https://ameblo.jp/piyotchsojun1677/entry-12495465957.html 【菅原道真も発達障害? 歴史の偉人にみえる発達凸凹】より
思春期と発達障害の子育てを応援する心理カウンセラー田中 早苗です。
子育ては自分育て。自分を育てるとは、こどもから学ばせてもらうこと。ダメな自分を許すこと。今より半歩先に進む勇気をもつこと。そんなおかあさんを応援しています。
私は歴史が好きなもので、Eテレ「知恵泉」をよく観てます。マニアが観る前提になっているのか、基本的なところはある程度知ってる前提で話していくのが気持ちいい💓
はるか昔、「織田信長って誰❓」と言われて、(この人とは友達にはなれない)と思った私です
さて、先日のテーマは「菅原道真」でした。天神さま 菅原神社 北野天満宮 太宰府天満宮
…でお馴染みの言わずと知れた学問の神さま 最近では、マンガになってるそうな
これも時代ですね〜
応天の門 Wikipedia応天の門
その素の姿は知りませんでした…けっこうなオレさまキャラだったようで超秀才
何しろ学ぶことが好き
自己愛強い 正しいことは正しいと貫く 他人の目線気にしない…うん、アスペル傾向ですね。発達障害傾向あるやんけ💦
天才系は、いつの時代も生き辛さを抱えているようです。
真面目にマジメに好きなことを追求できる集中力。社会性がなかなか身につかない
KY(空気読めない)体質…それ故に、周りに妬まれ煙たがられ、讃岐(四国香川)へ左遷されてしまいます。
でも、そこで生の現場を体感し、一皮剥けたのですね。塞翁が馬…何事もムダなことは一つもない。やはり、場数(と私は表現します)をこなすことが大事。体験・体感が人を大きくするのだ それにしても、こうした天才系の人が、けっきょく九州の果てに飛ばされて
最後を遂げるのは悲しいです。それはそれで、良き人生だったのでしょうが、現代社会を見ると、数百年前の政治の世界となんら変わっていないように思えます。
日本の悪いパターンを変えるには異質な物も受け入れるという勇気と優しさが必要なのかもしれません。
http://www.mitsurou.com/column/c22.html 【大谷北野天満宮の祟り】より
振り返ると、はじまりと思える出来事がありました。
7年前、今は亡き愛犬サリーと裏山に散歩に出かけた時のことです。いつものように、私は原付きバイクで追いかけていました。すると、山に登る小さな脇道を見つけたのです。(私は妻の家に住んでいるので、まだ知らない所がたくさんあるのです)坂を登り上げると、小さなかわいらしい社がありました。とびらに三日月と丸いお日さまの穴が彫り込まれ、背後の松の御神木は、まっすぐ天高く幹をそびえさせていました。軽く柏手を打って後ろを振り返ると、田んぼに囲まれた広々とした大谷の小さな集落が望めました。柴草に腰かけ、ポケットに入れてきたあったかい缶コーヒーを開けて、晩秋には稀な、長閑な時間を愛犬と過ごすことができました。
その夜、私は大変なことに気がつきました。なんと空き缶を忘れてきてしまったのです。「まずい!」。ぞっとしてしまいました。 実は子どもの頃、神様に祟られた経験があったのです。5円のみかんガムを買いたくて、悪ガキ友達とお稲荷様のさい銭箱から、小枝で五円玉を何枚かいただき、目的を叶えた時のことでした。その小さな成功に喜び合った翌日。申し合わせたように、三人ともそれぞれに痛い目にあってしまったのです。坂道を自転車で転んで体じゅう擦りむいた者、父親に兄弟喧嘩を叱られ殴られ青痣の顔になった者、学校でマンガが見つかって先生にこっびどく叱られた者。その時私たちは、神様に悪いことをすると祟られることを身を持って学習したのでした。それは、いまだに小さなトラウマとして私の中に残っているのです。(笑)
翌朝そんなことを思い出しながら慌てて空き缶をとりに行き、「ごめんなさい。祟らないで下さい」と、柏手を二つ余計に打って社をあとにしました。
そして、ほっとした帰り道のことでした。
「とんとっ たたた と とった とん …」
