十牛図現代考―己事究明論としての十牛図とその可能性

file:///C:/Users/minam_000/Downloads/AA12508620-20161130-0057%20(1).pdf 【十牛図現代考―己事究明論としての十牛図とその可能性】山下 弥生 より

禅の修行の過程を示した十牛図という小冊子がある。十牛図は禅宗において主に初学僧のための手引書として用いられたが現代に至っては国内外を問わず広く一般の人々にも受容され人生や生き方を考える手がかりを示す書物となった。本論文ではこの十牛図を現代的な視点でとらえ、普及の背景には自分探しというテーマの普遍性があり、図は単なる文字の補助ではなく、直感や柔軟な考え方を育むための有効な呈示方法であることを示す。

また、禅宗における書物という枠組みから離して考えた場合、十牛図は己事究明論である。さらに、十牛図をネオジャポニスムと呼ばれる昨今の日本ブームの中で検討すれば、十牛図は日本文化の中で欠落しつつある深い精神性の回復に役立つ可能性を有する。

禅において、修行を牧牛に譬えその過程を十の段階に分け図と頌じゅで表現した十牛図という小冊子がある。牧童である人間が、牛として表されている本当の自己に目覚めるとか、本当の自己を取り戻すとかいう過程が説明されている。十牛図は中国北宋時代に盛んに著わされた書物であり、禅宗の伝来とともに日本へももたらされて、主に初学僧のための手引書として用いられた。雪舟や白隠ら画家たちはこれを画題とし、禅から発展した茶道などへも取り入れられていった。近年、鈴木大拙はこれを英訳し海外での禅の普及のために用いた。現代では、禅宗に関わる人のみならず幅広い方面から関心がもたれ、自分探しや生き方を示す指南書として様々に著わされている。1 宗教が人々の生活や生き方に深く関わっていた鎌倉・室町時代とは大いに異なる現代においてもなお、自己や人生について考える手がかりとして一般の人々の間でも受け入れられていることがこの書物の特徴の一つである。

では、十牛図を現代的に考えるとはどういうことかといえば、歴史的な時間軸と世界的な空間軸を交差させて考えることである。つまり、第一に、禅の入門書という明らかに宗教的な役割から始まった十牛図が、本来の目的のみならず、それを超えて広く一般にまで受容されてきたという事実について、それが時代を超えて示すものは何であるのか、受容の背景にどのような要素があったのかを明らかにすることである。そのうえで、第二に、多文化共生、グローバル、ボーダレス時代と言われて久しい現代に、われわれは十牛図をどの様にとらえなおし活用することができるのかを検討するということである。十牛図研究については柴山全慶、柳田聖山、上田閑照、中村文峰といった仏教学者、哲学者らによる解釈を中心とした充実した文献学的基礎研究の成果が残されている。現代はそれらを引き継ぎさらに発展させる時期に来ているのである。

十牛図を世界的な視野で考えようとする場合、日本あるいは東洋世界では自明のことであっても他の地域では説明が必要であったり、自明と思われていても検討することにより気づかなかった発見もあったりする。その点に注目し、筆者は、第一の問いに対する答えとして十牛図が禅門を離れ内外問わず世の中へ発信されるようになっていった背景には、十牛図が掲げる自己発見というテーマの普遍性とそこにある深みと新鮮さ、および、解決法を提示する牧牛図という手段の適切性があったと考えた。さらに第二の問いについては、十牛図の内容を再検討した結果、十牛図とは禅宗における一書物という限定された特殊なものではなく、言語や思想・哲学といった枠組みを超えた己事究明論であるととらえ、それが現代社会で失われつつある深い精神性の回復に寄与しひいては豊かな人間社会を形成する一助となりうる可能性があることを確認した。

