3月

マノマノ稲穂@manomano_farm  【3月9日 感謝の日】

足りないことを数えたら「不満」が増える。できることを数えたら「自信」が沸いてくる。

よろこびを数えたら「幸せ」になる。あるものを数えたら「感謝」が増える。

幸せは手を伸ばしてつかまえるものではなくやってきた幸せをそっと両手で受け取るもの。


Facebook川原 茂雄さん投稿記事

「あとからくる者のために」私たちが何を用意して何ができるのかを考えさせられる仏教詩人の坂村真民さんの詩が、あるお寺の中の黒板に掲示されていたそうです。可愛い孫たちのために何を残し何ができるのかを考えさせられました。(かわ)

あとからくる者のために

あとからくる者のために  苦労をするのだ  我慢をするのだ  田を耕し

種を用意しておくのだ

あとからくる者のために しんみんよお前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために 山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために 未来を受け継ぐ者たちのために

みな夫々(それぞれ)自分で出来る何かをしてゆくのだ


Facebook北條 毅さん投稿記事「足場を整え直す」

2月という時間はあなたにとって、このような意味を持つ時間だったということに気づいていたでしょうか。

仕事や家事など、これまでの日常生活に変わらず取り組みながらもあなたの意識と心は

度々、胸の内のより深い部分と向き合ってきたはずです。ㅤ

「私は、今なぜこれをしているのか」「果たしてこのままでいいのだろうか」ㅤ

そう今の自分の姿に対して問いかけや「これまで、どんな想いで取り組んできたんだっけ」

と過去の自分を見つめ直し、そして、「私はどこへ向かおうとしているんだろう」

「なぜ、そこへ向かいたいんだろう」そのように、これからの歩みに想いを馳せる。

2月は、そうした時間を重ねてきたという人は多かったのではないでしょうか。

実際に、2月に何度も重ねてきたその深く本質的な問いによってㅤ大きな変化を遂げた人もいるでしょう。

まるで長年にわたり抱えてきた「コリ」がようやくほぐれ、楽になったかのようにㅤ

これまで、あなた自身を囚えてきた「重要な思い込み」に気づき、解放することができた

という人もいるはずです。

それにより、生まれ変わったかのように本来の、けれど新たな自分を取り戻した人や

そして、自由で軽やかなあるがままの自分を感じつつある人はこの 2025年に向けて

流れのままに、予定通りに必要な準備を整えつつあるそういった人だと言えるでしょう。ㅤ

足場を整え直す。現実のものだけではなく、あなたという存在の足場を。

そうして、本来の自分、魂の自分を取り戻していく。

そのような意義深い2月を経てやがて動き出す、約束された4月に向けた最後の準備期間である3月を世界は迎えようとしています。

2月28日の魚座の新月。これからの1ヶ月間、実質的に3月の1ヶ月間は「今の自分 に生まれ変わる」という流れが世界と、そしてあなた自身を力強く後押ししていくことでしょうㅤ

3月の流れ、その要点は以下の3点です。

1,魂の活動のスタート

足場を整えた2月の流れを経て、見えてきた本来の自分、魂の自分。その「本来の自分としての活動」を始める。その選択に大きな後押しがあるのが、この時期だと言えるでしょう。

大なり小なり、現在の日常生活を維持するための活動を誰もがしています。好き嫌いは別にしても、それは今の生活を維持・安定させるために必要なものであり、その力を借りている部分もあるでしょう。ㅤ

そのため、それを手放す必要はありません。維持・安定の恩恵を受け取っておいてください。ですが同時に、その維持・安定のための活動とは別に、あなたが本当に求める「魂の活動」を始めていくことが、非常に大きな意味を持つ時なのです。

この3月は、維持・安定のための活動をしつつ、魂の活動も始めてください。維持・安定の活動の負担が大きすぎて余裕がない人も、できる限り時間と余力を作る努力をしてみてください。

最初はテスト的なもので構いません。小規模でも問題ありません。あなたなりの魂の活動を始めることそのものが重要なのです。その取り組みは、いずれ必要なタイミングで堰を切ったように動き出すことになるのです。

