http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho2.html 【不易流行】 より
石川虚舟 《古池や》 2013凝灰岩(笠松石)、大理石、180×150×95mm
古池やかわずとびこむ水の音 芭蕉
半ば朽ちた瓢箪池。
蛙がとび込むと、陰気が拡散する。
しかしその陽気も、つかの間。
でも又、そのうちに。
⇒ 石川虚舟 《随、No.2》 2014
⇒ マルセル・デュシャン 《自転車の車輪》 1913
The wind, Nature's flute, sweeping across trees and waters, sings many melodies. Even so, the Tao, the great Mood, expresses Itself through different minds and ages and yet remains ever Itself.
⇒ 『 荘子 』 斉物論篇
Kakuzo Okakura, The Ideals of the East, 1903, London.
【註】 wind = 気/ Mood = 理 ⇒ 岡倉天心 『理気説』
師の風雅に万代不易有、一時の変化あり。
この二つに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。
不易をしらざれば實に知れるにあらず。
不易というは新古によらず、変化流行にもかかわらず、
誠によく立たる姿なり。 服部土芳 『 三冊子 』 (あかそうし)
『去来抄、三冊子、旅寝論』岩波文庫、p.100
天道の万古不動の象を理、流行活動の相を気としてとらえ、
そうしてその本体を誠とする朱子学的思考形式を適用して、
俳諧の本質をとらえようとしたもの…。
尾形仂 『座の文学』 講談社(学術文庫)、pp.177-178
陰気流行、即為陽、陽気凝聚、即為陰、
陰気が拡散すると陽となり、陽気が凝結すると陰となる。
朱熹 『朱子全書』 巻四十九、三十四葉表 ⇒ 『老子』 第36章
波の間や小貝にまじる萩の塵 ばせを
万古不易、寄せては返す波、そして 雅やかなますほ貝と萩の花の儚さ、 そのもとに宇宙の鼓動(pulse)が…。
鈴木大拙の影響を受けたBill Viola(1951〜)は、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をモチーフに、ヴィデオ作品《Reflecting Pool, 1979》を制作したのであろう。彼は、古池の余白である「空中」に、蛙はまず「飛び」、そして水に落ちると解釈。「空中」は鈴木大拙の「無」、つまり空虚な空間(the empty space)。芭蕉は禅仏教、さらに朱子学に傾倒していた。
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho6.html 【色即是空】 より
廓庵和尚p;『十牛図』「第七 忘牛存人」
「第八 人牛倶忘」(部分/天理図書館蔵)
雲雀より空にやすらふ峠哉(笈の小文)
ドイツ近代詩を研究する手塚富雄は、1954年にハイデガーを訪問する。
ハイデガーはまず、「九鬼周造之墓」の写真を示した後、 鈴木大拙の禅の考察は、広大な世界に開かれ、興味深いと述べる。
次いで、ドイツ語訳で読んだ芭蕉の俳句の中で、 非常に感銘を受けたという次の句が話題にされる。
Wer vermag es, stillend etwas ins Sein zu bringen? / Des Himmmels Tao.
その場で、日本語表記とローマ字表記が手塚に求められる。
ひばりより上にやすらふ峠かな
Hibari yori, ueni yasurahu, touge kana
ハイデガーはそのローマ字表記を黙読し、 そのような単純な表現の中に広大な世界を感じとることができる、 単純であることは無内容ではない、と感想を述べる。
;老子;』;第45章 (大弁は訥のごとし)
手塚レポートの英語訳では、その句は次のような表記である。 Higher than the lark, ah, the mountain pass! - quietlresting.
さらにハイデガーは、日本の「ことば」は「物」(Ding)を意味するのではと述べ、
Erscheinung (appearance) とWesen (essence)のそれぞれに対応する、学術語ではない日本の慣用語は何かと、ハイデガーは問う。
手塚は、仏教用語に由来はするが、
「色」と「空」をそれぞれに対応する慣用語と考えると答える。
cf. Tezuka Tomio,'An Hour with Heidegger', in
Reinhard May; Heidegger's hidden sources, 1996;(First published 1989 in German), p.60-61.
