桜と松

http://shinrinzatsugaku.web.fc2.com/zatsugaku1004.html 【京都御苑、あるサクラとマツの話】 より

これが京都御苑、その「桜松」。緑のマツにサクラの花が・・・。倒伏前の姿。

小さな根は、しっかりと土を捉えている。2009年、倒伏13年目。

同期の桜たち、楽しげにほころぶ。1999年、倒伏3年目。

 俗に「御所」の名で親しまれている京都御苑。その中心に近く、学習院跡と称するところに、倒れたままのマツの幹から枝を伸ばしたサクラが、毎年春に花を咲かせています。

 といってもピンとはこないでしょう。その傍に立つ案内板には、こうあります。

「マツに生えたサクラ:

この倒れた木は、クロマツの中にヤマザクラが生えていたもの、(中略)枯れたクロマツの空洞に自然にヤマザクラが地中まで根をはり、毎年花を咲かせていましたが、 1996(平成8)年4月17日に倒れました。今後も花を咲かせてくれることを願って・・・。  環境庁京都御苑管理事務所」。

 1955(昭和30)年頃、すでに60年は越えた大きなクロマツの樹上の窪みに、鳥が運んできたヤマザクラのタネが芽を吹きました。サクラはそこで大きく生長、マツの幹の内部の腐れに沿ってその根を伸ばし、何年もかかって土にまで達したのでした。

 この間、マツの樹上にサクラは枝を広げて花を咲かせ、誰言うともなく、御所の「桜松」「松木の桜」の名で親しまれてきました。

 1993(平成5)年、マツ枯れ病でマツは枯死、しかしその後も、サクラは枯れたマツの樹上で、咲き続けていました。

 ところが、1996年、その年の満開を過ぎて間もなく、桜松は倒れます。御苑管理事務所は、倒れた木の根に土を盛って経過を見ることにした・・・というのがいきさつです。

 それから既に十余年、「桜松」は倒れたままで、サクラの花を咲かせ続けています。

 はじめの数年は、徐々に花付きが悪くなるようでした。

 しかしその後、枯れたマツの幹のあちこちからサクラの根が出てきて土を捉えるようになり回復、今となってはいたって元気、当分は毎年花が見られそうです。

 クロマツとヤマザクラ、相性が良いのかもしれません。

 御苑では、桜松に至る途中段階の実例がいくつか見られます。岐阜や和歌山でも同様のものがあるようですし、最近、大津市南郷での例を、吉良竜夫先生からうかがいました。

 ただし、大きな木で、横臥したまま花が咲き続けているというのは聞いたことがありません。もっとも、公園などでは木が枯れたり、倒れたりしたら即座に片付けてしまうのが通例ではありますが。

 京都御苑は、面白い実例を残してくれました。

桜松の前に立つのは、このサイトで「ちょっと教えて」と私を質問攻めにしている孫娘です。

彼女は桜松の倒れる5ヶ月前に誕生、つまり毎年花の頃には、木の倒れてからの年齢と同い年、“同期の桜”。そんなことから毎年、桜松の前で写真を撮ることにしています。

彼女が2歳の頃だったでしょうか、こうした木の状態を見て「このチャクラ、ネンネしたまま、咲いてるネ」と言いました。以来、わが家では「寝ンネのサクラ」が通称に。

 「寝ンネのサクラ」、「“花”報は寝てマツ」・・・なんてネ。


http://575.jpn.org/article/174793852.html 【桜より(松尾芭蕉)】 より

桜より 松は二木を 三月越シ 松尾芭蕉

■ 訳

(遅咲きの)桜から三か月、武隈の松は(私を)待っていてくれたよ。

■ 解説

「二木(ふたき)」は武隈の松、「三月」は芭蕉の出発から三か月、を意味します。

「桜」と「松」、「二木」と「三月」が対句、「松」は”待つ”と掛かっています。

季語は「桜」で本来は春のように思われますが、「桜より…三月越シ」となっているため夏の句になります。

※ 弟子の挙白へのお礼として詠んだ句なので「桜」を季語として詠まない方が自然です。

(季語は連句において発句に付けるものなので、この句の場合は季語無しでも問題ないように思われます。)

■ この詩が詠まれた背景

この句はおくのほそ道、「武隈」の中で芭蕉が詠んだ俳句です。前回の笠嶋の旅の続きです。おくのほそ道には、

「岩沼に宿る。武隈の松にこそめ覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出、往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや。松は此たび跡もなしとは詠たり。

代々あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。武隈の松みせ申せ遅桜と挙白と云ものゝ餞別したりければ、(本俳句)」(岩沼(現在の宮城県岩沼市)で宿をとった。

歌枕で知られた武隈の松を見て、まるで目が覚めるような心地がした。

(松の)根は土際から二本に分かれており、まるで昔(伝え聞いた)の姿のままのようだと知られる。(この松を見て)最初に能因法師の(詩を)思いだした。

昔陸奥国に下った人がこの木を伐採して名取川の橋を架ける杭として使われたのか、「松は此たび 跡もなし」と詠んでいる。

代々、ある時には伐採され、ある時には植えられたと聞き、今日また「松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)」といわれる立派な姿であった。

(弟子の)挙白から、(おくのほそ道の旅)出発前の選別として

「武隈の 松みせ申せ 遅桜」((芭蕉出発の日(新暦で5月16日)に咲いていた)遅桜よ、武隈の松を(師匠に)お見せしたまえ。)という句をもらったので、(本俳句)(と詠んだ。))とあります。

■ 豆知識

作者は松尾芭蕉です。

能因法師の詩というのは「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千歳を経てや われは来つらむ」のことです。

この詩は後拾遺和歌集に選歌されています。

この和歌については後日紹介します。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000