安心した私は、きっとうれしくなったのか、空き缶を持つ左手の中指で軽快なリズムを叩きはじめたのです。それが、我ながら愉快でめずらしいリズムで、結局家に着くまで面白くてずっと続けてやってました。なんだか祭り囃子の太鼓のように感じられ、もしかしてあの小さくてさみしそうな社の神様は、お祭りをしてもらいたいのかなと思ってしまったほどです。その空き缶は捨てられず、今でも小屋の棚に置いてあります。幸いなことに祟りはありませんでした。
あとで分かったのですが、あの社こそが大谷四天神の一つ、菅原道真公を祀った「大谷北野天満宮」だったのです。四つの天神社がある現在私の住む朝日町大谷地区は、昔むかしの平安時代、時の右大臣菅原道真公が太宰府に左遷させられた折、一人のお嬢様の一統が最上川をのぼり辿り着いた地と云われております…。しかしこれは、残念ながら裏づけとなるものが何も見つからず、地元ですら信憑性のない話とされています。
地元歴史研究家の間で、信憑性があると推測されているのは系図説です。大谷には、多くの白田姓の方がいらっしゃいますが、白田家に残された系図によれば、道真公の五代目「高標」の五男「孝安」が出羽の国の役人となり山形に来て、その何代かあとの子孫が大谷に住み着き、のちに地名だった白田に姓を変えたとされています。しかし、地元以外の歴史研究家たちの間では、菅原家の系図上、高標に五男は存在しないこと、そして系図は都合のいいように改ざんされがちで、あてにならないものと、やはり信憑性にかける話とされています。
しかしここ大谷地区には、四天神をはじめ、その疑わしさを払拭させる社寺や石碑、行事、風習が確かにたくさん残っています。たった200戸程の、どこにでもある山里の小さな集落の血が、時の右大臣であり平安の都を襲った日本を代表する怨霊であり、現代の学問の神様である「菅原道真」につながっているかもしれないのです。そして平安京にも…。
前置きが長くなってしまいましたが、高校時代日本史11点をとるほど、歴史嫌いだった私は、近年このロマンのある話にすっかりはまってしまったというわけなのです。
私を着実に歴史好きにさせた方は、すぐ近くに住んでいらっしゃる歴史研究家の堀敬太郎さんです。堀さんは、地元歴史研究会「風和会」の事務局と、「朝日町エコミュージアム案内人の会」の代表を務めていらっしゃいます。毎年春に行っている集落あげての大谷大堰の普請(整備)の時など、堀さんは新参者の私に大谷地区の歴史を少しずつひも解いて下さったのでした。その大堰もその昔、道真公の子孫にあたる「白田家」が、村民の生活を楽にしようと、広大な水田を作るための堰を、私財を投げ打って開削したもので、大谷の歴史を語る象徴となっています。しかし歴史嫌いな私は、当時「スガワラ・ミチザネって誰?」のレベルです。相づちを打つだけで精一杯でした。
その後、私のほうからうるさい程質問をするようになったのにはもう一つ理由がありました。日本の蜜ロウソクの歴史に道真が関与していたのです。奈良時代から遣唐使により仏教の御灯明として中国から輸入され使われていたものを、道真が遣唐使を廃止したために、幻のロウソクとなってしまっていたのです。(日本の蜜蜂では産業を起こせる程原料の巣は収穫できず)
思いがけず繋がってしまった私は、じわじわと大谷の歴史を、そしていにしえの日本を知りたい欲求にかられていったというわけです。
近頃、その勢いは自分でも驚くほどです。小学生向けのマンガの歴史書にはじまり、話題の「逆接日本史」。それから、大嫌いだった古典文学も読みました。なぜなら、系図によると、「更級日記」の作者の菅原高標の女(むすめ)は、大谷白田家の祖「孝安」の姉にあたるからです。平安時代後期の生活ぶりがうかがえ、いにしえの人の心も現代と通じるものだったことが嬉しく、味をしめた私は、枕草子、徒然草、今昔物語、方丈記、そして源氏物語(まだ中程)と読みまくりました。やがて、当時の生活の基になっていた陰明五行の考えに惹かれるようになり、枕元には、時代小説とともに、陰明道や修験道の本も、重ねておくようになりました。そして、映画「陰明師」。大袈裟と思いつつも、大好きな狂言師野村萬斎が演じる安部野晴明にも惹かれてしまいました。
