこうした運動が本当に役立っていくためには、今のままでは不十分で、本当に危機的な現状を深く分析することと、さらに「人間にとって本当に必要なものは何か」について議論し、共通理解を広げてゆく努力を潜り抜けることが必要だと考えているのです。

 以上のような言い訳を述べておいて、これから「自然」や「死」を材料にしながら、「人間にとって本当に必要なものは何か」を探っていく作業に入っていきたいと思います。

さて、「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」これは芭蕉の句です。よく見ないと見過ごしてしまうような地味で小さなペンペン草の花が、垣根の下にひっそりと咲いているのを見て読んだ句です。つまりそのように咲いているなずなの花を見出して、共感を寄せているのです。この句が好きだという人は多いようで、私もその一人です。

 歳を取ると誰でも体力が衰えていきます。体の不調もあちこちと起こります。また、親しい人を亡くした体験が重なってきます。74歳の私の場合の特徴は「親しい友人ベストテン」に入るような友達の半数ほどをすでに亡くしたということです。中には「余命何ヶ月」と宣告された人が3人もいて、病室に何度も通いました。彼らと向かい合っているとき、「今」は一刻一刻がものすごく大事な時間なのだろうと感じました。

そんなこともあって、近年は「あいつでも死ぬんだから俺が死ぬのは当たり前のことだ」と素直に思うようになってきました。そう思うようになると、自分が今生きているということだけで有難いことだと思えるようになります。太陽が明るく暖かく照らしてくれているだけで、自分の足で歩き自分の口で食べられているだけでうれしいと思います。ちょっと特別な美味しい物を食べたり小さな旅行をしたりすると、けっこう贅沢な時間を持ったように思います。家族や友人など親しい人間関係に包まれていることは、実は豊かなことなのだと気付くようになります。3年前に胃ガンの手術がこじれてこのまま死ぬかもしれないと思う経験を経て、いっそうそう思うようになりました。

数年前からオカリナの練習をしています。これもなぜか似た面があって、下手だからレッスンを受けに行ったりもしていますが、目的は難しい曲を見事に吹くことではなく、「赤とんぼ」のような単純な曲を満足して吹けるようになりたいと思うのです。下手でも上達していることを感じるだけで、けっこう嬉しいのです。さらに、リハビリを兼ねて宝塚の中山(500メートル足らず)に毎週のように出かけています。低い山で同じような所ばかり歩いても全然飽きないのです。沢の流れの水音を聞き、風が木々を揺らしている、草と土の道の自然の中を歩くだけで、心が満たされるのです。市民農園の小さな畑仕事も、土や野菜という生き物を相手にしていると、毎日変化があって夢中になれるのです。

さて皆さん。ここで述べているような話は夢や心のエネルギーを失った年寄りの特殊な話で、病院の待合室だけで通用させるべき話でしょうか? いえ私にとってはそうではありません。人間が生きていくために本当に必要なもの、心を豊かにするものが何かということを考えるための大事な材料のように思えるのです。

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」という句ですが、芭蕉は地味な目立たないナズナの花が、垣根の下で可憐に咲いているのを見出して「いいな!」と思っているわけです。彼は身近なありふれた世界の中にでも、美や意味や豊かさなどを見出しながら生きてきたのだと思います。その姿は「大量生産・大量消費でない未来社会」の生き方の一つのモデルを示してくれているようにも思えます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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