禅と俳句:鈴木大拙「禅と日本文化」

https://philosophy.hix05.com/Japanese/daisetsu/daisetsu03.html 【禅と俳句:鈴木大拙「禅と日本文化」】 より

鈴木大拙は、俳句を禅と結びつけた最初で最後の人ではないか。大拙以前の俳句論と言えば、多かれ少なかれ子規の影響を受けていたものだが、それは自然の写生に重きをおく議論であった。写生と禅とでは、共通するものはほとんどない。だから、俳句と禅とが結びつくこともなかった。また、大拙以降の俳句論も、禅を持ち出すことはほとんどない。禅をもって俳句を論じるには、俳句はあまりにも多彩だからであろう。俳句は禅のように悟りに近い境地をもたらすこともあるのかも知れないが、俳句の妙はそれに尽きない。俳句がそこから生まれてきた言葉遊びにも妙味はある。

大拙がもっとも重視する俳句は、無論芭蕉のものだ。芭蕉の句「古池や蛙とびこむ水の音」を以て、大拙は近代俳句の出発点だとしている。この句以前には、芭蕉も含めて、俳句とは単なる言葉の遊びに過ぎなかった。この句を以て、俳句は真の芸術に昇華したのであるが、それを推進したのが禅の精神だったというわけである。

この句のうち、「蛙飛び込む水の音」の部分は、禅問答から生じたと大拙は考証している。芭蕉は禅師仏頂和尚のもとで参禅したことがあったが、その折に、和尚から「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」と問われて、「蛙飛び込む水の音」と答えたという。後に、これに「古池や」を加えて「古池や蛙飛び込む水の音」の句が出来上がったというのである。

この経緯から伺われるように、この句は理屈で解釈すべきものではなく、禅がもたらすのと同様な直観の産物として受け取るべきだと大拙はいうのである。「俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。まずこういうことを知らねばならぬ。これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなく、直接に元の直観の方向を指し示すものである、否、実際は直感そのものである」(大拙「禅と日本文化」)。

では、芭蕉が直観によって得たものは何か。それは宇宙的無意識とでもいうべきものである、と大拙は言う。人間の無意識にはいくつかの層がある。個人的なレベルの無意識、その底にある集合的なレベルの無意識(これを仏教用語で阿頼耶識=集合的無意識という)、そして更にその底に横たわる宇宙的無意識ともいうべきもの。この宇宙的無意識は意識の表層に上ることがなく、したがって論理によって捉えられることはないが、直観によって捕えられることはある。その直観をもたらすのが禅の働きだというのである。俳句は、その禅の働きと同じような作用を人間にもたらす。その作用によって捉えた直観の内容を表現したもの、それが俳句なのだと大拙はいうのである。

「ゆえに日本の俳句は、長くて、手のこんだ、知的なものたるを要しないのである。事実、それは観念的な構成を避ける。観念に訴えれば、その無意識への直接的指示や直覚的の把握が、狂い、損われ、妨げられ、永久にその新鮮味と生命力を失う」(同上)

大拙はまた、「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という芭蕉の句をとりあげて、これも宇宙的無意識の直観の産物だという。これについても知的な解釈をするものがいるが、そうした解釈によっては正しく味わうことはできない、芭蕉がこの句に込めたのは、人生の無常だとか道徳的な訓戒とかではなく、宇宙的無意識の直観なのだと大拙は言うわけなのである。

大拙は、蕪村をも宇宙的無意識の直観者、すなわち禅者として評価する。蕪村の句「釣鐘にとまりて眠る胡蝶哉」を引用しながら、この句にも、知的で観念的な内容ではなく、宇宙的無意識の直観が盛られていると大拙は言う。「われわれの知的思慮や分別以上に深い大きな生命、すなわち『無意識』そのもの、私のいわゆる『宇宙的無意識』の生命」が、この句には込められていると言うのである。

蕪村を俳人として最初に高く評価したのは子規である。子規が蕪村を評価した理由は、その写実性にあった。芭蕉が、わびとか、さびとか、幽玄とかいうものを尊重し、その結果として観念的に陥るところがあるのに対して、蕪村の句はあくまでも即物的である。たとえば、大拙が引用した上の句についても、子規ならそれを、釣鐘にとまって安らかに眠っている胡蝶を、そのままに写生したのだ、というふうに言ったであろう。

子規は、蕪村にみられる写実性・即物性が、自分の写生の俳句と共鳴するところがあるとして、蕪村に親近感を抱いたわけだが、大拙は、蕪村をも芭蕉と同じレベルで、つまり宇宙的無意識を表現した詩人として、捉えなおしたわけである。

しかし、その「宇宙的無意識」とは如何なる内容のものなのか、という肝心なことは、大拙は云々しない。ただ、それがインスピレーションの源泉なのだと言うのみである。それは直覚されるものであって、知的に了解されるものではない。したがってその「内容」を言葉によって伝えることはできない、と言うわけであろう。

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