関西出張の時には、明治の時代に消され昭和21年に再興された福井の陰明道宗家・天社土御門神道本庁や京都の北野天満宮、晴明神社、そしてかつての陰明師たちが天文観測を行った渾天儀の台石が残る土御門屋敷跡の圓光寺まで訪ねてしまいました。これにも理由があるのです。堀さんが、かつて大谷の寺小屋の先生が幕末頃に京都に陰明道を学びに行った歴史があると教えて下さったのです。確かに、大谷は碁盤の目のように辻が多く、社寺も陰明五行の風水に基づいて設置された小京都づくりです。陰明の学を持っている人がいて当然とはいえ、もしかしたら安部野晴明の子孫で格式のある土御門家に学びに行ったのではと想像が膨らみ、昂る気持ちを押さえきれなくなってしまっていたのです。
私は、いつのまにか節供の行事やお祭り、和歌や俳句、邦楽、和食、まじない、相撲、なんとお屋敷のお坪までも、すっかり和の民俗性、芸術性、そして心に惹かれてしまいました。それらの中に残された、陰明五行を見つける度にわくわくしてしまうのです。
仲間と主催したホタル観察会では、流れては消えゆく蛍光に、平安のゆるやかな時と雅びを勝手に感じ取り。時おりいただく晩酌は、すっかり瓶子と盃になってしまいました。さらに、神話や陰明五行を想像させる神社も大好きになり、分厚い神社辞典まで買ってしまいました。かつて、虫を見つける度に昆虫図鑑をめくったように、今は知らない名前の神社や石碑を見つける度にめくる始末です。
そして、私は神聖な御灯明製造業であります。工房には、ついに小さな神棚を設置しました。職人の工場には、さりげなく神棚があることが、昔から職人にあこがれていた一つの魅力でもあったのです。しかし、まだまだインテリアの域を抜けきらないのも事実で、この半端さがこれまた祟りを呼びそうで少々心配です。
なんと表現したらよいか。大谷の歴史を学ぶうちに、どっぷり“いにしえの日本ごっこ”にはまってしまったという感じなのです。
何年かぶりに雪のない今年の初詣は、家族と大谷の四天神をまわってみました。久しぶりにたずねた北の天満宮からは、大谷の集落が新年の日ざしをたっぷり受けて、静かに安堵しているふうに見えました。
ふと、思いました。
「歴史嫌いだった私が、こんなに勉強させられて、本を読まされて、もしかしたらこれが大谷北野天満の祟りなのでは」と。(笑)
最後に、京都を訪ねて大きな収穫がありましたのでご報告致します。
北野天満宮を訪ねた折、元宮司で現在ガイドをなさっている浅井輿四郎さんに、偶然お声かけいただきお話することができました。驚くことに、道真の一人のお嬢様が大谷に来たという説について、こうお答え下さったのです。
「充分にありえる話。なぜなら、道真にはたくさんの側室がいて、子どもが23人もいた。左遷の折、本妻の子ども以外は、東北地方を中心に流した歴史がある」と。
どうやら大谷北野天満宮の祟りは、これからも続きそうです。
「とんとっ たたた と とった とん」。
https://thegate12.com/jp/article/351 【【日本三大怨霊】菅原道真・平将門・崇徳天皇はなぜ怨霊に? ゆかりの場所も紹介】より
日本三大怨霊はただ恐ろしいだけではない
世の中の事故や災害といった不吉な出来事は、時として偶然とは思えないようなタイミングや連鎖で起こることがあります。そんな時、よく口にされるのが「祟り」や「呪い」といった超自然的な存在。「そんな迷信はあるわけない」と思いつつ、どうしても説明できない、そんな奇妙な出来事に遭遇したことがある人も多いのではないでしょうか。
日本では古くから、人に祟りや災いをもたらす悪霊は「怨霊」と呼ばれ恐れられてきました。その中には、大災害を引き起こすほど恐ろしい力を持ち、現在でも伝説として語り継がれるものもいます。
今回は「日本三大怨霊」と呼ばれた菅原道真、平将門、崇徳天皇について解説。歴史に語り継がれる日本三大怨霊について、深く探っていきましょう。
【幽霊と妖怪】の違いとは?日本のお化けの歴史に迫る!