1. 十牛図とは何か

十牛図とは中国宋代において、それまで坐禅と公案が中心であった禅宗の修行方法がその教えを記述し啓蒙しようとする需要が生まれたことで、それにこたえて作られるようになった書物である。十牛図と呼ぶがあくまで禅の修行を牧牛に譬えて図解した牧牛図のうちのひとつであり、その段階数が違う四牛図、五牛図、六牛図などもあり、伝来のもの以外にも十牛図を下敷きにし仮名草子の体裁を借りて著わされた『うしかひ草』もあった。2日本では臨済宗の興隆の影響もありそこで使われていた廓庵禅師による十牛図が特に普及した。

十牛図の基本的な構成は、本当の自分である牛を探しにゆき、牛の足跡を見つけ、ついに牛を発見するという第一図から第三図、その牛を飼いならす段階である第四図から第六図、仮の姿である牛が消える第七図、自分の姿も消える第八図(円相)、人も牛も消え自然の風景のみが描かれる第九図、布袋のような人物が街で子供と接する様子が描かれる第十図である。以下に示すのは廓庵禅師の頌じゅ 3 に江戸時代の画僧である周文が絵を付けたものである。(相国寺蔵)

第一図:尋牛  第二図:見跡  第三図:見牛 第四図:得牛  第五図:牧牛  第六図:騎牛帰家 第七図:忘牛存人  第八図:人牛倶忘  第九図:返本還源  第十図:入鄽垂手

2. 受容の背景① 自分探し

十牛図が他の経典などと違い禅門の中だけでなく一般の人々にも関心がもたれるようになった背景には、「自分探し」が時代や地域を超えた人類共通の関心事の一つであるということがある。それに加えて十牛図が示す自己というものが徹底して根源に近づこうとするものであり、西洋中心の世界の歴史の中で主流とされてきた見方と少し異なるところに意味がある。「自己」については解釈が様々である。例えば、西洋では伝統的に自己を「アイデンティティ」として、他者との違いを示すことで自分を明らかにしようとする。ところが、東洋世界、または仏教では、自己は他者との比較を超えた所にあるとする。西洋でいう「アイデンティティ」を超えた所に、他人との比較に左右されない絶対的な自己がある、と考える。絶対的な自己とは仏教の立場でいうならば無であり空であり、十牛図では第八図の円相で示される。

十牛図においては、本当の自分を発見することは最終目的ではなく、見つけた本来の自己の境涯をもって元の居場所に戻り行動するという態度を伴う。中世の禅文化・思想を専門とする芳賀幸四郎は禅の修行(本来の自己に目覚める)の目的を自利と利他に分けて次のように言う。

自力仏教の修行の目的は、自利の面に限っていえば(自利とは自己人格の完成、自己の幸福追求の面。仏教では、自利の反面、世の為・人の為働くる利他の面を重視)、「自己に本来円満にそなわっているにも拘らず、煩悩妄想に覆われて行方不明になっている仏性を探し求め、これを錬磨し、真の自主自由の境涯に到達することだ」と規定して大過ないであろう。(芳賀 69)

芳賀の言う「自利」(自分の目標達成のために力を尽くす)の部分とは、十牛図でいえば第一図から第七図までで、4 これらの段階を理解することは、思想、宗教、主義・主張に関わらず、何かについて決心しそれを極めようとする人にとってそれほど難しいものではないであろう。「行方不明になっている仏性を探し錬磨し自主自由の境涯に至る」ことは、広義には、個人的目標の達成であり、多くの人々の関心事であるはずである。ところが、「利他」つまり、仏教でいう「本来の自己に目覚め悟ったものが衆生を済度する」という態度は、自分に置き換えた場合どのような状態になるのかは実感しにくい。「衆生済度」の有り様を芳賀は以下のように説明する。

あたかも太陽が本然の自性のままに燃えて光と熱を送り、万物を育成してしかも少しもその功に誇らぬように、自利の利他の、救済するの慈悲を施すのという意識もなく、自然に無心にはたらいて、いつとはなく人びとに楽しみを与え、その苦しみを抜き去ってやることである。(芳賀 74)