2,過去の自分から、今の自分へ

2月に過去を見据えた上で、3月は過去の自分ではなく「今の自分を選択する」ことが求められる時だと言えます。

あなたは今を生きる人です。そしてこの 2025年から続く未来へと歩を進める者でもあります。だからこそ、これまでの自分ではなく、「新たな自分・新時代の自分へと変化」する必要があります。

これまでのあなたは、これまでを生きることに合わせたあなた、「過去バージョンのあなた」だったはずです。ですが季節が変われば着る服も変わるように、これからの時代用、「現在・未来バージョンのあなた」にアップデートすることが求められています。

この3月の最も重要な点は、この「今のあなたへの転換」だと言えるでしょう。

それは何も難しいことではありません。ただ過去のあなたを手放し、「今に目を向ける」だけでよいのです。過去の不要なものを手放しましょう。これまで持っていたこだわりや信念、情や愛着、過去の成功体験もみな、すでにその役目を終えているはずです。

固く握りしめてきた、その「過去から続くもの」を手放すだけで、あなたの視点は未来へ向き、新たに目指す理想が見えてくるはずです。そして眼の前に現れたその確かな未来へ向かって歩み始める時、あなたは自然と変化し生まれ変わっていくはずです。

過去の自分から、今の自分に生まれ変わる時だと言えます。本当は何も難しくはないはずです。難しくしているのはあなた自身に他ならないのです。ㅤ

3,「解決すべき問題」こそが道しるべ

これからの半年間、特にこの3月は「問題の解決」に対して人々の意識が高まる時期です。もちろん、それはひとつではありません。世界には多くの問題があり、その問題の種類も、解決のための関わり方も多種多様なものがあります。

逆に言えば、世界に数多く存在する問題の中から、この時期にあなたが「解決すべき」と感じることや、解決のために採ろうとする手段は、あなたがこれからどのような道を歩もうとしているか、を指し示す道しるべだと言えるでしょう。

あなたが今、最も痛みを感じている社会的な問題はなんですか?

あなたが今、最も救済したいと思っている人はどんな人ですか?

この問いへの答えこそ、あなたがこれから歩んでいく方角を指し示しています。ㅤ

3月以降は、社会問題の解決への意識がさらに高まっていきます。必然的に、問題を生み出しているように見える人物への批難が、より一層熱を帯び、過激さを増していく時期でもあります。

だからこそ、あなたの道を見定めておきましょう。加害者を粛清して新たな痛みを生み出すこと、それがあなたの目指す未来ではないはずなのだから。

そして、その先に3月29日の日蝕が訪れます。「始動」の半年間が幕を開けるのです。

だからこそ今、必要な準備が何よりも重要な時期です。

もちろん、全員ではありません。ここで示したのは、全体の流れです。

全体から外れた例外的な方も中にはいらっしゃるでしょう。ㅤ

これを読んで、まったくピンとこなかった方は無理に気にする必要はありません。

ですがもし、何か少しでも思い当たるものがあるのならば何故か分からなくとも

心の奥に響くものがあるのなら魂が共鳴したものがあるのならば

この流れのままに、動き出してみてください。2025年、世界は明らかに覚醒を促すために

必要な流れが、その勢いを大きくしつつあります。

そして、その流れに抗う者が次々と混乱の渦の中に沈んでいくでしょう。ㅤ

だからこそ、あなたが本来の自分の人生を望むのであれば魂を生き、生まれてきた意味を

味わい、果たしていこうとするのならば

この覚醒を促す流れの、その勢いに乗ってみることが懸命な判断になるはずです。

あなたには、あなただけの役割がある。あなた自身が、あなたの魂が決めてきた

この人生で果たすべき役割が。それこそが、あなたの魂の歓びなんだ。歓びを選ぼう。魂の自分を生きよう。

その後押しが、その流れだけがあなたの前にそっと在る。ㅤ

その流れを眺めるだけかそれとも飛び込むのかそれを決めるのは、あなた次第だ。


Facebook山川 紘矢さん投稿記事 🌟 スピリチュアルメッセージ第11弾 🌟

〜 目覚めの時が来た!本当のあなたが輝き出す 〜

✨ あなたは、ただの人間ではありません。 ✨あなたは、宇宙の光そのもの。

あなたの中には、無限の愛と知恵、そして創造の力が眠っています。

でも、そのことを忘れてしまっただけ。さあ、今こそ思い出しましょう!