日本の夏の風物詩として欠かせない怪談やお化け。日本には「幽霊」や「妖怪」など様々なお化けが古くから歴史書や民間伝承に登場してきました。今回は、幽霊と妖怪の違いやその歴史を徹底解説。代表的なものや海外のものまで紹介します。
その他伝統・日本文化「怨霊」はなぜ生まれる?憎しみや恨みを抱えた魂が怨霊となる
憎しみや恨みを晴らすために現れる怨霊「怨霊」とは、祟りや災いをもたらす悪霊のこと。
古来より強い恨みや憎しみを抱く人の魂が怨霊となって現れるとして恐れられてきました。怨霊の中には、この世に未練を残し凄惨な死を遂げた死者の魂である「死霊」だけでなく、思いが強すぎるために生きた人間の魂が「生霊」として存在する場合もあります。
怨霊は、日本でも古くから人々を恐怖に陥れてきた存在として語り継がれており、特に恨みや憎しみが強ければ強いほど恐ろしい悪霊へと変貌し、強力な祟りや災いをもたらすと信じられていました。
怨霊が神として祀られる?
御霊信仰に基づく御祭神を祀る御霊神社
怨霊のもたらす祟りは、憎しみや恨みの対象となった人や周りの人々に不幸な出来事が立て続けに起きたり、死に至らしめたりするというもの。さらに、国を揺るがす大災害や疫病も強力な怨霊の祟りだと信じられていました。これは神道の中の「御霊信仰(ごりょうしんこう)」に由来するものと言われています。
そこで当時の人々は、怨霊を「神(御霊)」として祀り崇めることで祟りを鎮め、平穏と平和を取り戻そうとしたのです。そのため、かつて怨霊として恐れられた存在が御祭神となっている神社が、現在でも数多く残っています。
歴史に残る「日本三大怨霊」
日本三大怨霊とは?
怨霊には、大災害をもたらすような強大な力を持つとされるものが存在します。その中でも特に強力な怨霊として恐れられたのが、「菅原道真(すがわらのみちざね)」、「平将門(たいらのまさかど)」、「崇徳天皇(すとくてんのう)」の3人です。
歴史上の偉人としても知られる彼らですが、その悲惨な最期や恨みの深さから、日本各地で様々な災いをもたらす大怨霊となったと伝えられています。
平将門を祀った築土神社
ここからは、日本三大怨霊と呼ばれるようになった菅原道真、平将門、崇徳天皇について、彼らの生涯や怨霊として恐れられるようになった背景を解説していきます。
日本三大怨霊①「菅原道真」
菅原道真
中流貴族の家に生まれた菅原道真は、幼い頃より学問や詩歌の才能を発揮し「神童」と呼ばれていました。学者、漢詩人、政治家と多彩な才能を持った菅原道真は、870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官。天皇からの信頼も厚く、遣唐使の廃止を進言したことでも知られています。
異例のスピード出世を快く思わない者も
菅原道真はやがて朝廷の最高職とも言われる右大臣に就任し、藤原氏と並ぶ権力の絶頂期を迎えました。しかし、そんな菅原道真の出世を快く思わない人も多く、中でも当時のもう一人の権力者である左大臣・藤原時平はその筆頭でした。
藤原時平は当時の天皇、醍醐天皇に「菅原道真は天皇を廃帝させるために陰謀を企てている」と伝え、菅原道真は無実の罪を着せられることに。その後、時平の言葉を信じた醍醐天皇により、菅原道真は左遷され大宰府(現在の福岡県)に送られてしまいます。
左遷後2年で無念の死を遂げる
菅原道真が左遷された太宰府
その後の弁明などは一切聞き入れられることなく、囚人同様の扱いで太宰府に幽閉された菅原道真は、失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げました。
その後は菅原道真に代わって権力を握った藤原時平の覇権が続くと思われましたが、藤原時平は39歳で突如亡くなってしまいます。さらにその後、宮廷内で落雷が発生して複数の貴族が命を落とし、やがては菅原道真を左遷した醍醐天皇とその皇太子までもが病で立て続けに亡くなってしまいました。
災いを鎮めるため「天神様」と祀られるように
菅原道真の怨霊
