https://www.historyjp.com/article/38791/ 【空海と和気清麻呂との出会い 怨霊退治と神宝の処遇に従事した達人】より
天皇より信任を受けた空海の役割
平安京への遷都が実現した後も、社会情勢は大変不安定であり、多くの人々が疫病の蔓延や怨霊の噂に不安な日々を送っていました。そのため、怨霊を祓って国家体制を強固にし、天皇家の安泰を実現することが急務でした。その結果、天皇からの篤い信望を受けた空海は立ち上がり、遷都の立役者でもあった和気清麻呂とも深く関わることになります。
『桓武天皇像』延暦寺 蔵平安京への遷都にあたり、秦氏の役割が経済的支援とするならば、和気清麻呂には建築土木技術における活躍が求められ、桓武天皇が最も恐れた怨霊を退治するための宗教アドバイザーとしては、平安京が遷都された年に悟りを開き、宗教心に関する洞察力と語学力、文才において既に比類なき名声を得ていた空海が天皇の側近となるべく、天皇との距離を縮めていくことになります。
こうして、秦氏、和気清麻呂、空海の三者のコラボレーションにより、平安京の造営後も、桓武天皇は優れたアドバイザーの存在に恵まれることになります。特に空海への信望は篤く、その結果、天皇が一番求めていた怨霊対策について、空海はその重責を担い、生涯をかけて取り組むことになったのです。悟りを開いた後の空海の足取りを振り返ると、空海の思いが見えてきます。
悟りを開いた空海の足取り
国家に貢献することを願った空海は、平安京の遷都が実現した直後、正式に僧侶となることを願いました。そして剃髪得度の式を受けるため一旦、奈良に戻り、当時の規定に従って国家試験を受けたのです。奈良仏教に失望し、大学を中退してまで山中で修行を積み、その後、悟りを開いた空海が、再び奈良に戻ることになった理由は定かではありません。皇族からの奨励があったか、和気清麻呂のような卓越した技術知識をもった博学な方々と接したかったか、または、経典を深く学び、神宝の処遇についても知識を得て、自らが率先して怨霊対策に貢献することを願っていたからとも考えられます。
大安寺
空海が20歳の時に学んだ奈良の大安寺奈良に戻った空海は2年間、奈良大安寺の住僧として、南都六宗の経典などの研究に徹します。その間、神宝の歴史とその処遇、収蔵場所などについても、さまざまな資料を読み比べて研究したに違いありません。そして796年、22歳にして唐より来朝していた泰信和上より具足戒を授かります。ところが空海は、庶民の救済を忘れて無益な宗教哲学や立身出世を目指すことに終始する南都六宗を嫌い、「あらゆる僧尼は頭を剃って欲を剃らず」と、痛烈に批判したのです。そして具足戒を授かっても僧侶のコミュニティーに染まることはなく、むしろ自らの信念を貫き、再び旅立つ空海の姿を目の当たりにします。
天皇に招集される空海
遷都した直後の平安京は、四神に守られているにも関わらず、不穏な空気が漂っていました。そして怨霊に対する不安をぬぐい去ることができなかった桓武天皇は、宗教アドバイザーを必要としていました。空海は既に悟りを開いていたことから、その名声は天皇の耳にも入っていたことでしょう。そこで天皇より招集されたのが、空海でした。
大安寺中門跡
大安寺中門跡奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても最も勢力のある法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海は、奈良の宗教文化にも精通していました。また、仏教思想や日本古来の宗教を熟知し、しかも大陸通として梵語や中国語などの外国語にも長けていたのです。しかも空海の出身は讃岐、今日の香川県であり、身内の阿刀大足は皇室との付き合いも深く、天皇の皇子らを教えていました。それ故、桓武天皇にとって空海は、願ってもない人材だったのです。必然的に、空海は桓武天皇の篤い信頼を受けることになります。
空海に引き継がれた和気清麻呂の思い