実は十牛図の最後、第十図が芳賀の言う言葉を表現した図である。それは布袋のような服装をした人物が、ただ、少年に微笑んでいるだけである。本当の自己を発見したからと言って特別のことをするのではない。普段通りに生活するのである。十牛図で求めようとする自己はここまでを含めた境涯に至ることを目指す。

3. 受容の背景② 原点としての牛と牛飼い

十牛図の研究者たちが気づいていながらも深く追求していないと思われる点の一つに牛と牛飼いがある。われわれは(日本人、東洋人、さらに世界的に見ても)牛と牛飼いについてほぼ共通のイメージを持っている。これは注目されるべきであり、十牛図の親しみやすさに一役買ったといえる。

なぜ牛かという疑問について明確な答えはない。仏教や禅において牛が重んじられてきたことに特化した研究にもあまり出会わない。それは、十牛図と関わってきた地域における農耕文明の歴史の中で、牛が生活に密着した大切な生き物であったことは説明するに及ばないし、インドにおいて牛は聖牛として尊ばれてきたこともよく知られた事実であるからであろう。牛は耕作には欠かせない重要な労働力であり、豊作・豊穣をもたらす。強い力を備えながら柔順である。人々は牛と共に暮らす日々の中で、砂塵を蹴散らし疾駆する馬を求める一方で、誰が教えることなく鈍重ながらも温和で一歩一歩大地を踏みつけて確実に歩む牛を認めてきたのである。5

牛についての記述は数多く残されている。古くは易の「離利貞亭 畜牝牛吉」について王おう弼ひつは「外強にして内順なるは牛の善なり、離の体たる柔順を以って主と為すなり、故に剛猛の物を畜やしなうを以って牝牛を畜やしなうよりも吉なる可からず」と注釈を付した。『6 太平広記』巻四三四「畜獣一」「牛」には人と牛が山に入り姿を消すと牛の糞が金や銀などの財宝に化すという「金牛」「銀牛」の話が収載されている。7 青牛の背に乗って関所を通過した老子 8 は、『道徳経』第三十六章に「柔弱勝剛強」柔は剛に勝つ、と唱えた。仏教限定して牛を見てみればそのかかわりはさらに顕著である。牛を飼いならすことを仏道の修行に重ねることは、すでに古くインドの南伝大蔵経『牧牛者大教』『牧牛者小経』に見られる。『牧牛者大教』では牛を保護し増やすために必要なことがらとして十一の条件が示され、それらが具足すれば牧牛がうまくいく、つまり、比丘は成満に到達できると教える。『牧牛者小経』では智慧のある牧牛者と愚かな牧牛者が登場し、彼らの失敗例と成功例を示すことでどちらを選択すべきかを問うことで教えを導こうとした。

『無門関』第三十八則にある「牛ご過か窓そう櫺れい」は「牛が窓を通ろうとしたが、頭、前脚、後脚と通り過ぎたが尻尾だけがどうしても通らない。それはなぜか。」と問うよく知られた難解な公案の一つである。答えはもちろん様々で、牛は単に立ち止まっただけかもしれないし、どうしても通ることのできない重要な問題があったのかもしれない。以下の百丈禅師(749-814)と弟子の大安禅師の問答では悟りと牛は直接的に結びついて語られている。9

大安「私は仏を識りたいと思います」

百丈「それは大いに牛に騎って牛を求めるようなものだ。」

大安「仏を識って後はどうですか」

百丈「人が牛に騎って家に帰るようなものだ。」

大安「その牛をどのように保任したらよいでしょうか」

百丈「牛を牧する人が杖を執って牛を監視し人の畠を犯させないようにすることだ。」

このように、牛は仏性や悟りの象徴として、牧牛はそこへ至る方法または過程として仏典

に書き残され公案に語り継がれてきた。これほどまでに牛と牛飼いが使われるのはその理

解に誤解を生じないからである。

4. 受容の背景③ 図の意味と有用性

十牛図において何より特徴的なことは、それが図解されていることである。経典における難解な言葉を使うことなく、誰にでも理解できる図で示したことが読み手の想像を促す。元来、禅の方では文字については「不立文字」「教外別伝」といい、悟りや教えは文字だけで伝えられるものではないと考える。それに対して絵や図は記号としての言語を超