これらの一連の出来事は、菅原道真の怨霊による祟りであると恐れられ、死後にも関わらず太政大臣や左大臣の位を与えて怒りを収めようとしました。しかしそれでも災いが止まることはなかったため、最終的には菅原道真の魂を神として祀るべく、北野天満宮が建立されることとなります。
天神様として祀られる菅原道真の像
菅原道真は落雷をもたらしたことから雷神として崇められ、「天神様」と呼ばれるようになりました。時がたつにつれて怨霊としての恐ろしさは弱まっていき、代わりに生前学問の才能に秀でた菅原道真にあやかろうと、「学問の神様」として崇められるように。菅原道真を祀った天満宮は全国に数多く存在し、現在では受験の合格祈願の名所としてすっかり有名になりました。
日本三大怨霊②「平将門」
桓武天皇の子孫だった「平将門」
平将門は平安中期の関東の豪族で、桓武天皇の子孫である平氏の一族であり、元々京で藤原氏に仕える武士の一人でした。しかし、父親である平良将(よしひら)の死去をきっかけに関東へと戻ると、領地の相続を巡り親族間で争います。
一族争いに打ち勝ち新国家を樹立
叔父であった平国香(くにか)や平良兼(よしかね)に相次いで襲撃を受けた平将門ですが、いずれも返り討ちにして完全勝利。その武勇はたちまち関東に知れ渡り、多くの武士たちが平将門の元に集まるようになりました。
勢いに乗った平将門は、関東八カ国の国府を襲って行政官である国司を追放してしまいます。そして自らを「新皇」と名乗り、日本半国を有する新国家の樹立を宣言。当時、関東の国々は国司の圧政に苦しんでいたため、新国家樹立は市民とって喜ばしい出来事だったと言います。
「平将門の乱」を巻き起こし、倒れる
平将門終焉の地に建てられた國王神社
しかし、この行為は朝廷への反逆とみなされ、平将門の追討令が出されます。そして新国家の樹立を宣言してからわずか2ヶ月で、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)にあえなく討ち取られてしまいました。
この一連の出来事は「平将門の乱」と呼ばれ、貴族の世から武士の世へと変革するきっかけとなった歴史的クーデターとして語り継がれることとなります。
討ち取られた首に次々と起こる奇妙な出来事
京に晒された平将門の首が関東へ飛んだという
討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原に晒されることとなりました。しかし、無念の死を遂げた平将門の首には、奇妙な出来事が立て続けに発生。何ヶ月も目を閉じなかった、夜中に歯ぎしりをしたといった噂が絶えなかったのです。人々は平将門の強い怨念としてこれを恐れました。
そしてついには、首が体を求めて関東へと飛んでいったという伝説まで残っています。飛んでいった先に建てられたのが、現在の東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と言われています。
現在も撤去や再開発を免れ続けている首塚
平将門の首塚
奇妙な出来事はなんとこれだけでは終わりません。関東大震災の後、全焼した大蔵省庁舎の仮設庁舎を首塚のある場所に建てたところ、当時の大蔵大臣をはじめ関係者が次々と亡くなり、庁舎は取り壊されることとなってしまいました。
また、戦後にGHQが駐車場の建設のために首塚を取り壊そうとしたところ、重機が横転して運転手が亡くなるという事故も発生。
平将門の首塚を取り壊そうとするたびに不吉な出来事があまりにも多く起きるため、いつしか平将門の怨霊による祟りと噂されるようになりました。平将門の首塚には現在でも数々の不思議な出来事が起きるという噂が後を絶ちません。
日本三大怨霊③「崇徳天皇」
百人一首に描かれた崇徳天皇
鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として誕生した崇徳天皇。3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位しましたが、実権を握ることはほとんどありませんでした。さらに、上皇となった鳥羽上皇の計略によって10代のうちに強引に天皇を譲位させられることになってしまうのです。