平安京への遷都が実現した時点で、和気清麻呂は61歳であり、5年後の799年に亡くなられます。当時の国家情勢は、長岡京の時代と変わらず災害や疫病が続いており、天皇をはじめとする多くの人々が不安な日々を送っていました。その為、怨霊を祓って国家体制を強固にし、天皇家の安泰を実現することが急務でした。
余命を数える年頃であった和気清麻呂は、自らやり残したことを、後継者に託す必要に迫られていました。既に遷都が実現し、怨霊の働きから天皇、しいては平安京と国家を守る為に、平安京の四方には四神が祀られました。そして最終段のステップとして、天皇家の象徴である神宝を、外敵からの略奪から守護して安全な場所に収蔵し、祀ることが最重要視されたのです。
そのタスクを担うことができる人物として、和気清麻呂は、空海に未来を託すことになります。悟りを開いた空海も和気清麻呂と同様に、桓武天皇をはじめ皇族や庶民一同が、長岡京の呪縛や怨霊から解き放たれ、国家が守護されることを願い求めていました。空海にとって、国家の安泰と神宝の守護に関わる思いを共有する和気清麻呂との出会いは極めて重要であり、2人は意気投合したことでしょう。そして天皇からの篤い信望を受けた空海は立ち上がり、遷都の立役者でもあった和気清麻呂と共に、天皇の側近として活躍することになります。
余生わずかな限られた期間であっても、和気清麻呂は空海に対し、特に日本国家の怨霊対策に不可欠な神宝の取り扱いと聖地の選別について、さまざまな情報を提供しただけでなく、日本の地勢を見極める方法まで伝授したと考えられます。その結果、若くして博学であった空海は、日本の地勢を確かめるために、自らの足で全国各地を巡り歩いただけでなく、土地の選別方法や有効活用の事例、灌漑工事に至るまで、和気清麻呂から直接教えを請うことができました。特にレイラインの手法に基づき、聖地同士が一直線につながるという見方と、その場所を識別する手法は、その後の空海の人生に大きな影響を及ぼすことになります。
和気清麻呂が見出した平安京のレイライン
平安京遷都に貢献した和気清麻呂
コメント
藤原敏伸
私は和気町在住で、和気清麻呂公を知らべている者です。大変勉強になりました。
現在、和気町民は清麻呂公の偉業を詳しく知らずに、弓削道鏡事件のみが語られるのみです。
勿論、自称歴史研究者は最澄、空海と関わっていたのは息子の広世だと思っていますし、
秦氏との関係も否定する人が多いです。
霊峰熊山遺跡を見ても秦氏との関係は明らかで平安京のモデルの条里制後も有ります。
宇佐神宮までの道中助けた猪も秦氏だと思っています。
今後も投稿を楽しみにしてます。
しかし私達は熊山を挟んで、香登を拠点とする大勢力の秦氏と和気氏の合作で
霊峰熊山の熊山遺跡も秦氏と境で共同の遺物と考えています。
https://www.touken-world.jp/tips/78015/ 【桓武天皇】より
第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)と言えば、「鳴くよウグイス平安京」という語呂合わせで有名な「平安京」を造都した天皇です。桓武天皇は、第45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)以降、仏教政策が中心となっていた奈良の都から、京都を開拓して新たな都を造営しました。それまで続いてきた奈良時代を終わらせ、天皇による政治を取り戻そうと新たな時代を切り拓いた人物として伝えられています。平安時代の礎を築いた桓武天皇ですが、その生涯は決して順風満帆なものではなく、怨霊や陰謀に悩まされた人生を送っていました。呪いを恐れながらも、平安京造営と蝦夷(えぞ)平定という2大事業を導いた桓武天皇についてご紹介します。
桓武天皇の生い立ち
「桓武天皇」(かんむてんのう)は、「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)として知られる第38代「天智天皇」(てんじてんのう)の孫「白壁王」(しらかべおう)のちの「光仁天皇」(こうにんてんのう)の第1皇子として、737年(天平9年)に生まれました。