越し直感や柔軟な考え方を養う。言語表現に頼らないという点で外国人に紹介する際にも

活用されてきた。例えば、ドイツでの大学の講義に十牛図を利用した上田 10 は以下のよう

に述べている。

それでもとにかくなんとか工夫してドイツ語で話すのであるが、今度は、それをはじめからドイツ語で聞くドイツ人聴講者の方は自分達の思想的土俵であるそのドイツ語がドイツ語として持っている西欧思想上の含意を含めたままで聞き取らざるを得ない。ということは、はじめから西欧思想的に解釈されて受け取られることになるわけである。Die Natur といえば「自然」の訳語としてではなく、はじめから Natur というドイツ語として聞くからであり、das Nichts と言えば、「無」の訳語としてではなく、はじめから Nichts というドイツ語として聞くからである。いろいろな経験の後、何か言葉以前のところで共通の手がかりになるようなものはないか、〔 … 〕と考えて、十牛図を思いついた。(上田 7)

上田は十牛図の採用により「もちろんスムーズに理解と言うことはあり得ないが、問題がはっきりし、結果的には大きな意味があった。」と記す。上田の場合、説明する際に日本語と英語またはドイツ語という大きな言語の壁があったが、禅宗の知識がない日本人がそれを読む場合でも状況は大きく変わらないだろう。

上田の場合で十牛図が有効であった理由は、図が言語表現の助けとなったからだけではない。十牛図における図の役割は単なる文字の補助ではなく、「みる」こと自体に意味がある。この場合の「みる」は肉眼で「見る」ことではなく、仏教でいう観法、つまり「心で観る」ことである。十牛図の第一図「尋牛」は「本来不失 何用追尋」(元々失ったものではないのになぜ、追いかけ探すというのであろう)という言葉で始まる。十牛図の目的は本当の自己である牛を探すことであるが、それは失ったのではなく、もともと誰もが持っていながら見えていないだけということになる。第一図に牛は描かれていなくとも、心で観れば見えるのである。

5. 廓庵十牛図が示す己事究明論

十牛図は自分探しがテーマであるから己事の究明論であることは明らかである。禅師たちは先に述べたような特徴を土台にしながら独自の頌じゅを書き、図を加えて、少しずつ異なった牧牛図を作り上げていったのである。中でも、廓庵による十牛図は実際に広く普及し人々に良く触れられたものである。そこで、廓庵十牛図における己事究明とはどのようなものであるかを改めて検討した。

第一図「尋牛」において、廓庵は「茫茫撥草去追尋」(当てもなく果てしない道のりを、草をかき分けるように尋ね行くが道は深く険しくなり)、「力尽神疲無処覓」(力は尽き果てどこへ行くべきかも全くわからない)と前途が険しいことを示す。図においても牧童が深い山中で途方に暮れている様子が描かれている。第一歩を踏み出すという輝かしい出発の段階でありながら不安ばかりが強調される。これは廓庵が「ここに至る以前にすでに本当の自分を知りたいという強い思いがあったからここに立っているはずだ」と確認している。十牛図は己事究明を広く大衆に勧めることが主旨ではなく、本来の自己とは何かを知りたいという強い思いがあり、必ずやり遂げるという決心がなければなし得ないと言いたいのである。どうしても見つけたい、本当の自分とはいったい何者なのか、それはいったいどういうものなのか、と強く心に念じてこそ初めて牛の尻尾が見え(第二図「見跡」)、牛の身体が見えてくる(第三図「見牛」)のである。