崇徳天皇は上皇となり「崇徳院」と呼ばれるようになります。和歌を愛した人物としても知られ、崇徳院の詠んだ和歌は百人一首にも選ばれています。
皇位継承を争う「保元の乱」が勃発
鳥羽上皇の死後、自分の不当な扱いに不満を募らせた崇徳上皇は、朝廷の実権を奪い返すため当時の天皇・後白河天皇に戦いを挑みました。こうして朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、「保元の乱」という皇位継承争いが勃発。戦いは激しい武力闘争へと発展します。
最終的に崇徳上皇は敗れ、出家をすることに。当時は皇族が乱を起こしても出家さえすれば罪に問われないのが慣例でしたが、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流されるという厳しい処分を受けました。
讃岐に流され鬼のような形相へと変わってしまう
保元の乱の拠点となった高松神明社
讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒し、5つの写本を仕上げます。京都の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出したところ、あろうことかこの写本は「呪いが込められているのではないか」として送り返されてしまいました。
その屈辱以降、崇徳上皇は「妖怪に生まれ変わって無念を晴らす」として死ぬまで髪と爪を伸ばし、鬼のような形相へと変わったといいます。そして最後まで京へ戻れずこの世を去ることに。
崇徳天皇の祟りは後白河天皇が亡くなるまで続いた
崇徳天皇の怨霊
崇徳上皇の死後、延歴寺の強訴や安元の大火など、日本を揺るがす事件が立て続けに発生。また、崇徳天皇と敵対していた後白河法皇の身内が次々と亡くなります。
これら一連の出来事は、崇徳上皇の怨霊が引き起こす祟りであると考えられました。そこで保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」が建てられ、罪人の扱いは取り消されることに。
しかし、その後も後白河天皇が亡くなるまで災いは止まなかったと伝えられています。崇徳天皇の怨霊はその後の天皇にも恐怖を与え続け、明治時代以降の天皇も崇徳天皇の鎮魂の行事を執り行っています。
日本三大怨霊のゆかりの地
日本三大怨霊となった菅原道真・平将門・崇徳天皇の墓や、神として祀られる神社などは全国に数多く存在しており、現在でも訪れることができます。
大災害を引き起こすほど強大な力を持つ怨霊であったゆえに、神となった現在では一転、強力なパワーが得られるパワースポットとしても知られています。同時に、現在でも不思議な噂が絶えない場所でもあるのです。
菅原道真ゆかりの地「北野天満宮」
北野天満宮と梅の花
落雷や関係者の死など、菅原道真の祟りを鎮めるために建てられた「北野天満宮」。太宰府天満宮と共に、全国に数多く存在する天満宮・天神社の総本社とされる神社です。
菅原道真は「天神様」と呼ばれ、学問の神様として祀られています。年末年始は、受験生で大変な賑わいを見せる事で知られており、京都の観光地としても有名です。
中でも約1,500本もの梅や、天満宮によく見られる牛の像の中で最も古い「一願成就のお牛さま」と呼ばれる像は、撫でると1つだけ願いを叶えてくれる像として知られています。
、平将門の乱鎮圧の際に朝廷から怨敵退治の祈祷を命じられたことが開山の起源とされていることから、神田明神と一緒に参拝するのは良くないと言われています。(以下略)
FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事《心理セラピストのつぶやき》
トラウマは向き合わないほうが良い?