因みに芭蕉のこの句は、『笈の小文』では中七「空にやすらふ」になる。; ;ハイデガーの秘密
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/ursprung.html 【ハイデガーの秘密】 より
石川虚舟 《 天地の狭間で 》(絵葉書/煉瓦) 2011
2011年1月初旬、ドイツのボンから、ライン河の流れに沿ってアウトバーンを突っ走り、アムステルダムへ。目的は、マルティン・ハイデガー著『芸術作品の根源』を熟読すべく、 まずはゴッホの作品《一足の靴》(1886)を「看ること」(Bewahrung)から。
ゴッホ美術館で《一足の靴》の絵はがきを購入。ボンに戻り、ライン川の河原で古レンガを採取し、アパートのベランダで撮影。
⇒ 石川虚舟 《 天地の狭間で 》 (ライン紀行)
マルティン・ハイデガーの秘密
『芸術作品の根源』「あとがき」の最後の段落に、マルティン・ハイデガーは次のように記す。
外部から自然にこの論文に接する読者が、 最初からずっと、思索志向(zu-Denkenden)の*秘密の典拠から、 事態を想定せず、解釈しないことは、 避けがたい窮境であり続ける。 だが、著者自身にとって窮境であり続けるのは、 道程の様々な地点でその都度、 的確な言葉で語ることである。
マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』1935/36
Es bleibt ein unvermeidlicher Notstand, daß der Leser, der natürlicherweise von außen an die Abhandlung gerät, zunächst und langehin nicht aus dem verschwiegenen Quellbereich des zu-Denkenden die Sachverhalte vorstellt und deutet. Für den Autor selber aber bleibt der Notstand, auf den verschiedenen Stationen des Weges jeweils in der gerade günstigen Sprache zu sprechen.
Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes, Reclam, Universal-Bibliothek(2010), S.92.
【石川虚舟訳註】 *「秘密の典拠から」 (aus dem verschwiegenen Quellbereich) の「典拠」とは、 老荘思想を軸とする「宋学」 を指すのであろう。
cf. Reinhard May; Heidegger's hidden sources, 1996 (First published 1989 in German).
⇒ ハイデガーと九鬼周造 ⇒ ハイデガーと芭蕉
⇒ ハイデガーと『老子』 ⇒ ハイデガーと『荘子』
http://www.eonet.ne.jp/~kyosyuu/basho5.html 【空即是色】 より
草臥て宿かる比や藤の花(笈の小文)
廓庵和尚 『十牛図』「第九 返本還源」(部分/天理図書館蔵)
世阿彌の演能といふ行為、また当時の庭造りとか、 書画とか喫茶といふやうな、単に言葉だけにたよらないもの、 即ち行為的なものに支えられて初めてつれづれのすさびが、 さびとして転化継承されるにいたったと考える。
・・・
すさびは色即是空の方向においてあるもの、 さびは空即是色の方向においてあるものといひうるであろう。
『唐木順三全集』 第五巻 「中世の文学」 (筑摩書房版)、pp.95,112
「色即是空」は、ただちに「空即是色」とひるがえって、「妙有」という肯定門に出なければならない。
「無相」がそのまま「妙有」であるところ、そこに「真如実相」の世界がある。…
その「如」のところを、また「柳は緑、花は紅」ともいうのである。
これがほんとうの「自然(じねん)」である。…
「真空」は”無相”であり、同時に”妙有”である。
ここに「空」ないし「東洋的無」が、「創造的無」と呼ばれて、西洋的な単なる ニヒリズム と違うところがある。
秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.119色即是空から空即是色と転ずることによって、なまの色は空に媒介されて変貌する。…
山は山、水は水に違いないが、山是山において山は本来の面目を現成するといってよい。
藤の花は藤の花に違ひないが、くたびれて宿かるころや藤の花 と芭蕉にうたはれることによって、本来の藤の花の面目を顕現する。
認識の対象としての藤の花から、天地山水を背景にし、物我両境にわたっての藤の花が出てくるのである。…
芭蕉の風雅、風流とはそういふものであった。
これが禅を根底にしてゐることはいふまでもない。
さびは禅の精神の美的表現であるといってよい。…
『唐木順三全集』 第六巻 「千 利休」 (筑摩書房版)、pp.137-138
物我一如(もつがいちにょ)
「物我一如」というのは、「天地と我と一体、万物と我と同根」という境地である。
秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.44