牛を見つけたら飼い慣らさねばならない。第四図から第六図は綱や鞭を使って実際に牛を飼いならす段階である。第四図「得牛」は禅の修行でいえば「静中の工夫」(坐禅をするという修行、経典や師から学ぶという内学的修道)であり、第五図「牧牛」は「動中の工夫」(作務や托鉢をしたり、もっと言えば日常生活の中で行ったりする修行、実践を通して学ぶ外学的修道)である。これらの修行、または努力を相続不断に行うことで廓庵のいう「羈鎖無拘自逐人」(手綱や鎖でつながなくても牛の方から付いてくる)となる。牛を力づくで調伏するのでは飼いならしたとは言えない。綱や鞭に頼らず放し飼いにしていても牛は人に自然と寄り添う。牧童と牛は飼うものと飼われるものという関係ではなく、人間が牛を飼うという上下関係もない。考えたり計算したりして作りあげる状態ではなく、両者ともに、ありのまま、自由自在でありながら同じ方向に進む。廓庵はこのような状態に至ることを牧牛と捉えている。

第七図から第十図までは十牛図における己事究明論の結論部分である。第六図「騎牛帰家」までで努力の結果牛を見つけ飼いならすことができた。本当の自分が見つかったら、その仮の姿であった牛は姿を消す。姿を消すが失ったのではない。第一図「尋牛」では「牛はもともと失ったのではなく見えていないだけ」であったが、第七図「忘牛存人」では、牛は見えていないがそのことは問題ではなくなったのである。本当の自分というものに「確かなかたち」などないことが体得されたのである。第一図「尋牛」と第七図「忘牛存人」にはどちらにも牛は見えないがそこにいる牧童の境涯が異なることに気づかねばならない。さらに第八図「人牛倶忘」では牧童自身も姿を消し円相のみが描かれる。本当の自己とは特定の形はなく仏教でいう悟りの境地、無、空であると示す。しかし、その無、空は空っぽなのではなく、例えば第九図「返本還源」の自然のようなものだと続いていう。本当の自己、無、空の具現化したものが自然の姿であり、「返本還源」もとのもとへ還ることと考える。その姿-本当の自己-は「本来清浄 不受一塵」(はじめから清らかで塵一つ受け付けない)のであり、「水自茫茫 花自紅」(川はただ果てしなく流れ、花はただ咲く)、そのようなありのままの姿が本当の自己であると示す。

そして、最後に第十図で「入にっ鄽てん垂すい手しゅ」(街へ出かけて手をさしのべよ)と示す。第十図は「悟ったものは衆生を救済する」という大乗仏教の命題にほかならないが、その場合、自分は悟ったものであるとか何か特別な存在であるといったところは一切見せず、難しい言葉を語ることもない。それでいてなお衆生を救済に導くのである。仏教の立場ばかりから語ると、こういった有り方は仏教の修行僧の間での特別な話のように感じられるかもしれないが、このような人物は世界中どこにいてもおかしくない。俗にいう大物と言われる人物や何かを極めた人は、何ものにも動じない自分をしっかり持っているだろう。そういう人物に直接会ったとき言葉で表現しにくい感動を覚えることがあるはずだ。そういう人はありのままでありながら周りの人間を教化しているのである。根源にたどり着いた人は不安がなくなり安心を得る。自分がともしびとなりそこにある原動力を取り戻す。その力はおのずから自由に働き出す。十牛図はそういう境地に至ることが自己の発見であるとし、廓庵も至るべきこの境地を「不用神仙真秘訣 直教枯木放花開」(仙人の持つ特別な秘訣を用いること無しにただ枯れ木に花を放ち開かせる)と説明する。