目の前の世界は、あなたが創り出したもの。愛を感じれば、世界は愛に満ち、

恐れを抱けば、世界は不安で覆われる。あなたの意識がすべてを決めているのです。

🌍 世界を変える魔法は、あなたの中にある 🌍

「私ひとりが変わったところで、世界は変わらない」そう思うことはありませんか?

でも、そんなことはありません!あなたが笑えば、その笑顔が周りに広がります。

あなたが愛を選べば、その愛が世界を満たします。

あなたの波動が高まると、周りの人々の波動も自然と上がるのです。

目の前の現実に不満を感じるなら、まずは あなた自身が変わる ことから始めてみましょう!

心に愛と喜びを満たし、世界にワクワクするエネルギーを放ちましょう!

🌈 あなたの本当の使命とは? 🌈

あなたは、今この時代に 特別な理由があって生まれてきました。それは何か?

「ただ生きる」ことではなく、「本当の自分を生きる」こと。

🌟 自分を縛るルールや常識から自由になりましょう。

🌟 自分の直感を信じ、心がワクワクする方向へ進みましょう。

🌟 他人と比較するのをやめ、自分の内なる光を大切にしましょう。

あなたが 本当の自分を生きる ことで、他の人もまた、自分の本当の姿を思い出し始めます。

その波紋が広がって、世界はどんどん美しくなっていくのです。

✨ さあ、あなたはどんな世界を創りますか? ✨

🌟 まずは自分の心をワクワクで満たす。

🌟 そして、そのエネルギーを世界に広げる。

🌟 その波動が、平和で美しい未来をつくる。

あなたの中には すべてを変える力がある のです。

さあ、新しい時代へ、一緒に進みましょう!

✨ あなたが光であることを、忘れないで ✨

✨ あなたの存在が、この世界を照らしている ✨

💖 愛と祝福をこめて 💖


季語が三月の句

 三月の甘納豆のうふふふふ

                           坪内稔典

この句を有名にした理由は、なんといっても「うふふふふ」という音声を活字化した作者の度胸のよさにあるだろう。EPOのかつてのヒット曲に『うふふふ』があるが、彼女の場合には「うふふふ」を音声で(歌って)表現しているわけだから、度胸という点では稔典には及ばない。いずれも春の歌であり、春の喜びを歌っていて、両方とも私は好きだ。ところで、このときの俳人の度胸は、単に音声を俳句に書き込んだという以上に、既成の俳句概念をすらりと破ってみせたところで価値がある。従来の俳句は「うふふふふ」を、字面の外から聞かせる技術の練磨に専念してきたと言えようが、稔典はそのことを十分に踏まえつつも、あえてあっけらかんと音声そのままに提出してみたのである。「言外」という、なにやらありがたげな領域への文学的な信仰を無視したとき、現われてきたのは、誰もが素朴に生理的に嬉しくなってしまうような「三月」の世界であった。この覿面の効果には、作者ももしかすると吃驚したかもしれない……。ただ、この句を思いだすたびに俳句のなお秘められた可能性を思うが、同時に稔典を安易に真似した句の氾濫には憂鬱にもなる昨今だ。『坪内稔典集』所収。(清水哲男)

 三月やモナリザを賣る石畳

                           秋元不死男

三月は寒暖の交代期。レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画「モナリザ」の謎めいた微笑のように、季節をはっきりと捉えがたい月だ。しかも句の「モナリザ」は、大道で売られている粗悪な複製品である。ますます、捉えがたい。最近では、あまり「モナリザ」などの名画の複製を売る人の姿を見かけなくなったが、あれはいったいどういう人が買っていたのだろうか。昔の「純喫茶」などによく飾ってあったところから考えると、そうした商売の人が顧客だったのかもしれない。似たような複製絵画は、子供だったころの音楽の教室に掲げてあった。モーツアルトが魔笛を構想する図だとか、ベートーベンのしかめっ面だとかと、あんな絵があったおかげで、みんながクラシック嫌いになってしまった(笑)。複製画を売る人も少なくなったが、句のような石畳も、なかなか見られなくなった。かつての安保闘争や大学紛争のときに、剥がして投げれば凶器になるという理由から、東京などでは「当局」が撤去してしまったせいもある。「坂の長崎石畳、南京広場の夜は更けて……」云々という戦後すぐの流行歌があった。あの時代にこそ、この句はよく似合う。(清水哲男)