諱(いみな:生前の実名)は「山部」(やまべ)と言い、諡(おくりな:死後に贈られる名)は「日本根子皇統弥照天皇」(やまとねこあまつひつぎいやてりのてんのう)で、一般的に知られる漢風諡号(かんふうしごう:生前の行跡に基づいて死後に贈られる名)の「桓武」(かんむ)は、「威厳に満ちた武」という意味です。また、在位期間の元号から「延暦帝」(えんりゃくのみかど)や、陵墓の名称から「柏原帝」(かしわばらのみかど)とも呼ばれています。
桓武天皇の母は、百済(くだら)系渡来人の血統である「高野新笠」(たかのにいがさ)で、百済王の子孫とされている人物です。桓武天皇自身も「百済王等は朕が外戚なり」と発言していたと伝えられており、それまでの天皇とは異なる血統であることを、強く自覚していたことが分かります。このような血筋が、桓武天皇に新たな時代を切り拓いていく意欲を湧かせ、天皇の権威を強めながら政治を行う動機になったと考えられます。皇位継承後に、中国で天地や皇祖を祀る祭りである「郊祀」(こうし)を行ったのも、そうした気持ちの表れだったのでしょう。
桓武天皇の運命を変えた「藤原種継暗殺事件」
当初、桓武天皇は皇族ではなく、官僚としての未来が期待されていたため、770年(宝亀元年)に大学頭(だいがくのかみ:官僚育成機関の長)と侍従に任命されていました。
しかし、父である白壁王(光仁天皇)が即位したことによって、773年(宝亀4年)に皇太子となることに。この際、桓武天皇の母が百済系渡来人の血筋で身分が低いことから、立太子を反対する声も上がりましたが、父である光仁天皇の重臣「藤原百川」(ふじわらのももかわ)らによって、「山部親王」(やまべしんのう:のちの桓武天皇)が擁立されたと言われています。そののち、781年(天応元年)に高齢であった光仁天皇から譲位されて即位した桓武天皇は、同母弟である「早良親王」(さわらしんのう)を皇太子に立てました。
784年(延暦3年)、桓武天皇は政情不安や疫病流行といった世の流れを変えるために、「平城京」(現在の奈良県奈良市)から遷都することを決意します。藤原百川の甥「藤原種継」(ふじわらのたねつぐ)の進言から、山背国(のちに桓武天皇が山城国と改称する:現在の京都府南部)が新都の地に選ばれ、準備を進めていました。
ところが、翌年の785年(延暦4年)に、遷都の指揮を執る藤原種継が暗殺される事件が起こります。臣下の中で最も信頼を寄せられ、遷都を主導していた藤原種継の死は、世の中に凄まじい衝撃を与えました。事件の首謀者は、藤原氏と対立する大伴氏と佐伯氏で、奈良時代から続く藤原氏と非藤原氏の権力争いが原因だと言われています。
また、首謀者を駆り立てたのは、万葉歌人として知られる「大伴家持」(おおとものやかもち)で、皇太子御所の内政担当である春宮坊(とうぐうぼう)の官人達も事件に関係していたことが発覚しました。藤原氏の対抗勢力の背景には、桓武天皇政権の転覆を企む者達や、次期政権を担う皇太子側近がかかわっていたのです。
こうして早良親王は嫌疑をかけられ、すでに亡くなっていた大伴家持の官位剥奪とともに、早良親王も皇太子を廃立されることとなりました。
早良親王の祟りと平安遷都
事件後、早良親王は「乙訓寺」(おとくにでら:現在の京都府長岡京市)に幽閉され、淡路へ配流(はいる:流罪にすること)されました。しかし、この刑罰に反発した早良親王は幽閉時に絶食を続けたため、淡路への移送途中で衰弱して亡くなります。そののち、新たな皇太子に桓武天皇の第1皇子である「安殿親王」(あてしんのう)のちの「平城天皇」(へいぜいてんのう)が立てられ事態は収束へ向かいました。
ところが、この直後に藤原百川の長女で桓武天皇の夫人「藤原旅子」(ふじわらのたびこ)が若くして急死し、母である高野新笠と、皇后「藤原乙牟漏」(ふじわらのおとむろ)も病気で命を落とします。桓武天皇の親族に不幸が立て続けに起こり、安殿皇太子も病気がちとなったため、桓武天皇は陰陽師に原因を占わせることに。すると、陰陽師から「早良親王の祟りの仕業だろう」と告げられ、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯えるようになりました。
このままでは、政治に支障をきたすと考えた桓武天皇は、新たな遷都計画を打ち出します。そして、桓武天皇は怨霊が留まる「長岡京」(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)から、794年(延暦13年)に「平安京」(現在の京都市)へ都を遷したのです。
遷都後も、桓武天皇は早良親王の怨霊に怯える日々を送り、早良親王の霊を祀るなど、怨霊対策に講じていました。さらに、800年(延暦19年)には早良親王に「祟道天皇」(すどうてんのう)の諡号を贈り、早良親王の鎮魂のために諸国の国分寺(こくぶんじ)で読経を行わせたと言われています。
不安定な世の情勢や不幸が続くなかで、桓武天皇は必死に怨霊対策を行い、天皇としての力量のなさを人民に感じさせてはいけないと考えていたのです。
国家仏教と政治を分ける
桓武政権の中枢である藤原種継の死や、早良親王による祟りなど、苦難の幕開けとなった桓武天皇の治世ですが、これらの事件は桓武政権に思いがけない効果を与えました。
事件後に反藤原勢力が排除されたことで、朝政は安定を取り戻し、桓武政権はかえって基盤を固めていったのです。また、藤原種継のように優秀な政治家が現れなかったことで、それまでの天皇に比べて政治に積極的な桓武天皇の権威は高まり、独裁的な親政を行う土台が整えられました。こうして、桓武天皇は25年間という長い治世の中で、独自の政権を築き上げていったのです。
桓武天皇の治世で代表的なものと言えば平安京の造営ですが、そもそも平城京から長岡京へ遷都したことにも、桓武政権独自の改革が関係しています。桓武天皇は、それまでの奈良仏教による政治を嫌い、国家仏教と政治の分断を望んでいました。そのため、奈良仏教が蔓延る平城京を脱し、新たな地で人心一新を図るために長岡京へ遷都したのです。
桓武天皇は、奈良仏教で権力を持った寺院を置き去りにし、鎮護国家思想の原点である「東大寺」(とうだいじ:現在の奈良県奈良市)の移転でさえ禁じました。そして、僧侶が政治に介入することを阻止し、桓武天皇自身が積極的に新たな政策を執行していったのです。
仏教が国政を動かすことに反対していた桓武天皇ですが、仏教自体を嫌っていたわけではありません。
桓武天皇は、既存の奈良仏教に圧力をかける一方で、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:現在の滋賀県大津市)を開山したことで知られる「最澄」(さいちょう)を唐に送り、天台宗を学ばせました。
桓武政権は、仏教と政治の分断を図りつつ、日本仏教に新たな風を吹かせていたのです。
蝦夷の討伐を行う
桓武天皇が平安京造営と同時に注力していた政策が、蝦夷(えみし:現在の関東から東北、北海道などに住んでいた人々)平定です。父である光仁天皇の時代から本格化していた蝦夷討伐を引き継ぎ、桓武天皇は東北地方平定のために、3度にわたる蝦夷討伐を行いました。
794年(延暦13年)に行われた2度目の討伐では、拠点である「多賀城」(たがじょう:宮城県多賀城市)に征夷大将軍に任命した「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)を派遣。
そして、801年(延暦20年)に3度目の討伐で、坂上田村麻呂が率いる官軍は500人ほどの蝦夷軍を降伏させ、「胆沢城」(いさわじょう:岩手県奥州市)や「志波城」(しわじょう:岩手県盛岡市)を築きました。これにより、桓武政権は東国の国土確定を進行し、現代日本の起点とも言える日本の領土を定めました。
そののち、804年(延暦23年)には坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、4度目の蝦夷討伐準備を行いました。翌年の805年(延暦24年)、討伐を前に桓武天皇は信頼を寄せる公卿「菅野真道」(すがのまみち)と藤原百川の長男「藤原緒嗣」(ふじわらのおつぐ)を呼び、徳政について論じさせることに。