6. 十牛図の可能性

ここからは以上で示した十牛図を現代のわれわれがどのように活用し得るかを検討する。十牛図はもともと禅宗で用いられた書物であるが、現在に至っては仏教、禅宗に関わる人々だけでなく一般にも親しまれているし、禅を外国語で紹介する書物の中にも頻繁に取り上げられている。実は、この事実に注目し十牛図の可能性を探ろうとする研究は非常に少ない。その様な現状のなかで、宗教哲学、禅研究を専門とする森哲郎は、「現代は宗教への相互理解の方向を模索すべき時代であり、そのためにはそれぞれの宗教や思想の意義を問い直すことが必要となり、それへの手がかりとして十牛図は可能性がある」といい、「例えば十牛図で示されている「行」を継承することがアジアにとっての国際的課題である」と述べる。11 森が試みようとしていることの一つは彼の言葉を借りて言えば「現代と伝統との乖離に忍び込んだ〈宗教の頽落〉という問題」12 の解決である。言い換えるなら「現代における精神性の頽落」であろう。さらに広げて解釈するならば、現代社会における宗教・哲学・思想、広義でいう文化において精神性が薄れてきているということであり、この実状に気付いている人は決して少なくないのではないか。最近の日本のアニメ、マンガ、ゲームといったポップカルチャーや、ラーメン、寿司、抹茶といった和食に対する高い人気は第二のジャポニスムやネオジャポニスムと呼ばれているようである。これらは全体的にみる限り高い精神性を備えた文化であるとは言い難い。フランス思想研究家でありパリ国際大学都市日本館館長(2006-2008)を務めた永見文雄は彼が目撃した日本人気、ネオジャポニスムを憂慮している。彼の考えを以下にまとめる。13

・1860 年代から 90 年代のジャポニスムは輸出の振興・拡大を目的にした国家的事業であった。

・最初のジャポニスムは伝統に根ざした洗練された美的趣味や美意識が問題となっていた。

・アニメなどの第二のジャポニスムは日本の伝統的価値観や美意識とは切り離された地平で生きる若者の風俗である。

・日本の伝統文化と断絶しているのかどうかが議論の分かれるところである。

・長い目で見れば悪いことではないだろう。

永見の考え方に同意するかどうかは別として、彼が言う「第二のジャポニスムは日本の伝統的価値観や美意識とは切り離されたもの」という指摘は一考に値する。日本の伝統文化にはありながら最近の日本ブームのなかにはないものとは、結局のところ、深い精神性であり、森の言う「行」にも通ずるものであり、十牛図で求めようとしている深い境涯である。

7. 俳句とハイク(HAIKU)

ネオジャポニスムと呼ばれるものの中に最近の俳句人気も含めてよいだろう。毎日新聞社の出している『俳句あるふぁ』の年一回の「毎日俳句大賞」国際部門の選考委員を 15年間務めた芳賀徹によれば、毎年千数百の英語もしくはフランス語のハイクの応募があったらしい。14 一般に日本の俳句を俳句とし、外国語によるものをハイク(HAIKU)と使い分けるが、芳賀は現代の俳句人気について次のように言う。

俳句は確実に全世界の民衆の間に広がり続け彼らの日常の中からの哀感の訴えの一手段となっておりネオジャポニスムのなかでももう少し成熟した普遍の文化現象になりつつある。(芳賀 13、 下線は筆者による。)

ここで、芳賀は、ハイク(HAIKU)は他のネオジャポニスム、つまり、アニメやゲームなどと異なり「もう少し成熟した普遍の文化現象」になり得ると言う。言い換えれば先の森や永見が懸念するようにネオジャポニスムと呼ばれる現象の中で生まれる文化には総じて精神性が欠けていると考えての言及である。