 芽柳や傘さし上げてすれ違ふ

                           満田春日

柳が浅緑の芽を吹き始めた。毎年のことではあるが、春待つ心には嬉しいもの。降っている雨も、心なしかやわらかく感じられる。だから、混雑している道路でいちいち「傘さしあげてすれ違ふ」のも、冬場とは違い、むしろ楽しい気分なのだ。私などの世代には、ついでに「柳芽を吹くネオンの下で、花を召しませ……」という戦後の流行歌「東京の花売り娘」なども思い出されて、過剰な懐しさに誘われてしまう。「芽柳」の魔力である。もとより、作者はそんなことまで言おうとしているのではない。しかし、何ということもない句のようながら、早春の都会点描として、なかなかの腕前が示されている。掲句は、第一回「俳句界」新人賞の候補作になった「桃色月見草」30句(選考委員の黛まどかが三位に推薦している)のなかの一句だ。他にも「三月やまだ暖かきビスケット」などの佳句があり、淡彩風スケッチの魅力を十分に感じさせてくれている。今後に期待できる人だと思った。さて、はやいもので季は三月。焼き立てのビスケットのように、読者の皆さんにとって、やわらかくも香ばしい月でありますように。「俳句界」(2000年3月号)所載。(清水哲男)

 三月の声のかかりし明るさよ

                           富安風生

さあ「三月」だ。そんな「声のかか」っただけで、昨日とさして変わらぬ今日ではあるが、なんとなく四囲が明るんだように見えてくる。こういう気分は、確かにある。天気予報によれば、東京あたりの今日から三日間ほどは冬に逆戻りしたような寒さがつづくという。それでも、三月は三月だ。そう思うと、寒さもそんなには苦にならない。もうすぐ暖かくなって、月末ころには桜も咲くのである。むろん北国の春はまだまだ遠いけれど、三月の声を聞けば、やはり気持ちは明るいほうへと動いていくだろう。このあたりの人間の心理の綾を、大づかみにして巧みに捉えた句である。読んだだけで、自然に微笑が浮かんでくる読者も多いことだろう。これぞ、俳句なのだ。ただ近年では花粉症が猛威を振るいはじめる月でもあって、症状の出る人たちにとっての「三月の声」は、聞くだに不快かもしれない。まことにお気の毒だ。ご同情申し上げます。そうした自然界を離れて人事的に「三月」を見ると、年度末ということがあり、働く人たちにとっては苦労の多い月でもあって、花粉症とはまた別の意味で嘆息を漏らす人もいるだろう。現実は厳しいと、自然がどんどん明るくなっていくだけに、余計に骨身に沁みてくるのだ。それも、よくわかるつもりです。だんだん話が暗くなりそうなので、このへんで止めておきますが、ともあれ「三月」。自然的にも社会的人事的にも一年のうちで最も変化に富んでいるこの月を、私は生まれてはじめて意識的にどん欲にしゃぶりつくしてやろうかと思っています。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)

 三月は人の高さに歩み来る

                           榎本好宏

窓の外は依然として寒い風が吹きつのっています。長年横浜に住んでいますが、今年の冬は例年になく寒く感じられます。そんななか、休日の昼間、窓を閉めきった室内で春の句を拾い読みしていたら、こんな作品に出会いました。描かれている情景は分かりやすく、また親しみやすいものです。「三月」「人」「高さ」「歩む」と、扱われている単語はあくまでもありふれていて、特殊なイメージを喚起するようには作られていません。というのも、作者は感じたことを、ありふれた言葉で十分に表現できると確信したからなのです。インパクトの強い単語が、必ずしも表現の深さに繋がるものではないということを、この句を読んでいるとつくづく感じます。「人」の「高さ」という2語の結びつきだけでも、読み手にさまざまな感興をもたらしてくれます。読んでいるこちらも、その位置を高められたような気になります。等身の三月。一月二月には持てなかった親しみを、三月に感じています。衿をすぼめ、寒さに耐え、対決するようにすごしてきた月日の後に、肩をならべて一緒に時をともにすることのできる月が与えられたのです。その歩みはゆったりとしていて、後戻りをするようなこともありますが、両腕を広げ、確実に私たちの方へ歩み寄ってきてくれるのです。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)