去年あたりからチラホラ、”トラウマは思い出したり、再現したりしないほうが良いのでは?”というご質問をもらうようになりました。
非二元の先生からトラウマに意識を持っていくと活性化するから、トラウマには触れないでポジティブなことだけに意識を向けるようにと言われた、またはトラウマは再現してはいけないから、高次の存在とつながるヒーラーさんからに取ってもらうのが良いと思うが、どうなのか?といったご質問です。
要は、トラウマは放って見ないでおくか、または高次の存在に丸投げするかが良いということらしく、最近そういった情報がスピや非二元界隈で回覧しているもよう。たぶん。
で、結論から言ってしまえば、トラウマと向き合って癒やすことはまったく問題ありません!それどころか、大変お勧めです♪
私自身は、スピリチュアルヒーリングで癒やしが起きるとか、悟って悩みから解放されるなどもまったくありだと思っています。苦しくてスピや悟りの門をくぐるのも理解できますし、役に立つことも十分にあると思うのです。
しかし一方で、トラウマの研究は世界中で長年に渡って行われていて、様々な療法(セラピー)が開発され、大きな成果を出しています。
データはないと思いますが、おそらく高次の存在やポジティブになるだけでトラウマが解消された数より、セラピーによって解消されたケースのほうが数的には圧倒的に多いでしょう。
セラピーによってトラウマが解消されるとは、トラウマの症状がなくなるという意味です。例えば、PTSDに多い、極度の不安性、鬱、コントロールできない怒り、フラッシュバックなどなどです。
例えば私が使っているEFTやその発展版のマトリックス・リインプリンティングなども多くのトラウマを解放した実績があり、臨床研究のレポートもたくさんあります。
ということで、スピや非二元で癒やされることになんの問題もないのですが、セラピーを全否定するような情報が広まっているのは、非常に困りものです。
で、冷静に書いているようですが、プチ腹が立っています。例えば、レイプによってトラウマになった人に高次の存在にまるなげしましょう、とか、そのことは忘れてポジティブなことに意識を向けましょうって言うの?
選択肢に無理があり過ぎない?という腹立ち。
ちなみに、トラウマの解放をする場合「再体験」は絶対避けます。なぜなら症状がひどくなる可能性が高いからです。とくにレイプのトラウマなど再体験は絶対避けますし、再体験をせずにやれる方法がきちんとあります。
トラウマとは、心の問題だと思っている人も多いかもしれませんが、自律神経や脳を巻き込む心と体の問題です。なので、セラピーは体に働きかけるものが有効で、たんに話をするだけでは、再体験をさせてしまう可能性大です。
また、トラウマのしくみや扱い方といえば、実はお医者さんの多くもあまり分かっていません。基本、薬物療法しか学んでいないので、それ以外の知識ややり方はほぼスルーされています。
ある意味日本の一番の問題は、心の悩みや苦しみがあるとき、スピリチュアルや悟りに走る人が圧倒的に多く、セラピーの分野がまだ知られていないこともあるでしょう。
基本的にセラピーとは単純に「療法」という意味です。なので、イギリスで”セラピストです”と自己紹介をすると、何が専門ですか?と聞かれます。しかし、どうも日本ではスピリチュアルとごっちゃにしている人が多いかもしれません。
で、話は飛びますが、トラウマの解放は人類の目覚めにとても大切だと思うのです。というのも、トラウマは「無力な私」「力がない私」という感覚を強く持ってしまうからです。
人類の歴史を振り返ると、戦争や紛争、貧困、差別、虐殺などトラウマの歴史と言っても過言ではありません。
集合意識の中にあるこれらのトラウマ意識は、私たち個人にも大きな影響を与え、力がない私は世界を変えられないという意識につながります。そしてそれが世の中の雰囲気を作っていく・・・。
私はとくにトラウマはないという人でも、国や家系のトラウマ意識に影響されているものです。
なので、もし「自分は世界の中でちっぽけな存在で、世の中を変える力などない」と感じるなら、トラウマ意識の影響を大きく受けているでしょう。じゃぁ、何が一番の癒しになるか?というと、やっぱり「自己愛」です。
ということで、自分の中の自分を愛せない部分、自分を否定的に見てしまう思いなどを見ていき、癒やしていけると良いですね。
そしてまた、高次の存在やポジティブになるだけじゃない、圧倒的に結果を出しているセラピーの分野にもぜひ興味を持ってもらえると嬉しいです。
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