芳賀の予想を検討するには俳句とはどのようなものであるのかについて述べねばならない。俳句とは日本独特の短詩の形式である。芭蕉は彼の俳諧紀行文『笈の小文』の書き出しにおいて「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休の茶に於ける、其の貫道するものは一なり。」と記している。つまり、それぞれ表現するものは異なっていても俳句と西行らの作る歌などの根底に貫かれている心は同じであるということだ。西行、宗祇、雪舟、利休は、歌僧や画僧であり居士であった。彼らは仏道を修めることを通して心を深め、深まった心で作品を作った。これは大乗仏教および禅に特徴的な立場であり十牛図に示されている姿勢でもある。俳句と仏教、特に禅の考え方に深い関係があることについては、R.H. ブライスの 4 巻におよぶ俳句論『俳句』にも「俳句と禅は同義語である。」15 と述べられており、西欧においても俳句理解が深められることとなった。

この様に俳句は作句する人の心の有り様を重視するという一面があるからこそ、芳賀はハイク(HAIKU)に可能性を感じ取ったのだ。

俳句を含む、和歌、連歌、日本画(禅画)、茶道といった日本の伝統芸術に深い精神性が求められるという点に関して東西の思想・哲学に精通し宗教と藝の相即を日本の芸道から論じる倉沢行洋は俳句と深いつながりを持つ和歌について、「和歌のすがた=言葉と①内容としてのこころ + ②作る人の境涯としてのこころで成り立つ。」という。良い和歌(俳句)は②のこころが深くなければならない。歌を詠む(作句する)人の心の深さが和歌(俳句)の善し悪しに影響する。こういった考え方が芸道に反映される日本独特の実践方法であり日本の伝統文化が引き継いできた精神である。現代人はものごとを理解しようとするとき科学的・論理的な説明を求めるが、こういう解説しにくい精神、心の有り様を十牛図は図解し説明しているのである。小冊子ゆえの一覧性をもち思想全体を概観しやすい。ハイク(HAIKU)を俳句にするためには深い境涯が求められることを示すためには、十牛図を活用することが有効であるだろう。

終わりに

本論文では禅の十牛図について現代的な視点からの検討を試みた。その結果、不十分ではあるが、十牛図が禅門を離れ広く一般に普及していった背景には、自分探しが人類共通のテーマであることや牧牛図の有効性が一役買っていることを示した。また、十牛図は禅宗の書物ではあるが違う角度から見れば己事究明論のひとつである。紙面スペースの都合もあり内容を十分に紹介できなかったため、十牛図が示す本来の自己とは何かを再度ここで述べておきたい。

十牛図が一貫して言おうとすることは「深く見つめよ」である。本当の自己とは何かを徹底的に考えて、考え尽くして思考の及ばないところへ到達し、元の源へ、根源にたどり着くまでさらに深く見つめよと教える。そこにたどり着けば絶対的な安心が得られ、自分がともしびとなり心の拠り所となる。源にある原動力を取り戻しそれが自由に働き出す。

つまり、深い境涯に至った人がその心をかたちに顕すのである。その表現とは、仏教では衆生を救済することであったが、芸術家であれば、絵画や彫刻といった有形の作品に顕わしたり歌や説教、パフォーマンスといった無形の作品に表現されたりするだろう。そのときの顕れ方は「大用現前 不存規則」(深い境涯から出た大いなる働きが現れる時には規則はない。)といわれ、パターンも傾向もない。それに触れた人は強い感動を覚える。

この様な境地に至る人が現実にどれだけいるのだろうかと疑いたくなるだろう。ところが、何かを考えて、考えて、究極まで考えたとき、人は何か闌けたる瞬間を感じることがあるはずである。ノーベル賞を発見した科学者のなかにもふとした思いがけないことがきっかけで大発見につながったというような話もよく聞く。そういう人々はそれを科学的でないからと単純に排除することはしない。現代はそういう時代であるから千年以上前に作られた十牛図が新鮮に感じられても不思議ではない。

1 例えばオンライン書店の大手であるアマゾンで「十牛図」と検索してみると十牛図についての学術的解説書のほかに様々な著者による自由なイラストが付された十牛図の書籍が確認できる。