 二の酉の風の匂ひと思ひけり

                           佐藤若菜

毎年一の酉は、朝のテレビのニュースにもなる、今年は十一月五日。二の酉が十七日、三の酉まであって二十九日、そして一の酉と二の酉の間に立冬。風がかおるといえば、緑の頃のすがすがしさをいう薫風だが、この句は二の酉の頃の風、冬を実感し始める風だ。冬の匂いというと、子供の頃使っていた、ブルーフレームという石油ストーブの匂いを思い出す。今はストーブは使っていないが、少し前まで近所にあったラーメン屋の前を通ると、真夏でもなぜか灯油の匂いがして、炎天下汗をふきながら、そのたびにふと冬を思い出した。匂いの記憶というのも人それぞれだろうなと思いながら句集を読んでいたら〈三月の森の匂ひをまとひ来し〉。二の酉の風の匂ひ、三月の森の匂ひ。その具体的な叙し方が、匂いの記憶を呼び起こし、読み手の中に季感をもたらしてゆく。『鳥のくる日』(2001)所収。(今井肖子)

 三月の風人買いのやさしさで

                           穴井 太

言うまでもなく「三月の風」と「やさしさ」は素直に結びつきます。みなに待たれている季節を運んでくるものとして、この組み合わせになんら問題はありません。しかし、それだけではもちろん人の心を打つ句にはなりません。だれでもがあたりまえに頷いてしまうものではだめなのです。いったんは「あれ?」と思わせて、それからのちに、「ああそうなのか」と納得させてくれるもの。そんな都合のよい表現はあるだろうかと、作者は頭を悩ませているのです。で、行き着いたところが 「人買い」だったわけです。たしかに人買いという、おそろしい言葉に優しさは結びつきません。しかし、よく考えてみれば、人をだますための気味の悪い猫なで声は、やさしいといえば言えなくもなく、言うとおりにすれば、一生きれいな着物を着て、おいしいものが食べられるのだと、なんだか耳をかすめる風がささやいているようです。この季節の風を全身で受けとめ、ならばこの風に買われてみようかと、まさか思いはしないけれども。「俳句界」(2009年3月号)所載。(松下育男)

 待てば来る三月も又幸せも

                           川口咲子

東京は二月に入って雪続き。余寒どころではない寒さだけれど、春の雪はすぐ日差しに吸われて消えていく。二月の学校は、中学入試に始まって学年末の慌ただしさに新年度の準備の開始、高三の入試結果の悲喜こもごもと忙しない。三月は別れの季節であり、まだまだ冷えこむことも多いけれど、一日ごとに空の色が変わっていくのを確かめながら花を待つ毎日は、心楽しいものだ。春は必ず来る、と言われても、私には春は来ない、なんて気持ちになることがある。でも、三月は確かに、必ず待てば来る。三月も、で一呼吸入れて読んでみると、自分自身に言いきかせているような、かみしめるような、幸せ、ということばが、三月、の具体性によって、向こうからにこにこ近づいてきてくれそうな気がしてくる。句集名の『花日和』(2001)も、幸せを感じさせる言葉だ。(今井肖子)

 三月くる葦の根に泡貝に泡

                           ふけとしこ

三月に入るとぐっと気温が上がり、植物の生育も活発になる。固くしまっていた木の芽もほころび始める。一日の平均気温が五度を上回るようになると、根から吸い上げた水分を幹から枝先へ運ぶようになると気象協会の説明書きにあった。だとすると、木の幹に耳をすませば幹の中を流れる水音が聞こえるかもしれない。掲句では水の中にある葦の根にぷくぷく出てくる銀色の泡と貝の泡が春の息吹を感じさせる。葦には水質浄化作用があり、コンクリートで固めてダメになった生態系回復のため、いったんは刈り込んだ葦を再び育て始める河口も多いと聞く。美しい写真とセットになったこの句の脇には「淀川べりを歩いた。葦の地下茎から芽が出初めていた。」と添え書きがある。植物にまつわるエッセイと俳句と写真がセットになったこの本はとても楽しい。小さな道端の草や花に心をとめる作者ならではの一冊で、その積み重ねが俳句や文章になってちりばめられている。『草あそび』(2008)所収。(三宅やよい)

