Facebook・立岩 司さん投稿記事
<歎異抄第三章>『悪人こそが救われる 悪人正機』
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる 間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。
※訳
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っています。
これは一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反するのです。
なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている 間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象 にはならないのです。
欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうやっても 迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに 思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を 100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのです。
それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら 助かると仰になったのです。
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
そのの中央の木の実とはリンゴだと通説には言われています。
しかしダンワールドではマゴガーデンで葡萄の実を食べた故 人間の堕落が始まったと教えます。
私はこのアニメを観た時 楽園追放をイメージせずにはおれませんでした。
機会があってナジルびとを調べました。
ウィキペディアには以下のように記されています。
ナジル人(ナジルびと)とは、聖書に登場する、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。実名で知られている者としてはサムソンが挙げられるが、他にも大勢のナジル人が存在したことを聖書は示している。また、サムエルもナジル人であったとする意見もある。
ヘブライ語のナジールは、「聖別された者」を意味する。この同じ語は、ヨセフが祝福されたことに関連しても用いられている。
ナジル人の誓約[編集]
「民数記」6章にその規定が存在する。
ありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止される。葡萄酒、葡萄酢(ワイン・ビネガー)、生のまま、干したもの(レーズン)、まだ熟していないもの、皮、が列挙されている。
髪を切ってはいけない。
死者に近づいてはいけない。たとえそれが自分の父母であっても例外は存在しない。
旧約聖書に従えば 葡萄及びその加工品を口にすれば 神の祭司としての資格を失うことになります。「禁断の木の実は葡萄」だといえそうです。
一方近代科学から見れば 禁断の木の実はやはりリンゴだといえそうです。
リンゴを縦に割ってその切り口を観ると トーラスが!!!
横に割ると五芒星が!!!
クリスチャンはキリストの血と肉に預かるシンボルとしてパンと葡萄酒を使います。(ミサも聖餐も)
ミサや聖餐式は過ぎ越しの食事の象徴だともいわれます。
災いを過ぎ越し 奴隷から導き出された 神の民の感謝の儀式です。
「パン」は出エジプトの時に朝ごとに与えられた「マナ」を象徴し「葡萄酒」は 出エジプトの時 神のもたらす災いを通り過ぎさせるために 門に塗った「子羊の血」の象徴といえます。
またイエスは神の子羊とも言われます。ミサも聖餐も信者以外は預かることができません。
神の民として聖別されるはずの儀式が ナジルびととしての誓約を破棄する儀式となっていることになります。
礼拝の中心にあるこの典礼式の矛盾を どのように受け止めればよいのでしょう?
Taiki ShimizuさんのFB投稿記事編 一瞬で幸せに通じる 祈りの言葉
夢が叶う、自分の能力が発揮出来る言霊をご紹介します。
試験前など 何か事を成し遂げる前、大一番の前に心の中で
「 ハルチ ウムチ ツヅチ 」と3回言ってみて下さい。
必ず今までの努力したことが、発揮できます。
これは何もまったく意味のない呪文じゃありません。
大昔の古事記にも載っている列記としたもので琉球神道に伝承される真言です。
「チ」とは「気」のことで、、、
・ハルチ・・・“張る気”。油断をせず注意させる気力。努力させる気力。
・ウムチ・・・“生む気”。無から創造させる気力。生み出させる気力。
・ツヅチ・・・“続く気”。長期に持続させる気力。疲労を退けさせる気力。
そして もう一つ 古来から日本に伝わる
もっとも大事な、もっとも短い、祈りの唱えごとは、
【惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)】です
「すべての神様のみ心のままに、よりよくお導きください、お守りください」という意味です。
時に、祈りの内容が、大変身勝手な自分の欲望を満たすことしか考えない自己中心的なものであるとき、その祈りは神に通じるものにはならない。
地球、国、父母、兄弟、家族、友のために行う祈りこそ、神に通じます。
幸せになる一番の近道は 受けた愛に気づくこと。
自然、太陽、食べ物、先祖、家族、友達…多くの恩恵の上にあなたの今日があることを悟り、心からの感謝の思いが、泉のように湧いてくる。
凍りついた心は自分で溶かさなければ自らを苦しめている思い込みを変えなければ前に進むためにはもう一度自分を信じ(神事)なければ 誰かのせいにして 真実から逃げてしまわないように 死を迎えるときに 後悔することのないように 自分らしく 今を生きよう
惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)
ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。
しかし、よく『私たち』は閉じたドアばかりに《目を奪われ》もうひつの開いたドアに《気付かない》ヘレン・ケラー
【宇宙は、ものごとが淡々と起きているだけなので、それをどう捉えるかは、『私たち』が総てを決めているのです。】・・・小林正観
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