2 廓庵の十牛図以外で同時代に作成されたものとして現在知られているのは四牛図(元浄)、五牛図(著者不明)、六牛図(自得)、牧牛図(仏国)、白牛図(巨徹)、牧牛図(普明)、牧牛図(清居)である。『うしかひ草』は江戸時代、月坡の作である。他に儒家による十馬図、チベットには牧象図もあった。

3 紙面スペースの都合上全て紹介できないが、廓庵十牛図、第一図「尋牛」の頌は「茫茫撥草去追尋 水闊山遥路更深 力尽神疲無処覓 但聞風樹晩蝉吟」である。

4 仏教の立場からいえば、自利は第八図の段階までであるが、ここでは、自利をより一般的な意味にとらえ目的を達成するまでの段階、第七図までとした。

5 牛について世界に目を向け考えてみるならば、牛を大事に思うのは東洋に限定されるものではない。ヨーロッパにおいても牛は重要な労働力であったはずであるし、アメリカでは清涼飲料「レッドブル」の変わらぬ人気が示すように バッファローやバイソンに対する愛情は強い。ただ、東洋の牛は西洋の水牛などに比べやや穏やかであるかもしれない。

6 堂谷憲勇「牛と禅僧」『禅文化』67 号 p.14

7 趙倩倩「『太平広記』所収「金牛」「銀牛」故事考」『早稲田大学大学院教育学部研究科

紀要別冊 21 号 -1』趙はこの論文の中で二者の話の話型の成立を比較検証している。

8 『太平御覧』巻 900「獣部 12」「牛下」「関中記」「周元年 老子之度関 令尹喜先勅門

吏曰、若有老公従東来乗青牛薄板車者 勿聴過関 其日果見老公乗青牛車求度関」

9 大安禅師が師である百丈懐海禅師(748-814)に「仏とはどのようなものかと尋ね、それに対し「牛に騎って牛を求めるのに似ている。」と答えた禅問答。『景徳伝灯禄』巻九所収。口語訳は中村分蜂『うしかい草』pp.12-13 を借用した。

10 上田は 1970 年西ドイツ、マールブルク大学で 1 学期間、西洋思想の対比としての仏教と日本の哲学を講義した。上田 pp.6-7

11 森哲郎「現代世界における『十牛図』の可能性」『京都産業大学世界問題研究所紀要』

17 巻 pp.170-220

12 同上 p.219

13 永見文雄「パリにおける日本のプレザンス 現今のネオ・ジャポニスムについて」『日仏文化』No.76 pp.76-96

14 芳賀徹「ネオジャポニスムとしてのハイク」『ジャポニスム研究』34 巻、p.13

15 ブライスは俳句と禅が深く関係することを多くの箇所で述べている。例えば、R. H.

Blyth, Haiku Vol.1 p.5 “Haiku is to be understood from the Zen point of view.” や同書p7 において “I understood Zen and poetry to be practically synonyms,...” と語る。

参考文献

上田閑照・柳田聖山共著『十牛図-自己の現象学』筑摩書房 1982、1988

倉沢行洋『東洋と西洋』東方出版 1992、2000

柴山全慶『十牛図増修版』其中堂 1963

堂谷憲勇「牛と禅僧」『禅文化』67 号 pp.14-20 花園大学禅文化研究会 1972

永見文雄「パリにおける日本のプレザンス 現今のネオ・ジャポニスムについて」『日仏文化』No.76 pp.76-96 日仏会館 2009

芳賀幸四郎「禅の古典 十牛図」『禅』9 号 pp.69-76 人間禅出版部 2003

芳賀徹「ネオジャポニスムとしてのハイク」『ジャポニスム研究』34 巻 pp.13-22 ジャポニスム学会 2014

森哲郎「現代世界における『十牛図』の可能性」『京都産業大学世界問題研究所紀要』17

pp.170-220 京都産業大学世界問題研究所 1999

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