 三月やモナリザを売る石畳

                           秋元不死男

モナリザといっただけであまりにも有名な絵の複製だということがわかる。こんなことすら自分が作るときは臆病になるのだ。絵や複製という説明がなくてもそれとわかるのは石畳や「売る」があるからだ。三月はどうだろう。十月や七月ではだめかな。絶対三月であらねばならないと思う人にはそれなりの理由があるのだろうが、僕は十月でも七月でもいいような気がする。問題は季語がさまざまに取り替えがきくことをもってしてその句の価値が減じるという考え方ではないか。それは俳句というものは季節を詠うものだという目的意識に由来する。この句の上五に入れて価値を減じる季語もあろうが、三月と同じかそれ以上の価値をもたらす季語があるかもしれぬと考えることはこの句の価値を疑うこととイコールではない。『万座』(1967)所収。(今井 聖)

 石楠花の蕾びつしり枯れにけり

                           照井 翠

紅色の花が咲く、いわゆる「アズマシャクナゲ」の蕾だろう。例年ならばそれこそ「びっしり」とついた蕾が春の到来を告げてくれるのだが、それが今年はことごとく枯れてしまっのだ。枯れたのは、今日でまる二年目になる福島の大津波のせいである。かつて見聞したこともない異常な光景だが、この異常は自然界にとどまるわけにはいかなかった。「気の狂(ふ)れし人笑ひゐる春の橋」。作者は釜石市で被災した。「死は免れましたが、地獄を見ました」と句集後記にあり、また「三・一一神はゐないかとても小さい」という極限状況のなかで、辛うじて正気を保つことができたのは、長年携わってきた俳句のお陰だとも……。ここで読者は少し明るい気持ちにもなれるのだが、昨今のマスコミが伝えている現在の福島の様子には、依然として厳しいものがある。何ひとつ動いていないと言ってもよいだろう。直接に被災はしていない私などが、机上から何を言っても空しいとは思うのだけれど、他方で何かを言わなければ気が済まない思いがむくむくと頭をもたげてくるのも正直なところだ。『龍宮』(2012)所収。(清水哲男)

 五月雨や庭を見ている足の裏

                           立川左談次

左談次は1968年に談志の弟子になった、立川流の古参。五月雨の時季、OFFの芸人が無聊を慰めているという図かもしれない。自画像か否か、どちらでもかまわない。雨の日はせかせかしないで、のんびり寝そべって足の裏で雨の庭をただ眺めている、そんな風情はむしろ好もしい。それが芸人ならなおのこと。足の裏に庭を眺めさせるなんて、いかにも洒落ている。そのとき眼のほうはいったい何を見ていたのだろうか? 「足の裏」が愛しくてホッとする。錚々たる顔ぶれがそろう「駄句駄句会」の席で、左談次はさすがによくしゃべり、毒舌も含めてはしゃいでいる様子である。ちなみに、この句に向けられたご一同の評言を列挙してみよう。「よそに出しても通用する」「いかにも怠惰な男の句です」「『浮浪(はぐれ)雲』みたい」「毎日寝ているひとじゃないと詠めない」「足の裏がいい」「この表現が落語に生きたらすごい」「古い日本人共通のノスタルジーだ」……みなさん勝手なことを言っているようだけれど、ナルホドである。左談次の俳号は遮断鬼。句会では、他に「三月の山おだやかに人を呑み」がある。『駄句たくさん』(2013)所載。(八木忠栄)

 雁帰る千年分の涙溜め

                           山下知津子

千年分の涙というから個としての自分亡きあと人の世の代々までの哀しい涙である。雁は北の大陸で繁殖し十月半ばを過ぎるころ日本へ渡ってくる。この雁が春三月ころから大陸への帰途につく。ざっくりと秋分に来て春分に帰ると覚えている。思えば2011年3月11日に東北に大震災が襲った。あれからもう五年、今年もまた春が巡って来た。忘れえぬ悲しみの涙を溜めつつ、空の高みを「棹になり鉤になり」雁が帰ってゆく。他に<三月のわが誕生月をかなしめり><あの日まで杉花粉のみおそれゐし><生も死も抱きてしだれざくらかな>など。「俳句」(2014年5月号)所載。(藤嶋 務)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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