http://the-whale-circus.com/basyou_matuo/
【【井筒俊彦「意識と本質」】松尾芭蕉いわく主体と客体という分断意識が消える瞬間に「本質」が立ち上がる】 より
「さて―」事件を解く鍵となった5・7・5のリズムに気づいたときから、名探偵はリズムに合わせて真相を語りだした。
こんにちは、たわら(@Whale_circus)です。
「お月さま 雲をかきわけ 顔を出す」
この俳句を知っているだろうか。かつて朝日新聞に掲載された俳句だ。
月を擬人化し、地球に生活する人々を照らすために、よいせよいせと、雲に顔を押し付けているような夜空を詠んだ句である。
詠んだのは小学生だった僕だ。夏休みに祖父に促されてとっさに詠んだ記憶がある。新聞社に送ればあら不思議、あっさり新聞に掲載された。新聞紙デビューである。応募が少なかったのだろうか、名句なのだろうか、真相はヤブの中だ。
じいちゃんありがとう。言葉、に興味を持ち始めたのはそれからだったかもしれない。
夏の終わりのほほえましいエピソードは、突如回転し、別の疑問として結晶する。
俳句や詩を詠むとはいったいどういう行為なのか、と。
今回の記事に登場する碩学は再び井筒俊彦である。その著書「意識と本質」は本質論である。
その中で哲学的「本質」をとらえるために俳人や詩人の「本質」論を彼はみていく
ここではかの有名な松尾芭蕉の世界への接し方を見ていく。
1 2つの本質:普遍的「本質」と個体に内在している「本質」
上記の記事にも紹介しているが、僕らは通常、花、石、木という言葉で世界を認識している。
花の「本質」、石の「本質」、木の「本質」を知っているから、それらの言葉を使って指し示すことができる。石を見て花という言葉を使わないし、木をみて石とは呼ばないだろう。それは言語化しなくとも、それぞれの本質を知っているからである。
究極的に、同じ花は二つとしてないが、総称して「花」と呼べることは可能です。あなたとまったく同じ人間はいないが、あなたと僕は同じ「人間」であるのと同様であろう。花を花たらしめるもの、人間を人間たらしめるもの、それが「本質」なのだ。
つまり、この世界とは普遍的「本質」の網目に切り取られた世界だということです。
しかし別の立場もある。一部の俳人や詩人はいいます。この「本質」は個別的リアリティーを不当に扱っているのではないか、と。例えば、同じ花でも、「いま、この場所に咲いている、僕が見つめている瞬間に立ち上がっている、そのものを独自に存立させる「そのもの性」」を捉えようとする立場のことです。
日常言語(普遍的「本質」)で捉えれば「花」かもしれないが、その詩人が見ているものには「そのもの性」(個別的「本質」)がある。それを詩的言語で捉えるのだ。リルケという詩人はこの立場だそうだ。
芭蕉はその二つを結びつけるような立場をとる。
2 芭蕉の世界の眺め方
結論からいえば、芭蕉は普遍的「本質」が個別的「本質」に次元転換する瞬間を詩的言語に結晶させる立場だった。
「俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジー」であったと井筒はさらりと書いている。
芭蕉にとっての普遍的「本質」は事物の存在深層に隠れた「本質」だ。
存在深層については井筒の説明を借りることにする。
「物と我と二つにになりて」つまり主体客体が二極分裂して、その主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺めることのできるような存在次元を仮に存在表層と呼ぶとして、ここで存在深層とは、この意味での存在表層を超えた、認識的二極分裂以前の根源的次元ということである。
井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp58
ぼくが何かを見る、のような認識以前の根源的次元に普遍的「本質」が隠れていると芭蕉は考えたのだ。
芭蕉いわく美的修練を積むと、ものへの意識が消える瞬間が、実体験としてあるそうだ。
そして、主客に分断された日常意識が消えたときに、一瞬だけ普遍的「本質」が自己開示するのだ。
この永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験においては、突然、瞬間的に、生々しい感覚性に変成して現れるのだ。普遍者が瞬間的に自己を感覚化すると言ってもいい。そしてこの感覚的なものが、その時、その場におけるそのものの個体的リアリティーなのである。
井筒俊彦 1991 「意識と本質」pp59
その瞬間に詩的言語でそのリアリティーを言葉にするのだ。このような背景を知るとあの俳句もまた違って響くことだろう。
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
古池、蛙、岩、蝉。どの存在深層に隠れた「本質」を言葉にしたのだろうか。
まとめ
芭蕉の「本質」について井筒俊彦に学んだ。俳句を詠む、それはただ5・7・5のリズムに合わせて言葉を選ぶだけではないのだ。
主客が溶けて混ざりあった根源的次元において、一瞬だけ光る「本質」を詩的言語で捉えようとする熱情に感嘆してしまう。
小学生だった僕は、月と根源的次元で出会ったのだろうか。真相はヤブの中、ということにしよう。
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