この議論の場で藤原緒嗣から、平安京造営と蝦夷討伐が民衆を疲弊させていると指摘を受けます。藤原緒嗣の批判を受け入れた桓武天皇は、ただちに蝦夷討伐と平安京造営を中止させました。この議論は、のちに「徳政相論」と呼ばれ、桓武政権にとって2大事業を中止する大きなきっかけとなった出来事です。徳政相論は桓武天皇が崩御する3ヵ月前に行われ、桓武政権は実質この政策変更で幕を閉じます。そして、806年(延暦25年)3月、桓武天皇は崩御し、「柏原陵」(かしわばらのみささぎ:京都市伏見区)に埋葬されました。
独裁的な親政には批判もありましたが、桓武天皇による25年の治世は、約400年続く平安時代で栄華を極めた平安王朝の原点であり、時代を切り拓いた革新的な治世だったと言えます。
https://blog.goo.ne.jp/kitamitakatta/e/9c8deee2a172ea566b3694cb78454d26 【荻原規子『薄紅天女』】より
荻原規子『薄紅天女』(2005/徳間書店)は、1988年『空色勾玉』でデビューした荻原規子のいわゆる「勾玉三部作」の一つ。もう一作は『白鳥異伝』。
奈良時代末期、武蔵の竹芝の一族である阿高(あたか)と藤太(とうた)が主人公。
二人は同い年の甥と叔父だが双子のように育ち、村人たちからは二連(にれん)と呼ばれていた。
しかし、藤太がきっすいの武蔵者であるのに対し、阿高は出征した武蔵の兵士が蝦夷(えみし)の巫女チキサニとの間に成した落しだねであった。阿高はときどき自分が別のものに憑かれる感じがあって悩む。そして突然、蝦夷の武者たちに連れて行かれる。
同じ頃、都には怨霊が跳梁跋扈し、桓武天皇の皇太子である安殿皇子(あてのみこ)まで脅かしていた。
天皇の密命を受けて坂東を視察していた坂上田村麻呂は阿高を見て、彼が伝説の勾玉の巫女の化身であると見抜く。蝦夷の武者たちがチキサニの化身である阿高を連れ去ったと推測し、阿高を取り戻すために陸奥へ向かう。藤太も阿高の超能力に気づいており、田村麻呂に同行する。
安殿皇子の実妹である苑上(そのえ)は、兄を怨霊から護るため、男装の麗人・藤原仲成とともに「都に近づく更なる災い」を阻止しようとするが、政権内で仲成と田村麻呂とは思惑を異にする。
仲成がチキサニ抹殺をはかるのに対し、田村麻呂はそれ利用して怨霊退治をしようとする。田村麻呂は武人として勇猛なだけでなく、人間としての度量が大きく描かれる。作者の彼への惚れ込みぶりがおもしろい。
本書のいちばんスリルな点は、表題の赤く光る勾玉を胸に都へ来るであろう天女がどんな存在なのかなかなか明確にならないことである。謎がずっと解決されずに物語が進むことである。
藤太が惚れこんだ機織りの千種が武蔵にいる。彼女は予知能力を持ち巫女性があり、阿高の尋常ならざる資質に気づいた。彼女がその天女かと思うが、すぐさま本流から消える。
次に、都で苑上や藤原仲成といった毅然とした麗人が登場するので彼女たちのどちらかが天女なのかと思うが、これも違うみたい……。
天女のイメージがはっきりしない原因は、阿高が男として生まれ女を寄せ付けないストイシズムを持つ点にある。彼が女でなかったことが蝦夷の不幸であり、大和への脅威でもあった。そして本書のファンタジー性をいやおうなく高めた要因であろう。
阿高の母の有していた魔力が女性、男性といった性に無関係に表面化するところが、勘の悪い小生のような読者をして天女は誰なのか迷わせるのであった。けれど、かえって先が読みずらくわくわくするのである。
白銀の狼に変身した阿高と対面する藤太(見返しより 絵:佐竹美保)
歴史上有名な人物では、坂上田村麻呂のほかに修行途上の無空(後の空海)も登場する。
楽しめるフィクションであるが一つ、そりゃ変でしょと思うのは、田村麻呂やその従者があたりまえのように都へ文を書いて出すこと。
江戸時代なら飛脚があって届けただろうが、奈良時代に武蔵から大和へいったい誰が届けたのか。また道が整備されていたとは考えにくい。まあこれはご愛嬌である。
なお、坂上田村麻呂が蝦夷へ遠征してとらえたアテルイ(阿弖流爲、これも実在した人物)は、西洋古代史でカエサルがガリアへ遠征してとらえたウェルキンゲトリクスを連想してロマンがふくらんだ。
0コメント